「俳句のユーモア」(坪内稔典、岩波現代文庫)
・「写生は俳句形式に合わない。そのために、‥どうしても無理が生じる。その無理がたとえばクローズ・アップになり、デフォルメになり、また意外な擬人化や極度の省略になったりする。写生はいわばあえて無理や普茶を引き起こし、写生という態度のまじめさをほぐしてしまう方法なのだ。」
・「この恣意性は、俳句が誰にでもたやすく作れるという手軽さの要因である。俳句の大衆性とか第二芸術的な要素だといってもよい。だが、大衆性や第二芸術的要素であるこの恣意性は、俳句という表現のなによりもの特色である。他の形式(短歌や自由詩など)にはこれほどの恣意性はない。」
前段は肯定するのだが、後段部分、あまりの恣意性は独りよがりへの道だ。「自己を開く場」としての句会を評価する云いとズレが生ずるような気もする。
森川許六が芭蕉の言葉とする「師の云、発句はとり合わせものなり、二つとり合わせて、よくとりあはすを上手と云ふなり、といへり。」が引かれているが、この後段部分「よくとりあはす」を私はよくかみしめたい。
・「写生は俳句形式に合わない。そのために、‥どうしても無理が生じる。その無理がたとえばクローズ・アップになり、デフォルメになり、また意外な擬人化や極度の省略になったりする。写生はいわばあえて無理や普茶を引き起こし、写生という態度のまじめさをほぐしてしまう方法なのだ。」
・「この恣意性は、俳句が誰にでもたやすく作れるという手軽さの要因である。俳句の大衆性とか第二芸術的な要素だといってもよい。だが、大衆性や第二芸術的要素であるこの恣意性は、俳句という表現のなによりもの特色である。他の形式(短歌や自由詩など)にはこれほどの恣意性はない。」
前段は肯定するのだが、後段部分、あまりの恣意性は独りよがりへの道だ。「自己を開く場」としての句会を評価する云いとズレが生ずるような気もする。
森川許六が芭蕉の言葉とする「師の云、発句はとり合わせものなり、二つとり合わせて、よくとりあはすを上手と云ふなり、といへり。」が引かれているが、この後段部分「よくとりあはす」を私はよくかみしめたい。