大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ八 

2011年07月31日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「それでお節は納得したのかい」。
 煮売酒屋・豊金では、千吉が、店主の金治に節の件の子細を話していた。
 「しかしねえ。これからどんな顔をしてお節さんに会ったらいいのやら」。
 千吉はもう一つすっきりとしない思いだった。
 「しかし濱部様もなあ。あのお年で思慮がない」。
 川瀬石町裏長屋に住む濱部主善のことである。毎度毎度わざとではないかと疑うくらいに、災いの種を撒いて歩いているかのようだった。
 「そう言えば、このところ濱部様を見かけないねえ」。
 万が一にも濱部を顔を合わせたなら、散々飲み食いされた挙げ句に切合で金を支払わされるのが常だ。しかもこの度は、その思慮のなさから千吉は母親のような年の節に惚れられ、大層な難儀をしたのだった。濱部がいなければそれに越したことはない。
 「そうだな。このところ店に顔を出さねえが、どうも柳橋通いらしい」。
 「例の芸者ですか」。
 「娶ると言い触れているのはいいが、年期が開ける前に請け出す銭が必要とかで、金策に走っているって聞いているがね。どうなんだか」。
 「あのお方も常に惚れた腫れたでお忙しい」。
 千吉は内心、濱部にしても節にしても、四十を過ぎてまで未だ惚れたの好いたのに一喜一憂していることが信じられない思いでいるのだった。
 「そう言えば、千吉。今日はお前さん一人かい」。
 「いや、由造も加助も遅いようだ」。
 (なにかあったかしら)。
 そうこうするうちに、眉間に深い皺を刻み、強張った顔の由造が怒っているかの様に荒々しく縄のれんをかき分けた。
 「あれ、由造。どうしなすった」。
 近くに座った由造の左の頬には薄らと赤い指の跡があるではないか。
 「いいのかい、大店の手代ともあろう者が、女子と揉めたみてえな跡を顔に残してさ」。
 呉服屋近江屋の手代の由造は、その真面目な仕事ぶりの物腰の柔らかさから、主人の紀左衛門始め番頭にも大層気に入られ、加えて端正な面立ちで女からも放っておかれない。そんな由造の頬を引っ叩くのは女子しかいないと千吉は決め付けているのだった。
 由造は座敷に座るや否や珍しく冷や酒を頼むと、一気に煽り、ようやく落ち着いたのか子細を話し出した。
 「ああ、女には違わねえが、色っぽい話じゃねえんだ」。
 よほど腹が立っているのか、この日の由造はとても大店の手代とは思えぬ口ぶりである。
 由造は、呉服屋近江屋の妾である美代と、加助の親方である大工の平五郎の女房・志津が些細なことから喧嘩になり大騒ぎだったと言う。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ七

2011年07月30日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「千吉に相思相愛の女子ができた。そりゃあ別嬪で似合いの二人だ」。
 川瀬石町裏長屋にこんな噂が飛び交うまでそう日数はかからなかった。噂の主は、つい今しがたまで、「千吉が節を好いている」。いい加減なことを言って節を嗾けていた濱部である。濱部の耳に入れたのは、豊金の主の金治と、由造、加助だった。
 「何だって」。
 節は顔を強張らせ、濱部の胸ぐらを掴むと、
 「そんな話は聞いちゃいないよ」。
 大層な剣幕である。これには濱部も寸の間黙ったが、すぐに、
 「そう言われてもなあ。それにお節さんが何故そのように怒っておるのだ」。
 「あんた…あんたが言ったんじゃないか」。
 濱部は、「わしが何が申したのか」。恍けているのか、心から忘れているのか。この男、己の惚れた腫れたのほかはとんと興味がないのだ。
 「もしやお節さん、お前さん千吉に惚の字なのか」。
 濱部は冗談めいて言うが、耳迄真っ赤にして俯いてしまった節を目の当たりにすれば、幾ら疎い濱部にも手に取るように解る。ここで慰めの言葉の一つもかける気配りを持ち合わせぬこの男。己の思いの侭に、馬鹿笑いをすると、笑い過ぎて目には涙まで浮かべる始末。
 そして、節の肩をぽんぽんと叩くと、
 「お前さん、己の年を考えてもみろ。千吉は息子ほども年下ではないか。幾らお前さんが好いたとしても、千吉がお前さんに惚れるなんざ、万に一つもないだろう」。
 「何を。大体あんたがね」。
 節は怒りに震える手で、大きな濱部の首を力任せに絞めていた。
 「止めろ、止めろ」。
 この人目も憚らぬ中年二人の喧噪を、物見高い江戸っ子が黙って見ている訳もなく、いつしか長屋の前は人だかりで溢れていた。
 「何の騒ぎなんでえ」。
 折り悪く、訪ねて来たのは加助であった。
 「あれ、加助さん。千吉さんに女子がいたってんで、お節さんが、濱部様に食ってかかってるのさ」。
 千吉に女子がいたからって、節が怒るのもおかしければ、濱部と喧嘩をするのも辻褄が合わないと長屋の住民はこの不思議な光景に頭を傾げるが、そこは事情が解っている加助だ。千吉の災難が去って一安心するも、流石に女が武家に腕っ節で適う訳もなく、「しかたねえや」。間に割って入り、ことを収めるのだった。
 「かたじけない」。
 食い下がる節を引き離すと、濱部は簡単に礼を言い、罰が悪いのか己の家へと直ぐに引き揚げる。
 後には神を振り乱し肩で息をする節が、加助の両腕で後ろから肩をがっしりと掴まれていた。
 「まあ、お節さん少しは落ち着いて。おっとそうだ」。
 加助は懐から包みを差し出すと、
 「今日の棟上げで貰った、両国の幾世餅だ。甘い物を食べると気持ちも落ち着くだろうさ」。
 そっと節に握らせた。その時、節の指が加助の手に微かに触れると、節の目がまた剣呑に光ったのだが、加助は全く気付かずにいるのだった。
 (いけね。おっかさんに食べさせたくて持って来たんだがな。まあ、これで千吉の難も去ったってことでおっかさんも承知してくれるだろう)。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ六

