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大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

どんどん焼けに始まった処刑 ~六角獄舎の悲劇 42 ~

2013年08月10日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 宝永5(1708)年の大火以降、中京区六角通りに移転されてから、六角獄舎または六角獄、六角牢などと呼ばれるようになった三条新地牢屋敷は、宝永4(1707)年に、医師・山脇東洋による日本初の遺体解剖が行われた事でも知られている。
 その敷地は、堀を巡らした周囲、東西69m、南北53mで総面積3,660㎡である。内部は一般牢(本牢)のほかに揚り屋、キリシタン牢、女牢などに分かれていた。
 その六角獄舎で、あってはならない前代未聞の悲劇が起きたのは、元治元(1864)年7月20日。「八月十八日の政変」による火災の余波を受けての集団処刑であった。
 会津・薩摩藩によるクーデターにより、長州軍と御所を守る諸藩との激しい攻防戦が始まり、市中に火の手が上がるや、あっと言う間に町を飲み込んでいったのだ。そして、19日、衰えを見せぬ火勢は六角獄舎にも迫り、20日になっても火の手が消える事はなかった。
 「生野の変」に敗れて投獄されていた尊王攘夷派の指導者・平野国臣(福岡藩士)始め、新撰組に捕らえられた古高俊太郎(近江国)ら志士たちが収容されていた。
 火の手が獄舎に迫るや、人の破獄を恐れた西町奉行・滝川播磨守具挙の命により、平野国臣、古高俊太郎らの処刑が下される。「生野の変」の関係者から順に引き出され、斬刑は3時間にも及ぶものであり、この間に33名もの命が失われたのである。
 有罪か無罪の判決が下される前の斬首は、もはや殺人と言っても良いだろう。判決前であれば無罪の者もいた筈である。何より、火災の場合は解き放ちが原則ではなかったのか。
 この滝川播磨守具挙という人物、余程肝っ玉が小さいとみるか、幕府に反抗する者たちであり、危険分子と受け止めての決断と受け止めるか。いずれにしても、奉行としての判断力や人命の尊さを認知していなかったのは事実。
 しかし、外交関連の関連の役職を歴任し、外国奉行・神奈川奉行を経ての京都西町奉行就任である。優秀な人物だったのだろう。なにせ、33名もの命を奪っておきながら、同年には大目付にまで昇進しているのだ。幕府も特に処罰を与えぬどころか、出世させているのだから、何とも…。唯一、京都所司代の会津藩主・松平容保は叱咤したと伝えられる。
 余談だが、小栗忠順とは学問の同門であり、隣家同士の幼馴染みであった。鳥羽伏見の戦いに敗走後は、御役御免、寄合へと降格、登城禁止の上に、逼塞の処分を受け、後に改めて永蟄居に処されるなど、散々な憂き目をみながらも、江戸開城後も蟄居していた屋敷が、小栗忠順の屋敷の隣家であった為に、新政府軍の馬場拡張野為に接収され、立退きを命じられたというから、これも六角獄舎の祟りとでも言おうか。
 六角獄舎にて斬首された志士たちの遺骸は、藁筵に巻き、西二条刑場の椋の木の下に埋められた後、竹林寺へ合葬される。 〈第一部終了〉

 次回からは、「その後(のち)の新撰組」。新時代に生き残った元新撰組隊士は、どう生き抜いたのか。
 幕末を駆け抜けた新撰組。だが鳥羽伏見の敗走後は、脱走者も後を絶たず、転戦しながらその形を変えていった。
 会津で、米沢で、仙台で、そして函館へと転戦し、函館戦争の終結を持って新撰組は消滅する。
 そして時は、明治。剣豪だった彼らが、新時代をどのように生き抜いていったのだろうか。
 ここでは、明治以の新撰組元隊士たちの生き様を追ってみたいと思う。




