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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

午後から「戦場に輝くベガ」上映会に参加

2016年08月14日 21時14分23秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 午前中に記載したとおり午後から「戦場に輝くベガ」【HPはこちら】の上映会に参加してきた。
 一昨年2014年に「星ナビ」に「終わらない物語」の紹介記事を書いていたので、内容はほとんど理解していた。
 また星ナビ編集委員から具体的に感想も聞いていたので、既視感があったが、それでも前段の「スペースファンタジーライブ」とあわせて興味深く、そして感銘深い2時間を過ごすことが出来た。
 記念に当時の記事をもう一度ここに再掲載して起きたい。当時の記事をすでに読んだ方は読み飛ばしてください。

 プラネタリウムの番組というのをご存じであろうか。プラネタリウムで星を見ることが今は流行っている。そして60分なり90分の投影時間内の番組というのは、それぞれのプラネタリウムによってさまざまに工夫されている。その番組制作には多くの体験者の想いが込められている。
 私も昔は星空を眺めるのは大好きで、小中学生の当時、渋谷にあった五島プラネタリウムに幾度も通った。その当時は星座と星座にまつわる神話、日周運動の説明、惑星の運行の説明など基本的な観測の説明が主であった。
 今回この月刊誌で紹介されたプラネタリウム番組「戦場に輝くベガ-約束の星を見上げて-」は山梨県立科学館のオリジナル番組である。太平洋戦争中の「天文航法」をテーマにして、当時の忘れられてしまいそうな事実を掘り起し、人々の暮らしや想い、願いをつづった出色の番組である。
 この番組の脚本・演出を担当された跡部浩一・高橋真理子両氏による8頁にわたる紹介文である。
 私も知らなかったが、長距離飛行、特に爆撃機の出撃にはレーダーの無かった当時は、星空の観測による位置確認がどうしても必要であった。特定の明るい観測しやすい星3個の地平高度を測り、簡易天測表を使って位置を測るというもの。その測定は搭乗員がするものの、機上での計算をしなくても済むように作られたのが「高度方位暦」というとのこと。その作成に学徒動員された当時の女学生が当たっていた。その事実を丹念に掘り起し、番組に丁寧に仕上げたことが紹介されている。
 星空を見上げるのが好き、天文現象に興味がある人はたくさんいる。星を見上げるのは人類の人類たるゆえん、人の原初からの尽きない想像力を駆り立ててきたともいえる。この紹介文書には次のような言葉も記載されている。6段に分かれた文章の圧巻は5段目である。
 「星空は地球上の生命が共有できる唯一の風景である。‥星空はすべてをつなぐ力を持っている。」「この番組を構成している軸に、男と女、加害と被害、当時と今、という対がある。それをすべて引き裂くのが「戦争」であり、すべてを超えてつなぐことができるのが「星」だとこの物語は伝える。」
 あらすじの紹介では戦争の加害と被害ということに言及している。「(主人公の)和夫は、満天の星に包まれながら、自分が爆撃した相手にもねどうしても会いたい大切な人がいるであろうことに思い至る。」
 これはひょっとしたら戦争というものを無くすための、残念ながら、とても儚い微かな希望なのである。しかし今のところそこに微かな希望を持つしかないのが、現在の私たちである。
 戦争は、誰もが加害者になり、誰もが被害者になる。人が人を殺す論理が「正義」になるのが戦争である。あの戦争の後も、あれから70年経ても人は国家意思に従属させられて、戦争に駆り出されてきた。今また「国家の論理」「国家の正義」が個人の意思・論理の上に君臨しようとしている。「正義の戦争」という名で「人が人を殺す正義」が大手を振ってのし歩こうとしている。世界中があの70年前とその後も続いた殺戮戦の教訓を忘却し始めている。

 「星が武器としてではなく、希望の光として輝ける日が来ることを祈っています」がこの番組の最後に語られるようだ。私たちは戦争を知らない世代と云われたが、いつの間にか私たちが戦争を語り継がねばならない世代になっている。若い世代が「終わらない物語」が終わる可能性を求めて、生き抜いてほしいと思う。