2011年07月29日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「そうそう、そんな名だったね。あのお人が、千吉さんが嫁を娶りたがっているって言い出したそうな」。
 千吉は、はたと己の膝を叩き思い出した。それは、一人での商い故、出先に赴く時には店を閉めなければ成らないのが悩みだと軽口を叩いたつもりが、濱部は「だったら嫁を娶れば良かろう。そうだ、わしが誰か目合わせよう」と言っていたことを。
 だが、その会話に節の話は一切出ていない。
 「濱部様が嫁を娶れ、誰かを目合わせようとは言ってなすったが、あたしは節さんが好きだなんぞ口が裂けても言っていませんぜ」。
 美代もそんなことだろうとは察していたが、
 「その濱部様ってえのが、千吉さんは商いをしているので手伝いのできる女子。手伝いならお節さんがしているではないか。と思い込み、話をまとめようとお節さんにこう言ったのさ」。
 「こう言ったって」。
 千吉も由造も身を乗り出していた。
 「千吉が嫁を娶りたがっているのが、お節さんのような共に商いのできる嫁御を欲しがっているってね」。
 千吉と由造は互いの顔を見合い、肩で深い息をする。濱部の思い込みには嫌という程苦渋を舐めさせれているのだ。
 「しかし、濱部様は、お節さんのような嫁御と言ったのでしょう」。
 由造が言うが、節も濱部に負けず劣らず思い込みが強く、「お節さんのような嫁御」が、節の頭の中では、「お節さんを嫁御に」。に取って代わっていたのである。
 「それでどうしなさる。自分で言いなさるか。気まずければあたしからお節さんに言って聞かせましょう」。
 だが、言葉だけで節が納得するまでにはしばし時を必要とするだろうと、三人は思っていた。
 「ところで千吉さん。好いた女子はいないのかい」。
 美代は、若くて器量良しの女子と親しい素振りを見せ付ければ節も次第に気付くだろうと考えていた。
 「しかしそれではお節さんが気を悪くはしませんか」。
 「馬鹿だねまったく。気を悪くして貰う為にするんじゃないか」。
 千吉は、節の気持ちを傷付けるのはどうかと思うが、美代も由造も口を揃えて、「惚れた腫れたに傷付くのは当たり前」。そう言うのだが、千吉には思い当たる女子はいなかった。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ五

2011年07月28日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 すると節は、「千吉さんの本心を聞いて欲しい」。甘えてくるかのように上目遣いに美代を見据える。
 (千吉とやらも難儀な)。
 そう言えばこの三人、宵越しの四方山話で節は、「あたしゃあ、寂しい。若い男と暮らしたい」。竹は、「好いている男がいるが、どうにも根付けの趣味が気になって」。そんなことを言っていたのを思い出していた。
 聞いてみれば、竹の根付けの男は竹を好いている訳でも、言い交わした訳でもないらしい。「だったら根付けの心配よりも先があるだろうに」。美代は二人のお気楽振りに呆気に取られたのだった。
 美代は渋々ながらも承諾し、家の食い物がなくならないうちに三人を返すのだった。

 「あんたが千吉さんかい」。
 千吉は、由造に伴われて美代の家の座敷に上がっていた。美代は川瀬石町でも有名な美人で、美代も知らない者はいないくらいだが、千吉は知っていても美代は千吉を見るのは初めてだった。
 「まあ、年増に好かれそうな顔付きだね」。
 千吉は年の割には幼く見える。何よりおっとりとした物言いが好感を持てるのだった。
 「あたしにどんな御用でしょう」。
 美代が古手を欲しがるとは思えず、何が何やら解らぬ千吉。由造もそれは同じだった。
 由造は美代から呼び出され、「川瀬石町の千屋って知っているかい」と聞かれたことから、千吉を伴っていたのだった。
 「ああ、そうだねえ」。
 美代は気怠い仕草で煙管に火を付けると、
 「お節さんのことさ」。
 節の名を耳にして、千吉の顔色が変わるのは一目瞭然だった。このところ千吉は節のことで大層心を痛めていたのだ。
 (やはりお節さんの一人相撲のようだねえ)。
 美代は直感したが、約束どおりに千吉に節への思いを聞いてみた。
 「あたしは、お節さんを好いているなんぜ一遍足り共言ったことはありゃしません。言うどころか思ったことさえない。どこかでそんな素振りをしちまっていたんでしょうか」。
 すると美代は笑いながら、
 「最初からそうだと思ってたよ。でもね、お節さんが後生だから千吉さんに気持ちを確かめてくれって言うんで聞いたまでさ。まあ、お節さんがあの年でも器量良しならなきにしも非ずだけど、まさかねえ」。
 「しかし、なんでまたお節さんは千吉が己を好いているなんて思ったんですかね」。
 由造がそう言うと、
 「ほれ、覚えてるかい。何時ぞやあたしの許嫁だって言う鶴二の仲人を買って出たお武家様」。
 節と同じ長屋の住人の濱部主善である。
 「濱部様ですかい」。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ四 

