Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日より「眼の神殿」(北澤憲昭)

2021年01月15日 22時59分43秒 | 読書

 本日から読み始める本は「眼の神殿 「美術」受容史ノート」(北澤憲昭、ちくま学芸文庫)。著書も初めて目にするし、著者も知らない。昨年の12月に出版されたばかりである。
 ざっと見たところ、高橋由一から説き起こされている。私は明治の美術史の観点から興味深く読めるものと期待して購入した。
 読みではありそうである。皆目わからない案内書で山歩きに出かけるように不安もある。


読了「《英雄》の世紀」  5

2021年01月15日 21時14分03秒 | 読書

   

 本日読み終わったのは「《英雄》の世紀 ベートーヴェンと近代の創成者たち」(樺山紘一、講談社学術文庫)。

「いわゆる古典学派に属するモーツアルトやハイドン、グルックといった18世紀の音楽家は、みなその現実が広がる前に世を去っていた。かれらは、貴族たちに支えられた絶対主義国家のなかで、それなりに安定した音環境を保証された。‥ベートーヴェンがウィーンにやってきた1792年、すでに激動の帳はあがり始めていた。三〇歳代の旺盛な活動期、それこそナポレオンによるドイツ解体の全プロセスに相当する。政治思想家でもなかったベートーヴェンにとって、この政治の激動はどんな意味を持つことになったのか。‥ナポレオンの進駐は‥おおくの宮廷芸術家がパトロンをうしない、生活の糧を奪われた。‥1805年ころを境目として、ベートーヴェンの楽想が独特の展開をしはじめるのも、都市ウィーンと貴族たちのこうした変動とも関連がある。」(第6章 ナポレオンショック)

「貴族社会の限界を承知しながらも、それに代替しうるような別の社会を模索する苦悶。それこそ、19世紀初頭のヨーロッパ大陸の実情だっただろう。「市民」はまだ、認知されないあいまいな境遇にあった。」(第6章 ナポレオンショック)

「ナポレオンの理想主義こそ、ベートーヴェンその人の影をうつすスクリーンであった。‥「人類」とか「自由」とかの価値を、衷心から信じて革命の時代を生きた。ベートーヴェンをして不抜の「平民主義者」と呼ぶ見方が唱えられる。‥どのような政治の体制や党派であれ、なにがしかは、普遍的な価値の実現として理解しようとするときに、平民主義は等身大の思想となる。」(第6章 ナポレオンショック)

「ナポレオンは、果断な戦術によって意想外な勝利を果たす傍ら、不本意な戦闘にあっても、‥市民の戦争は、このような軍事の天才、いやできることならば英雄を必要とした。英雄は、きわだった戦果をあげたものへの呼称である。ごく普通の市民としての肉体と感性をもち、だかその普通さを特異なやりかたで再編成して、超人的な技能や成果をおさめる。とこに英雄という独特のスタイルが編み出される。」(第7章 市民と英雄)

「英雄はなにも戦争と軍隊だけがうみおとすわけではない。市民たちは、さまざまな領域に英雄の登場をうながす。この事情をよくのみこんだ芸術家たちは「エロイカ」賛歌を創造すべく、新たな道を模索する‥。」(第7章 市民と英雄)

「1824年、第9シンフォニーをひきいる思想として、あえて詩人シラーによる一節を選んだベートーヴェンは、生涯の焦点をかざるにふさわしい主題をかかげる。むろん「歓喜に寄す」である。「歓喜」の理想のもとに、すべての人類が兄弟になるという壮大な主題は、英雄の時代を背景に解釈されない限り、ただの大言壮語に映る。《エロイカ》にあっては英雄的行為に向けられた観念は、人類に共通のはるかなる理想に等置され、聴衆にたいしてすべとの市民が「英雄」としてふるまうことの合意をもとめたのであった。」(第7章 市民と英雄)

「古典主義における明澄性・普遍性・秩序性。ロマン主義における幻想と神秘、個別と一回、反抗と自由。両者は相互にあいいれることができない。とりわけ遅れてきたロマン主義は、こうした対抗戦略を編み出して、時代の転換をすみがらのイニシャティヴで専有しようとした。ロマン主義を‥理解するために好適な手がかりはある。第一には詩人バイロンである。‥偽善に対する正義、虚偽への風刺、窒息をこばむ冒険、どれも読者の想像力に火をつけた。これこそロマン主義の共通項目として、あまねく承認されるものであった。‥第二の事例は、画家ドラクロワである。‥もっぱらキャンパスのむこうを縦断する対象の激動性に模索するようになる。‥現実のなかにゆらめく劇的起伏に関心を移動させていった。第三の事例はベートーヴェンと同じドイツの世界にあって、もっとも新奇な作風をうみだしたのは、カール・マリア・フォン・ヴェーバーであった。ヴェーバーのオペラには、古典主義が旨とした理性的な割り切りや喜悦はない。むしろはるかに混濁したドイツ人の伝承世界が、ずっしりとした重みをもって表現される。」(第8章 古典主義からロマン主義へ)

 この最後の4つの章は、とても難解である。結論を急ぐあまり、言い回しも無理があるように思える。言葉が独り歩きして結論が急がされるている。もう少し丁寧な論考を期待したかった。


バッハのオルガン曲を久しぶりに

2021年01月15日 13時05分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 寒空が戻った。理由は特にないが、バッハを聴きたい気分になった。
 昨日下見のつもりであったがつい購入してしまったスピーカーではどのように聴こえるか、試したくなったこともあるが、大きな会場で心行くまでパイプオルガンの音に浸りたくなることがある。
 横浜のみなとみらいホールにあるパイプオルガンは何度か聴いている。あれを弾いてみたい衝動に駆られる。
 我が家にある「J.S.バッハ オルガン独奏作品全集」を久しぶりに聴いてみた。
 トリオソナタ6曲などが収められているCD2枚。ハッとするような強弱の差などはなく、どちらかというと控えめな演奏である。
 こういう演奏のほうが私は惹かれる。

   


スピーカーの能力調べ

2021年01月15日 09時25分57秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 昨晩は、チェロの音を聴きたくなってベートーヴェンのチェロソナタの第4番(ヨーヨー・マ、エマニュエル・アックス)を聴いた。
 次に好きなブラームスも聴きたくなり、第4番のシンフォニー(カラヤン、ベルリンフィル)を聴いた。
 やはり小さいスピーカーなので、管弦楽曲では弱い音ならまだしも強奏部分は音の厚みが不足。小さい楽器で無理に大きな音を出しているようだ。そこまで要求するのは無理なのだと思う。
 最近は大編成の管弦楽曲よりも室内楽のほうが好みになっているので、許容範囲である。

 さて、昨日は春のような陽気であったが、本日はまた寒くなった。午前中の作業が終わったのち、出かけるのは繁華街やターミナル駅ではなく、近所の散歩程度にしておきたい。