Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「眼の神殿」(北澤憲昭)より

2021年03月05日 21時43分23秒 | 読書

 ウォーキングに出かけたが、いつもいくJRの駅近くの喫茶店は3件とも満員、横浜駅外周のいつもの喫茶店も満員ということで、あきらめて公園のベンチで休憩。
 ところが途中で雨が降り始めてきた。天気予報どおりであった。さいわいごく弱い雨のため、携帯用の小さな傘で帰路についた。歩いている間に雨は上がった。少し遠回りをして帰宅。1万4千歩ほどであった。

   

 帰宅後はブログにアップした記事の修正などをしてから、「眼の神殿」(北澤憲昭)の第3章「「美術」の制度化の第5節「美術という神殿――「美術」をろめぐる諸制度と国家の機軸」を読了。
 残るは第6節「パンドラの匣――空虚という名の希望」と終章、ならびにあとがきと解説だけとなった。

「美術学校設立の準備は、図画調査会以降、多少の紆余曲折を経たとはいえ天心-フェノロサ路線に沿ってすすめられてゆき、やがて国粋主義的カリキュラムによる官立美術学校が大日本憲法発布と時を同じくして開校されることとなる。この学校は、教育の場において「美術」と伝統を結びつけることによって、「美術」の制度性に慣習の自然性を与えるという国粋主義の歴史的役割を大きく担うことになるのであるが、「美術」の制度化ということに関して開校まもないころの東京美術学校でこのほかに注目んされるのは、第一にその校名であり、第二に開校の翌年から天心が行った日本美術史の講義である。」

「美術の起源を隠蔽するフィクションというならば「日本美術史」という存在は、そのさいたるものというべきだろうか。日本美術史は、おおむね「美術」概念の起源に触れることなく、「美術」を超歴史的な存在として位置づけることによって、造形の起源がそのまま美術の起源であるかのように語りだされるのを常としているからである。このような日本美術史の最初の試みは、東京美術学校において岡倉天心によって行われたのであった。」

「明治二二年二月一一日に、憲法発布の式典が、その前年に完成した新宮殿において行われた。新宮殿という明治美術史の記念碑的作品において、明治国家という伊藤博文の傑作が発表されることとなったのである。‥こうして大日本帝国憲法を荘厳(しょうごん)するかのように、同じ年に東京美術学校が開校され、帝国博物館が設置され、雑誌「国華」が創刊され、その翌年には、帝室技芸員制度が制定され、岡倉天心による日本美術史の講義が行われたのであった。美術をめぐる制度の整備は、こうしてにわかに大詰めを迎える糊塗となった‥。‥美術を国民国家の「機軸」に位置づけることにほかならず、美術はこうして日本のアイデンティティと重ね合わされることとなったのだった。美術は近代日本国家の精神的「機軸」として、国家の神殿のごときものとなったのである。」



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