己の妾が嫁ぐという噂を耳にした近江屋は、それは穏やかではあるまい。お美代ほどの器量良しなら例え、近江屋の妾と知っても言い寄る男は後を絶たない。
だが今回は、許嫁だと言う男が、浪人とはいえ武家を仲立ちにしているのだ。ただごとではない。
近江屋は直ぐにでも真相を確かめたいところだが、妻である雅の手前、商いを放り出して妾の美代の元へ行く訳にもいかず、手代の由造にその役が回ってきたのだった。
進まぬ面持ちで尋ねた美代の元には先客があった。それが、件の貧相な鶴である。一人では気後れするのか否か、己の母親と濱部も一緒だった。
「ごめんなすって」。
由造が元大工町の表長屋、美代の家の玄関を開けると、困惑この上無しといった表情の美代が、由造に縋る様に助けを求めるのだった。
美代は、貧相な鶴には小唄を二度ばかり教えただけで、この日会うのが三度目であること。言い交わした覚えもないことを由造に告げると、今度は貧相な鶴に向かって、
「さっきからあんたさんは、あたしが店を持たせてくれたら一緒になると約束したと言いなさるが、そんなことを言った覚えはこれっぽっちもないばかりか、店を持たせて貰う貰わないなんぞよりも、あんたさんと一緒になる気はありゃしませんよ」。
こうまできっぱりと告げるのだった。さすがに浮かれていた濱部は俯き、「己の出番もないな」。と胸を撫で下ろす由造に、信じられない言葉が聞こえてきた。
「ほうらおっかさん。お美代さんが店を持たせなくても一緒になると言っていますよ」。
にっこりと微笑む貧相な鶴のその顔を見て、由造は吐き気を催すほど気分が悪くなっていた。
「そうだねえ。鶴二はこれだけの男前だ。悪い女に騙されてるんじゃないかと思ってたけど、店を持たせなくてもいいってんならおっかさんは反対はしないよ。かえって女手は欲しいからね」。
男は見かに相応しい鶴二という名だった。そして、以前は鶴二の父親が深川で蕎麦屋をやっていたが、店が立ち行かなくなるといつの間にやら出奔。行く方知れずになっているらしい。
だが、母親が言うには、
「西国で仕入れた品を上方の大店に納めている」。
鶴二の五つ違いの兄は、
「絵双紙を描いている師匠さ」。
鶴二の二つ違いの兄は、
「医師を志している」。
どうやら兄二人は家でふらふらしていて、働き手とはほど遠いらしいことは明らかだった。鶴二の兄であれば四十も半ば。今更医師を志す年でもあるまい。
「女手は欲しいでしょうが、暮らし向きはどうなすってるんですか」。
ここまでくると由造は、気の毒にも思えるのだったが、当の鶴二も母親も至って暢気に、
「それはこの鶴二が読売の瓦版を書いてますからね。子どもたちが皆学者になってくれて、親としては嬉しい限りですよ」。
読売の瓦版を書くといっても毎日決まった仕事ではない。どうやら定収入も無いらしいことも解ってきた。
「失礼ですが鶴二さんとやら、お美代さんに店を持たせる金子はどこで工面なさるおつもりだったんで」。
由造の問いかけが意地悪く聞こえたのだろう、口ごもる鶴二変わって母親が、
「だから言ったじゃないかい。この子の父親は上方で手広く商いをしているんだよ。それに兄も絵師なんだ。銭勘定に困ることなんざありゃしないのさ」。
喉を切り裂く様な金切り声は、通りにも十分聞こえただろう。後に同じ元大工町表長屋で軒を並べる加助の親方の女房の志津が、「随分と大きな声がしていた」と呆れていたくらいだ。
肩で息をする母親に向かい鶴二は、
「へっへっへっ」。
と、にこにこする。これには由造もお美代も背筋が凍り付く思いだった。
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だが今回は、許嫁だと言う男が、浪人とはいえ武家を仲立ちにしているのだ。ただごとではない。
近江屋は直ぐにでも真相を確かめたいところだが、妻である雅の手前、商いを放り出して妾の美代の元へ行く訳にもいかず、手代の由造にその役が回ってきたのだった。
進まぬ面持ちで尋ねた美代の元には先客があった。それが、件の貧相な鶴である。一人では気後れするのか否か、己の母親と濱部も一緒だった。
「ごめんなすって」。
由造が元大工町の表長屋、美代の家の玄関を開けると、困惑この上無しといった表情の美代が、由造に縋る様に助けを求めるのだった。
美代は、貧相な鶴には小唄を二度ばかり教えただけで、この日会うのが三度目であること。言い交わした覚えもないことを由造に告げると、今度は貧相な鶴に向かって、
「さっきからあんたさんは、あたしが店を持たせてくれたら一緒になると約束したと言いなさるが、そんなことを言った覚えはこれっぽっちもないばかりか、店を持たせて貰う貰わないなんぞよりも、あんたさんと一緒になる気はありゃしませんよ」。
こうまできっぱりと告げるのだった。さすがに浮かれていた濱部は俯き、「己の出番もないな」。と胸を撫で下ろす由造に、信じられない言葉が聞こえてきた。
「ほうらおっかさん。お美代さんが店を持たせなくても一緒になると言っていますよ」。
にっこりと微笑む貧相な鶴のその顔を見て、由造は吐き気を催すほど気分が悪くなっていた。
「そうだねえ。鶴二はこれだけの男前だ。悪い女に騙されてるんじゃないかと思ってたけど、店を持たせなくてもいいってんならおっかさんは反対はしないよ。かえって女手は欲しいからね」。
男は見かに相応しい鶴二という名だった。そして、以前は鶴二の父親が深川で蕎麦屋をやっていたが、店が立ち行かなくなるといつの間にやら出奔。行く方知れずになっているらしい。
だが、母親が言うには、
「西国で仕入れた品を上方の大店に納めている」。
鶴二の五つ違いの兄は、
「絵双紙を描いている師匠さ」。
鶴二の二つ違いの兄は、
「医師を志している」。
どうやら兄二人は家でふらふらしていて、働き手とはほど遠いらしいことは明らかだった。鶴二の兄であれば四十も半ば。今更医師を志す年でもあるまい。
「女手は欲しいでしょうが、暮らし向きはどうなすってるんですか」。
ここまでくると由造は、気の毒にも思えるのだったが、当の鶴二も母親も至って暢気に、
「それはこの鶴二が読売の瓦版を書いてますからね。子どもたちが皆学者になってくれて、親としては嬉しい限りですよ」。
読売の瓦版を書くといっても毎日決まった仕事ではない。どうやら定収入も無いらしいことも解ってきた。
「失礼ですが鶴二さんとやら、お美代さんに店を持たせる金子はどこで工面なさるおつもりだったんで」。
由造の問いかけが意地悪く聞こえたのだろう、口ごもる鶴二変わって母親が、
「だから言ったじゃないかい。この子の父親は上方で手広く商いをしているんだよ。それに兄も絵師なんだ。銭勘定に困ることなんざありゃしないのさ」。
喉を切り裂く様な金切り声は、通りにも十分聞こえただろう。後に同じ元大工町表長屋で軒を並べる加助の親方の女房の志津が、「随分と大きな声がしていた」と呆れていたくらいだ。
肩で息をする母親に向かい鶴二は、
「へっへっへっ」。
と、にこにこする。これには由造もお美代も背筋が凍り付く思いだった。
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