『資本論』学習資料No.45(通算第95回)(12)
【付属資料】(3)
●原注57
《61-63草稿》
〈A・スミスは、これらの非常に異なった・たしかに補いあうけれどもまたある意味では相互に対立する・意義をもつ〔二つの〕分業をたえず混同している。最近のイギリス人たちは、混乱を避けるために、第一の種類を Division of Labour すなわち分業と呼ぴ、第二の種類をSubdivision of Labour すなわち労働の細分と呼んでいるが、これはしかし概念的な区別を表わすものではない。〉(草稿集④426頁)
〈A・スミスは二つの意味の分業を区別しない。したがって彼の場合、後者の意味の分業も資本主義的生産に特有なものとしては現われない。
彼がその著作の冒頭においている、分業についての章(第1巻第1章)(分業について)は、次の文章で始まる。
「社会の臨業全般に及ぼす分業の効果は、いくつかの特定のマニュファクチュアでこの効果がどのように行なわれているかを考察すれば、よりたやすく理解されるであろう。」[11ページ〔邦訳、68ページ〕]
作業場(アトリエ)(この言葉で考えられているのは、ここでは実際には、仕事場〔Werkstatt〕、工場、鉱山、耕地のことであって、そのさいある特定の商品の生産に従事する諸個人が資本の指揮のもとで協業する〔kooperieren〕、ということだけが前提されている)内部の分業、資本主義的分業だけが彼にとって問題なのであり、また彼によってとりわけそれだけが、社会一般の内部における、また「社会の産業全/般」にたいする分業の効果を示す、より理解しやすいより具体的で生きいきした実例として、語られるのである。次の箇所がそうである。
「この分業は、ごくわずかの価値しかもたない品物を製造するいくつかのマニュファクチュアで最もよく進歩している、とふつう考えられている。それはおそらく実際にそこで分業が他のもっと重要なマニュファクチュアの場合よりも進歩しているからではなくて、少数の人々の求める少量の品物にむけられている前者のマニュファクチュアでは、雇われる労働者の総数も必然的に少なく、また仕事のさまざまな部門のおのおのに従事する者たちは、しばしば同一の作業場に集められ、観察者が一望のもとに見渡せるところにおかれることが可能だからである。これに反し、人民大衆の消費財を供給することにむけられている大マニュファクチュアでは、仕事のそれぞれの部門がそれぞれきわめて多数の労働者を雇用しているから、そのすべてを同じ作業場(アトリエ)に集めることが不可能なほどである。われわれが仕事のただ一つの部門に従事する者以外の者を一度に見渡せることはめったにない。それゆえ、これらのマニュファクチュアのほうが、まえの種類のものよりも、実際には仕事がずっと多数の部分に分割されているであろうけれども、そこでの分割は、感知されることがより少なく、それがために観察されることもはるかに少なかったわけである。」[同前、11-12ページ〔邦訳、68ページ〕]
この箇所は、第一に、A・スミスの時代には工業企業がまだいかに小規模に行なわれていたかを示している。
第二に、一作業場(アトリエ)の中での労働の分割と、社会の内部における、一つの労働部門の互いに独立した異なる諸部門への分割とは、彼にとっては単に主観的な違いであって、客観的には違っていないのである。一方の場合には分割が一/目で見てとれるが、他方の場合にはそういかない。しかしそのことで、事柄にどんな変化が起こるわけでもなく、観察者がそれを見るやり方に変化が生じるだけである。たとえば、鉄商品の産業の全体を観察すれば、すなわち、銑鉄の生産から始めて、そのさまざまな種類〔の部門〕--この産業の全体がこれらに分裂しており、また、これらのそれぞれが独立の生産部門をなして自立的商品をつくるのであり、先行諸段階または後続諸段階にたいしてこれらがもつ連関は商品交換によって媒介されている--の全部をくまなく観察すれば、この産業部門のこうした社会的分割は、ことによるとピン製造工場の内部で見られる諸部分よりも多数の部分にのぼるかもしれないのである。
要するに、A・スミスは分業を、特殊的な・独自の区別がある・資本主義的生産様式に特徴的な・形態としてとらえていないのである。〉(草稿集④428-430頁)
〈A・スミスが分業を、資本主義的生産様式に特有なものとして、すなわち、機械および単純協業と並ぶ、労働を形態的にだけでなくその現実性においても資本のもとへ包摂することによって変化させるもの、として把湿しなかったことだけは明らかである。彼が分業を理解する仕方は、ぺティやペティ以後の彼の先行者たちの仕方と同じなのである。(東インド〔貿易について〕の著作を見よ。)〉(草稿集④433頁)
〈A・スミスは第1篇第1章--彼はここで意識的に〔exprofesso〕分業をテーマに据えている--のなかで、この章を終わるにあたって、「文明国」では、すなわち生産物が一般的に商品の形態をとっているところでは、たとえば単なる日雇労働者の家財、衣料、道具を彼に提供するのにも、さまざまな国のきわめて多種多様な、多方面にわたる種類の労働者が協働している〔konkurrieren〕ことを説明している。「文明化し繁栄している国の単なる日雇労働者の、または不熟練労働者〔manoeuvre〕中の最たる者の、家財を観察してみたまえ」、とこの結語は始まっている、「そうすれば諸君は、この家財を彼に提供するのに、たとえわずかな一部分にすぎないにせよ、その勤労をもって協働する〔concourir〕者の数が数え切れないほど多いことに気づくであろう。たとえばこの日雇労働者が着ている毛織物の上着は、その外観がどんなにごつごつしたものであろうと、たいへんな数にのぼる労働者の結合労働〔travailréuni〕の生産物なのである」、云々[『諸国民の寓』、ガルニエ訳フランス語版、25ページ〔邦訳、前出、78ページ〕]。そして、A・スミスはこの考察を次の言葉で結んでいる、--「ヨーロッパの一人の君主の家財と勤勉で倹約な一人の農民のそれとのあいだには、おそらく、後者の家財道具と、一万人のはだかの野蛮人を支配し、絶対的支配者として彼らの自由や彼らの生命を思うがままにしているような王のそれとのあいだの違いほどの違いはないであろう」[同前、28ページ〔邦訳、80ページ〕]。/
