Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

懐かしい道と公園を散歩

2020年11月21日 22時55分26秒 | 山行・旅行・散策

 二人で3時間ほどかけて二つの公園と、住宅街の散策を敢行。約1万歩をゆっりと歩いた。初めの公園は戸建ての高級住宅地がならぶ丘の上の小さな神奈川県管理の公園。がけ地にとても太い松や桜が並び、うっそうとした雰囲気。上り下りのきつい坂を一周。途中でフルートを吹いているカップルなどがいたり、私どもより少し上の年代の夫婦がカメラを持って歩いていたり、静かだが落ち着いた雰囲気。
 続けて住宅地を歩いて、次の市の管理する広い公園では小さなこどもを連れた家族連れが多数、賑やかであった。自販機のお茶を飲みながらしばらく子供たちを眺めていた。感染拡大でもあり、遠出を控えた家族連れが多かったと思う。



 私どもの子どもが小学校に入る前に、土曜・日曜によく連れてきて遊ばせた公園である。当時と何も変わっていない。子どもは変な遊具などなくとも、広い芝地があれば、体を目いっぱい使って楽しんで遊ぶ。懐かしかった。
 休憩後、農専区域のキャベツ畑や人参畑の中を通り抜けて帰宅。ここは公園に行くために子どもを連れて自転車で通った道である。
 


横浜美術館「トライアローグ展」 その1

2020年11月21日 21時18分49秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

         

 ここに掲げた4つの作品は、パブロ・ピカソの肖像画で、会場に入ってすぐの所に掲げられている。左から「青い肩かけの女」(1902、愛知県美術館)、「肘かけ椅子の女」(1923、富山県美術館)、「肘かけ椅子で眠る女」(1927、横浜美術館)、「座る女」(1960、富山県美術館)である。
 図録などではいづれも見たことはあるが、実際に目にするのは、横浜美術館所蔵の「肘かけ椅子で眠る女」だけだと思う。ひょっとしたら「青い肩かけの女」と「座る女」はどこかの展覧会で見たかもしれないが、具体的なことは記憶にない。
 多くの肖像画を描いたピカソであるが、今回、この4作品だけでも私は大いに満足である。
 解説はところどころ意味不明の個所もあるのが不満である。しかし面白い指摘もあった。この4点について「《青い肩かけの女》のモデルは不明ですが、パリやバルセロナで目にした社会から疎外された人々が想像され、ピカソの不安な心理状態が垣間見えます。《肘かけ椅子の女》もまたモデルは不明ですが、オルガと結婚して子どもも生まれ、生涯のなかでも穏やか時期であったことがうかがえます。《肘かけ椅子で眠る女》は、愛人マリー=テレーズがそのモデルと目されますが、オルガとの険悪な関係のなかで変化していったといわれる奇怪な人物表現が目を引きます。そして晩年の作品である《座る女》もまた極度に変形されていますが、2番目の妻となるジャクリーヌがモデルとなっています。ピカソ芸術はその個人史と密接な関係があり、ピカソをめぐる複雑な人間模様を知ることで、作品がより一層興味深く感じられる‥」(遠藤良平(富山県美術館))と記している。
 前段の「ピカソの不安な心理状態」という表現は何を意味しているのか、理解に苦しむが、後段の「個人史と密接な関係があり、ピカソをめぐる複雑な人間模様を知ることで‥」は、当たり前といえばそれまでだが、しかし今後ピカソの作品を見る機会がある度に思い出しておきたい指摘であるとおもう。
 妻や愛人との緊張関係、この緊張関係がピカソにとっては次第になくてはならないものとなり、それがもとでまた新たな男女関係に向かうという心理がピカソに働いていた、というのは納得できる指摘である。緊張関係が創作にとって欠かせないものとなったのではないか。

