goo blog サービス終了のお知らせ 

Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本年度後期の講座

2016年08月18日 21時26分35秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 横浜では19時ころもう一度雨が降ったが、私の住むところは強い雨にはならずに済んだ。

 本日神奈川大学の本年度後期の「生涯学習・エクステンション講座」の案内が来た。半期ごとに十数科目ずつ受講して丸4年たった。平家物語の講座などまだ続いており、受講したいのはやまやまだが、取りあえず5年目は受講数を大幅に減らすことにした。10月からの半年、この5講座だけで様子を見て、来年からの受講数を再度検討することにしたい。
 とりあえず受講時間が重ならない範囲で5講座を候補とすることにした。合わせて5万円にとどかない。金額的には楽となった。問題は開いた時間をどう過ごすか、である。

 ネットでの受講申し込みは9月1日から。たぶん5講座は外れることはないと思うが、聴講受付が出来た段階でスケジュール帳への記載を行う予定。

横浜でもまた豪雨

2016年08月18日 18時52分08秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 午前中から所用で出かけていたが、強い陽射しと高い湿度に閉口した。ムッとするような中、あちこち歩き回り、かなり疲れた。500ccのウーロン茶を1本空にした。午後までかかった所用を済ませてホッとしてコーヒータイム。



 そののち山下公園から横浜駅に向かって歩いている最中の15時45分頃に大雨・洪水警報が発令された。16時過ぎには横浜北部での豪雨の予報メールが届いた。ちょうど横浜駅に着いた直後で、まもなく先も見えないほどの豪雨となった。
駅前のビルの前で雨の様子を見ていたが、雷も鳴り始めたので、喫茶店に避難した。しかし先も見えないように雨の中、制限速度を超えて繁華街を走る抜ける乗用車が幾台も通り過ぎ、背筋がぞっとした。現役の頃はこのような豪雨にあったら、路肩に寄せて停車しろと指導されたし、私も若い職員にはそのように始動した。それは上司からの指導というよりも先輩からのアドバイスとしてあり、当然のこととして誰もが受け止めていた。このような当たり前の危険回避行動、ないし事故を起こさない行動がまったく守られていないことの恐ろしさをあらためて感じた。社会の劣化というのはこのような場面でも現われるかと慄然とした。
  雨は東京湾の西岸沿いに発達し、少しずつ東から西に抜けていった。

 雨が上がってからも、横浜駅から30ほどを歩いて帰ることは断念して地下鉄で帰宅。その直後の18時半過ぎに大雨・洪水警報は解除となった。しかし雷注意報は解除されていない。昨日から雷注意報は発令されたままである。今も遠くで雷の音がしている。

蝉と虫の交代時間

2016年08月18日 09時13分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩2時ころに目が覚めて、23時ころまで盛んに鳴いていた蝉の声がしないことに気がついた。代わりに虫の声が盛んにしていた。まだまだ「虫すだく」という状態ではないが、しっかりと聞こえる。いつの時点で蝉の声が止んで、いつの時点から虫の声に切り替わったのだろうか。そんなことを考えているうちにまた寝てしまった。

 と、ここまで記載して、そういえば去年か一昨年も同じようなことを記したかもしれないと思い至った。交代時間が私が寝入る頃なのでいつまでたっても確かめることが出来ない。不思議な交代式であるようだ。人に知られてはまずい蝉と虫との協定でもあるのだろうか。わたしには知られたくない自然のおきてなのだろうか。

 さて昨日から解除されなかった雷注意報は結局そのまま継続している。そして夜中の0時30分には再度「大雨・洪水注意報」が発令された。そして明け方5時には雨がパラついた。現在は晴れて強い陽射しのもと、再び蝉の声がしている。しかし鳴いている蝉の数は昨晩ほどの数ではない。十匹に満たないと思われる蝉が、それでも堂々と鳴いている。

秋の蝉

2016年08月17日 23時26分41秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 南風が強くとても暑い一日、ようやく18時半になってようやく強風注意報は解除された。雷注意報はまだ発令されたまま。
 夜になっても蝉の声が止まず、台風前よりもかえって勢いを増したかのように鳴いている。法師蝉よりも蜩の方が圧倒的に多い。虫の声はすっかり蝉の声に押され、聞こえてこない。そして面白いことに全体として起伏がある。大きく小さく、これは秋の蝉のもつ独特の体内時計によってもたらされる時間かもしれない、と思ったが、根拠はない。