 なお高度方位暦の詳しい内容は以下にあります。私のツィッターのフォロワーの「山田陽志郎」さんに紹介していただきました。とても勉強になります。

http://www.jha.or.jp/jp/shop/products/suiro/pdf/suiro157.pdf#page=5

 同時にパンフにも紹介されている「聖マーガレット礼拝堂に祈りが途絶えた日」の本の紹介文も教えていただいた。



 本日配布された資料から二つを紹介。

   



「戦場に輝くベガ」上映会

2016年08月14日 10時30分28秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 一昨年、2014年6月13日の記事で「『戦場に輝くベガ』(星ナビ7月号)」という記事を書いた。冒頭は次のように記した。

「今回この月刊誌で紹介されたプラネタリウム番組「戦場に輝くベガ-約束の星を見上げて-」は山梨県立科学館のオリジナル番組である。太平洋戦争中の「天文航法」をテーマにして、当時の忘れられてしまいそうな事実を掘り起し、人々の暮らしや想い、願いをつづった出色の番組である」【http://blog.goo.ne.jp/shysweeper/e/b5a9f7072b0561fb1e08564e8d350cda



 本日午後から横浜の開港記念会館でその上映会が開催される。実はもう大分前に娘からこの上映会の話を聞いていたのだが、すっかり失念していた。
 ツィッターで12日にこの上映会の案内を知らされた。事前に予約していなかったのだが、これから出かけてまだ席があるだろうか。心配ながら出かけてみることにした。

 8月15日を明日に控えて、いい企画であることを願っている。


ブラームス「パガニーニの主題による変奏曲 作品35」

2016年08月13日 23時28分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 1862年から1863年にかけて作曲された。ブラームスが29歳から30歳にかけての曲である。
 パガニーニの有名な「カプリッチョ第24番 イ短調」を主題にした変奏曲で、もともと芸術的練習曲として構想されたこともあり、情緒の深みと至難な超絶技巧の要求される曲。
 第1巻、第2巻に分かれる。それぞれ主題と14の変奏曲からなる。

 それぞれを主題と14の変奏曲からなるひとつの曲として聴いている。それぞれ終曲に近図くに従って、私には聴きやすくなる。



ブラームス「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 作品24」

2016年08月13日 22時09分39秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ブラームス「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 作品24」は、1861年28歳のブラームスが書いた作品で出版されたもののうち、唯一のフーガ作品を伴う大曲。ウィキペディアによると「バッハの『ゴルトベルク変奏曲』、ベートーヴェンの『ディアベリ変奏曲』、ロベルト・シューマンの『交響的練習曲』と並び称される、音楽史上の変奏曲の歴史を飾る曲」という説明がされている。
 同時に作品35の「パガニーニの主題による変奏曲」とともにブラームスのピアノ独奏用の曲の双璧を為すともいわれている。



 主題の骨格から形成される簡素なテーマに基づくフーガからなる。主題はヘンデルのクラヴィーア組曲第2巻(HWV434)の第1曲「エア」によるからとられており、主題と25の変奏からなる。
 25の変奏曲は実にさまざまな表情を見せてくれる。
 そして第25変奏曲の後からはじまるフーガもいい。無限に続く無窮動のように8分音符が星をちりばめるように自己運動していくようだ。

 晩年のブラームスの沈んだ雰囲気が好みでないという人にとっては、この時期のロマン溢れる曲想が好みであるという人も多い。学生時代の私もそうであった。とても懐かしく聴いている。

