『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(1)
◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(8)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №12)
第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第8回目です。〈序章B〉の最後の大項目である〈C 『資本論』における利子と信用〉の〈(4)『資本論』における信用制度の考察〉を見て行くことにします(なおこれは〈C〉の最後の項目であり、これで〈序章B〉の検討は終わります)。
大谷氏は第3部草稿の第5章の「5) 信用。架空資本」(エンゲルス版第5篇第25章に該当)の冒頭の一文を紹介して、その内容を要約されていますが、その冒頭パラグラフの後半部分をはしょって紹介しています。しかし私たちは章末注で紹介されているその全文を見ておくことにします。それは次のようなものです。
〈〔87〕「信用制度とそれが自分のためにつくりだす,信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある。ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。[/]そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく。」(『資本論』第3部第1稿。MEGAII/4.2,S.469;本書第2巻157-158ページ。)〉(144頁)
文中に入れた〈[/]〉の前までが大谷氏が本文で紹介しているものです。後半部分はカットされさています。そしてその内容を次のように述べています。
〈〈資本の一般的分析を完結させるためには利子生み資本についても,それが信用制度のもとでとる具体的諸姿態にまで形象化を展開する必要がある。そのためにはそれに必要なかぎりで信用制度に論及し,それを考察しなければならない。しかしながらこの考察は,「信用制度とその諸用具」そのものを本来の対象とする,それなりに自立した「分析」ではない。それは依然として『資本論』の外に残されている。〉
このように外に残された「分析」とは,『資本論』でなされた信用制度についての考察を自己の基礎的部分として含み,ここから「諸資本の現実的運動」の叙述にまで至る,信用制度そのものを対象とする特殊研究であろう。〉(108頁)
これを読む限りではそれほど問題があるように思えないかもしれません。しかし詳細に検討すると、大谷氏は実はこの冒頭の一文を読み間違っているのです。大谷氏はマルクスが最初〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす,信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある〉と述べているために、それは〈『資本論』の外に残され〉た〈特殊研究〉になると考え、だから〈信用貨幣などのような諸用具との分析は〉、これ以降の「5)」のなかでは取り扱われないのだと述べていると考えたのです。しかしそれだと実際の草稿の状態からすれば明らかにおかしいわけです。だからマルクスが続けて書いている〈そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく〉という一文も理解不可能なものになってしまったのです(実はエンゲルスも同じような間違った読み方をしたのか、そのあとの展開との整合性をもたすために、〈商業信用〉を〈商業・銀行業者信用〉に勝手に書き換えています)。
というわけで大谷氏はここでマルクスが述べている〈商業信用〉とは何かについて極めて苦渋に満ちた議論を展開することになってしまったのです。それについては、すでに当該部分の解読のところで指摘し批判しておいたのですが(あるいはこの連載が続いて大谷本の第2巻の当該部分を取り上げる機会があるかも知れませんが)、そのさわりの部分を紹介しておきましょう(だからその限りで大谷本第2巻の内容を先取りしています)。
まず大谷氏は、ここでマルクスがいう〈商業信用〉について次のように述べています。
〈草稿「5)信用。架空資本」の冒頭のパラグラフでは,「われわれはただ商業信用〔d.commercielle Credit〕だけを取り扱う」,とされており,エンゲルスがこのなかの「商業信用」を「商業・銀行業者信用〔der kommerzielle und Bankier-Kredit〕」に変えた,ということはすでに述べた。このエンゲルスの表現は,従来「商業信用と銀行信用」と訳され(長谷部訳,岡崎訳,向坂訳),信用論ではこの二つの信用を論じることがその根幹をなすという理解を支える重要な典拠となってきた。ところがマルクスの草稿では,「商業信用」としか書かれていないのであった。これをどのように考えたらよいのか。どのように理解したらよいのか。〉(第2巻126頁)
そしてまず、「商業信用」についてのマルクス自身の規定を大谷氏は次のように紹介しています。