2011年07月27日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 男も女も福の神に見放された、見捨てられた、見切れられた、福無し長屋と呼ばれている川瀬石町裏長屋の節は、女髪結いの友、一膳飯屋で働く竹を引き連れ、元大工町表長屋の呉服屋近江屋の妾の美代の元にいた。
 「それで、千吉さんがお節さんに好いてるって言ったのかい」。
 美代は半信半疑どころか、はなから節の言い分を信じちゃいない。「この色惚けが」。半ば馬鹿にしながら聞いている。
 「言われなくたって見てりゃあ解ろうってもんさ。思い起こせば、なにもあたしでなくても良い仕事も回してきててね」。
 節は、千吉が己に会いたいが故だと主張するが、美代は、「仕事がない節に気を遣ったんだろうよ」。口には出さないが、既にこの思い込みに飽き飽きとしていた。
 だが、先ほどから奥に座って黙っている友が急に、
 「お節さんは仕事も出来るし、器量良しだから」。
 取って付けたように節を持ち上げる。器量良し、美代も竹も友の八方美人ぶりに吹き出しそうになるのを堪えるのに懸命だった。
 友とて心からそう言ったのでないことは明らかだ。どう見ても三十手前とはいえ、節よりは一回りは若い己の方が自信がある。
 (早く帰っておくれな)。
 先程からずっとそう思っている美代だったが、この三人には、鶴二に言い寄られて難儀している時、心細い美代に付き添って貰ったことがあるので、そう無下にも出来ず困惑していた。
 だが、数日、夜だけ身を寄せていた三人ではあったが、それは酷い有様だったのだ。
 まず節はまったく動かずに、「あれ食べたい、これ食べたい」。美代の家の食べ物をありったけ食い尽くす勢いで、美代はその度に支度を整えなくてはならなかった。せめてもの礼にと当初は夕餉は用意する約束だったが、夜食も朝餉も食べる始末。しかも、自分の膳だけでは飽き足らず、「それ頂戴な」。と、美代の菜にまで箸を出す。
 竹は一膳飯屋で働いているだけあって、身のこなしは早く役には立つが、「あっ、また紙入れを忘れちまった」。一度も銭を持たずに現れ、「あれ買って」。飴売りや棒手振りの声には過敏で、必ず食い物を強請る。
 友は、大人しくしてはいるが一度腰を据えたら飾り物のように動かず、ただへらへらと人様の機嫌を伺ってはいるが、これがまた一癖あって何をどうしたいのか、「お竹さんは、お美代さんのことを嫌いなようだ」。にやにやしながら告げ口をしたりするのだ。
 「それでお節さんは、あたしにどうして欲しいのさ」。
 一刻も早く三人にお引き取り願いたい美代は、早口に切り出した。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ三

2011年07月26日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 由造にこう言われると、早くも加助は由造の意見に賛同する。
 「あっしもそう思うねえ」。
 豊金の主人の金治である。今日は、納豆を卵で巻きたかったのだろうが、上手くいかずに、ぐちゃぐちゃに崩れた卵巻風の皿を差し出す。
 「お節と言やあ、始末屋と言ったぐれえに有名な婆さんが化粧をしてたんだろ。そりゃあ、お前に惚れたね。しかし、お節も女だったってことさ」。
 節が、髪結いの銭も勿体ないと自分で結い上げていることは近所では知らない者はいない。その節が化粧をした顔など誰も目にしたことはなかった。
 「そう言えば」。
 千吉は、嫌なことを思い出していた。
 「鹿の子を…髷に薄紅の鹿の子を巻いていた」。
 「薄紅の鹿の子だって」。
 由造は、「ほれ見たことか」と言う。金治も、「あっしも女房の紺とは十八年が離れてるんで、まあお節の気持ちも解らなくもねえが、あの器量じゃなあ」。加助も、「お節さんなら、それなりに食い扶持も自分で稼ぐんじゃないか」。と皆人ごとだと思い勝ってなことばかりだ。