この章句と観察の仕方とは、そっくり、マンデヴィル『蜂の寓話』の引き写しである。『蜂の寓話』は、最初1705年に詩として刊行され、1729年には、六つの対話(散文)から成るその第二部が刊行された。1714年に彼は散文の注解をつけ加えたが、これはわれわれが今日知っているかたちでの第1巻の大半をなしている。そのなかではとりわけ次のように書かれている。--
「最も反映している諸国民をそれらの起点にまでさかのぼって調べるならば、どんな社会でもはるかかなたの初め/のころには、彼らのなかの最も富んでいて最も重要な位置にある者でも、いまなら最も劣った最も卑しい者ですら享受している非常に多くの暮らしの便宜品を長いあいだ欠いていたことがわかるであろう。そこで、かつてはぜいたくな新案品と考えられていた多くのものが、いまでは公衆の慈善の対象になるほどのみじめな貧乏人の手にさえもはいるのである。……貧乏人が身につけて歩いている施し物のひどい上着やその下につけている粗末な下着のようなつましい衣服にぜいたくを発見するような人があれば、笑いものになるであろう。しかしヨークシャーの最もありふれた織物を手に入れるのにも、なんと多くの人が、なんと多くのさまざまな職業が、またなんと多種多様な熟練と道具とが使用されなければならないことか」、云々(第1巻への注解P、1724年版、181-183ページ〉。「美しい緋色や深紅色の織物が生みだされるまでには、世界の各地でなんという大騒ぎがあることだろう、なんと多くの職業や工匠が使用されなければならないことだろう! 統毛工、紡績工、織布業者、毛織物製造業者、洗浄工、染色工、裁断工、製図工、荷造り人といった、すぐにわかるものだけではない。非常に多くの手仕事に加えて、--機械据付工や白鑞(シロメ)細工師、薬剤師のように--もっと速くて一見無縁なように見えるかもしれないが、上に数えあげた職業で用いられる道具、器具その他の備品を手に入れるために必要なその他のものがある。」それから彼は、航海、諸外国、一言で言えば世界市場がこれにたいしてどのように協働しているかに移っている。(『社会の性質の探究』(第二版〔1723年〕への追加〉、411-413ページ。)〉(草稿集④頁477-479)(鑞=すず)
《初版》
〈(57) 本来のマニュファクチュアでは分業がいっそう進んでいるように見える、とA・スミスは言うが、なぜかというと、「それぞれにまちまちな作業部門の従業員たちが、同じ作業場内に集められて、観察者の視界のもとに同時におかれうるばあいが、多いからである。これに反して、住民の大多数の厖大な必要をみたすべきあの大マニュファクチュア(!)では、それぞれにまちまちな作業部門が多数の労働者を使用しているので、彼ら全員を同じ作業場内に集めることは不可能である。……分業はあまり明瞭ではない。」(A・スミス『諸国民の富』、第1篇、第1章。)この章のなかの有名な章句、すなわち、「開花繁栄している国のごくありふれた手工業者または日雇い労働者の家の設備を観察せよ、云々。」で始まり、次にはさらに、1人の普通の労働者の必要をみたすためにどれほど無数の種々雑多な職業が協力しているかを描いている章句は、ほとんど一語一句、B・ド・マンデビルが彼の著書『蜜蜂物語、または私悪は公益』につけ加えた註から写しとったものである。〈註のない初版は1706年、註のある版は1714年。)〉(江夏訳407頁)
《フランス語版》
〈(32) 厳密な意味でのマニュファクチュアでは、「そこで使用されている全労働者は必ず少数であり、それぞれにちがった個々の作業部門に従事している全労働者はしばしば、同じ作業場内に集められていて、彼らを観察者は一望のもとに見ることができる。これに反し、多数の住民の消費物品を供給すべきあの大マニュファクチュア(!) では、個々の作業部門は、同じ作業場内に全員を集めることが不可能なほど多数の労働者を使用する。……そこでは分業はそれほど明瞭でなく、したがって、それほど充分には観察されなかった」(A・スミス『諸国民の富』、第1篇、第1章)。同じ章の有名な章句は、「開化繁栄した地方では、単純な日雇い労働者か最下等の人足の家具類がどんなものであるかを観察せよ、云々」という言葉で始まり、次いで、無数の労働の一覧表を示し、これらの労働の援助と協力がなければ、「開化した地方では最下層の個人は衣服も家具も持つことができない」と書いているが、この章句は、B・ド・マンデヴィルがその著書『蜜蜂物語、私悪は公益』(註記のない初版は1706年、註記のついた版は1714年) につけ加えた註記から、ほとんどそのまま引き写したものである。〉(江夏・上杉訳370頁)
《イギリス語版》
〈本文注: *33 正規の工場手工業においては、と彼は云う。分業は、より大きなものとして表れる、と。なぜならば、「様々な労働部門に雇用されるこれらの者は、大抵、同じ工場建屋内に集められることができ、観る者の視野にまとめて置かれる。これとは逆に、そのような大きな工場手工業( ! )、大勢の人々の大きな欲求を満たすために、多くの労働者を雇用する様々な異なる労働部門では、彼等全てを同じ工場建屋に集めることは不可能であり、…. 分業が非常に明解であるとは云いがたい。」(A. スミス 「国富論」第一巻 第一章 ) (訳者注: この感嘆符は、前に正規の工場手工業と書いた部分との対照となっているところをマルクスが指摘しているもの、この程度の認識と。) 同じ章の有名な一節は、次の言葉で始まる。「文明に富み成長を続ける国の、最も一般的な工場手工業者または日労働者の住まいとその内外を見よ。」等々。そして、多くの様々な製造業がごく普通の労働者の欲求を満足のためにいかに貢献しているかを表現するところへと進む。のだが、この大半の文字は、B. de マンダビーユの 「蜜蜂物語 または 私的な悪事、公益的善行」(初刊 1706年 ここには注書きはないが、1706年版には注書きがある。) の注書きの文字を複写したものである。〉(インターネットから)