〈「商業信用{すなわち再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用}は,信用システムの土台〔d.Basis d.Creditsystems〕をなしている。この信用を代表するものが,手形,債務証書(延払証券)である。人はそれぞれ一方の手で信用を与え,他方の手で信用を受ける。さしあたりは,本質的に違った別の一契機をなす銀行業者の信用〔Banker's Credit〕はまったく度外視しよう。」(MEGA II/4.2,S.535;本書第3巻433ページ。)〉(同126-127頁、下線はマルクス、太字は大谷による傍点箇所)
そして大谷氏は次のように言います。
〈さて,「われわれはただ商業信用だけを取り扱う」とマルクスが書いているときの「商業信用」がいま見たような意味での商業信用であるとするならば,この言明はこれに続いて書かれた「5)信用。架空資本」の実際の内容とはまったく食い違っていることは明らかである。なぜなら,一方では「5)」で論じられているのが商業信用だけでないばかりか,商業信用に触れている箇所が主要な部分だとさえも言えないのであり,他方では「5)」でいわゆる「銀行信用」,上の引用中の「銀行業者の信用」について「商業信用」以上に立ち入って論じているからである。しかも,この言明の直後のパラグラフでは「生産者や商人のあいだで行なわれる相互的な前貸」について,つまり実質的に商業信用について述べているものの,そのあとの諸パラグラフでは商業信用ではなくて銀行業者の業務と彼らの信用とについて述べているのであって,齟齬はすでにここから始まっていることになるのである。これはいったいどういうことであろうか。〉(同127頁)
こうして大谷氏の苦悩は始まるわけですが、大谷氏のあれこれの詮索の検討は省略して、結論だけを見ておきましょう。次のように述べています。
〈結論から言うと,私は,「5)」の冒頭ではマルクスはまだ「商業信用〔d.commercielle Credit〕」という言葉を「再生産に携わっている資本家が互いに与え合う信用」,「生産者や商人のあいだで行なわれる相互的な前貸」という意味で使うようになっていなかったのだ,と考える。〉(同127頁、太字は大谷氏による傍点による強調)
〈マルクスは「商業信用〔der comercielle Credit〕」という語を,エンゲルス版第30章にあたる部分,しかももっと狭く言って,草稿〔340a〕-341ページ,MEW版では496ページを書いているときに,はじめて特定の内容をもつ規定された概念として用いることにしたのではないか,と思われるのである。すなわち,いったん「産業家や商人が再生産過程の循環のなかで相互になしあう前貸」と書いたのち,こうした前貸において授受される信用をこれから論じていくのにそれを特定の言葉で呼ぶことの必要を感じて,「商業信用{すなわち再生産に携わっている資本家が互いに与え合う信用}」と書きつけたのではないか,と考えるのである。〉(同128頁)
それではこの冒頭部分で使われている「商業信用」をマルクスはどういう意味で使っているのでしょうか、それが問題です。次に大谷氏はその解明に取りかかります。マルクスがそれに続けて〈この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく〉と述べていることをヒントに、いろいろと検討した結果、次のように述べています。
〈すなわち広く言えば「公信用」と区別される「私的信用」であり,狭く言えば「私的信用」のなかの銀行業者の信用である。「商業信用〔d.commercielle Credit〕」という語で考えられているのは,広く見れば私的信用一般であり,狭く見れば銀行業者の信用だということになる。〉(同129頁)
〈ここでのd.comrnercielle Creditでのcommerciellも,国家にかかわる政治的なあるいは公的なものにたいして,私的営業にかかわるもの,というくらいの意味ではないかと考えられる。したがって,ここで「商業信用」というのは,どちらかと言えば私的信用一般を指しているものと考えられるのである。〉(同129-130頁)
つまりマルクスはこの冒頭の部分では、まだ商業信用を〈再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用〉という意味で使うに至っておらず、ここでは公信用と区別された意味での私的信用一般という意味で使っているのだ、というのが大谷氏の解明の結論です。
しかし何とも奇妙なわけの分からない考察ではないでしょうか。実際、大谷氏の結論を読んで、そんなアホな! と思わず思ったのは私だけしょうか。
しかし実際には、極めて簡単で、単純・明快なことなのです。ただ大谷氏が何らかの思い込みでもあったのか、マルクスの文章を素直に読むことができなかっただけの話なのです。それを説明するために、私たちはとりあえずもう一度マルクスのテキストを見てみることにしましょう。
〈/317上/【MEGAII/4.2,S,469.7-12】信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある。ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく。〉(同157-158頁)
ついでにもう一つの商業信用が出てくる部分も再度それだけを取り出してみましょう。
〈「貸付は(ここでは本来の商業信用〔Handelscredit〕だけを取り扱う),……等々によって,行なわれる。」(MEGAII/4.2,S.472.16-17;本書本巻174ページ。)〉(同130頁)