 「お節さんが色狂いした」。
 川瀬石町裏長屋でも評判になるくらいに節の様子が変わっていった。だが悲しいかな若作りのその姿は、端から見れば滑稽なのだが、とかく本人は気付かない。見兼ねた、古い付き合いの長屋のおかみさんたちが指摘しても、「あたしは若く見えるから」。と取り合わないのだった。
 そこに考えが及ばない濱部が、「お節さん、最近見違えるように綺麗になった」。など輪をかけてしまう。
 そして二日と開けずに千屋に顔を出すと、「桜を見に行きたい」。「浅草寺にお参りしたい」。「上野の不忍池は綺麗だろう」。の手この手で千吉に誘い水を浴びせるのだった。
 その度に千吉は商いを理由に断っていたが、千吉が誘いに乗らないと解ると、今度は、「障子の立て付けが悪い」。「棚を作りたいと」。と男手が必要な事を言ってくる。これまでの商いの付き合いもあるので無下には出来ないものの、千吉は内心うんざりしていた。
 「お節さん、あたしは力仕事は苦手でね、長屋ならほかにも男手はあるでしょう。なんなら加助に声をかけようかね。加助なら本職だもの」。
 「意地悪」。
 節は下駄の先で土を少し蹴って、拗ねた様な仕草をして走り去った。
 (しかし、あたしはお節さんを惚れさせるようなどんなことをしちまったのかねえ)。
 千吉にはとんと覚えが無い。
 「兄さん。どうするつもりなんで。あたしはあんな年の離れた姉さんなんぞ嫌ですからね」。
 妹の奈美に言われるまでもなく、いやそれ以上に嫌なのは千吉だ。

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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ二

2011年07月25日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「あれ、気付いちまったかい」。
 妙に甲高い声の節をよくよく見れば、赤い紅なんぞをさしている。
 千吉は嫌な予感にぶるると身震いし、
 「それで今日はどんな用件ですか」。
 節は身を攀じる様にして、「小袖を買いに来た」と言うのだった。
 「小袖ですかい。店の框から上がって行李の中を探す千吉だったが、背中から、また嫌な気配が伝わってくる。
 「今はこれしかありませんが、今度仕入れましょう。どんな柄がお好みですかい」。
 節には不似合いな若い娘向けの小袖を見せる。
 すると、節は、明るい色の花模様が欲しいのでこれが良いと胸に宛てがって見ている。この頃江戸では、路考茶、梅幸茶、芝翫茶、利休鼠、納戸色といった辺りが好まれていた。だが節は紅藤、牡丹色、真赭が己には良く似合うので、その色がいいと言う。
 「それはお年からすると派手過ぎやしませんか」。
 と、千吉が言うより早く、
 「だって、あたしは若く見えるから」。
 と頬を朱に染め、しなを作るのだった。

 「いやあ、驚いた。あんなお節さんは初めてだ」。
 煮売酒屋・豊金で、千吉の隣には、いつもの幼馴染み、近江屋手代の由造、大工の加助が興味ないまでも一応話を聞いている素振りをしていた。
 「お前さんたち、もっと真剣に話を聞いておくれ」。
 「だってよ、お節ってえのはあの長屋の婆さんだろう。若い娘ならともかく何が悲しくて婆さんの話をしなくちゃならねえんで」。
 不機嫌そうに酒を煽るのは加助。日がな大工仕事で汗を流し、ようやく一息ついたと思ったら婆さんの話では乗れないのも致し方ない。
 一方、片方の唇を上げて微かに笑みを讃えているのは由造である。
 「お節さん、惚れたな」。
 「惚れたなって、誰にだい」。
 「馬鹿だな千吉。お前さんにだよ」。
 思わず右手にしていた茶碗を放り出した千吉だった。加助も同様。口に含んだ酒を一気に千吉目がけて吹き出していた。
 「馬鹿はどっちだい。お節さんはもう四十を超えてるんだ。おっかさんくらいな年さ」。
 「だけど、男と女に変わりはねえ」。
 男女のことならば、千吉や加助よりはずっと秀でている由造である。その由造が、
 「誰に見しょとて紅かねつけるってね。女の化粧が濃くなった時と、女が己を飾るのに金を惜しまなくなった時は好いた殿御ができたってことさ。それにあの爪に火を点すように始末屋(倹約家)の婆さんが、着物が欲しいってのは、お前さんに会う口実と、お前さんに見立てて欲しい女心だろうよ」。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ一

2011年07月24日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ 人が人を好きになるには、いろいろな形があるということ