●原注58
《61-63草稿》
〈分業の発展とともに、--資本のもとへの労働の単に形態的な包摂の場合にはまだ大いにありうるような--個人的労働の生産物はすベて消えてしまう。完成商品は、それ自体が資本の定在形態である作業場の生産物である。労働そのものの交換価値が--そして労働の生産物ではなくて労働が--、単に資木と労働との契約によるだけではなく、生産の様式〔Weise der Produktion〕そのものによって、労働者が売ることのできる唯一のものとなる。労働はじっさい彼の唯一の商品となり、また総じて商品が、生産を自/己のもとに包摂している一般的カテゴリーとなるのである。われわれはブルジョア的生産の最も一般的なカテゴリーとしての商品から出発したのであった。〔しかし〕商品は、資本が生産様式そのものを変化せしめることによって、はじめてこのような一般的カテゴリーとなるのである。「もはや、個人的労働の自然的報酬と呼びうるようなものはなにもない。個々の労働者は、ただ全体のある部分を生産するだけである。そして、個々の部分はそれだけでは価値も効用ももたないのだから、労働者が手にとって、これは自分がつくったものだ、これを自分のものにしておこう、と言えるようなものはなにもないのである」(『資本の要求にたいする労働の擁護』、ロンドン、1825年、25ページ〔日本評論社『世界古典文庫』版、鈴木鴻一郎訳『労働擁護論』、68ページ〕)。〉(草稿集④467-468頁)
《初版》
〈(58) 「個別的労働の自然報酬と呼びうるものは、もはやなにもない。個々の労働者は一つの全体のある部分だけを生産するのであって、個々の部分はそれだけでは価値または有用性をもたないので、労働者が手につかんで、これは私の生産物だ、これを私自身のためにとっておきたい、と言えるものは、なに一つない。」(『資本の要求にたいする労働の防衛、ロンドン、1825年』、25ページ。)このすぐれた著書の著者は、前に引用したTh・ホジスキンである。〉(江夏訳407頁)
《フランス語版》
〈(3) 「個別的労働の自然報酬と呼ぶことができるものは、もはやなにもない。個々の労働者は一つの全体の一部分だけを生産する。個々の部分には、それだけでは価値も有用性もないので、労働者が自分のものだと主張できるものはなにもなく、これは私の生産物だ、これを私自身のためにとって置きたい、と言えるものはなにもない」(『資本の要求にたいする労働の防衛』、ロンドン、1825年、25ページ)。この注目すぺき著書の著者は、すでに引用したT・ホジスキンである。〉(江夏・上杉訳370頁)
《イギリス語版》
〈本文注: *34「そこには、個々の労働にとって、当たり前の報酬と呼ぶことができるような物は何もない。個々の労働者は、全体のある一部のみを生産する。そしてその部品それぞれには、何の価値も何の有用性もない。労働者がつかみ取ることができる、そしてそれが自分のために持つ程の我が生産物と云う様な物はありはしない。」(「資本家の要求に対して、労働者が守ったもの」 ロンドン 1825年 25ページ) この見事な本の著者は、既に取り上げている、かの Th. ホッジスキンである。〉(インターネットから)
●原注58a
《初版》 初版にはこの注はない。
《フランス語版》
〈(34) このことは、ヤンキー独特の方法で論証されたことである。南北戦争中ワシントンで考案された多数の新設租税のなかに、工業生産物にたいする6%の消費税があった。ところで、工業生産物とはなにか? その時に出されたこの質問にたいし、立/法の知恵はこう答えた。「ある物は、それが作られたときに<(when it is made>生産物になり、しかも、販売に適したものになるかぎり、作られたのである」。多くの例のなかから一例をあげよう。ニューヨークやフィラデルフィアの雨傘と日傘のマニュファクチュアでは、当初これらの物品は、たとえ実際には全く異質な諸物を組み立てた物であっても、全体として製造されていたのである。後になって、これらの物品を構成する種々の部品が、一つ残らず、さまざまな場所に分散した専門的製造の対象になった。すなわち、マニュファクチュア的分業であったものが、社会的分業になった。いまでは、さまざまな部分労働の生産物が、一つ残らず、雨傘と日傘のマニュファクチュアのなかに入ってきてただたんにそこで一つの全体に結合されるところの商品に、なるのである。ヤンキーはこれらの生産物を集合品<assembled articles>と命名したが、この名称は、租税がこれらの生産物において一つに集められるという理由からしても、ふさわしい名称なのである。こうして雨傘は、マニュファクチュアに一商品として入ってくる個々の要素の価格にたいする6%の消費税を納め、さらに、雨傘自身の総価格にたいする6% の消費税を納めるわけである。〉(江夏・上杉訳370-371頁)
《イギリス語版》
〈 本文注: *35 この、社会的分業と工場手工業の分業との識別は、アメリカ北部諸州の人々には実用的に明示された。南北戦争中にワシントンで提出された新たな課税は、"全ての工業生産物" に対して6%の税であった。質問 工業生産物とは何か? 立法府の解答 "それが作られた時に" 生産された物で、かつ、売るため準備ができた時に作られたものである。では、多くの例から一つを取り上げよう。ニューヨークやフィラデルフィアの工場手工業者は、以前は、傘をそれらの関連品を含めて全てを"作る" 習慣であった。しかし、傘はあらゆる雑多な部品の混ぜ合わせであり(ラテン語 イタリック) これらの部品は、様々な場所の独立した様々な個別の製造業の生産物となりかわる。これらの物は、個別の商品として傘の工場手工業に到着し、そこでまとめられる。ヤンキー達は、このようにまとめられた品を、"組み立てられた品" と名付けたが、まさに、その名は、税の集合体に値するものであった。そのように、傘は、最初に、その要素それぞれの価格の6% が、そして、それ自身の全価格の6% がその上に乗る "(税の) 組み立て物" となった。(訳者の挿入)〉(インターネットから)