大谷氏も最初の商業信用とあとの方の商業信用とはほぼ同じ意味で使っていることを認めています。ただそれはエンゲルス版第30章該当部分でマルクス自身が規定している商業信用の意味(=「再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用」という意味)ではないというのです。しかしそんな馬鹿げたことはないのです。
大谷氏はこの冒頭の一文の理解の点で間違っているのです。素直に読めば次のように理解できます。マルクスは〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある〉と述べながら、しかし〈ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい〉と書いています。では何の〈わずかの点をはっきりさせるだけでよい〉と考えているのでしょうか。それはいうまでもなく、〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具〉についてです。つまりマルクスはそれらの〈分析〉は計画外だが、しかし〈資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点〉については、これからそれらを取り扱って論じていくのだと述べているのです。だからそれ以降の草稿の内容と何の齟齬もありません。そして〈そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う〉と述べているわけです。つまり信用制度と信用諸用具のわずかの点を取り上げるが、それらは商業信用との関連のなかで問題になる限りで取り上げるのだと述べているだけなのです。
だから〈この信用の発展〉、つまり〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具〉の発展と公信用の発展との関連は取り上げないということです(ただし、ここで〈この信用〉が単数であることを考えると、〈信用制度(とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具)〉と諸用具については括弧に入れるのが適切かも知れません。つまり〈この信用〉とは大谷氏が間違って理解しているように〈商業信用〉ではなく〈信用制度〉を指しているのです)。だからマルクスは信用制度の発展と公信用の発展との関連は考察しない、と述べているのです。
だから結論を言いますと、ここでマルクスが〈商業信用〉と述べているのは、後に(エンゲルス版第30章該当個所で)規定していますように〈再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用〉という意味と理解してよいのです。また〈この信用〉とマルクスが述べているのは、確かに少しややこしいのですが、その直前の〈商業信用〉ではなく、ここで主題となっている〈信用制度(とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具)〉を指しているのです。こうしたものは、〈ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい〉のだから、〈この信用の発展〉などは問題にならないし、〈公信用の発展との関連〉も問題にしないということなのです。
だからマルクスがこれから問題にしようとするのは〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具〉の〈資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点〉ですが、だからそれは商業信用との関連だけが取り扱われます。すなわち、商業信用と銀行制度との関連、絡み合い、あるいは信用制度のそうした側面、あるいはそうした関連のなかで問題になる信用諸用具(手形・小切手・銀行券等々)であり、そうした限られた範囲内のものだけをこれから取り扱うのだと述べているのです。
このように理解すれば、大谷氏が危惧したよう齟齬は何一つ生じません。むしろ大谷氏が〈「5)」で論じられているのが商業信用だけでないばかりか,商業信用に触れている箇所が主要な部分だとさえも言えないのであり,他方では「5)」でいわゆる「銀行信用」,上の引用中の「銀行業者の信用」について「商業信用」以上に立ち入って論じている〉とか〈この言明の直後のパラグラフでは「生産者や商人のあいだで行なわれる相互的な前貸」について,つまり実質的に商業信用について述べているものの,そのあとの諸パラグラフでは商業信用ではなくて銀行業者の業務と彼らの信用とについて述べている〉等々といった指摘も、まったく何の齟齬もなく了解できるのです。
だからまたマルクスはその次の一文(=「貸付は(ここでは本来の商業信用〔Handelscredit〕だけを取り扱う),……等々によって,行なわれる。」)でも、銀行の貸付について論じる場合も、それは商業信用との関連だけを問題にすると限定しているわけです。だから銀行の貸付は、個人消費用の貸付やあるいは国家への貸付などは取り扱わないということです。
