Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)  3

2024年05月24日 20時20分50秒 | 読書

 いつもの喫茶店に行ったものの、本日も短時間の読書。「日本の裸体芸術」の第2章を読み終わった。
 19日に引用する予定個所が抜けていた。

裸体でいることが多いという習慣や、日本人の精神と肉体を二分して考えない身体観が底流にあったため、あえて裸体を取り上げて鑑賞するという視点や発想がなかった。裸体をことさらに造形芸術の主題にしようなどとしなかったのは当然であろう。人物を描写するときには、文字においても絵画においても、体形やプロポーションなどよりも衣装の美が強調されるのが常であった。そもそも日本の造形伝統には、肉体を顕示するような表現がなかった。ほとんどの場合、人物は衣をつけた姿で表されたが、このほうが自然である。私たちがある人物を想定する場合、その人物の裸体を思い浮かべるのではなく、衣装をまとった姿を想起するのが普通である。むしろ裸体人物を飽くことなく表現してきた西洋のほうが特殊である。」(第1章 第2節「江戸の淫靡な裸体表現」)

 「裸体でいることが多い」「精神と肉体を二分して考えない身体観が底流」というのは魅力はありつつも、言い切ってしまうのは保留したくなる。あくまでも「裸体をことさらに造形芸術の主題にしようなどとしなかった」ことの根拠や背景を私は知りたい。
 古代のギリシャ文明、中世・近世のヨーロッパの庶民・下層民の生活様式との比較ももう少し具体的な究明が欲しいのは欲張りだろうか。また支配層の生活様式と意識の比較も必要なのだろう。
 ここはあくまでも私のこだわりなので、引き続き私なりのアプローチは続けたい。


桜の実

2024年05月24日 10時54分26秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★職なくて実桜のもと握り飯       庄司 猛
★見上げれば揺れはそれぞれ桜の実     々

 近くの私鉄の駅と駅の間に細長い公園がある。鉄道が地下化されたのに伴い、以前の鉄道敷が公園として整備され、四季折々にさまざまな花が咲くようになった。
 公園のベンチの昼時には、近くの職場の勤め人やら、近所のお年寄りの憩いの場となる。年寄りも、現役の勤め人も弁当を広げたり、近くの店で購入したものをのんびりと口にする。
 私も退職した直後の数か月、お握りを持参したり購入したりして、ベンチでのんびり桜の木の葉越しに青い空を見上げるのが楽しみであった。仕事から離れたくて退職後の再雇用は辞退し、「さて何をするか」と考えていた。
 高齢者ばかりか、若い現役の年代の人もいったん職を離れると再就職が厳しいのは、いつの時代でも同じ。そういう風に厳しい局面で公園のベンチで時間を過ごす人も多い。私などのようにちょっとだけゆとりをもって握り飯を口にする人もいる。若く明るい声を立てている人もいる。赤子の乳母車を押す母親もいる。
 生活の実態はさまざまでも、この昼時のひとときははた目から見れば各自平等である。胃を満たす行為と、目に映る桜の実の光景は同じ。しかし各自の内面も、振る舞いもそれぞれの超し方を反映している。
 桜の実に注目するようになったのは、そんな時期であった。そして桜の実のほとんどは熟して地面に落ちることはない。たいていは落ちる前に鳥がありがたくいただいてしまう。種は鳥の糞として地面に落ちる。