メアリー・カサット展(横浜美術館) その4

2016年08月13日 10時53分54秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 その3で「果実をもぎとろうとする子ども」(1893)について記載した。コロコロ様からコメントをいただいた。やはりこの作品の母親の「目が怖い」という印象を持たれたとのことである。私だけの感想かと思っていたが、同じように感じられる方がいて少しホッとした。
 母親はリンゴの実を取って与えてはいない。子どもをしっかりときつく抱きながら、子どもが自分で手に取ろうとするようにし向けている。
 自立した子どもになるようにしつけようとする母親の強い意志があの目に込められているように私には思われる。多分彼女が画家を志してからの厳しい社会の女性に対する環境に打ち勝ってきた決意も込められているのであろう。



 さらに「眠たい子どもを沐浴させる母親」(1880)また母子の関係は決して甘いだけのものではなく、現実の母親の子どもと接するときの心の葛藤を描いていると感じた。この絵では母親の顔は明確には描かれていないが、それでもきつそうな顔の表情であると見ることもできる。いうことを聞かないぐずる子どもを相手に、放り出したくなったり、怒鳴りたくなったり、きつく押さえつけたくなったり‥という母親ならだはの気持ちのイライラを嗅ぎ取った。
 社会や世間一般が一方的に求める「慈愛」や「やさしさ」だけが母親像ではない。現実の子どもとの葛藤にまで踏み込んで描いていることに私はとても惹かれている。



 「母の愛撫」(1896頃)という作品もある。この母親、子どもを愛撫などしていない。逆に子どもの左手が母親の頬を撫でるようにしているが、その子どもの手を強くにぎっている。ひょっとしたら子どもの手を払いのけようとしているようにも見える。あるいは反対に強引に子どもの手を母親の頬に持っていたのかもしれない。
 もうひとつ気になったのは、母親の視線と子どもの視線は交わっていない。下を向いて何となく眠そうである。この視線の解釈が正しいとすると、子どもは母親を起こそうとして手を頬に当てており、母親はそれを払い除けようとしている可能性がある。決して慈愛に満ちた一瞬ではないと思われる。
 図録の解説では「母子が見つめ合うひととき」「移ろいやすい一瞬の光景ではなく、普遍性や永遠性を湛えた世界」と抱えているが、私は母子の視線は交わっていないと思う。
 育児や家事などでの疲れからまどろんでしまう母親に甘える子ども、そんな母親の厳しい現実を見つめているカサットがいる、と私は感じた。



 「家族」(1893)ではキリストの受難を象徴する赤いカーネーションから「ひとときの幸福とともに子どもの将来を案じる母親の憂いが暗示」と書かれている。私はカーネーションの寓意は多分そのとおりだと思うが、聖母子像の19世紀末的な変容の内実は別の点にあるように思えた。
 ひょっとしたら主題はカーネーションをもつ少女なのではないだろうか。大人へと近づく少女の、社会一般の母親像への不安や違和など、カサット自身の思いが詰まった少女像のように思える。
 ここでは実に穏やかな表情と視線の母親であるが、ひょっとしたら男である赤子の表情と視線はきつい。いづれ家族から自立する赤子と、世間的な家族・母親像に縛り付けられる少女の不安と疑問がどこかに横たわっていると思えた。



「母親とふたりの子ども」(1905頃)。
 構図的には母親の下半身を蓋う服の占める割合が大きすぎると思ったが、丸い画面がそれを強いているのかと思った。
 カサットはこの作品を気に入っていたようで「自分の最高の作品のひとつ」といっているという。母親と赤子の表情は後ろ向きのために隠されたままである。作品の中心はこちら向けの少女の寂しげな表情と視線である。
 「家族」に描かれた少女よりは幼い子どもなので、多分自分の将来に対する思い、というのではなさそうである。すると母親の愛情が注がれる下の子に対する嫉妬の表情なのだろうか。母親の左手は力が入っておらず優しげではある。だからといって3人の温かな交感を描いたとも思えない。
 この作品について「州議会議事堂の女性用待合室壁面装飾として委嘱された。しかし州政府との軋轢から作品の受渡しを取り下げ」と解説にある。どのような軋轢があったかわからない。また「議会の女性用待合室」というのが現代の私たちには馴染めないが、この絵の鑑賞には女性参政権運動の中でのさまざまな動きも考慮する必要があるのかもしれない。