★遠き樹に眩しさ残る秋の蝉         林  翔
★秋蝉や島に古りたる神楽面         荒川優子
★たちまちに蝉の声揃ふなり         中村汀女
★茅蜩(ひぐらし)や一枚の画の夕まぐれ   石田波郷
★また微熱つくつく法師もう黙れ       川端茅舎
★かなかなに理髪師の鋏暮るるなり      石田波郷


中桐雅夫「新年前夜のための詩」

2016年08月17日 20時57分06秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日取り上げた中桐雅夫が「荒地詩集1951」に発表した「戦争」の連作12編の最後に位置する詩。私の中桐雅夫から受け取る「死」の匂いはこの詩に由来する。
 「荒地詩集1951」が復刊された1975年の夏、就職したばかりの私は、貪るようにこの詩集を読んだ。
 最後の5行「わたしは忘れ わたしは忘れ去られる/死骸が墓のなかに落ちこんでゆくやうに/わたしはわたし自身のなかに落ちてゆく/わたしの細く深い海峡のなかに/わたしの暗いあすのなかに」の意味が判らないままにも、気に入って頭の中で反芻したことをおぼえている。それほど私の学生時代はどこかに「死」の匂いがしていたと思う。「死」への馴致や憧憬、と言ってしまえば薄っぺらい。しかしそんな20代の切羽詰まった思いを引きづっていたとも云える。
 今、60代半ばを過ぎて、このような詩を思い浮かべるというのはどのようなことが脳の中で起きたのであろうか。脳内でどんな突沸が起きたのだろうか。私の意識しない脳内で何が起きているのであろうか。

 新年の前夜のための詩   中桐雅夫

最後の夜
最初の日に向ふ暗い時間
しづかに降る雪とともに
とほくの獣たちとともに在る夜
さだかならぬもの
冷たくまたあはれなすべてのもののなかに
形づくられてゆくこの夜

ちひさな不幸が窓ガラスをたたき
人間の眼は灰の悲しみに光る
最後の歌は地をおほひ
闇のなかに
聖なる瞬間はしだいに近づいてくる
死と生とが重なりあふその瞬間
「時」のなかのそのちひさな点が
われわれに襲ひかかつてくるまへに
なにかなすべきことがわれわれに残されてゐるだらうか

おお その聖なる瞬間
われわれはただ知らされるのだ
すべての偉大な言葉はすでに言ひつくされ
生の約束も死の約束の変形にすぎないことを
おお その聖なる瞬間
あすに向つて開かれたドアからは
すべての未来が流れ込み

室内は水晶と闇の光に輝く
おお その聖なる瞬間
わたしは忘れ わたしは忘れ去られる
死骸が墓のなかに落ちこんでゆくやうに
わたしはわたし自身のなかに落ちてゆく
わたしの細く深い海峡のなかに
わたしの暗いあすのなかに



ブラームス「自作主題による変奏曲」(作品21-1)

2016年08月17日 11時09分12秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 ペーター・レーゼルのブラームスピアノ独奏曲全集の3巻には、3曲収録されている。
 作品24「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」(1861、28歳)と作品35「パガニーニの主題による変奏曲」(1863、30歳)と今回取り上げる作品21-1「自作主題による変奏曲」(1857、24歳)である。
 わたしもこの第3巻は何回か聴いているはずだが、この作品21-1は印象に残っていなかった。今回このCDをかけてみて、主題の旋律におおいに惹かれた。和声を厳格に守る方法が確立されたということを聴いたことがある。15分という長い曲であるが、幾度も繰り返し聴いている。しかしどうしても最初のテーマが頭から離れない。魅力のある18小説である。


台風一過

2016年08月17日 09時54分37秒 | 天気と自然災害
 一晩中雨が続いた。時間当たり20ミリ前後の雨だったと思う。30ミリを超えると道路目冠水などの被害が出てきたり、小規模の土砂崩れなどの恐れも出てくるが、さいわいそれほどではなかった。そして朝の4時半少し前に「大雨・洪水注意報」が解除になった。以前として強風・雷注意報が発令されている。