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「桜田門外の変」始末記 ~襲撃された彦根藩士 41 ~

2013年08月09日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 厳し過ぎる彦根藩の処断を知ってから、TVの娯楽時代劇を観ていても、主役が悪徳旗本や、奉行などの屋敷に踏み込んだり、乗物を襲撃したりし、命を貰い受けるシーンを目のすると、幾ら主人公は伴侍を峰打ちにしていても、屋敷に戻ってから、斬首にされるのだろうと思い倦ねてしまうのだ。
 今回は彦根藩士とは関係なく余話であるが、「桜田門外の変」に関与なきにも関わらず、運命を狂わされた人たちがいたことを記しておこう。
 まずは、実行隊長として襲撃を指揮した水戸藩徒士、北郡奉行所与力・関鉄之介の情婦・滝本いの。元吉原・谷本楼の妓であり、井伊直弼襲撃には関与の欠片もないのだが、関の情婦だっ事から、彼の逃亡先を問われ、幕史による激しい拷問にあい、伝馬町牢にて獄死する(享年23)。彼女こそ、最大の被害者だったと言えよう。
 次に徳山藩出身の国学者・飯田左馬忠彦。彼は先の「安政の大獄」に連座した形で10カ月ほど京都町奉行所に拘禁された後、吟味のため江戸に送られるも、具体的な政治活動を行っていなかったことや、有栖川宮からの助成により、京都に戻されたうえで押込100日の刑を受ける。刑期が満了後は出家し、紀伊郡深草村の浄蓮華院にて隠遁生活を送っていた。
 が、僅か3カ月後に「桜田門外の変」が起きると、京都町奉行所により「御尋合中の者」として付近の宿へ幽閉される。冤罪で捕らえられた事に憤激した飯田は、万延元(1860)年5月22日、脇差で喉を突き自害を図り、手当のかいもなく5日後の27日死亡(享年62歳)。潔白の証しというよりも、奉行所の冤罪への怒りと受け止めて良いだろう。
 こちらも壮絶な死を遂げた佐久良東雄良哉。出生は、常陸国新治郡浦須村の郷士・飯島平蔵の長男・吉兵衛であるが、9歳にして出家し、15歳で得度し、法名を良哉、字を高俊と改めた。その後、国学者、歌人として名を馳せ、江戸、京都、大坂と住まいを移し、尊王論を遊説。
 井伊直弼襲撃の首謀者のひとり、水戸藩士・高橋多一郎、嫡男・庄左衛門を匿った科にて、万延元(1860)年3月23日に同志一同とともに捕縛され、松屋町の牢獄に繋がれた後、江戸伝馬町の牢獄に移送され、同年6月27日、獄中にて病死。後世、「吾、徳川の粟を食わず」と宣言して断食し、命を絶ったという説が流れた(享年50歳)。
 最後は水戸藩郷士・後藤権五郎輝(哲之介)である。井伊直弼襲撃に加わってはいないが、奉勅雪寃に奔走し、志を得ず新潟に隠遁するも、文久2(1862)年に広木松之介と名乗り自訴、江戸に送られ、同年9月13日獄死する(享年32歳)。何故自訴したのだろうか。逃げ切れないと悟った為か。 
 覚悟を決めて信じる道を突き進んだ者はどのような結末に陥ろうとも、くいはないだろうが、連座させられた者の無念は筆舌し難い。〈次回は、六角獄舎の悲劇〉





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「桜田門外の変」始末記 ~襲撃された彦根藩士 40 ~

2013年08月08日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 井伊直弼暗殺事件=「桜田門外の変」について振り返ってみたが、いよいよこの章の本題に入る。襲撃側は取り上げられても、守備側の井伊家のその後が語られる事は少ない。藩主の首を取られた藩士たちはどうなったのか。
 病死が認められ、御家も無事なら、それで安泰…とはいかないのが御武家様なのだ。
 襲撃により、藩主である直弼ほか、即死者4名、後に死亡した者4名、負傷者13名を出し、死亡した藩士の家は跡目相続が認められた。帰還した者は入獄。
 そして2年が過ぎた1862(文久2)年になって、直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして、生存者に対する処分が下されるのだ。2年も経ってからの処分とは…。これこそ寝耳に水ではないか。今更、としか言いようもないのだが、当日護衛だったばっかりになど、御武家様はこんな理不尽に憂いたりはしないものだろうか。
 斯くして、重傷者は減知の上、藩領の飛び地である下野国佐野にて蟄居。揚屋に幽閉される。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の士卒は全員が斬首の上、家名断絶の厳しい沙汰が下された。その処分は本人のみならず親族にも及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。
 同じ年の11月20日に、井伊家は、越前福井藩主・松平春嶽らによる幕政改革(文久の改革)にて、父・直弼の専横・圧政を糾弾され、20万石へ減封されているが、この向かい風を乗り切るため、16代藩主となった直憲により、直弼の腹心であった長野主膳と宇津木景福を処刑しているのだが、桜田門外に置ける襲撃時の護衛の今更の処断も、何やら関係があるように思える。
 この事件のよって死亡また、淘汰された藩士たちは下記の通りである。