 メアリー・カサットの作品は配色に工夫が感じられる。背景の色と服装の色、肌の色合い等々計算されつくしているように思う。人物の形態と視線にさまざまな仕掛けや思いがこもっているように感じられる。私なりに勝手にいろいろ想像してみたが、果たして的を得ているか、心もとない。
 もうひとつ。マリアの夫、ヨゼフが新約聖書では影が薄いように、カサットの作品には、男が登場する割合が極めて低い。カサットは姉、母親、兄夫婦とその子ども達を丹念に描き、その家族を大事にしたと聞いている。男の肖像画としては、展示されているのは兄の肖像画と美術評論家・小説家のジョージ・ムーアのみである。父親も展示されていない。カサットにとっての「家族」の像とはどのようなものだったのであろうか。


空は雲に覆われてしまった

2016年08月12日 22時30分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 私の住む団地の北側の階段踊り場で天頂から北側の空を眺めていたが、30分もしないうちに雲で覆われてしまった。天頂付近のこと座のベガだけが最後までかろうじて見えていた。団地の南側の見晴のいいところに場所を変えたが、月・土星・火星・アンタレスの4つが接近しているにも関わらず、月しか見ることが出来なかった。こちらも雲が月の周りに出ていた。
 30分間、夜に聞こえてくる音は自動車の音と、列車の音、そして南側の横浜中心部から音にならないゴーッという騒音。これらを背景に蝉の声が時々する。そして蝉が飛んで団地の建物の壁にぶつかって出す音もする。これらを聴きながら雲が増えてくる空を見上げていた。

 中学生の頃、夏休みに学校に泊り込んで、屋上で流星観測をしたことを思い出した。根岸のコンビナートの明かりが邪魔であったが、それでもかなりの流星を数えたことがある。天体望遠鏡もないクラブだったが、ワイワイと楽しかった。

 本日は流星はまったく見ることが出来なかったが、時にはこんなこともやってみるのも楽しい。


ペルセウス座流星群

2016年08月12日 21時20分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 友人宅ですっかり酔ってしまった。妻と一緒だったので横浜駅で若干の買い物に付き合ったが、スーパーのレジ横の壁にもたれながらうつらうつら。膝ががくんとなって崩れ落ちそうになること数度。バスの中でも起こされなければ終点まで眠っていたかもしれない。情けない夫を演じてしまった。
 先ほどまで寝ていて、ようやく目が覚めた。

 本日はもう頭は回転しそうもない。明日からはもう少しシャキッとしないと暑さに負けそうである。

 本日はペルセウス座流星群の極大日。21時ころが見頃らしい。アストロアーツのホームページでは「ペルセウス座流星群の母天体は、約135年周期で太陽系を巡っているスイフト・タットル彗星。現在は地球から遠く離れたところにあるが、彗星から放出された塵は彗星の軌道上に広がって分布しており、彗星と同じ軌道を運動しているので、ペルセウス座流星群の流れ星は彗星の位置に関わらず見られる」と記載されている。
 酔っぱらった目で追いかけるのは難しいが、50年前の気持ちに切り替えて一応空を見上げてみようと思う。

朝から蚊に襲われた‥石鹸水という特効薬

2016年08月12日 09時13分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝から夫婦二人が蚊に襲われている。私はセキセイインコの籠の清掃と餌・水の取り換えでいる間に手首と足首に3か所ほど。妻は洗濯物を干している間に足首を噛まれた。1匹はベランダで成仏してもらったが、大量に血を吸っていた。さらに2匹ほどが部屋に入り込んでいるらしいが、隠れてしまった。
 血を吸われた個所が肉がうすい箇所なのでとても痒い。