 朝からやや西寄りの南風が強く吹いている。日ざしが強い所為だと思うが、夜の雨を伴う風と違って、今のところ爽やかさすら感じさせる葉と枝の摺れ合う音である。音の響き具合が違うのは空気中の水分の差によるのであろうか。あるい蝉の声の所為だろうか。風の音が遠くまで伝わっていくように感じる。湿度予想は75%を超えているが、もっと低いように感じている。風は強いので、飛来物など出歩きは注意が必要に思われる。

 朝7時には、横浜市から熱中症注意情報も配信された。本日の予想最高気温は35℃。これから暑さが厳しくなりそうである。


台風7号の雨と風

2016年08月16日 23時03分10秒 | 天気と自然災害

【22時43分頃のレインアイよこはまの画面より】

 横浜ではもう4時間以上前から雨が降り続いている。時間当たり20ミリ未満なので特に強い雨とは感じないが、次第に北よりの風が強くなってきている。「レインアイよこはま」の画面を見ると千葉県の太平洋岸にかなり強い雨の区域があり、少しずつ西に、神奈川県の方に移ってきている。当面は雨はやみそうもない。
 雨が降り続き、虫の音も蝉の鳴き声も聞こえず、雨の音、排水溝に流れる水の音、そして大きな気をゆっくりゆする風の音がせわしない。
 次第に強くなる風の音が台風由来と知らなくとも、不安を増幅させる音である。台風の風と、そうでない風を私の頭の中でどう聞き分けているのかはわからない。本能的なものなのか、いつの間にか経験で身につけた危機管理能力なのか、何とも言えない。経験ということならば、山行か、はたまた仕事で災害対応をする中で身につけたか、どちらかだと思う。

 横浜には朝6時から「雷・強風」注意報が出ており、16時過ぎに「大雨・洪水注意報」が出ている。まだ警報は出ていない。


世の中の消費の動向はとても悲観的

2016年08月16日 17時20分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 台風7号の影響で14時過ぎから断続的に雨が降っている。先ほど家に着いた途端に3回目の雨が激しく降ってきた。強い雨はすぐにおさまったものの湿度が高く、シャワーを浴びてもすぐに肌がべとつくようだ。今晩から明日にかけて台風7号の雨と風が強まるという予報になっている。被害がない程度に北関東に一定の雨が降ってもらいたい気がする。

 さて、昨日は夏用のサンダルを買い換えた。すでに夏用の靴は20%引きということであったが、もっとも気に入ったデザインのもののサイズはSとLLしかない。肝心のLサイズがあるのは2番目に気に入ったもの。やむやくそれを購入した。2900円の2割引き。さらに衣料品は5%引き、また下取りがあるとさらに5%引きということで、合計3割引きとなった。2900円×0.7×1.08=2192円という価格になった。
 しかしイチロー選手が履いたスパイクならば買い手もあろうが、私が履きつぶしたサンダルを有料の145円という価格で下取りすると聞いて、妻と思わず声を出して笑ってしまった。

 売れ残りを少しでも捌いてしまいたいということなのだろうが、何とも不思議な気分である。サンダルから日本経済を見通すことなどできないのは分っている。だが景気が到底回復しているとは云えない状況であることくらいはわかる。消費者の財布の紐はとても固くしまったままであることが垣間見える。回復の見通しも、期待も、どこにもない状況である。
 こんな経済対策や雇用状況を継続していても明るい話題などどこにも浮かんでこない。誰もが今の経済政策など信用していないと思う。儚い期待を現政権に賭けるのか、経済対策が具体的に示すことのできない野党に夢を賭けるのか、先の見通しのない選択を強引に迫られているような気分である。

一本の鉛筆

2016年08月16日 11時05分16秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ブログ「時には本の話でも・・・」【http://blog.goo.ne.jp/mnmymkym】では毎年のように次の詩が掲げられる。今年は夏休みということで、掲げられていないのでこちらのブログで取り上げてみる。
 1974年の広島平和音楽祭で美空ひばりが歌い、シングル版を発売している。

一本の鉛筆 【作詞】松山善三  【作曲】佐藤 勝

1.あなたに 聞いてもらいたい
  あなたに 読んでもらいたい
  あなたに 歌ってもらいたい
  あなたに 信じてもらいたい
  一本の鉛筆があれば
  私は あなたへの愛を書く
  一本の鉛筆があれば
  戦争はいやだと 私は書く