 伊賀奉行・岩崎徳之進重光  負傷→帰邸後死亡
 小姓・小河原秀之丞宗親   負傷→帰邸後死亡
 騎馬徒士・加田九郎太包種  闘死
 剣豪・河西忠左衛門良敬   闘死
 物頭・日下部三郎右衛門令立 負傷→藩邸で死亡
    越石源次郎満敬    負傷→帰邸後死亡
    沢村軍六之文     闘死
    永田太郎兵衛正備   闘死
    朝比奈三郎八     無疵→帰邸のため入獄→文久2年斬首
    朝比奈文之進     無疵→帰邸のため入獄→文久2年斬首
    小幡又八郎      無疵→帰邸のため入獄→文久2年斬首
    小島新太郎      無疵→帰邸のため入獄→文久2年斬首
    長野十之丞      無疵→帰邸のため入獄→文久2年斬首
    藤田忠蔵       軽傷→帰邸のため入獄→文久2年切腹
    水谷求馬       無疵→帰邸のため入獄→文久2年斬首
    6名が下野国佐野にて流され蟄居    〈続く〉



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「桜田門外の変」始末記 ~襲撃された彦根藩士 39 ~

2013年08月07日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 井伊直弼の首級を上げた薩摩藩士・有村次左衛門が勝鬨を挙げると、斬られて昏倒していた彦根藩士・小河原秀之丞が蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村にの後頭部に斬り付ける。この小河原の奮闘振りは、門の内側から目撃した人物の証言によれば、朦朧とひとりで立ち向かい、数名の浪士に斬られ尽くした有様は目を覆うほど壮絶無残だったという。のだが、これは桜田門か、彦根藩上屋敷門か。いずれにしても中間だろうが、行けよ、助けに。と苦々しく思わなくもない。
 小河原は即日絶命するが、ほかに数名でも自分と同じような決死の士がいれば決して主君の首を奪われることはなかった、と無念の言葉を遺している。
 が、この小河原の一撃により、有村も重傷を負って歩行困難となり、近江三上藩主、若年寄・遠藤胤統邸の門前で自決。
 これは長年の疑問なのだが、現在跡地をみると、江戸城桜田門と井伊家上屋敷は目と鼻の先。銃声で屋敷内の藩士が動かなかったのだろうかといった点である。
 だが、これは当方の認識不足であって、江戸時代の井伊家上屋敷は広大な敷地にあり、駆け付ける間もなく事は済んでいたと考えるのが妥当だろう。
 現に、彦根藩では、ただちに藩士を送るも、間に合わず、死傷者や駕籠、斬り落とされた指や耳たぶ、飛び散った鮮血により染まった雪まで徹底的に回収したそうである。
 そして遠藤邸に置かれていた井伊の首は、彦根藩側が、闘死した藩士・加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた。最も幕閣である遠藤胤統が井伊の顔を知らない筈もなく、これこそ武士の情けとでも言おうか。
 襲撃後の現場には、尾張徳川家など後続の大名駕籠が続々と通り、井伊暗殺はただちに江戸市中に知れ渡るが、井伊家からは、藩主の急病を理由に出仕を控え、急遽相続願いを提出。それが受理された後に直弼を病死として届け出ており、井伊家は御家断絶を逃れる事が出来た。 
 このような寛大な裁定が認められたのは、徳川譜代筆頭・井伊家への配慮と、家名を継続させる事で彦根藩の水戸藩への敵討ちを防ぐと共に、水戸藩自体の御家断絶を防ぐ目的もあった。
 井伊家の家督は二男・直憲が継ぐも、二十万石へ減封され、幕府との関係は険悪化する。〈続く〉