このように大谷氏のこの問題での議論は、冒頭のマルクスの一文を正確に読めなかったことに起因しています(あるいは大谷氏は、同じように間違った読み方をして「商業信用」を勝手に「商業・銀行業者信用」に書き換えたエンゲルスに影響されたのかも知れませんが)。だからそれに関連する大谷氏のさまざまなややこしいある意味では込み入った(第2巻の10頁分も使った!)議論はすべてまったくの無駄骨折りといわざるをえないのです。
以上、今回は若干先取りする形で大谷氏の理解(というより”誤解”)を紹介し、批判する内容になりましたが、以上で、今回の大谷本の紹介は終わります。
それでは本来の『資本論』の解説に移りましょう。今回は「第4篇 相対的剰余価値の生産」の「第11章 協業」です。最初はこの章の位置づけから説明していくことにします。
第11章 協 業
◎「第11章 協業」の位置づけ
「第10章 相対的剰余価値の概念」では相対的剰余価値とは何かが解明されました。〈労働日の延長によって生産される剰余価値を私は絶対的剰余価値と呼ぶ。これにたいして、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値を私は相対的剰余価値と呼ぶ〉ということでした。しかし必要労働時間を短縮するためには労働の生産力を上げて、必要生活手段の価値、すなわち労働力の価値を引き下げる必要がありました。しかし〈労働の生産力の発展は、資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することのできる残りの部分を延長することを目的としているのである。このような結果は、商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるものであるか、それは相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産方法に現われるであろう。次にこの方法の考察に移ろう〉とマルクスは第10章を締めくくっていたのです。
だからこの第11章からは(第13章までは)、相対的剰余価値の特殊な生産方法を明らかにしていくことになります。第11章の「協業」はその最初のものということです。マルクスは『61-63草稿』で「第11章 協業」と「第12章 分業とマニュファクチュア」と「第13章 機械設備と大工業」との関係を次のように述べています。
〈これ(協業--引用者)は基本形態〔Grundform〕である。分業は協業を前提する、言い換えれば、それは協業の一つの特殊な様式にすぎない。機械にもとづく作業場(アトリエ)なども同様である。協業は、社会的労働の生産性を増大させるためのすべての社会的な手だて(アレンジメイト)の基礎をなす一般的形態であって、それらの手だてのおのおのにおいては、この一般的な形態がさらに特殊化されているにすぎない。しかし協業は、同時にそれ自身、一つの特殊的形態であって、この形態はそれの発展した、またより高度に特殊化された諸形態と並んで実在する一形態である。(このことは、それが、これまでのそれのもろもろの発展を統括する〔übergreifen〕形態であるのと、まったく同様である。)〉(草稿集④407頁)
マルクスは第6パラグラフで〈同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という〉と述べていますように、協業というのは比較的多数の労働者が作業場や工場などに集められて資本の指揮のもとで一緒に働かされる場合のもっとも基本的な生産の形態ということができます。
〈単純協業は、それの発展した諸形態と同様に--総じて労働の生産力を高めるあらゆる手段と同様に--、労働過程に属するものであって、価値増殖過程に属するものではない。それらは労働の効率を高めるのである。これにたいして労働の生産物の価値は、それを生産するために必要とされる必要労働時間に依存している。それゆえ、労働の効率〔の上昇〕は一定生産物の価値を減少させることができるだけであり、それを増加させることはありえない。ところが、労働過程の効率を高めるために充用されるこれらの手段はすべて、--総生産物の価値は、依然として、充用された労働時間の全体によって規定されているにもかかわらず--必要労働時間を(ある程度まで)減少させ、そうすることによって剰余価値、すなわち資本家のものとなる価値部分を増加させるのである。〉(草稿集④415頁)
このように協業も必要労働時間を短縮させて、剰余労働時間を増加させる一方法、すなわち相対的剰余価値を獲得するためのもっとも基本的な生産方法といえます。それが如何にして労働の生産力を高め、よってまた相対的剰余価値の増大をもたらすのかをこれから見てゆこうといわうけです。
◎第1パラグラフ(かなり多数の労働者が、同じときに、同じ労働場所で、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている)
【1】〈(イ)すでに見たように、資本主義的生産が実際にはじめて始まるのは、同じ個別資本がかなり多数の労働者を同時に働かせるようになり、したがってその労働過程が規模を拡張して量的にかなり大きい規模で生産物を供給するようになったときのことである。(ロ)かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または、同じ労働場所で、と言ってもよい)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている。(ハ)生産様式そのものに関しては、たとえば初期のマニュファクチュアを同職組合的手工業から区別するものは、同時に同じ資本によって働かされる労働者の数がより大きいということのほかには、ほとんどなにもない。(ニ)ただ同職組合親方の仕事場が拡大されているだけである。〉(全集第23a巻423頁)