2.あなたに 愛をおくりたい
  あなたに 夢をおくりたい
  あなたに 春をおくりたい
  あなたに 世界をおくりたい
  一枚のザラ紙があれば
  私は子どもが欲しいと書く
  一枚のザラ紙があれば
  あなたを返してと 私は書く

  一本の鉛筆があれば
  八月六日の朝と書く
  一本の鉛筆があれば
  人間のいのちと 私は書く


⇒美空ひばりのステージ【http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=%E4%B8%80%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%9B%E7%AD%86&tid=3b40e2e35cb099cde253bb30f70778de&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1

虫の音

2016年08月16日 09時19分59秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 今年初めての虫の声を一昨日の夜に聞いた。私の住む号棟の北側からたった1匹の鳴き声が21時頃に聞こえてきた。むろんもっと前から鳴いていたのかもしれない。私が気がつかなかっただけのことだと思う。そして何という虫なのかはわからない。
 そして蝉が時々ひとこえ鳴いてすぐにおさまる。秋の虫の声と、蜩の一声と、ともに消え入るように聞こえてきた。
 一昨日よりも昨日の方がさらにはっきり聞こえた。ただし鳴いているのはたった3匹らしい。コオロギとスズムシと思われる。着実に秋に突入している。

★かなかなと鳴きまた人を悲します    倉田紘文
★かなかなや森は鋼のくらさ持ち     深見けん二
★ねむれざる虫の夜は如何に過ごしけむ  石田波郷
★虫鳴けりそこらの畳なほあつき     加藤楸邨
★ポストの蓋開けて虫の音差し出しぬ   福井正二

8月15日の句

2016年08月15日 22時02分32秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 朝に引き続いてフォーレのレクイエムを聴いている。しかし何という美しい曲なのだろう。モーツアルトのレクイエムもいいし、好きである。だが、このフォーレのレクイエムの美しさは違う。長い人生の経験を積んで身につけることのできる抑制された感情というものが、匂ってくるような世界である。モーツアルトの音楽が持つ華やかな印象は見当たらない。だが、フォーレ自身が「死への子守唄」と表現したという。

 8月15日の終戦の日、敗戦日の句を探してみた。終戦日が圧倒的に多いのかとおもっていたら敗戦日の句の方が多い位である。私の感覚では最近は無意識に「終戦」という言葉が当たり前のように使われていまいか。戦争体験者にとっては「敗戦」の意識の方が継用と思うがどうだろうか。
 また「終戦忌」「敗戦忌」という使い方も多い。亡くなった方を思う意味合いが強くなる。亡くなった日すらわからない方が圧倒的に多い中、あるいは出征地から戻らなかった方々の享年をこの8月15日としたという話も昔はたくさん聞いたことがある。

★敗戦日少年に川いまも流れ        矢島渚男
★割箸の割れのささくれ敗戦忌       辻田克巳
★敗戦日空が容れざるものあらず      石田波郷
★武運長久といふ幻や敗戦日        田中聖夫
★喉もとの小骨のとれず敗戦忌       近藤酔舟
★シーサーのじつとみつめる終戦日     宮崎幸子
★海中(わたなか)の貝のつぶやき敗戦忌  諸岡孝子
★敗戦忌別れを重ね生きのびて       北さとり
★大いなる夕日脳裏に終戦忌        板垣峰水


伊藤若冲「箒に狗子図」と「仔犬に箒図」

2016年08月15日 19時41分40秒 | 読書
   

 緑の箒の図が「箒に狗子図」、水墨画の方が「仔犬に箒図」。ともに作品の描かれた年の特定は出来ていないようである。
 「若冲と蕪村展」(2015年、サントリー美術館)の図録より。

 まず私は水墨画の方を見て、不思議な作品だと思った。ケチをつけるつもりはないが、立体感がおかしい。仔犬の後ろ脚とお尻に注目してほしい。お尻を持ち上げている。そして頭は箒の上に載せている。載せているからには頭は箒の棕梠の先を地面に敷く感じでなければならない。しかし棕梠が折り曲げられて地面に敷かれているようには見えない。箒の棕梠が向かって左だけ異様に長い。
 それは彩色画の方の狗子の方の作品についても云える。水墨画よりは姿勢はおかしくないし、立体感も下に敷いている棕梠の部分を除けばそれほど違和感はない。それでも箒の左だけが異様に長い。
 若冲の作品にしてはそのような立体感の違和が強すぎると思って、敬遠してきた。今も思いは変わらない。