 川瀬石町で古着や古道具を売買する、古手屋を開いている千吉の店の千屋は、間口一軒の小さな小さな店である。ここの店を千吉が継いで未だ二年。
 二年前の安政五年(1858)に両の親をコロリで失った千吉は、それまでの古着屋から、もっと手広く品を扱う古手屋に商売替えをしたのである。人を雇える余裕はないが、四つ下の妹の奈美と二人生活に困ることはない。
 だが、注文の品を届けたり、仕入れの時には否応無しに店を閉めなくてはならないのが悩みの種である。店番なら奈美がいるのだが、古手の価格はあってなきようなもの。注文を受けるだけなら良いのだが、どうにも若い娘一人で店番をさせておくとそこを付け狙って安く買い叩く輩もいるのだ。
 「だったらしっかりとした嫁を娶れば良かろう。千吉ももう二十三であろう。だったらちっともおかしくはない。そうだ、わしが誰か目合わせよう。どうだ、一緒に深川へ」。
 こう話すのは、またも川瀬石町の煮売酒屋・豊金で顔を会わせてしまった福無し長屋と呼ばれている川瀬石町裏長屋住人の浪人・濱部主善である。
 この日もまたたらふく食べ、しこたま呑んでいる様子。こうして千吉に寄ってくるのも、またも切合にして、己の飲み食いを千吉にも支払わせようといった魂胆は見え見えなのだ。
 柳橋芸者に惚れ込んで、嫁にすると息巻いてから既にひと月以上過ぎて、既に足しげく通う金も底を付いたのか、また豊金に顔を出すようになっていた。
 「いえ、未だ嫁を娶っても養えねえんでね」。
 千吉は切合にされる前に早々に引き揚げたのだが、この話を濱部が大きく膨らませたものだからいけない。
 同じく裏長屋の住人で、この年、四十三歳になった節の千吉を見る目が急に色気着いたのである。
 節は自称絵師の小谷伝善と名乗っているが、どこぞで修行をした訳でもなく、口入れ屋の仕事で一度経師を描いたことから絵師を名乗り出したらしい。
 これといった定職も無く、口入れ屋の仕事を何でも引き受けるので有名だが、絵師を名乗るだけあって手先も起用なことから、千吉は仕入れた古道具の破れた傘や団扇、行灯の張り替えなどを頼んでいた。
 「千吉さん、いるかい」。
 「これはお節さんじゃないですか。はて、何かお頼みしていた品がありましたか」。
 頼んだ修繕さへ自分から届けるのを、「時は金なり」。と嫌がっていた節が自ら足を運んで来るのは珍しい。
 (お天と様が西から上るんじゃないか)。
 「お節さん、熱でもあるんじゃないですかい」。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 俎上の魚十一

2011年07月22日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 兄が大声で、鶴二に、「お前が松菊を殺ったのか」。と怒鳴りつけたところ、あの鶴二のどこにそんな力強さがあったのかという程の声で、「松菊はあたしが面倒を見てたのさ。それを兄さんが横取りしたんじゃないか」。と始まり、終いには、「あたしの銭が兄さんの遊び賃になるなんぞ許せねえ」。それはまるで鬼の形相だったと言う。
 「銭でしたか」。
 千吉はふうと深く息を吐き、肩をがっくりと落とした。
 「惚れた女をほかの男に取られての嫉妬よりも、銭の方が勝るとはなんとも」。
 加助も驚きの色を隠せないでいた。
 だが、小一郎の口からは更なる驚きの言葉が飛び出す。
 「それが、己の息子が獄門になるやも知れぬというに、あの母御は銭の心配をしておったのです」。
 それは、鶴二と兄の調べを終えた小一郎が番所を出た時だった。目を吊り上げ、髪を振り乱し、着付も緩みまるで鬼畜のような鶴二の母親が、小一郎の袖を掴むと、「鶴二がいなくなったら、どうやって暮らしていきゃあいいんだい。旦那はあたしら親子三人を飢え死にさせる気かい」。と、まるで鶴二は家族のための礎のような言いざまだったと小一郎は、「親子の思慕よりも深い欲というものを初めて知りました」。と、物悲しそうに言う。
 「色男より稼ぎ男とは言うが、稼ぎ息子であるか。鶴二も気の毒よのう」。
 横から思わぬ声と同時に手が伸び、由造たちの徳利に手が伸る。
 「兄上、我らの酒を呑んでいる御仁は、お知り合いですか」。
 小一郎は初めて見る厚かましい顔に驚くが、由造たちは周知のことらしく驚きもしない変わりに、
 「濱部様、今日は勘定は別。切合にも奢りもなしですぜ」。
 由造がそう叫ぶと、濱部は実に情けない顔になる。
 「元はと言えば濱部様が鶴二を柳橋に連れて行ったこちに始まるのだけど、まるで人ごとだ」。
 「いや、千吉。柳橋でなくてもいずれ鶴二は同じようなことを仕出かしただろうさ。なあ、由造」。
 加助はあっさりとしたものだ。
 「そうだな。愛し方も愛され方もあの年になっても知らなんだからな」。
 「鶴二は、俎上の魚だったってことさね」。
 育ちに感じられなかった愛情を人一倍求めていたが、夢想の中で思い描いたように世の中は進まないことさえも知らなかった男の不運であった。


俎上の魚(そじょうのうお)完
 相手の思うままになるよりしょうがない立場に立たされていることのたとえ。

次回は
相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ
 人が人を好きになるには、いろいろな形があるということ。
 川瀬石町裏長屋の母親くらいの年の年増に惚れられた千吉の受難のお話。  


