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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ダ・ヴィンチ絵画の謎」(斎藤康弘)から 2

2018年10月18日 23時27分50秒 | 読書


 「ダ・ヴィンチ絵画の謎」(斎藤康弘、中公新書) を引続き。第7章までに取り上げられたレオナルド・ダ・ビンチの絵画は、「モナリザ」、「受胎告知」、「三王礼拝」、「聖ヒエロニムス」、「岩窟の聖母」(ロンドン・ナショナル・ギャラリーの作品)、「最後の晩餐」、「聖アンナと聖母子と子羊」及びその他各種手稿。
 この本では、レオナルド・ダ・ビンチの鏡文字による手稿が地質学関連のものであったことから議論が進められている。このようなことは初めて読んだとおもう。手稿が膨大で、さまざまな分野の事に及んでいることは流通している。イタリアにおける地質学、特に高山において複数の地層から海に生息する貝の化石が出ることによって、地球の形やノアの洪水に相当するのが複数回あったことになる、などの論考が紹介されている。
 作品解説書というよりは、地中海世界の地質学の解説書の様相である。絵画よりも地質学関係の興味がないとなかなか読み進められない。また逆にこの方面に興味があるととても刺激を受ける本である。

 「レオナルドはは最大の権威である神の言葉の前でも科学者であることをやめない。‥(レオナルドという)15世紀に登場する新しいタイプの科学者は、前世紀のスコラ学者のように権威者を引用する学殖も、緻密で抽象的な論理構築力もなかったが、その半面、過つことの無い経験に裏付けられた強烈な自信と、知的大胆さと、自由な発想力を備えていた。したがって無学なレオナルドが、その無学ゆえに全盛期の学説を熱心に学んだとしても、彼は中世の大学の講義に出席する学生のように、教師の言葉を一語一句聞き漏らすまいと、書き取って学んだわけではない。彼は自分の経験から生まれた仮設を補強してくれるかぎりにおいて、権威者の説を利用したのであって、かつての新プラトン主義的大地理論の場合と同じように、もしそれが自分の口に合わなければ、容赦なく吐き捨てたのである」(第6章)。

 この本、まだ読み終っていないが、レオナルド・ダ・ビンチの絵画の背景に描かれている山岳風景を、画家の興味のあった地質学的に解明するという点で、刺激的な本である。特に悩ましいのは、大地の隆起の力学的な原因の叙述。これが当時も、そして当時の理論を理解する現代の私たちにも難しい点である。現在では基本はプレートテクトニクス理論で解明されているが、レオナルド・ダ・ビンチの時代は15~16世紀である。



月と火星の競演

2018年10月18日 18時28分15秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日が上弦の半月、本日もほぼ半分の月である。月のすぐ左下に赤い火星が見える。先ほど外出先から戻るときに、ちょうど雲の切れ目から月と火星が顔を出した。残念ながらすぐに雲に隠れてしまった。7月末の大接近のときに比べてだいぶ暗くはなったが、まだマイナス1等級。半月の月の明るさに負けずに輝いている。関東地方南部はこれから雨も降るとのこと、多分これ以上は見ることはできない。

 本日の眼科、代診の先生ということで、視野検査の指示はなかった。いつも午前中は混雑しているが、本日は空いていて、40分ほどでいつもの視力検査・眼圧測定、診察が終了。薬局も人はひとりもおらず、すぐに薬を処方してくれた。視野検査をすると薬局とあわせて8000円くらいの支払いとなる。先月の入院費用についで大きな出費である。
 インフルエンザの予防接種は値段を調べたら、65歳以上は2300円。来週には医師と相談の上、可能ならば接種してもらうつもり。今年の始めに久しぶりにインフルエンザにかかりつらかった。

秋の風

2018年10月18日 10時51分33秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日よりもさらに雲が少なく、秋の柔らかい陽射しと適度な風が気持ちいい。台風24号の風と塩害でケヤキの葉がだいぶ少なくなってしまった。しかしこれがかえって大気の明るさを見せてくれる。ケヤキの剪定の予定はあるが、その前に風通しがよくなった。散った葉を翻す乾いた風が、音と一緒にベランダから部屋に入ってくる。小鳥の声も続いてくる。
 サクラも台風の影響で早めに葉が落ちてしまい、花が咲いているものがあると報道されていた。さっそく来年の花見は「大丈夫か」という声が出ているらしい。わずかな花でサクラ全体が来年春の開花が少なくなるほどエネルギーを使い果たすとも思えない。杞憂が多すぎる、というか、テレビ「解説者」のしたり顔・ものしり顔の「ご高説」にはあきれる。
 残念なのは、ベランダから見える紅葉が今年は葉が少なくなってしまい、楽しめないこと。

★吹きおこる秋風鶴をあゆましむ      石田波郷
★髑髏みな舌うしなへり秋の風       高橋睦郎


第一句、中学生のころ国語の先生が、B4のわら半紙に明治以降の近代俳句を目いっぱい並べて配布してくれた。どの句も気に入った。散文も韻文も気に入ったものは出来るだけ「声に出して読むこと」と「書き写すこと」を教わった。いつの間にか、気に入ったものが頭の中に自然に住み着くようになった。その住み着いた句のひとつにこの句がある。やはり釧路失言の鶴の仕草のテレビ放映の画面と重なって頭の中に住み着いている。
 第二句、これは教科書にも、教師が配布した句にも掲載はなかった。確かに髑髏それ自体は表現という行為はしない。しかし存在そのものによって雄弁にさまざまなことを語っている。それを聴くことのできる人はごくわずか。舌という当たり前のような表現手段を失っても、人は何かを語り続ける。それには「秋」の風でなければ伝わらないのだ。

 11時前に近くの眼科に行く予定。薬代で五千円札が1枚消えてしまう。月に1度とはいえ、きびしい金額である。