(イ) すでに見ましたように、資本主義的生産が実際にはじめて始まるのは、同じ個別資本がかなり多数の労働者を同時に働かせるようになり、したがってその労働過程が規模を拡張して量的にかなり大きい規模で生産物を供給するようになったときのことです。
少し書き換えられていますフランス語版を最初に紹介することにします。
〈資本主義的生産が実際に成立しはじめるのは、工場主がたった1人で多くの賃金労働者を同時に働かせ、大規模に行なわれる労働過程がその生産物の販路として広大な市場を要求するようになったときのことである。〉(江夏・上杉訳334頁)
ここでマルクスが〈すでに見たように〉と述べているのは、「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の第11パラグラフで次のように述べていたことを指していると思えます。
〈剰余価値の生産についてのこれまでの考察から明らかなように、どんな任意の貨幣額または価値額でも資本に転化できるのではなく、この転化には、むしろ、1人の貨幣所持者または商品所持者の手にある貨幣または交換価値/の一定の最小限が前提されているのである。可変資本の最小限は、1年じゅう毎日剰余価値の獲得のために使われる1個の労働力の費用価格である。この労働者が彼自身の生産手段をもっていて、労働者として暮らすことに甘んずるとすれば、彼にとっては、彼の生活手段の再生産に必要な労働時間、たとえば毎日8時間の労働時間で十分であろう。したがって、彼に必要な生産手段も8労働時間分だけでよいであろう。これに反して、この8時間のほかにたとえば4時間の剰余労働を彼にさせる資本家は、追加生産手段を手に入れるための追加貨幣額を必要とする。しかし、われわれの仮定のもとでは、この資本家は、毎日取得する剰余価値で労働者と同じに暮らすことができるためにも、すなわち彼のどうしても必要な諸欲望をみたすことができるためにも、すでに2人の労働者を使用しなければならないであろう。この場合には、彼の生産の目的は単なる生活の維持で、富の増加ではないであろうが、このあとのほうのことこそが資本主義的生産では前提されているのである。彼が普通の労働者のたった2倍だけ豊かに生活し、また生産される剰余価値の半分を資本に再転化させようとすれば、彼は労働者数とともに前貸資本の最小限を8倍にふやさなければならないであろう。もちろん、彼自身が彼の労働者と同じように生産過程で直接に手をくだすこともできるが、その場合には、彼はただ資本家と労働者とのあいだの中間物、「小親方」でしかない。資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得、したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件とする。……云々。〉(全集第23a巻404-405頁)
つまりここでは個別資本家が資本家として労働者を指揮・監督し、剰余労働の搾取に専念できるようになり、得られた剰余価値の半分を蓄積に回すためには、少なくとも〈彼は労働者数とともに前貸資本の最小限を8倍にふやさなければならない〉と述べられていたわけです。だから最低限でも一定数の労働者数を集めることが想定されなければならないことになります。
(ロ) かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または、同じ労働場所で、と言って良いですが)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしています。
フランス語版です。
〈同じ資本の指揮のもとで、同じ空間で(なんなら同じ労働の場で)、同じ種類の商品を生産するために同時に働く多数の労働者、これが資本主義的生産の歴史的な出発点である。〉(同上)
だからかなりの多数の労働者が、同じときに、同じ空間(同じ作業所など)で、同じ種類の商品を生産するために、同じ資本家のもとで働くということが、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしているわけです。
ここでマルクスは〈歴史的にも概念的にも〉と述べています(フランス語版はこうした表現は無くなっていますが)。概念的にはすでに引用した「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の第11パラグラフで述べられていたことと思いますが、では歴史的にはどうでしょうか。次のように述べています。