 いつものとおりアルカリ性の石鹸水をつけた歯ブラシでゴシゴシこすり、患部をきれいにするとともに毒を中和する。たいがいはこれで痒みと腫れはおさまる。念のため、軟膏をごく薄くひと塗り。
 蚊や蟻はこれでおさまるが、山で噛まれた虻の後は完治するまで時間がかかる。脹脛と太ももに合計8か所食われていた。本日の3か所とあわせて11か所も献血してしまった。

休養は本日まで

2016年08月11日 22時51分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝は曇り空でそれほど暑くはなかったものの、昼近くからは太陽が顔を出し、やはり暑い一日。結局8月下旬並みではあるが、30.4℃と30℃を超えた。
 本日も買い物につきあい、リュックを持って2軒のスーパーと1軒のドラッグストアとコンビニにつきあうことに。しかも残念ながらどさくさに紛れてお酒を購入することはできなかった。同じ重さでもお酒が含まれていれば軽く感じるのだが‥。

 5~6キロ位のリュックを背負いながら、往復で1万歩をとりあえずは超えた。もっとも山ではもっと重いリュックで3万6千歩であったから、楽と云えば楽である。休養は本日までとして、明日はもう少し歩いてみたい。明後日あたりからまた2万歩を目標に歩くことにしたい。
 明日は友人宅へお昼時にお邪魔しに行くことになっている。日ごろ、人のうちに押し掛けることもないが、我が家に人を招くこともない私ども夫婦である。滅多にないことなので緊張している。
 しかしいつもサンダル・半ズボン・野球帽等々ラフな格好ばかりしている。どんな服装をしたらいいのだろうか。残念ながら長いズボンではけるものがない。冬用のズボンならばあるのだが‥。困ったものである。

吉田秀和の選曲したブラームス晩年の曲

2016年08月11日 16時32分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 NHKFMで「吉田秀和が語ったブラームス - 第3回 寂しさと憧れと」を放送していた。吉田秀和(1913-2012)が1993年にFM放送で解説をしたブラームスの晩年の曲から10曲を選んでいる。交響曲第4番の第4楽章は聴きそびれてしまったが、それ以降の9曲はじっくりと聴いた。とりわけ最後のピアノ曲集である作品116~作品119から各1曲ずつを選択しているのに興味を惹かれたので、楽譜を追いかけながら聴いた。



 不思議なことにこれまで作品119の第1曲はポツポツと聴こえメロディーが浮かび上がらなかった。それでも嫌いではなかった。しかしこれを吉田秀和が選択した理由は何か、と考えながら初めて楽譜を目で追いながらこの曲と聴いてみた。不思議なことにメロディーが浮き上がってくるように聴こえてきた。自分の至らない聴き方を指摘されたような思いがした。また私の聴いたCDの演奏スタイルの問題化と心配してCDを聴いてみたが、そんなことはなかった。やはり私のこれまでの聴き方が少し雑だったと納得した。
 これは今後この4つの作品集を聴くときの大きな示唆となる選曲だったと思う。そして具体的な言葉は失念したが、ブラームスの曲の特徴として「厳格で構成的な特質と、甘いところに堕してしまう寸前でとどまっている抒情性」というような趣旨のことを指摘したように聞こえた。私のブラームス感とぴったりだと思った。私の感覚で言葉を取捨してしまったかもしれないので、そのうち吉田秀和の文庫本でも立ち読みなり、図書館で正確なところを確認してみたいと思う。

「交響曲第4番 ホ短調 作品98から第4楽章」
     (管弦楽)ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団,(指揮)ウィルヘルム・フルトヴェングラー
「クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115か  第2楽章」
               (クラリネット)カール・ライスター、(弦楽)アマデウス弦楽四重奏団
「チェロ・ソナタ 第2番 ヘ長調 作品99から 第1楽章」
           (チェロ)ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、(ピアノ)ルドルフ・ゼルキン
「弦楽五重奏曲 第2番 ト長調 作品111から 第3楽章」
                (弦楽)アマデウス弦楽四重奏団、(ビオラ)セシル・アロノヴィッツ