●第8パラグラフ
《初版》
〈資本主義的生産様式の社会では、社会的分業の無政府性とマニュファクチュア的分業の専制とが、互いに条件になりあうとすれば、これとは反対に、諸職業の特殊化がそのなかで自然発生的に発展し、次いで結晶し、最後に法律上確立されている以前の社会諸形態は、一方では、社会的労働の計画的で権威的な組織の姿を提供しているが、他方で/は、作業場内の分業を完全に排除しているか、さもなければ、この分業を矮(ワイ)小な規模でしかまたは散在的かつ偶然的にしか、発展させていないのである(59)。〉(江夏訳407-408頁)
《フランス語版》
〈社会的分業での無政府とマニュファクチュア的分業での専制とがブルジョア社会を特徴づけるならば、職業の分化が自然発生的に発展し、次いで結晶し、最後に法的に承認されたもっと古い社会は、逆に、系統的、権威的な社会的労働組織の姿を提供するのであるが、他方この社会では、マニュファクチェア的分業は完全に排除されるか、またはわずか
な規模でしか現われないか、またはばらぼらに偶然にしか発展しないのである(35)。〉(江夏・上杉訳372頁)
《イギリス語版》
〈8) もし、資本主義的生産体制の社会では、社会的分業の無政府状態と工場内の専制が互いに共存条件であるというならば、逆に我々は、次のものを見出す。初期的社会形式が、自然に商業的取引の分離を発展させ、そして結晶となし、最終的には法によって永久のものとし、一方で、承認された権威ある計画に基づいた社会の労働組織の実施例を、他方で、工場内の分業を徹底的に排除するか、またはそのことを単なる小人たちのものであるかまたは時々生じる偶然的に発生する範囲内のものにしているのを。*36〉(インターネットから)
●原注59
《哲学の貧困》
〈社会全体は、社会にもまたその分業があるという点で、工場の内部と共通点をもっている。近代的工場における分業を典型とみなして、これを一つの社会全体に適用するならば、当の生産にとってもっともよく組織されている社会は、たしかに、たった一人の企業家だけが指導者としていて、その人物があらかじめ定められた規則に従って共同体のさまざまな成員に仕事を配分する社会であろう。しかし、事実はけっしてそうではない。近代的工場の内部では、企業家の権威によって分業がこまかに規定されているのに反して、近代社会には、労働の分配について、自由競争以外にはなんらの規定も権威もないのである。
家父長制度のもとでも、カスト制度のもとでも、封建的同業組合的制度のもとでも、特定の諸規定に従って、社会全体に分業がおこなわれていた。これらの諸規定は一人の立法者によって定められたものであろうか? そうではない。最初は、物質的生産の諸条件から生まれたのであって、それが法律に昇格したのはずっとのちのことである。こうして、これらのさまざまな分業形態は、いずれもみな社会組織の基礎となった。工場内の分業についてはどうかといえば、それは、これらの社会形態のすべてにおいてほんのわずかしか発達していなかったのである。
われわれは一般的に次のように規定することさえできる、すなわち、権威が社会の内部の分業を支配することが少なければ少ないほど、分業は、工場の内部ではますます発達し、そこでますますただ一人の権威の支配下にはいっていく、と。このように、工場における権威と社会における権威とは、分業については、相互に反比例しているのである。〉(全集第4巻156頁)
《61-63草稿》
〈「家父長制度のもとでも、身分制度のもとでも、封建的同職組合制度のもとでも、不動の諸規則に従って、社会全体に分業が行なわれていた。……作業場内の分業について言えば、それは、これらの社会形態のすべてにおいて、ほんのわずかしか発達しなかった。われわれは、そこから一般的に次のように規定することさえできる。すなわち、権威が社会内部の分業を支配することが少なければ少ないほど、分業は作業場内部でますます発展し、そこでますますただ一人の人間の権威の支配下にはいっていく、と。このように、作業場における権威と社会における権威とは、分業については、相互に反比例しているのである」(『哲学の貧困』、130、131ページ〔『全集』、第4巻、151ページ〕)。〉(草稿集④473頁)
《初版》
〈(59) 「権威が社会内分業を支配することが少なければ少ないほど、分業が、作業場内部でますます発展し、たった1人の権威にますます服従する、と一般的に規定することができる。したがって、作業場内での権威と社会内での権威とは、分業にかんしては相互に反比例している。」(カール・マルクス、前掲書『哲学の貧困』〕、130、131ページ。)〉(江夏訳408頁)
《フランス語版》
〈(35) 「権威が社会の内部での分業を支配することが少なければ少ないほど、分業は作業場の内部でますます発達し、そこではただ1人の人間の権威にますます服従する、と一般的に規定することができる。したがって、作業場内の権威と社会内の権威とは、分業にかんしては相互に反比例するのである」(カール・マルクス『哲学の貧困』、130、131ページ)。〉(江夏・上杉訳372頁)
《イギリス語版》
〈本文注: *36「次のような一般法則があると云えよう。すなわち、社会内の分業に関して、それを指揮する権威が少なければ少ない程、工場内の分業はより発展すると。そして一人の人間の権威により従属させられると。そのように、分業の関係においては、工場内の権威と社会の権威は、互いに反比例する。」(カール マルクス 「哲学の貧困」他 130-131ページ この注部分はフランス語)〉(インターネットから)