〈じっさい歴史的に見いだされるのは、資本がその形成の発端で、労働過程一般を自己の統御〔Kontrolle〕のもとにおく(自己のもとに包摂する)ばかりでなく、技術的に出来あいのものとして資本が見いだすままの、そして非資本主義的な生産諸関係の基礎の上で発展してきたままの、もろもろの特殊的な現実の労働過程を自己の統御のもとにおくのだ、ということである。それは現実の生産過程--特定の生産様式--を見いだし、はじめはこの様式を、この様式の技術的規定性にはなんの変更も加えないまま、ただ形態的に自己のもとに包摂する。資本は、それが発展していくなかではじめて、労働過程を自己のもとに形態的に包摂するばかりでなく、それを変形し、生産様式そのものを新たに形づくり、こうしてはじめて、自己に特有の生産様式を手に入れるのである。しかし、生産様式のこの変化した姿〔Gestalt〕がどのようなものであろうとも、それは、労働過程一般としては、すなわちその歴史的な規定性を捨象した労働過程としては、つねに労働過程/一般の一般的諸契機を含んでいる。〉(草稿集④145-146頁)
すなわち歴史的には資本主義的生産に先行する分散的な手工業を一人の資本家がそのまま一つの作業場に集めて同じ商品を生産するように組織することから開始されるということです。
(ハ)(ニ) 生産様式そのものについては、たとえば初期のマニュファクチュアを同職組合的手工業から区別するものは、同時に同じ資本によって働かされる労働者の数がより大きいということのほかには、ほとんどなにもなありません。ただ同職組合親方の仕事場が拡大されているだけでなのです。
フランス語版は次のパラグラフの冒頭部分がここに含まれています。
〈かくして、厳密な意味でのマニュファクチュアは、その初期にあっては、同時に働かされる労働者の数がいたって多いこと以外には、中世の手工業とほとんど区別がない。同職組合の親方の作業場がその規模をひろげただけのことだ。この区別は初めはたんに量的である。〉(同)
マルクスは絶対的剰余価値の生産は、資本がまだそれに先行するさまざまな労働をただ形式的に資本関係に包摂するだけの関係において行われるものであると述べていました。
だから資本主義的生産関係を始めたマニュファクチュアの初期のものは、生産様式そのものとしては、中世の手工業と何も変わらず、ただそれらを一つの作業場に集めて規模を広げただけにすぎないわけです。
マルクスは協業を、まずは資本主義的生産が開始されるのはどういう条件においてかという問題から始めています。つまり問題の関心は、あくまでも資本主義的な協業であって、決して協業一般ではないわけです。あとからわかりますが、協業というのは資本主義的生産に固有のものではありません。それはもっとも原始的な狩猟・漁労の時代からあったとさえいえるでしょう。しかしマルクスはそうした協業一般ではなくて、あくまでも資本主義的生産における協業を問題にしているわけです。それはいうまでもなく、協業を相対的剰余価値を生産する方法の最初の基本的なものと位置づけているからにほかなりません。資本主義的生産における協業をまず目の前において、それを観察すれば、それは資本主義的生産そのものが始まるときに、同時にその一つの契機として存在するものであることを知るのです。というのは、資本主義的生産というのは、そもそもひとつの作業場などに労働者を集めて、同じ仕事をさせることから開始されるからです。だから協業もまた資本主義的生産のはじまるときに始まるといえるわけです。というより協業が資本主義的生産の前提であり、その一つの契機であるとも言えるでしょう。
『61-63草稿』から紹介しておきます。
〈あらかじめなお、次のことだけは明らかにしておこう。商品所有者または貨幣所有者が彼の貨幣または商品を、要するに彼の所有する価値を資本として増殖するverwerten〕ため、したがってまた自分を資本家として生産するためには、彼が最小限ある数の労働者を同時に働かせうることがはじめから必要である。この観点から見ても、生産的資本として用いられうるための、ある最小限の大きさの価値が前提されている。この大きさの第一の条件は、すでに次のことから生じる。かりに労働者が労働者として生きていくためにであれば、彼は必要労働時間、たとえば1O時/間のそれを吸収するのに要するだけの額の原料(および労働手段)しか必要としない。資本家は、それに加えて、少なくとも、剰余労働時間を吸収するのに要するだけの原料を(またそれだけの補助材料等々をも)買うことができなければならない。そして第二に、必要労働時間が10時間で剰余労働時間が2時間であるとすれば、資本家は、自分が労働しない場合には、日々彼の資本の価値を越えて1O労働時間という価値を受け取るためにでもすでに5人の労働者を働かさなければならないであろう。ところが、彼が剰余価値の形態で日々受け取ったものは、彼が自分の労働者たちの1人と同じように生きていくことを可能にするだけである。こういう〔5人の労働者を働かさなければならないという〕ことでさえも、彼の目的が労働者の場合と同様に単なる生活維持であって資本の増加--これは資本主義的生産にあっては前提〔unterstellen〕されていることである--ではない、という条件のもとで〔生じうる〕にすぎない。かりに彼自身がともに労働し、かくして彼自身がなんらかの労賃を稼ぐとしても、この場合でさえもまだ、彼の生活様式は労働者の生活様式からほとんど区別されないであろう(彼に与えられるのは少しばかり高い支払いを受ける労働者の地位にすぎないであろう)(そしてこの〔労働者数の〕限界は同職組合規則によって固定される)し、とりわけ彼が自分の資本を増加させる、すなわち剰余価値の一部分を資本化するとすれば、どのみちまだ労働者の生活様式にきわめて近いものであろう。中世における同職組合親方の関係は、そして部分的にはなお今日の手工業親方の関係も、そのようなものである。彼らが生産するのは資本家としてではないのである。〉(草稿集④290-291頁)
