Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「老いの深み」から

2024年06月14日 20時29分25秒 | 読書

 「老いの深み」(黒井千次)の10編ほどに目を通した。

日々の暮らしの中で、失敗することが俄かに多くなった・・。(緑内障で)一方の眼しか見えなくなると、手もとの遠近の感覚が衰え、モノの奥行きがなくなる。急に単眼状態になると奥行の感覚が狂うのは仕方がないとしても、(以前のように)それを補う立体感がいつまで経っても戻って来ない。・・・・(幼児にとって)転ぶことは歩いたり走ったりする準備活動であり、避けて通れぬ門である。年寄りの転倒は加熱のカッカなのだ。成長期の子供は未来に向けて転ぶのであり、老人は終わりにに向かって転ぶのだ。食事の折、背の高い器はきっと手にひっかけてテーブルから落とすぞ、と予感が走る。予感が的中すると満足を覚える。」(「老人にとって失敗とは」)

 最後の結論の文章がいい。ここまで「自分が老人であること」を客観視し、その状態を達観して楽しむ境地、なかなかいい。実際には「テーブルから落とす」ことはなくともその想像力を楽しむゆとりを持ちたいものであるる

居眠りは年寄りの視線なのであり、生きていることの表現なのである。年寄りとは膨大な量の居眠りを背負って生きている人々のことだ。(居眠りの)背後に見えないまま隠されている膨大な月日は、日常的には気づかぬことがあっても、時にはあらためてその時間の袋のようなものに対決してみる必要がある。」(「居眠りは年寄りの自然」)

手にしている物を落とすことが多くなった。幹事としては〈落とす〉という他動詞より、〈落ちる〉という自動詞のほうがよりふさわしいように思われる。・・これは自然現象ではなく、手や指先の不注意な動作によって発生した自己であるとして当の本人の気のユルミや振る舞いの粗暴さが責められる。さかのぼって原因を究明してはいけない。老いたる当事者としては、身を縮めてその場から遠ざかるのが賢明である。」(「いずれ手放す、その時まで」)

 ここまで茶目っ気のある生きかた、そういう生きかたができる作者がうらやましいと思う。こういう歳の撮り方をしたいものである。ただしこの一編の「手放し」てしまったたものは意味深である。



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