●第9パラグラフ
《マルクスからエンゲルスへの書簡》 (1853年6月14日付)
〈政治的な表面でのすべての無目的な運動にもかかわらず、/アジアのこの部分が示している停滞的な性格を十分に説明しているのは、次のような二つの互いに支え合っている事情だ。(1)公共土木事業が中央政府の仕事だということ。(2)中央政府と並んで全国が、わずかばかりの比較的大きな都市を別とすれば、村落に分解されていて、これらの村落は完全に区分された組織をもっていてそれ自身で一つの小世界を形成していたということ。ある議会報告のなかではこれらの村落は次のように描かれている。
「一つの村落は、地理的に見れば、約100ないし1000エーカーの可耕地および荒地を包括する一つの地域である。政治的に見れば、それは一つの市区〔corporation〕または町区〔township〕に似ている。各村落は、事実上、別々の共同体または共和国であり、また、つねにそういうものだったと思われる。役員には次のようなものがある。(1)言語が違うのにしたがってボテイル、ガウド、マンディル、等々と呼ばれるものは、住民の首長であって、一般には村落事務の管理権を握っており、住民間の紛争を処理し、公安に留意し、村落内の収入を徴集する任務を行なう。……(2)カーナム、シャンボーグまたはバットワリーは、記録係である。(3)タリアリまたはスタルワーおよび(4)トティは、それぞれ、村落および農作物の見張方である。(5)ニーアガンティは、川や貯水池の水を正しい割合で別々の耕地に分配する。(6)ジョシー、すなわち占星人は、播種や収穫の時期を告げ、また、すべての農作業のために日時の吉凶を告げる。(7)鍛冶職および(8)大工は、簡単な農具を作り、さらにいっそう簡単な農民の住居を作る。(9)製陶人は、村落の唯一の器具を作る。(10)洗濯人は、わずかばかりの衣服の清潔を保つ。……(11)理髪人、(12)銀細工師、これはしばしば同時に村の詩人や学校教師をも一身に兼ねている。それから、神事のためのバラモン。このような簡単な自治体行政形態のもとでこの国の住民は大昔から生活してきた。村落の境界はまれにしか変更されなかった。そして、村落そのものは、ときには戦争や飢饉や疫病に襲われ、荒廃さえもしたが、同じ名称、同じ境界、同じ利害関係、そして同じ家族さえもが、長い年月にわたって存続してきた。住民は王国の崩壊や分割を意に介しない。村落はそっくりそのまま残るのだから、それがどんな権力に引き渡されようと、どんな君主に任されようと、彼らは意に介しないのである。村落の内部経済は変わることなく存続するのである。」
ボテイルはたいてい世襲だ。これらの共同体のうちには、村落の土地が共同で耕作されるところもあるが、多くのところでは各占有者が彼自身の土地を耕作する。同じ奴隷制と身分制とのなかで。未開墾地は共同放牧用だ。家内紡織は妻や娘によって行なわれる。これらの牧歌的な共和国は、/ひたすらそれらの村落の境界を隣接の村落にたいして用心く見張っているのだが、近ごろやっとイギリス人のものになったばかりのインド北西部には、このような共和国が今なおかなり完全な形で存在している。思うに、アジア的な専制と停滞とにとってこれ以上に堅固な基礎を考えることはできないだろう。そして、どんなにイギリス人がこの国をアイルランド化したとしても、この定型的な原始形態の破壊はヨーロッパ化のための不可欠な条件だったのだ。ただ徴税吏だけがこれを遂行するべき人だったのではない。それには、太古以来の工業の破壊が必要だったのであり、この破壊がこれらの村落から自給自足的な性格を奪ったのだ。
ジャワの東岸に近いバリ島には、今なお完全に、ヒンズー教とともに、このヒンズー組織も残っていて、その痕跡は、ヒンズーの影響の痕跡と同様に、ジャワ全体に見いだされる。土地所有問題について言えば、それは、インドについてのイギリスの著述家たちのあいだで一つの大きな論争問題になっている。クリシュナ南方の切断された山脈地帯では、たしかに土地所有は存在したらしい。ところが、ジャワでは、往年のイギリスのジャワ総督サー・スタンフォード・ラフルズが彼の『ジャワ史』のなかで言っているところでは、この国の全地表において「いくらか多額の地代が得られたところでは」君主が絶対的な地主だった。いずれにせよ、全アジアにおいてマホメット教徒が「土地の無所有」をはじめて原則的に確立したらしい。
前に引用した村落についてなおつけ加えて言えば、それらはすでにマヌにも現われていて、彼にあっては全組織が次のようなことにもとづいている。すなわち、10村が一人の上級徴税吏の管轄下にあり、次には100村、またその次には1000村がさらに上級の徴税吏の下にある、というのがそれだ。〉(全集第28巻220-222頁)
《イギリスのインド支配》 (1853年6月25日付、ニューヨーク・デイリー・トリビューン』)
〈これら二つの事情--一方ではインド人が、東洋のすべての国民と同じく、大公共事業の世話という農業および商業の第一条件を中央政府にまかせたこと、他方ではインド人が国中にちらばっていて、農業と手工業との家内的結合によって小さな中心をかたちつくっていたこと--これら二つの事情は遠い昔から、独特な特質をもった一つの社会制度--いわゆる村落制度を生みだしていた。この制度によって、これらの小結合体(ヴイリツジ・システム)はそれぞれ独立の組織と別個の生活をもったのである。この制度の特殊な性格については、インド問題にかんするイギリス下院の古い公式報告のなかにある次の記述から察することができよう。
