21時過ぎにお風呂に入った。いつもは0時過ぎに入る。早めに入った理由は特にない。
電気を消して、プラタナスの落ち葉が風によってかすかな音を立てながら道路を動くる音を聞いていた。風が弱いので、ヨタヨタと移動しているようだ。遠くから近づいてくる音、遠ざかっていく音、幹から落ちてきたのか、芝生の上に落ちていた枯れ葉が路面に落ちたのか、ある地点で急に音が始まるのは不思議である。
プラタナスの葉は大きいので、一枚一枚の挙動が静かな正月の夜によく響く。一枚一枚の葉にドラマが仕掛けられている。そんな想像もまた楽しい。
小学生の時にもそのようなことがあり、子どものくせに長湯などするな、とよく怒られた。急いで出ると「どこを洗ってきた」と怒られ、いつもオロオロしていたこともある。
しかしどちらかというと、湯船につかって外の様子を、音で探っているときのほうが多かったと記憶している。近所の人の歩く音、雨の音、近くの水路を流れる水の音、近所の犬の鳴き声‥どれもが想像をたくましくしてくれた。
子どもというのは大人が考えているよりも、外界刺激をきちんと自分なりに受け止めて、さまざまな思いや想像を豊かに育んでいるものである。その芽を大切にしなくてはいけないと思う。自分の子どもに対して、そのようにふるまえたか、まったく自信はない。
お風呂は感受性を育む。お風呂は沈思黙考に適している。
本日は4日であるが、本日の元旦と2日、3日に何をしていたか、思い出そうとした。元旦には何をしたか、すぐに思い出した。ところが一昨日、昨日には何をしたか思い出せなかった。心配になって妻に聞いたところ、すぐに思い出した。家族で出かけたことについては、なかなか思い出せなかった。
退職者会の行事や会議などはすぐに思い出すのだが、家族となるとインパクトが弱いのだろうか。日常的過ぎて刺激が足りないのだろうか。
元旦は娘夫婦が来て散歩に出かけたのは忘れていない。すぐ近くに住んでいるわけではないし、仕事を持っているので滅多に合わないので、会えば記憶に残るのであろうか。
しょっちゅう顔を合わせていると、刺激にならずに会って何をしたか、忘れてしまうのかもしれない。
退職者会のことはよく覚えている。家族といた時間というのは忘れやすい。自分が関心を持っていること、刺激を受ける場面に自分を置いているということが、記憶に残るのかもしれない。
しかしそうならば、日常的に顔を合わせ続けている家族のことは忘れやすい、ということにもなる。それはそれでまた悲しいものである。
いづれにしても、昨日、一昨日のことが思い出せないというのは、悲しいと思う。年とともにだんだんこのようなことが頻繁に起こるようになるのであろうか。不安が頭を過ぎった。
会議は15時には終了。本日はお手伝いをお願いした方も来てくれて、13時からの作業は早めに終了することができた。
数人で組合の会館の中で、ビールのレギュラー缶1本とおいしい日本酒を1合ほど。つまみは魚肉ソーセージ1本と実に簡素なひとときを過ごした。
帰宅してみると、うれしい年賀状が6枚ほど届いていた。
本日の会議で決まった日程やいくつかの作業は明日にでも整理予定。当面は感染症の拡大局面でもあり、行動予定は入らなかったものの、打合せは二つほど追加。