「幻想曲 作品116から 第4番 間奏曲 ホ長調」
                       (ピアノ)スティーブン・ビショップ・コワセヴィチ
「間奏曲 作品117から 第4番 嬰ハ短調」           (ピアノ)イヴォ・ポゴレリチ
「6つの小品 作品118から 第2番 間奏曲 イ長調         (ピアノ)ラドゥ・ルプー
「4つの小品 作品119から 第1番 間奏曲 ロ短調」
                       (ピアノ)スティーブン・ビショップ・コワセヴィチ

「4つの厳粛な歌 作品121から 第4曲」
     (バリトン)ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ、(ピアノ)ダニエル・バレンボイム
「14の子供のための民謡集から 第4曲“眠りの精(砂男)”」
                  (ソプラノ)エディット・マティス、(ピアノ)カール・エンゲル

ブラームス「8つの小品 作品76」「2つのラプソディー 作品79」

2016年08月11日 10時35分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ブラームス「8つの小品 作品76」は、4曲の間奏曲と4曲の奇想曲からなる。交響曲第2番の1年後の1878年に作られた。全8曲の初演はハンス・フォン・ビューロー。ビューローも気に入ったらしい。「ワルツ集」以来、13年ぶりであるとのこと。和声が晦渋で、内向的な後期のブラームスの入口にあたる作品といわれる。
を含む。
私は昔はあまり馴染めなかったが、今朝聴いてみたら惹かれるものがあった、第3曲間奏曲が浸みわたるように響いた。そして終曲の奇想曲が気分を引き締めてくれる。
   


 「2つのラプソディ 作品79」は、第2曲が全体的に印象的であるが、私は第2主題(「ミステリオーソ」と記されている部分)が殊に好んでいる。





ブラームス「7つの幻想曲 作品116」

2016年08月10日 20時43分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 県内の雨の区域は、まだまだ県央部で強い雨を降らしてはいるが、北から南の海上に抜けつつあるようだ。私の住んでいる横浜の中心街はほんの少しお湿り程度に降って終わったと思われる。
 我が家の団地から見える空には雲の切れ間から星が見え始めた。雷ももうなっていない。しかし大雨・洪水・雷注意報は継続している。
 【追記:22時直前に大雨・洪水注意報は解除となった】



 先ほどからブラームスのピアノの「7つの幻想小曲集」(作品116、1892)を聴いている。ブラームス59歳の作品。私はこの7つの曲が気に入っている。12年ぶりのピアノ曲集であり、続く作品117、118、119と続けて書かれた。
 よくもこれだけ性格の違う曲を丁寧に並べたのかと思う。激しい曲、静かな曲、情動的な曲、沈潜的な曲、この変化の妙に感心してしまう。決して聴きあきることの7つの小品だと思う。



またしても横浜に大雨・洪水・雷注意報

2016年08月10日 18時04分46秒 | 天気と自然災害


 さすがに暑い。一日中家に閉じこもっていようかと思ったが、やはりじっとしているのは性に合わない。一番暑い時間帯ではあったが13時ころに家を出て横浜駅界隈まで歩いた。地下街で有隣堂と家電量販店、文具店、山の用品店などを歩いて30分ほど喫茶店で読書。帰りも歩いて結局11,500歩ほど。歩いたといっても時間当たり6,000歩、時速3.8キロ程度。汗だくになるのは避けた。
 現在横浜市には大雨・洪水・雷注意報が出ている。町田市から八王子市にかけてかなり強い雨の区域がある。少しずつ横浜市の中心部に近づいているようだ。しかし雨の区域の動きは複雑である。 私の住んでいる団地では、17時半位に1回だけ大きな雷鳴がしたが、雨は降ってこない。遠くでの雷鳴が連続して鳴っている。