「村は、地理的にみれば、数百か数千エーカーの耕地と荒地からなる一地域であり、政治的にみれば、自治体か町村(タウンシップ)に似ている。その役員と吏員とは、正常ならば、次の種類のものから編成されている。ポタイルすなわち住民の長、彼は村の事務を一般に主宰し、住民の争いを解決し、警察事務にあたり、村内の租税の徴収という任務を果たす。この徴税の任務は、彼が個人的影響力をもち、人民の事情や業務をこまかく知っているので、もっとも適任なのである。カルナムは耕作の記帳をし、耕作に関係あるすべてのことを記録する。タリアとトティ、前者の任務は、犯罪や不法行為についての情報を集めることと、村から村へと旅する人を護衛、保護することであり、後者の職分は、もっと村に直接かぎられているようで、とりわけ作物をまもったり、その計量をたすけることにある。境界番、村の境界をまもり、争いが起こった場合に境界にかんする証言を与える。貯水池と用水路の管理人は、農業用の水を分配する。ブラーフマン、村の礼拝をおこなう。学校教師、村の子に砂の上で読み書きを教えているのが見うけられる。暦をつかさどるブラーフマン、すなわち占星師など。このような役員と吏員とで村の管理機構を編成しているのが普通である。しかし、この国のある地方では、これがもっと小規模で、上記のいくつかの任務や職能を一人の人間が兼ねているし、反対に他の地方ではそれがまえにあげた人間の数よりも多い。こういう単純なかたちの自治体政府のもとに、この国の住民は太古このかた暮らしてきているのである。村の境界はめったに変わらなかった。村そのものは戦争や飢饉や病気で時にそこなわれ、荒廃しさえしたけれど/も、同じ名称、同じ境界、同じ利害、いや同じ家族までが、幾世紀となくつづいてきたのである。住民は王国が瓦解しようと分裂しようと気にかけなかった。村がそこなわれないかぎり、住民は、村がどの権力のもとに移されようが、どの支配者に属そうがかまわなかった。村の内部の経済は、変わることなく残っている。ポタイルは依然として住民の長であり、依然として小裁判官ないし治安判事として、また村の徴税人ないし小作料徴収人として行動しているのである。」
これらの小さな固定したかたちの社会組織は、イギリスの徴税官やイギリスの兵士の野獣のような干渉のためというよりも、イギリスの蒸気力やイギリスの自由貿易の作用によって、大部分解体されたし、消滅しつつある。これらの家族共同体は家内工業に基礎をおいていた。すなわち、手織り、手紡ぎ、手耕農業の独特な組合せが、これらの共同体に自給自足の力を与えていたのだが、それに基礎をおいていたのである。イギリスの干渉は、紡績工をランカシァに、織布工をベンガルにとわけへだてたり、あるいはインド人の紡績工と織布工とを共に一掃したりして、この小さな半野蛮、半文明の共同体の経済的基礎を爆破して共同体を解体させ、こうすることによって、アジアでかつて見られた最大の、じつは唯一の社会革命を生みだしたのである。〉(全集第9巻草稿集④125-126頁)
《61-63草稿》
〈われわれはむしろ、商品がブルジョア的生産においては富のかかる一般的、基素的(エレメンターリッシュ)な形態として見いだされる、という事実から出発する。しかし、商品生産、したがってまた商品流通は、さまざまの共同体のあいだで、あるいは同一の共同体のさまざまの器官のあいだで--生産物の大部分は直接的な自己需要のために使用価値として生産され、したがってまたけっして商品の形態をとらないのに--生じうる。他方、貨幣流通のほうは、したがってまたそのさまざまの基素的(エレメンターリッシュ)な機能および形態における貨幣の発展は、商品流通そのもの、しかも未発達の商品流通以外にはなにも前提しない。〉(草稿集④55頁)
〈すべての社会状態において、支配する階級(または諸階級)はつねに、労働の対象的諸条件を所有している〔in ihrem Besetz haben〕階級であり、したがってこの対象的諸条件の担い手たちは、彼らが労働する場合でさえも労働者としてではなく、所有者〔Eigenthumer〕として労働するのであるが、使用される〔dienend〕階級はつねに、自分の労働能力しか思うままに処分できない・あるいは労働能力として所有者〔Eigenthumer〕の所有〔Besitz〕にさえなっている(奴隷制)・階級である(この階級が、たとえばインド、エジプト、等々でのように、土地〔Grund und Boden〕を占有〔Besitz〕しているように現われる場合でさえも、それの所有者〔Eigenthumer〕は、王、またはある身分、等々である)。だが、これらすべての関係を資本から区別するものは、この〔両階級間の〕関係が装われているということ、すなわち、支配者たちと隷属者たち、自由人たちと奴隷たち、神に成り上がった連中とこの世の人間たち、等々の関係として現われ、また両者のそれぞれの意識のなかにもそのような関係として存在する、ということである。資本においてのみ、この関係から、政治的、宗教的、その他のあらゆる観念的な装いが脱ぎ捨てられている。〉(草稿集④206頁)
〈自然発生的分業は交換に先行する。そして、商品としての生産物のこの交換は、最初は異なる共同体のあいだで発展するのであって、同じ共同体の内部においてではない。(このことは、一部は人間自身の自然発生的な差異にもとづいているが、そればかりでなく、自然的差異にも、つまり、たまたまこれらの異なる共同体がもっている、生産の自然的諸要因にももとづいているのである。)もっとも、生産物の商品への発展と商品交換とは、逆に分業に反作用するのであって、その結果、交換と分業とは相互作用の関係にはいるのである。〉(草稿集④437頁)
〈一共同体におけるさまざまな欲望は、それをみたすためのさまざまな活動を必要とするが、さまざまな性質の人間がこれらの活動のどれにより適しているかを決めるのは、素質の違いだ。ここから分業が生まれ、それに対応するさまざまな身分が生まれるのだ。プラトンがいたるところで主要な問題として強調しているのは、こうしてあらゆる仕事がより良くなされるのだ、ということである。すべての古代人にとってそうであるように、彼にとっても質が、つまり使用価値が決定的なことであり、もっぱらの観点である。そのほかの点でも、彼の全見解の基礎には、アテナイ風に理想化されたエジプトの身分制度がある。 総じて古代人たちの解釈では、エジプト人たちが達成した工業的発展の特殊的段階は、彼らの世襲的分業とそれにもとづく身分制度とから生じたものであった。〉(草稿集④455頁)