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雑学の勧め 桜田門外の変その後

2011年07月22日 | 雑学の勧め
 桜田門外の変で主君・井伊直弼を打ち取られた彦根藩士はその後どうなったのか。
 水戸過激派浪士の襲撃で、生き残った者の内、軽傷者、無傷の者は、「殿を守り切れなんだ」ということで全員切腹。重傷者のみが井伊直弼の領地であった下野の国は佐野に送られ、蟄居となりました。
 襲撃した側もされた側もほとんどが命を失う結果となったのです。
 しかし、常に思いますが、武士道とはどうしてこうも散らさなくてもいい命を散らすものなのでしょうか。胸が痛くなります。
 新撰組だって、戦で命を失った隊士よりも暗殺や切腹の方が多かった様で。現に戦場で死んだ幹部は井上源三郎と土方歳三のみ(原田左之助は彰義隊に入ってからなのでカウントしていません)。
 武士道っていったい…。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 俎上の魚十 

2011年07月22日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「おい由造。お前さん近頃捕り物に関わってるって噂だぜ。一体なにをしてるんだい」。
 声の主は幼馴染みの千吉。所は毎度お馴染みの川瀬石町の煮売酒屋・豊金である。
 「お見限りだと思ってたら、柳橋に顔を出してるそうじゃないか」。
 こちらも幼馴染みの加助である。
 「やれやれ、お前さんらも相変わらずの地獄耳だこと」。
 由造は面倒臭そうにこれまでの一部始終を話すはめになった。
 「そういやこの前、深川に商いで行って来たんだがね、ちょいとばかり鶴二の家の噂を聞いたのさ」。
 千吉が聞いたのは、鶴二の家はそうとうに風変わりで、鶴二以外はほとんど見掛けないのだが、借金に借金を重ねて、店賃も踏み倒しているにも関わらず、医師を名乗る兄だけが景気が良いらしい。
 絵双紙の師匠って方の兄は、家から一歩も外に出ないで売れる宛のない絵をひたすら描いている変わり者で有名だが、医師を志している方の兄は、鶴二とは似ても似つかず、がたいも大きく、顔つきもすゞやか。女子の紐になって暮らすこともできようが、なにせ気性が荒い。
 家からは母親の金切り声や、茶碗の割れる音などが良く聞こえるらしく、近くの人も近づかない有様。
 「鶴二の家は深川か。医師、見栄えが良い…繋がったぜ」。
 由造はすくっと立ち上がると、そのまま闇に消えた。向かった先は八丁堀の義弟・境川小一郎の御用屋敷。

 「それで下手人は鶴二の兄だったんですか」。
 この日豊金には、千吉、由造、加助の面々に加えて珍しい顔があった。由造の義弟で同心の小一郎である。千吉の問いに小一郎は、少し難しい表情をし、
 「それが鶴二でござった」。
 「えっ。あの鶴二かい」。
 由造の頓狂な声が響く。
 「はい。兄上の仰せに従い、鶴二の兄を番所に呼んで問い質したところ、松菊との関係は認めましたが、大事な金蔓を殺すもんかと開き直りまして。どうにも埒が開かないので鶴二を会わせましたところ…」。


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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 俎上の魚九

2011年07月21日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 柳橋の置屋・川瀬に由造、小一郎の姿が合った。読ばれたのは松菊と同じ置屋の姉さん芸者の君奴と、新参芸者の小春である。この二人が松菊とは親しかったと川瀬のおかみが指名したのだ。
 「松菊は気の毒だったけどね、鶴二っていうお方も渋くてねえ。そのうちに座敷に上がるだけの金子が底をつくと、毎晩のように松菊を付け回していたのさ。お座敷の帰りを待ち伏せしたり、湯の行き帰りもねえ」。
 君奴は小春に目を送ると、こくんと頷いた小春が、
 「松菊姉さんもそれはそれは気味悪がって、あたしがお供をしました」。
 「なれば松菊を鶴二が殺めたやも知れぬな」。
 小一郎が身を乗り出すと、君奴と小春は同時に苦笑いしながら手を左右に振る。
 「あのお人にそのような気概はありゃしませんよ。まあお目出度いと言うか、松菊が駄目ならと、今度はこの小春に付け届けを始めましたのさ」。
 松菊が殺されたのはそれからしばらくしてからなので、下手人は鶴二とは思い難い。
 「はい。大層迷惑でした。そこいらで団子や饅頭を買って置屋に持って来るもんで」。
 小春は心底迷惑だったらしく眉間の皺も尋常ではない。
 「客の礼儀は座敷での遊び。置屋になんぞ馴染みの旦那衆だとて顔なんぞ出しません」。
 君奴も度々の鶴二の訪問には迷惑していたと言う。
 「松菊から小春に乗り換えたってえのは如何してか解るかい」。
 「ああ。松菊に色がいるって解った途端に掌を返すみたいに、自分には松菊なんかより若い小春の方が似合ってるって言ってたね」。
 境川は目を白黒させるが、由造はさもありなんと頷くのだった。君奴の話は未だ後があり、
 「松菊は、色に貢いでいたのさ」。
 その為に寝穢く金子を集めていたと言う。
 「して、その男のことは解るかい」。
 君奴は、「うーん」。といった表情で上目遣いに由造を見詰める。「解ったよ」。由造は溜め息をつくと懐から紙入れを出し、百文を君奴に握らせた。
 掌で銭を転がしながら、「これだけかい」。といった表情だったが、
 「なんでも町医者って話だけどね。町医者にしちゃあ身なりは派手だし、あれはどう見ても堅気じゃないね。そうだねえ、年の頃は四十半ばかね」。
 「あれ、姉さん。そんな年なんですか。てっきり三十前後かと思っていましたよ」。
 二人の会話から、粋な若衆といった面持ちのがたいの大きな男の姿が浮かび上がる。
 「境川様、小春に乗り換えたってえなら、あたしは下手人は鶴二ではないと思いますが」。
 「左様ですな。松菊の男の線を調べてみます。兄上、またお力をお貸しください」。
 小一郎はそう言うと、最後に、「理世も兄上にお会いしたがっております故、役宅にお運びください」。その晩はそれで終わった。
 「由造さん、柳橋界隈を縄張りにする岡っ引きに聞いたところ、調べれば調べるほど、殺された松菊という芸者の評判は悪いもんですぜ」。
 由造の義弟で、同心の境川小一郎に頼まれた双六は由造に子細を報告する。
 「評判が悪いってえのはどういうことなんです」。
 「始末屋の与太郎で、とにかく銭に汚い。これぞと見込んだ男は尻の毛までむしられるってね」。
 だが鶴二などむしり取ろうにもむしり取る物がない。
 「それで松菊の男の方ですがね、深川辺りでも見られてますぜ」。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 俎上の魚八

