Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

減量を申し渡される

2024年06月14日 21時19分25秒 | 病い

 本日は午前中は歯医者、午後からはいつもの内科に通院。
 歯医者は本日で治療完了。被せていたものが取れてしまったものの復元1本、小さな虫歯になりかけの6本の歯の治療、スクリーニングが終了した。復元の歯以外の治療は特に小さな虫食いのあとの治療だったようだ。5年くらい見てもらっていなかった割には悪くはなっていなかったらしいが、もっと早めに点検してもらったほうが良いようだ。

 そして午後の内科では次回の4週間後までの減量を強く申し渡された。このままでは新たな治療を開始しなくてはいけない、というきついお達し。確かにかなり体重が増えすぎている。
 夏なのでいい機会である。また膝の調子も今のところなんとか上々なので、運動と減食に心掛けなくてはいけなくなった。減量は20代から幾度も成功しているが、成功の鍵は「気力」。
 50代半ばまでは60キロ台前半の体重を維持したものの、気力が減退した60代以降、放置していたのがいけなかったようだ。退職者会での飲み会での飲食は良くないと判ってはいるが自重できるだろうか。果たして今回はうまくいくだろうか。


「老いの深み」から

2024年06月14日 20時29分25秒 | 読書

 「老いの深み」(黒井千次)の10編ほどに目を通した。

日々の暮らしの中で、失敗することが俄かに多くなった・・。(緑内障で)一方の眼しか見えなくなると、手もとの遠近の感覚が衰え、モノの奥行きがなくなる。急に単眼状態になると奥行の感覚が狂うのは仕方がないとしても、(以前のように)それを補う立体感がいつまで経っても戻って来ない。・・・・(幼児にとって)転ぶことは歩いたり走ったりする準備活動であり、避けて通れぬ門である。年寄りの転倒は加熱のカッカなのだ。成長期の子供は未来に向けて転ぶのであり、老人は終わりにに向かって転ぶのだ。食事の折、背の高い器はきっと手にひっかけてテーブルから落とすぞ、と予感が走る。予感が的中すると満足を覚える。」(「老人にとって失敗とは」)

 最後の結論の文章がいい。ここまで「自分が老人であること」を客観視し、その状態を達観して楽しむ境地、なかなかいい。実際には「テーブルから落とす」ことはなくともその想像力を楽しむゆとりを持ちたいものであるる

居眠りは年寄りの視線なのであり、生きていることの表現なのである。年寄りとは膨大な量の居眠りを背負って生きている人々のことだ。(居眠りの)背後に見えないまま隠されている膨大な月日は、日常的には気づかぬことがあっても、時にはあらためてその時間の袋のようなものに対決してみる必要がある。」(「居眠りは年寄りの自然」)

手にしている物を落とすことが多くなった。幹事としては〈落とす〉という他動詞より、〈落ちる〉という自動詞のほうがよりふさわしいように思われる。・・これは自然現象ではなく、手や指先の不注意な動作によって発生した自己であるとして当の本人の気のユルミや振る舞いの粗暴さが責められる。さかのぼって原因を究明してはいけない。老いたる当事者としては、身を縮めてその場から遠ざかるのが賢明である。」(「いずれ手放す、その時まで」)

 ここまで茶目っ気のある生きかた、そういう生きかたができる作者がうらやましいと思う。こういう歳の撮り方をしたいものである。ただしこの一編の「手放し」てしまったたものは意味深である。