〈ブルジョア社会以前の諸段階では商業が産業を支配して/いる。近代社会ではそれとは逆である。共同体どうしのあいだで営まれる商業は、もちろん多かれ少なかれそれらの共同体に反作用するであろう。商業は、生産をますます交換価値に従属させるであろうし、直接的使用価値をますます背後に押しやるであろう。というのは、商業は享楽や生活維持を生産物の直接的使用よりもむしろその販売に依存させるからである。〔商業は〕古い諸関係を分解させる。〔商業は〕貨幣流通を増加させる。〔商業は〕ただ生産の過剰をとらえるだけではなく、だんだん生産そのものを食い取ってゆく。(〔商業は〕依然として個々の生産部門を自らの基礎としている。)とはいえ、分解作用は、生産を行なう共同体の性質によって大いに左右され、それらの共同体どうしのあいだで商業は作用するのである。たとえば、[商業は]古代インドの共同体を、また一般にアジア的諸関係をほとんど動揺させることはなかった。交換のさいの詐欺は、商業が独立して現われる場合の、それの基礎である。〉(草稿集⑧22-23頁)
〈およそ人間は(孤立的または社会的に)つねに、彼が労働者として現われるより前に、所有者として現われるのであって、たとえその所有が単に、彼が非有機的自然にたいする所有として自分自身で手に入れるもの--(または彼が家族や種族や共同体として、一部は自然にたいする所有として、一部はすでに生産されたものである共同の生産手段にたいする所有として、手に入れるもの)にすぎないとしても、そうである。そして、最初の動物的な状態が終わるときには、自然にたいする所有はいつでもすでに共同体や家族や種族などの成員としての彼の定在によって媒介されている。すなわち、自然にたいする彼の関係を制約するところの、他の人間にたいする関係によって、制約されている。--「根本原理」--としての「無所有の労働者」はむしろ文明の所産なのであり、しかも「資本主義的生産」の歴史的段階でのそれなのである。〉(草稿集⑧463頁)
《初版》
〈たとえば、部分的には今日もなお存続している、かのインドの太古の小共同体は、土地の共有にも、農業と手工業との直接的な結合にも、新たな共同体の創設のさいに与えられた計画および見取り図として役立つところの固定した分業にも、立脚している。この小共同体は自給自足的な生産体全体を形成していて、この生産体全体の生産領域は100エーカーから数千エーカーにいたるまでさまざまである。生産物の大部分は、共同体の直接的な自家需要のために生産されるのであって、商品として生産されるわけではなく、したがって、生産そのものは、商品交換によって媒介されている、インド社会全体内での分業からは、独立している。生産物の余剰分だけが商品に転化するのであって、しかもその一部分は、大昔から一定量の生産物を現物地代として手に入れた国家の手のなかで、初めて商品に転化するのである。インドでも、地方地方に応じて、この共同体の支配的な形態はまちまちである。最も簡単な形態では、共同体は、土地を共同で耕作して土地の生産物を成員のあいだで分配し、他方、各家族は、紡ぐことや織ること等々を家庭の副業として営んでいる。同種の仕事をしているこれらの民衆のほかに、次のようなものがいる。裁判官や警察官や徴税官を一身に兼ねた「住民の長」。農耕にかんする計算を行ない、この計算に関係のあるいっさいのことを記帳し登録する記帳係。犯罪者を訴追し、外来の旅行者を保護して一村から他村に案内する第三の役人。近隣の共同体にたいして自分の共同体の境界を見張る境界監視人。農耕目的のために共同貯水池から水を分配する水番。宗/教的礼拝の職分を行なう波羅門〔バラモン〕。共同体の児童に砂で読み書きを教える教師。占星師として種まきや収穫の時期を告げ、すべての特別な農耕作業の時期の適否を告げる暦術波羅門。あらゆる農具を作ったり修繕したりする鍛冶屋と大工。村に必要なあらゆる容器を作る陶工。理髪師。衣類を清潔にするための洗濯屋。銀細工師。若干の共同体では金銀細工師の代役をし、他の共同体では教師の代役をする詩人が、あちこちにいる。この1ダースの人々は、共同体全体の費用で扶養されている。人口がふえれば、新共同体が元のものを雛型にして未耕地に移植される。共同体の全体機構を考察すると、ここでは計画的な分業が見いだされるが、マニュファクチュア的分業は不可能である。なぜならば、鍛冶屋や大工等々にとっての市場は、元のままであって、せいぜい、村の大きさのちがいに応じ、1人の鍛冶屋や陶工等々に代わって2人か3人の鍛冶屋や陶工等々が現われるくらいのものだからである(60)。共同体労働の分割を規制するおきてが、ここでは自然法則の不動の権威をもって作用しているが、他方、鍛冶屋等々のようなそれぞれ特殊な手工業者は、伝来のやり方にしたがうものの、独立して、しかも、自分の作業場ではいかなる権威をも認めずに、自分の専門に属するあらゆる作業を行なっている。不断に同じ形態で再生産され、たまたま破壊されても同じ場所に同じ名称で再建される、こういった自給自足的な共同体という単純な生産有機体(61)は、アジア国家の不断の興亡や王朝の不断の交替とはきわめて目立ったコントラストをなしているアジア社会の不易性の秘密を解く鍵を、提供するものである。社会の経済的基本要素の構造が、政治的雲上界の嵐には影響されないでいるわけである。〉(江夏訳408-409頁)
《フランス語版》