〈他方では、より多くの数の労働者を使用するためには資本が増大しなければならないことは明らかである。第一に不変部分が、すなわち、資本のうち、その価値が生産物に再現するだけの部分が増大しなければならない。より多くの労働を吸収するためには、より多くの原料が必要である。同様に、もっと不確定的な割合でではあるが、より多くの労働手段が必要である。手労働が主要因であり、生産が手工業的に営まれていると仮定すれば(--そしてこの仮定は、まだ剰余価値の絶対的形態を考察しているだけのここでは至当である、というのは、剰余価値のこの形態は資本によって変形された〔umgewandelt〕生産様式にとっても依然としてその基本形態ではあるけれども、資本が労働過程をただ形態的に自己のもとに包摂したにすぎないかぎりでは、つまり実際には、人間の手労働が生産の主要因であるような以前の生産様式が資本の統御のもとに取り込まれたにすぎないかぎりでは、いまだ剰余価値の絶対的形態が資本の生産様式にとって固有のものであり、この生産様式の唯一の形態であるからである--)、用具や労働手段の数は、労働者自身の数とより多くの数の労働者が労働材料として必要とする原料の分量とにほぼみあって増大しなければならない。このように、資本の不変部分全体の価値が、使用される労働者数の増大に比例して増大するのである。さて第二に、資本のうち労働能力と交換される可変部分が(不変資本が増大するのと同様に)、労働者数あるいは同時的労働日の数の増加に比例して増大しなければならない。資本のうちのこの可変部分は、前提のもとでは、つまり手工業的工業のもとでは、最も大きく増大するであろう。と/いうのはここでは、生産の本質的要因である個々人の手労働は所与の時間内にわずかの分量の生産物を提供するだけであり、したがって生産過程で消費される原料は、充用される労働に比べて少量であり、同様に手工業的用具は簡単なものであってそれ自身わずかな価値しか表わさないからである。資本のうちの可変部分は資本の最大の構成部分をなすので、資本が増大する場合にはこの部分が最も大きく増大せざるをえないであろう。言い換えれば、資本のうちの可変部分は資本の最大の部分をなすので、ほかならぬこの部分こそが、より多くの労働能力との交換のさいに最もいちじるしく増大しなければならないのである。〉(草稿集④292-293頁)
◎第2パラグラフ(相違はさしあたりはただ量的でしかないが、商品価値一般の生産についていえば、労働過程のどんな質的変化も無関係であるように見える)
【2】〈(イ)だから、相違はさしあたりはただ量的でしかない。(ロ)すでに見たように、与えられた一資本の生産する剰余価値量は、1人の労働者が供給する剰余価値に、同時に働かされる労働者の数を掛けたものに等しい。(ハ)この労働者数は、それ自体としては、剰余価値率または労働力の搾取度を少しも変えるものではない。(ニ)また、商品価値一般の生産についていえば、労働過程のどんな質的変化も無関係であるように見える。(ホ)それは、価値の性質から出てくることである。(ヘ)12時間の1労働日が6シリングに対象化されるとすれば、この労働日の1200は6シリングの1200倍に対象化される。(ト)一方の場合には、12労働時間の1200倍が、他方の場合には12労働時間が、生産物に合体されている。(チ)価値生産では、多数はつねにただ多数の個として数えられる。(リ)だから、価値生産については、12/00人の労働者が別々に生産するか、それとも同じ資本の指揮のもとにいっしょになって生産するかでは、なんの相違も生じないのである。〉(全集第23a巻423-424頁)
(イ) だから、違いはさしあたりはただ量的でしかないのです。
だから資本主義的生産とそれ以前の生産と比べれば、違いはさしあたりはただ量的なものにすぎないのです。フランス語版ではこの部分は最初のパラグラフの最後に付けられています。だからフランス語版の紹介はありません。
(ロ)(ハ) すでに見たように、与えられた一資本の生産する剰余価値量は、1人の労働者が供給する剰余価値に、同時に働かされる労働者の数を掛けたものに等しい。この労働者数は、それ自体としては、剰余価値率または労働力の搾取度を少しも変えるものではありません。
このパラグラフもフランス語版ではかなり書き換えられていますので、最初にフランス語版を紹介して行くことにします。
〈働かされる労働者の数は、搾取度、すなわち、与えられた資本がもたらす剰余価値の率を、少しも変えない。〉(江夏・上杉訳334頁)
ここでもマルクスは〈すでに見たように〉と述べていますが、これも「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の第4パラグラフで〈したがって、生産される剰余価値の量は、1人の労働者の1労働日が引き渡す剰余価値に充用労働者数を掛けたものに等しい。〉(全集第23a巻400頁)と述べられていました。
このようにただ量的に違うだけで、1人の資本家によって労働者が一つの場所に集められ同時に同じ商品の生産のために働かされる場合、資本が獲得する剰余価値の総量は、ただ1人の労働者の供給する剰余価値に同時に働かされる労働者数を掛けたものに等しいだけです。つまりただ労働者数を増やしただけでは、労働力の搾取度を高めたり、剰余価値率を引き上げることにはならないわけです。その意味では労働の生産力を上げて、労働力の価値を引き下げ、相対的剰余価値の拡大をはかるものにはその限りではなっていないといえます。しかしいうまでもなく後に明らかになりますが、協業はそうしたものにとどまらない側面をもっているのです。
