Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

三度ドビュッシーに挑戦

2024年05月31日 21時50分13秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 喫茶店での読書タイムののち、いつものように有隣堂の店内を一巡してから、徒歩にてフラワー緑道をとおり、近くの私鉄の駅までウォーキング。
 北風で半袖のポロシャツでは涼しいくらいだったが、歩いているうちにかなり汗ばんできた。しかし途中で少し雨がパラついてきたので、バスにて帰宅。傘をリュックに忍ばせるのを忘れていた。バスは空いていた。

 夜は、ドビュッシーの「前奏曲第1巻」と「子供の領分」外が収録されているCDを引っ張り出してきた。演奏はミシェル・ベロフ。
 ドビュッシーの曲を少しでも身近なものにしようという試みの一つであるが、どうも成功しそうにない。
 しかし静かな曲は少し馴染みができそうな気がしてきた。感想にならない感想は後日掲載予定。
 


「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)  5

2024年05月31日 20時58分22秒 | 読書

 髭剃り(シェーバー)を購入後、喫茶店で一服。妻は食料品などの買い物へ。私はしばらく喫茶店で読書。

   

 「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)の第4章「裸体への視線 自然な裸体から性的身体へ」を読了。第2節以降、駆け足で「現在抵抗なく受け入れられているヌードが定着するまでの近代日本のヌード芸術家たちの困難な歩みを振り返って」いる。
 他にも気になった部分もあるが、とりあえず2個所、私なりに同意できた個所から。

裸体モデルや、現実の日本人モデルをどのように造形化するかという問題は、戦後、日本人の体形がすっかり欧米化し、・・・極端なデフォルメも前衛思想も必要なくなったのだが、裸体を描くときに西洋人風に修正していまう癖は完全には払拭できていないように見える。戦後、ヌードの舞台は絵画や彫刻よりも写真に移ったため、絵画や彫刻での試みはもはや時代遅れのようになって注目されなくなった・・。

(荒木経惟は)、女性の肉体だけを撮るのではなく、モデルの生活臭や人生の哀感を漂わせたり、・・女性の人間性をともに写しているように見える。・・写真家との個人的な関係が見えて部外者に追いやられるためであり、モデルの女性の〈個〉が見えてしまって感情移入ができないからであろう。精神や人格の分離した肉体ではなく、日本的な心身一体の「身」の表象となっている。

 


シェーバー 生涯最後?の買換え

2024年05月31日 12時28分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩からの雨はあがり、ずいぶんと明るくなった。しかし夜にはふたたび雨のマークがついている。大雨注意報は継続しているが、雷注意報は解除。

 午前中の歯医者は短時間で終了。1日で1本の歯の治療が終わる。次回の予約も週明けの月曜日。何年かぶりの歯医者通いなので、治療すべき歯が多くなってしまった。その割には治療すべき歯の本数は少なくてすんでいる。普段のメンテナンスがいいのか、歯が丈夫かどちらかなのだろうと勝手に思いこんでいる。

 午後はふたりで買い物のため横浜駅へ。クーラーの買換えで手にした横浜市のエコポイントの残りを使って、髭剃り(シェーバー)を購入することにした。丸9年使った髭剃り、そろそろ買換えかもしれないとは考えていた。まだ動くのだが、ここ数年1回で充電が消耗してしまうようになった。
 使えなくなる前に買い替えるのは初めてのこと。今度買い換えたら、生涯最後の買換えとなるのではないか、と思っている。