 解説によると、彩色画の棕梠箒と仔犬の取り合わせは、箒=帚(ははき)から「はは=母」に掛けて、母に寄り添う仔犬の安心しきった様をあらわしているとのことである。賛はそれに基づいて「そへさする はゝきなるかや おそはれす いぬの子いぬの子 よくねいりたり」という狂歌であるとのこと。
 一方水墨画の方の箒は、同じ棕梠箒であるが、古来の伝統により寒山を連想させるものとして使われ、狗子は「狗子無仏性説」に基づく題材として解説されている。その当否は分らないが、賛はそれに基づくものであるらしい。「狗子無仏性説」はネットでいろいろ調べたが、私の頭では理解できない議論であるし、作品との関連もよく理解できない。

 しかしそのようなこととは別に現代の私たちはこの作品からどのような感銘を受けるのだろうか。「可愛い」というだけのものであればそのようなものはいくらでもある。しかも「可愛い」という価値は私にとっては理解できない範疇にある。仔犬の表情は彩色画の方は後ろ向きであり、水墨画の方は現実の犬からは程遠い。ふっくらとした体形は現実感がない。
 気にはなるが、それが何に由来するものなのか、このような絵画の感銘の根拠は何なのか、いつもわからないまま、頭から離れない作品であることだけは確かである。このような作品は他の画家にもいくつもあるが、若冲だからこそ、この種の作品を描いたことが気にかかる。
 私の感銘や感覚の在り方が多くの方と交わらないところが多々あることに、いつも私は引け目を感じて生きてきた。そのことがいつも私の頭の片隅に消えることなく居座っている。

71年目の8月15日

2016年08月15日 11時19分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 本日は1931年9月18日の柳条湖事件に始まる足掛け15年に及ぶ戦争状態が、天皇による日本の無条件降伏受入れ表明に至った1945年8月15日から71年目である。もっとも戦争状態は日清戦争以来絶えることが無かった他国への軍事的支配の野望から50年戦争という呼び方もあるという。
 私は日と米豪英の戦争だけを前提とした太平洋戦争ということばや、無条件降伏・敗戦ということを前提としない「終戦」ということばは使いたくない。もっとも日中戦争に端を発した東アジア・南アジア・北アジア・太平洋各地域・各国を戦場とした戦争という長い名前しか思い浮かばない。
 戦争は国家という機構が国民を動員して仕掛けるものである。国家には勝敗はあるかもしれないが、戦わされた国民にとっては勝者も敗者もない。あるのは破壊と無惨な死と、癒しきれない無念と怨念であると思う。犠牲になった人命をどう追悼するか、戦争後の国家の在り様が鋭く問われている。そして戦争をさまざまなに体験した政治家が小泉政権を支えたチルドレンたちによって放逐されて以降、戦争に対する箍が政治から、国会から外れてしまったと思う。

 さて本日71年目の8月15日、フォーレのレクイエムを聴きながら次の詩を読んだ。

  戦 争
          中桐雅夫

砂にまみれた人間の眼、
無限に伸びる赤い糸、
熔けてゆく金属、うすく開いた眼、
半裸の女、
世界の端で、
それらを僕は見たやうに思つた。

ゴムの葉が裂けとび、
僕らは夢中で走つた、
僕らは狂つた、
右手の人差指が僕の意志にはんしてぴくつと曲がり、
君の姿は消えてしまつた、
僕は君を殺したのだ。

僕の指と君の心臓とをつないだちひさな鉛の塊り、
ちひさな歯、ちひさな足、すべてのちひさなもの、
世界の端で、
それらを僕は見たやうに思つた。
だか、ピイタア!
なぜ君は、君を殺した僕に微笑みかけるのか。

とほいところから、
飴のやうに流れてくる、
ためらいながら近寄つてくる友よ、
君の名がヘンリイだつたか、
あるひはまた、ロバアツだつたか、僕は知らない、
だが、友を殺した僕を、君はどうして咎めないのか。