 本日になって6か所ほどブヨに噛まれた跡がクッキリと赤く目立つようになってきた。噛まれていたいと思ったところ2か所以外に4か所あった。痛いと感じたところは腫れも大きいし、赤い部分も大きく鮮明である。
 シャワー時に石鹸をつけて強くタオルでこすり、あとは以前医師から貰ったステロイド剤を少々。これで痒みは無くなった。後は腫れがひくのを待つだけ。
 そしてすでに鼻の頭の皮膚が剥け始めている。いつも一番先に皮が剥けるところである。

メアリー・カサット展(横浜美術館) その3

2016年08月10日 11時11分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 8月1日にこんなことを書いてみた。

1.子どもの体格が母親に比べて現実の赤子より大きく見える
2.母子とりわけ子どもの眼あるいは視線が他の画家と比べて特徴があるように見える
3.ルネサンス期に代表される聖母子像に比べて、赤子に動きがあるものが多いようだ
4.母親の手、特に手首から先が力がこもっていて逞しい

 そして2~4について述べてみた。1については、いろいろ見ているうちに子どもに焦点が当たっているとき、あるいは表現の主題が子どもの仕草にある時は子どもが大きく、逆に母親や家族に焦点がある時は子どもは現実的な質感におさまるような気がする。
 当然と云えば当然なのかもしれないが、使い分けをしていると感じた。



 掲げた作品は1893年の「果実をもぎ取ろうとする子ども」。子どもが裸というのは、聖母子像をどこかで意識しているように思える。聖母マリアの着物が赤い服と青いマントが、ピンク地の青い模様の服に変じている。だが、ここでは「智慧の実」の象徴とされてきたリンゴの実をイヴのように、しかししっかりと確信をもって子ども・赤子にもぎ取らせようとしている。イヴのように人に勧められ唆されて実を取るのではない。自分の体験を確信をもって子に伝えようとするかのようである。そこらへんに19世紀末の時代を生きた女性の生き様とメッセージがあるやに聞いている。
 最初にこの絵と対した時、母親の片側だけだが眼がとても鋭いことと、子どもを抱く母親の力のこもった左腕に気がついた。同時に左腕の肘から手首までが現実よりも湾曲していて、身体の構造上は少し無理があるように見えた。腕の湾曲は子どもの大腿部まで腕を下げると解消はするはずだが、そうすると子どもの臀部に腕が隠れて力のこもった腕が表現できなくなる。ということはこの腕の力を画家は表現したかったことになる。
 私が気に入ったのは、実を取って与えるのではなく、子どもが自分で取るように仕向けていることである。過剰な母性愛ではなく、子どもの自発を助けるという姿勢がいい。
 飛躍していえば、日本社会の「おもてなし」は誤解の上に成り立っている。現状の「おもてなし」という名の過剰サービスは、人の自主性と個性をないがしろにして、人を自分の思い通りに動かそうという発想である。そしてそれは親が子を過度に支配しようとするところまで落ちている。

横浜の最高気温は37.4℃

2016年08月09日 20時31分39秒 | 天気と自然災害
 横浜は37.4℃、東京では羽田で38.0℃という暑さの中、本日の最高気温24.8℃の桧枝岐村から帰宅した。浅草駅に17時過ぎに着く直前に列車の窓ガラスを触ってびっくり。熱い、という感じであった。浅草駅のホームについてムッとする熱気に列車の中に即座に戻りたくなった。
 東武浅草駅の7階の食堂街で早目の夕食を摂り、都営浅草線、京急線と乗り継いで横浜に帰着。ちょうど帰宅ラッシュと重なったが、品川駅の乗り換えでは始発に乗ることができ、横浜まで座って帰ることが出来た。
 横浜駅のホームの暑さにもびっくりした。横浜の本日の13時過ぎに記録した最高気温は。平年よりも6.6℃高く、観測史上最高値ということである。台風に向かって流れ込んだ南風とはいえ、やはり異常気象であることには違いない。
 温暖化というふうに言ってしまっていいのか、いろいろ議論はあるそうであるが‥。

 しばらくはこの暑さに体を慣らすのが大変そうである。明日は気温は3℃下がるというが、それでも34℃もある。