(ニ)(ホ) また、商品価値一般の生産について言いますと、労働過程のどんな質的変化とも無関係であるように見えます。それは、価値の性質から出てくることです。
まずフランス語版です。
〈また、生産様式に変化が生じても、その変化は、労働が価値を生産するものとしての労働に作用しうるようには見えない。価値の本性からしてそうなのだ。〉(同上)
そして実際、商品の価値一般の生産ということで言いますと、それは労働者の支出する労働時間に関係があるだけで、それが如何なる生産様式のもとでなされるか、つまり労働過程の質的変化とは、無関係であるように見えます。それは価値の性質からそもそも導き出される結論です。
(ヘ)(ト)(チ)(リ) 例えば12時間の1労働日が6シリングに対象化されるとしますと、この労働日の1200は6シリングの1200倍として対象化されます。一方の場合には、12労働時間が、他方の場合には12労働時間の1200倍が、生産物に合体されています。価値生産では、多数はつねにただ多数の個として数えられます。だから、価値生産については、1200人の労働者が別々に生産するか、それとも同じ資本の指揮のもとにいっしょになって生産するかでは、なんの相違も生じないのです。
フランス語版を紹介しておきます。
〈12時間の1労働日が6シリングのなかに実現されるならば、100労働日は6シリング×100のなかに実現されるであろう。生産物に、初めは12労働時間が体現されていたのが、今度は1200労働時間が体現されるであろう。したがって、100人の労働者は、個々ばらばらに労働しても、彼らが同じ資本の指揮のもとで結合されるばあいと同じだけの価値を生産するであろう。〉(同上)
具体的な例を上げて考えてみましょう。12時間の1労働日が6シリングの価値を対象化するとします。今、この労働者を1200人集めて同時に働かせたとします。そうすると生産される価値は6シリングの1200倍、すなわち7200シリング(=360ポンド)になります。
次にマルクスは〈一方の場合には、12労働時間の1200倍が、他方の場合には12労働時間が、生産物に合体されている〉と書いていますが、順序が逆になっています。つまり本来は〈一方の場合〉は1人の労働者が対象化する価値を指し、〈他方の場合〉は1200人の労働者が対象化する価値になるべきところです(だから平易な書き直しではそのようにしました)。
なおフランス語版では〈生産物に、初めは12労働時間が体現されていたのが、今度は1200労働時間が体現されるであろう〉と簡潔に書かれています。ところがイギリス語版では〈一つの場合では、12×1,200労働時間が、もう一つの場合は、日12時間のそのような大勢による労働が生産物に一体化される〉となっています。しかしこれではどちらも1200人の労働者の生産する価値について述べていることになってしまっています。これは翻訳が悪いのかどうかは分かりません。
つまり価値の生産では、多数はただ個々の労働者の生産する価値をそれを倍加したものと数えられるだけです。だから価値の生産では、1200人が個々ばらばらに生産するか、そとも一カ所に集められて資本の指揮のもとで一緒に生産するかということによっては、何の相違も生じないのです。つまりこの限りでは相対的剰余価値の生産とは無関係に見えます。しかし協業はそうした外観を覆します。それは後のお楽しみ。
『61-63草稿』ではマルクスは次のように書いています。
〈すでに絶対的剰余価値を考察するさいに見たように、剰余価値の率が所与であれば、それの量は、同時に就業する労働者の数に依存する、つまりそのかぎりでは彼らの協業に依存する。ところがまさにここで、相対的剰余価値--これが高められた労働生産力を、したがってまた労働生産力の発展を前提するかぎり--との区別がはっきりと現われてくる。それぞれ2時間の剰余労働を行なう1O人の労働者に代わって2O人の労働者が充用されるとすれば、その結果は、第一の場合の2O剰余時間に代わって40剰余時間である。1:2=20:40。〔剰余価値の〕割合は、2O人についても、1人についても同じである。ここではただ、1人ひとりの労働時間の合算ないし掛け算があるだけである。協業それ自体は、ここでは、この割合にまったくなんの変化ももたらさない。〉(草稿集④411頁)
〈単純協業は、それの発展した諸形態と同様に--総じて労働の生産力を高めるあらゆる手段と同様に--、労働過程に属するものであって、価値増殖過程に属するものではない。それらは労働の効率を高めるのである。これにたいして労働の生産物の価値は、それを生産するために必要とされる必要労働時間に依存している。それゆえ、労働の効率〔の上昇〕は一定生産物の価値を減少させることができるだけであり、それを増加させることはありえない。ところが、労働過程の効率を高めるために充用されるこれらの手段はすべて、--総生産物の価値は、依然として、充用された労働時間の全体によって規定されているにもかかわらず--必要労働時間を(ある程度まで)減少させ、そうすることによって剰余価値、すなわち資本家のものとなる価値部分を増加させるのである。〉(草稿集④415頁)
((2)に続く。)