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「桜田門外の変」始末記 ~襲撃された彦根藩士 38 ~

2013年08月06日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 日本人で「桜田門外の変」を知らない人はいないと言っても過言ではない。むろん歴史の教科書で目にした文字でもある。勅許を得ずに日米修好通商条約を始めとする安政の五ヶ国条約の調印に踏み切った近江彦根藩・第15代藩主、大老・井伊直弼を、江戸城の桜田門外にて水戸・薩摩藩の脱藩浪士が襲撃し暗殺した幕末における一大事件である。
 水戸藩士が井伊に遺恨を抱いたには、安政の大獄も含めた諸策に反対する者たちを弾圧した件での、藩主・徳川斉昭の永蟄居処分にある。
 襲撃側は一身を投げ打っての覚悟の上であり、信念を貫いたのだから武士の一分も立ったであろう。彼らのその後は知られているが、存外に知られていないのが、守備側の彦根藩士たちのその後である。
 事件が起きたのは安政7(1860)年3月3日早朝。江戸城へと出仕する井伊の駕篭を襲うといった前例のない企みであった。当日は季節外れの大雪で視界も悪く、護衛の供侍は雨合羽を羽織り、刀には鞘袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況だった。事前に井伊の元には警告もあったが、護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの批判を招くと判断し、捨て置いた末の護衛の甘さにあったともされる。
 とは言え、彦根三十五万石の藩主が瞬時にして討たれたのは、衝撃であった。
 襲撃に驚いた士分ではない中間などは算を乱して遁走するも、供侍たちは、柄袋のよって抜刀出来ないまでも、鞘や素手にて抵抗をし、指や耳を切り落とされるなど惨憺たる状況ながらも戦っている。
 二刀流の使い手として名を馳せた彦根藩一の剣豪・河西忠左衛門、同じく二刀流の剣豪・永田太郎兵衛は、冷静に対峙し一矢報いるも闘死。
 井伊は銃弾によって腰部から太腿にかけて銃創を負い駕篭から動けなくなり、護る者のいなくなった駕籠には、次々に襲撃者の刀が突き立てられ、虫の息となったところを、髷を掴んで駕籠から引きずり出され斬首された(享年46歳)。襲撃開始からわずか数分の出来事であった。〈続く〉




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時代を読んだエリート・小栗忠順 ~冤罪により絶たれた命 37 ~

2013年08月05日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 慶応4(1868)年1月15日、老中・松平康英より御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡される。何時の時代も、出る杭は打たれる。出過ぎた杭は抜かれるのだ。ひとつ所でキャリアを積み出世していけるのは、流される事の出来る人間。体制に意見を述べないイエスマンだけである。
 この例に洩れた小栗忠順は、同月28日に知行地である上野国群馬郡権田村への土着願書を提出する。この時に、旧知の三野村利左衛門(三井財閥の中興の祖)から千両を送られ米国亡命を勧められたが、これを丁重に断り、江戸に残す一族の女子の後見を頼んでいる。
 また、抗戦派の幕臣・渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)から彰義隊隊長に推されるも、徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、大義名分のない戦はしないと拒絶するなど、ぶれる事ない信念を貫き、表舞台から下りる…下りた筈であった。
 権田村の東善寺に移り住んだ小栗は、近隣の水路を整備したり塾を開くなど、村の為に尽力しながら静かに余生を送っていたが、慶応4(1868)年閏4月3日、新政府軍に目を付けられたと知るや、権田村字亀沢村へと身を寄せ、養嗣子の婿養子の旗本・駒井朝温の二男・忠道(又一)を高崎藩へと申し開きに遣わすのだった。
 翌4日、養母・くに(邦子)、妻・道子、養女・鉞子(よきこ)ら婦女子を会津へと逃すと、東善寺へと引き返し、東山道軍の命を受けた軍監・豊永貫一郎(土佐藩)、副軍監・原保太郎(長州藩)に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵に捕縛される。
 小栗ひとりの捕縛に、何とも大掛かりであるが、新政府軍の嫌疑が農兵の訓練ということから、戦闘状態に入る事も予測してであろう。
 武装兵もおらず、嫌疑は冤罪であると一目瞭然かと思われたが、取り調べもされぬまま、2日後の6日朝4つ半(午前11時)、小栗は、烏川の水沼河原に家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、斬首された(享年42歳)。無罪を主張する家臣に対し、未練を残すのはやめようと諭し、母と妻と息子の許婚を逃がしたが、これら婦女子にはぜひ寛典を願いたいと言い残したと伝えられている。
 四方や斬首といった処罰が下されるとは、小栗本人も予想だにしていなかったに違いない。なぜなら、忠道を高崎藩に向かわせる事もなかった筈である。その忠道も高崎にて斬首された。
 新政府の無慈悲は、改めて語るまでもないが、見方を変えれば、下野(げや)したものの、小栗への恐怖は一方ならぬものだったのだろう。こうした尊い命の上に明治政府は成り上がるのだ(敢えてこの言葉を使う)。
 忠道に関しても小栗家に養子に入ったばかりに…そう思うとやり切れない出来事である。
 唯一の救いは、会津藩江戸家老であった横山常守(山川大蔵血縁)を頼った妻・道子が、かの地で女児・国子を出産し、明治2(1869)年春に江戸へと戻り、三野村利左衛門に庇護された事である。
 そして明治18(1885)年に道子が没すると、国子は親族である大隈重信(佐賀藩)に引き取られ、矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興する。
 だが、失われた命は戻らない。悲しみは癒えるものではない。〈次回は、「桜田門外の変」のその後〉