2011年07月20日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 しばらくの後、鶴二のことなぞすっかりと忘れていた由造は、妹・理世の夫である同心・境川小一郎の訪問を受けていた。
 由造の父・伝八郎は但馬出石藩の五万八千石に仕える武士であった。だが天保六年(1835)七代藩主・仙石久利の時に起きた御家騒動後、浪々となり流れ着いた江戸は川瀬石町裏長屋で由造も理世も産まれている。
 よって己が武家だと自覚したのは物心がついてからだ。聡明な店子の由造に目をつけた大家の近江屋紀左衛門が九つの時から小僧として育てたのである。
 浪々の両親の暮らしはそれは厳しいものだった。由造は名乗ったこともないが、本名を芦田由之新という。だが、当の由造は名を取るよりも生きて行く術として商人になることを選んだのだった。
 妹の理世が同心の境川小一郎に見初められ、恋われて嫁入りまでには、紆余曲折あったが、由造の父・伝八郎も母の佳代も、娘が武家に嫁ぐことに歓喜したものだった。
 だが、今は商人である己の身分を思い、理世とは距離を置いていた由造である。理世の祝言にも出席を拒んでいた。その夫の突然の来訪に驚いたが、小一郎は己の方が年長にも関わらず、由造を「兄上」。と呼ぶのだった。
 「柳橋彼岸で首を絞められた松菊の遺体が上がり、松菊に言い寄っていた鶴二という男が浮かびました。岡っ引きの双六の調べでは、このところ鶴二はこの川瀬石町にも出入りしていたらしく、この近江屋の妾の美代とも拠んどころない仲だったと聞き、兄上にお伺いしたく参った次第です」。
 双六とはここ川瀬石町辺りを縄張りとする岡っ引きで、通称川瀬石町の親分と呼ばれている四十絡みの強面である。柳橋で起きた人殺しだが、下手人としてお縄になっている鶴二の足取りから川瀬石町が出たため、小一郎と双六も関わることになった。
 由造が鶴二と美代のあらましを話すと、小一郎は、
 「なれば鶴二が一人よがりで松菊に思いを寄せ、松菊に袖にされて殺めたということもありますな」。
 「いや、それはないでしょう」。
 由造は鶴二という男に人を殺める気概があるとは思えないでいた。
 「それで鶴二は今は、番所ですかい」。
 小一郎は番所の前で、気が触れたかのように昼夜騒ぎ立てる鶴二の母親に難儀していると言う。
 「なれば境川様。一度柳橋に行ってみましょうや」。
 由造が小一郎を境川様と呼ぶのを小一郎は良しとしないが、いくら言っても、「御武家様でございますから」。そう言って由造は受け入れない。


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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 俎上の魚七