〈かのインドの小共同体は、、最も遠く隔たった時代にまでその痕跡を追跡することができ、また、いまもなお部分的に存在しているが、これらの小共同体は、土地の共有と、農業と手工業との直接的結合と、新しい共同体が形成されるたびごとに計画や雛型として役立つ不変の分業の上に、基礎を置いている。これらは、100エーカーないし数千エーカーに及ぶ領域上にうちたてられていて、自給自足の十全な生産有機体を構成している。生産物のうちの最大量は共同体の直接消費に充てられ、けっして商品にはならず、したがって生産は、インド社会全体のなかでの交換によって惹き起こされる分業からは独立している。生産物の余剰だけが商品に転化するのであって、それはまず国家の手中に入ってゆく/が、大昔から余剰のうちの若干部分が現物地代として国家に帰属するのである。これらの共同体はインドでも地方ごとに形態がちがっている。最も単純な形態のもとでは、共同体は土地を共同耕作し、生産物を成員のあいだで分配するが、他方、個々の家族は自分の家では紡糸や機織などのような家内労働に従事する。一様な仕事をするこうした民衆のほかに、次のような人々がいる。裁判官、警察の長、徴税吏を一身に兼ねる「住民の長」。農耕と検地の勘定を決済し、それに関係するいっさいのものを記録する簿記係。罪人を起訴したり、外来の旅行者を保護してある村から別の村に案内したりする第三の役人。近隣の共同体からの侵害をふせぐ境界見張り番。共同貯水池から引いた水を農耕の必要のために分配させる水番。礼拝の機能を果たす婆羅門(バラモン)。共同体の児童に砂上で読み書きを教える教師。占星者として播種期や収穫期やいろいろの農耕作業に有利または有害な時期を指示する暦術婆羅門。あらゆる農具を製造し修理する鍛冶師と大工。村のあらゆる食器類を作る陶工。理髪師。洗濯人。金銀細工師。また、幾つかの共同体では金銀細工師のかわりをし別の共同体では教師のかわりをする詩人が、あちこちにいる。これら1ダースの人々が、共同体全体の費用で養われる。人口が増加すると、新しい共同体が元の共同体を手本にして創設され、未耕地に定着する。共同体全体は系統立った分業に根拠を置くが、マニュファクチュア的な意味での分業は不可能である。というのは、市場が鍛冶師や大工などにとっては元のままだからであり、村の大きさによってせいぜい、1人だったものが2人の鍛冶師または2人の陶工になるからである(36)。ここでは、共同体の分業を規制する法則が自然法則の不可侵的権威をもって作用するのにたいし、個々の手工業者は自分の家で、自分の作業場内で、伝統的なやり方にしたがって、だが独立して、またどんな権威も認めることなく、自分の本領であるあらゆる作業を遂行する。自給自足し、絶えず同じ形態のもとで再生産され、偶然に破壊されても同じ場所に同じ名称で再建されるこれら共同体に備わっているところの生産有機体の単純性(37)は、アジア的社会の不変性、すなわち、アジア諸国家の不断の崩壊・再建とも王朝のはげしい交替ともこれほど奇妙な対照をなしている不変性、を解く鍵を提供している。社会の経済的基本要素の構造は、政治的天界のあらゆる嵐の手が届かないとこ/ろにとどまっているのである。〉(江夏・上杉訳372-374頁)
《イギリス語版》
〈(9) 古き昔のインドの小さな共同体、そのうちの幾つかは、今日に至るまでも続いているが、土地の共有に基づき、農業と手工業を取り合わせた様な形で、変えることができない分業で成り立っている。その分業は、新たな共同体が開始時に、計画と体系として手を入れまとめ、用意したものである。100エーカーから数千エーカーの土地を占有し、それぞれがまとまった全体を形成し、自ら必要とするものを生産する。生産物の主な部分は共同体自身の直接的な利用へと予め決められており、商品の形にはならない。であるから、ここでの生産は、商品の交換によっている全体的に見たインド社会からもたらされる分業からは独立している。余剰のみが商品となる。だが、その部分といえども、国家の手が届くまでは、そうはならない。国家の手を経ることによって始めて、そうなる。国家は大昔からこれらの生産物の一定量を地代相当として取り扱ってき来た。これらの共同体の形成は、インドの諸所によって様々である。そのうちの最も簡素な形式は、土地は共同で耕され、生産物は構成員に分配される。同時に、紡いだり織ったりすることは各家庭の補足的な仕事としてなされる。皆がこのようにしている他に、ある者が同じ仕事に従事する。我々は "住民の長" を見つける。判事、警察、徴税官役を一人で担っている。記録係は、収穫勘定を行い、諸々の全てを記帳する。他の公務者としては、犯罪者を告訴し、旅人を保護し、次の村まで護衛する者。隣村との境界を守る監視役、共同の灌漑用池からの水の分配を行う水監視人、宗教的行事を執り行うバラモン、子供達に読み書きを教える教師、種まきや収穫の良き日または良くない日を知らせる他、農業に関する様々なことを知らせる暦のバラモン又は占星術師、農業用具の全てを作り修理する鍛冶屋と大工、村の全ての陶器を作る陶工、床屋、布の洗濯をする洗濯人、銀細工師、そしてある共同体では、銀細工師の、他では、教師の代役をする詩人があちこちに。この1ダースの個人は、全共同体の支出で維持される。もし、人口が増加したら、新たな共同体が、同じパターンで、未占有地に、作られる。この全メカニズムは組織的分業を明確にしている。工場手工業的分業は成り立ちようもない。なぜなら、鍛冶屋も大工も他も、不変の市場を見出すだけだから。時には、村の規模によって起こる変化程度はありそうなことだが、一人に代わって二人か三人か程度で済む。*37 共同体内部の分業を規制したこの法は、逆らうことが出来ない自然の法則の権威をもって作動した。同時に、各個々の職人、鍛冶工や大工、他は、彼の作業所において、全ての手作業を伝統的な方法で行った。とはいえ、それは独立しており、彼を制するいかなる権威も認めてはいない。これらの自給自足共同体内の単純な生産組織は、常にその同じ形式で自身を再生産する。そして、なんらかの破滅に直面しても、同じ場所に同じ名前で再び立ち上がる。*38 この単純さが、アジア的共同体の不変の秘密の鍵を与える。この不変性は、アジア諸国の溶解と再構築と、その絶え間なき王朝の交替とは際立った対照を見せる。共同体の経済的要素の構造は政治的空の嵐の雲によってもなんら触れられる事もなかったようにそのままである。〉(インターネットから)
(付属資料(4)に続く。)