かつては美しいと思つてゐた国に、
僕らはやつと帰つてきた。
僕の軍靴はやはり泥にまみれて、
いま、東京の穴だらけの舗道を踏んでゐるが、
君はどこで咳いてゐるのが、
どこで血のチィズをなめてゐるのか。

だが、君には見えるだらう、
友を殺したあはれな男が、
世界の端で、土竜のやうに匍ひまはつてゐるのが。
そして君はわかつてくれるだらう、
生き残つて、行きつづけるといふことが、
死よりももつと苦しいことを。


 この詩は「荒地詩集1951」におさめられている「戦争」という12編の詩(「弔詞(シドニイ・キイズに)」「戦争」「終末」「過去」「白日」「幹の姿勢」「一九四五年秋Ⅰ」「一九四五年秋Ⅱ」「禿山の一夜」「鉛の腕」「合唱」「新年前夜のための詩」)をまとめたもの連作のふたつ目にある。「一九四五年秋Ⅱ」は以前に取り上げた。
 最後の詩で戦争が終わって4か月後の大晦日に詩人は

死骸が墓のなかに落ちこんでゆくやうに
わたしはわたし自身のなかに落ちてゆく
わたしの細く深い海峡のなかに
わたしの暗いあすのなかに


とこの一連の詩を結んでいる。中桐雅夫の戦後は戦争体験の対象化との格闘の開始である。何事もここが出発点である。このことは私もいつも忘れたことはない。

 この「荒地詩集1951」の巻頭言は鮎川信夫の「Xへの献辞」である。そこには「親愛なるX‥‥」ではじまる現代における詩の役割について読者に呼びかけるように書かれている。
 これについてはいつか触れることもしたい。戦後の現代詩の出発点というよりも戦後精神の出発点として魅力ある文章である。

まだまだ認知されていない「濱ともカード」

2016年08月14日 23時21分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 65歳以上の横浜市民限定の「濱ともカード」【こちら】を昨日初めて飲食店で使ってみた。まずは目当ての店に行ったら、その店が亡くなっている。以前幾度か利用したし、このカードを提示して割引をしてもらおうと思ったが、店は閉店したようで、他の店に変わっていた。この情報がホームページにも冊子にも反映されていなかった。
 やむなく同じビルの他の店に入った。ここも登録されていて冊子にも掲載されている店である。ところが、店員は濱ともカードについてまったく認識がない。一応店に入る前にレジで店員に「濱ともカードの割引は効くの」と聞いたら、「?」であった。
 カードだけでなく、スマホで割引店の店の名を提示しても「?」と頸を傾げる始末。レジ横にある店専用のパソコンでいろいろ検索しているが該当のことが表現されていないらしい。最終的には私の提示したスマホの画面を見て、そのとおりの割引をしてもらった。しかしどうもまだ「濱ともカード」というものがサービスを提供する施設にもまだまだ浸透していないようである。店の会計システムにも反映されていないようだ。
 この分だと、店を利用する前にあらかじめ確認してから入店ないし購入をした方がいいようだ。

 実は本日も「戦場に輝くベガ」のライブと上映会終了後、居酒屋を訪れたが、店が開いていない。登録してある情報では日曜も開店しているはずなのだが、店の扉には「8月からは日曜は閉店とします」と張り紙があった。その情報もスマホにも冊子にも反映されていない。
 「濱ともカード」の割引は嬉しいのだが、制度そのものが浸透していない、ということなのであろう。

 今週一週間も特に予定がない。講座もない。土曜日の午前中に退職者会の企画バス旅行の説明会、午後に団地の管理組合の諮問機関の会議が入っている。
 退職者会の格安企画旅行は、9月5日から7日の「世界遺産の旅、熊野古道と伊勢路」。一応熊野古道を若干歩くことになってはいるが、それほどの距離ではない。

 さて、夏の間毎日履いているサンダルが破損した。踵をすっぽり覆ってくれるスポーツサンダルに近いものである。作業服専門の店でワゴンに入って1500円で購入したが、意外と長持ちした。講座に出席したり、都内の美術館にも今はこれでいっている。街中の軽いウォーキングでもこれを履くことがある。同じものを探しているがなかなか見つからない。メーカー品ならば1万円するらしい。しかしそこまでは出せないが、せめて3000円位までで購入したいと思っている。
 明日はそれを本気で探して廻りたい。