2011年07月19日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 美代の方はそれで安心なら良いが、鶴二には話して聞かせるのも無駄なようなので、新たにほかの女に目を向けるほか手だてはないだろうと誰もがそう思うのだった。
 「これはこれは由造。先程は大変でしたな」。
 他人ごとのように軽い口調で豊金に姿を現したのは、とんだ貧乏神の濱部である。
 思わず腰を浮かせ帰ろうとする千吉と由造だが、それよりも早く、濱部は二人の中に割って入り腰を下ろしてしまった。
 そして横から素早く手を伸ばし、千吉の酒を一気に呑み干すと、「本日はわしの奢り。呑んでくだされ」。と奢りといった言葉を知っていたことが不思議でならない千吉と由造に酒を一杯づつと、肴に焼き豆腐を頼むのだった。
 次第に自分だけ酒の回った濱部は、自分や鶴二の母親の手前、美代が恥じらっていたと臆面もなく言い出し、千吉と由造と金治を驚かすが、それでも年の功だろう、「しばらくは見守るのが良かろう」と、己は手を引くことを告げた。
 だが、この後がいけない。またも己の与太話に一人花を咲かせ、「今度、長屋に連れて来ようかと思うておるのだ」。これまた相手は柳橋芸者であった。
 「濱部様、月に五両の賃金を貰いなすっているって話してましたが、その五両は柳橋で散財してなさるんですかい」。
 金治が幾分嫌みを込めて聞くのだが、濱部は嬉しそうに、
 「芸子を飾るのは旦那の務め。それに、わしの元へ参りたいと言って聞かぬのだ」。
 (柳橋芸者が、あんな裏長屋に住むもんかい)。
 三人の思いは同じだった。
 「金の切れ目が縁の切れ目ってね、もし本当に濱部様が五両もの大金を稼いでいたとしても、それを使い果たしたらお終いだろうよ」。
 濱部が機嫌良く帰る後ろ姿に金治は呟く。
 「しかしまた、どうして普通の娘さんではいけないのやら」。
 「千吉、だからお前さんはまだまだ青いのさ」。
 「おや、由造には解るのかい」。
 「玄人女は客には愛想良くかしずくから、手痛い思いをせずに済むのさ。素人はそうはいかねえ。嫌なら肘鉄だって食らわすからな」。
 「まあ、濱部様もお寂しいのでしょう」。
 金治は年も近い濱部の気持ちも解らなくはないといった口調だった。
 その後しばらくの間、見慣れぬ細身の中年男が川瀬石町辺りで、飯屋に良さそうな家を探しているといった噂があったが、それも次第に下火となった頃、濱部に伴われて一度だけ足を向けた深川で鶴二は柳橋で松菊という芸子に優しく酌をされたことから、美代から松菊へと乗り換えてくれたらしい。
 鶴二は丁寧にも近江屋に由造を訪ね、美代の気持ちに添えなくて申し訳ないことを美代に伝えて欲しいと頼むと、それだけでもあんぐりと開いた口の塞がらない由造に向かって、
 「お美代さんには申し訳ありませんが、松菊さんはあんな年増じゃないんですよ。へっへっへっ」。
 と、気味悪い微笑で去って行った。
 これで美代のことで近江屋から用を言い付けられることもなくなる。松菊という芸者には気の毒だが、「まあ男の扱いは手慣れた女子、己でどうにかするだろうさ」。由造は一息つくのだった。


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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 俎上の魚六

2011年07月17日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 一通り話し終えた由造と同じくらいに、千吉も金治も疲労していた。
 「それはまた大変な御仁だったねえ」。
 千吉はその場にいないで良かったと旨をなで下ろすが、だがそこまで思い込みの激しい親子ならすんなりと帰ったとは思えない。
 「由造、それからどうなったのだい」。
 「ああ、今日のところは鶴二のおっかさんが興奮しておかしくなっちまったんで引き取ってもらったさ」。
 「今日ところはって、話は終わっちゃいないのかい」。
 千吉が目を丸くするが、金治が、「それだけの思い込みならそう安穏には納まらねえだろうよ」。と話を閉める。
 「だがね、二度会っただけで許嫁だと思い込んだほどの男さ、お美代さんが怖いと言い出してな」。
 「そらあそうだろうさ」。
 「旦那様としては、そうそう妾宅に泊まる訳にもいかず、あたしが見張りになっちまったのさ」。
 「ええ」。
 千吉も金治も腰を抜かさんばかりに驚いた。
 「近江屋さんも解らねえお人だねえ。お前さんなんぞが女と一つ屋根の下で寝起きしたら、どういうことになるかなんぞは火を見るより章かだってえのに」。
 由造は実に真面目で物腰も柔らかく、仕事っぷりも評判である。だが、これは近江屋の手代としての顔であり、もう一つにはかなりやんちゃな暴れん坊の側面もある。加えて、呉服町通や川瀬石町界隈の娘で由造を知らぬ者はいないと言われるくらいの面立ち。そして手の早さなのだ。
 現に、お美代に言い寄られたこともあった。だが、流石の由造も主人の妾に手を出すことは憚られると断るが、お美代は諦めてはいないようでもある。
 由造は唇の端を少し上げてにやりとすると、
 「ああ。だからな、旦那様に女子しに泊まってもらったらどうかって申し上げたのさ。相手はあの鶴二さ。気味は悪いが力はねえ。女でもことは足りるだろうよ」。
 だが、近江屋の女中たちはおかみの雅を憚って誰も美代の助けになろうとはしない。そこで仕方なく近江屋が家主の川瀬石町裏長屋を当たったのだった。
 「今さっき、あたしが話をつけてお節さん、お友さん、お竹さんを連れて行って来た帰りさ」。
 「お節、お友、お竹って、あの福無し長屋の行かず後家たちかい」。
 口の悪い金治が吐き捨てるように言う。
 福無し長屋とは、近江屋が家主の川瀬石町裏長屋で、濱部始め住人のほとんどが嫁を娶れない。嫁げない一人者ということから、世間では福の神に見放された、見捨てられた、見切れられた、福無し長屋と呼ばれているのだった。
 名前の上がった節、友、竹もそれこそ大年増だが、一人者でこれまた負けず劣らずのひってん、与太郎。中々に癖のある三人だ。


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