 私はピカソの「青の時代」の作品は多くは知らないが、いづれもとても気に入っている。大胆なことを言わせてもらうと、男女を問わず、ルオーの描く「キリスト」を思い浮かべてしまう。うつむいてじっと何かを見つめる穏やかな視線に私はいつも惹かれる。
 彼女や彼らが背負っているものとの共感関係を模索しようとする姿勢を感じる。彼女や彼らがピカソにとっても、ルオーにとっても、社会との関係を取り結ぶ契機であり、もっとも身近な他者であったのだと思う。その人々との関係が自分の貧しさと自分の将来への不安の「救い」であったのだと理解している。

 「青春」というのは、明るい未来にあるのではなく、自分が共感できる他者の発見であり、その人々へ寄り添おうとする意志であり、さらにその共感によって予測される将来に対する自己の不安を見つめることである、と50年前の混乱の社会の中で私なりにたどり着いた。
 「青の時代」のピカソの作品やルオーのキリスト像を見るたびに私は当時の自分を思い出す。

   

 今回は、さらにパウル・クレーの作品が5点展示されている。「油彩転写」の3作品はすでに実際に見た記憶もあるので省略。私がこれまで実際に見た記憶のない2作品が新鮮であった。
 左から「女の館」(1921)と「回心した女の堕落」(1939)でいづれも愛知県美術館所蔵。

 クレー作品の題名はいつも不思議なものでほとんど理解できないものが多いことも事実であるし、「女」というのもクレーにとっては何か重大な暗喩なのか、と思われるが私にはいまだよくわからない。クレーの作品は、いづれも題名にとらわれずに鑑賞することにしている。
 「女の館」は暗い色調であるものの、黒ずんだ丸や三日月形の赤と、薄い緑の丸、微かで不定形にも見える青い四角、黄色味がかったピラミッド型などが八の字のように末広がりで点在している。色彩の響き合いやグラデーションにこだわった構成が私の気に入っている。
 1921年の作品である。この前年にミュンヘンで「革命的芸術家行動委員会」の委員に就任するも反革命軍に追われベルンに逃れたり、バウハウスで色彩論などの講義を始めたもののナチスの迫害が始まり、1933年にはスイスに亡命することになる。しかしこの時以降、「油彩転写」という技法を編み出し、細い線ならびに淡い色彩をバックにした作品を生み出していく。
 この作品は2011年の国立近代美術館で開催された大規模な「パウル・クレー おわらないアトリエ」の図録にも掲載されていないので、出点されていなかったと思う。多分初めて目にする。
 そして「回心した女の堕落」という作品は死の前年の作品である。解説では「タイトルは謎かけのようだが、第一次世界大戦で深手を追いながら再び戦争へと突き進む当時のドイツをそこに重ねることも可能だろう」としるしている。
 この作品、クレーらしからぬ太い輪郭線が印象的である。そして原色が厚く濃く塗りこめられている。ピカソを思い出させるような女性像である。この年、ピカソとキュビズムを始めたジョルジュ・ブラックがクレーを訪問しており、その影響かと思った。
 女性の胸の赤い十字架が真っ先に目に飛び込んできた。このロボットのような女性は言葉にならないながら何かを叫ぼうとしているようだ。どんな言葉をクレーは想定したのだろうか。想像してみたい。

 革命と戦争のなかで、緊張感あふれる生涯を終えた画家である。

      
 

 


ブログ「昭和歌謡の風景」紹介

2020年11月21日 11時37分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 私の古くからの友人のブログ「昭和歌謡の風景」が更新された。更新の頻度は高くないが、面白く拝読させてもらっている。
 11月11日にアップされた記事は「知りすぎたのね――秘密がないから、話す言葉もうつろに響く」。
 この私のブログのブックマーク一覧にもリンクを貼ってある。興味を惹かれた方はぜひ訪問ください。歌謡曲の世界と、ちょっと挑発的に述べられている。政治・社会批評がうまく結びついているか、毎回たのしみにしている。