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時代を読んだエリート・小栗忠順 ~冤罪により絶たれた命 36 ~

2013年08月04日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 帰国後は、遣米使節の功により外国奉行に就任するも、文久元(1861)年、ロシア軍艦対馬占領事件が発生。事件の処理に当たるが、同時に幕府の対処に限界を感じ、老中に対馬を直轄領に、この件の折衝は正式の外交形式で執り行い、解決出来なければ英国海軍の協力を得たい等を老中に提言するも、容れられず外国奉行を辞任する。
 また、文久2年(1862年)、勘定奉行に就任。幕府の財政立て直しを指揮する。駐日フランス公使レオン・ロッシュより、製鉄所についての具体的な提案を練り上げたのを手始めに、その後も、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設、日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所設立、陸軍の力も増強するため、小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化推進、湯島大小砲鋳立場を幕府直轄として関口製造所に統合、ベルギーより弾薬用火薬製造機械を購入、滝野川反射炉の一角に設置、日本初の西洋式火薬工場を建設、幕府陸軍をフランス軍人の指導を仰ぐために招聘し同時に大砲やシャスポー銃などの大量の兵器・装備品を購入。
 経済面でも株式会社「兵庫商社」の設立。日本初の本格的ホテル、築地ホテル館の建設など、日本全国の商品流通の流れを念頭に事業を展開する。
 有能な人材の登用など、経済・軍事・政務と改革を押し進め、近代日本の基礎を築き上げていったのだった。小栗の手腕については倒幕派も大きく認めている。
 正に、幕府にあっても近代日本は気付かれると思われた矢先の慶応3(1867)年10月14日、将軍・徳川慶喜が朝廷に大政を奉還し、翌慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。戊辰戦争の幕が切って落とされる。
 この時、小栗の言動は意外であった。いや、幕臣としては当然ではあるのだが、これだけ世情を見極めたひとりの男にしてはという意味である。
 小栗は幕府海軍副総裁・榎本武揚、歩兵頭並・大鳥圭介、幕臣(各奉行職を歴任)・水野忠徳らと徹底抗戦を主張し、新政府軍を箱根で陸海から挟み撃ちにして、孤立させる策を提案している。これが実行されていたなら、徳川政権は奪回出来ていた勝算が大であったのだ。後に、当時の最高の兵学者とされる長州藩・大村益次郎がこの計画を知り、四方や実行されていたなら新政府軍は壊滅したと語った程である。だが、慶喜は耳を傾けずに恭順論を受け入れた。小栗はなおも抗戦を説く。
 辣腕振りを発揮しながらもこの後小栗忠順は、それに見合った評価を受ける事なく、坂道を転がるように失脚するのである。
 とにもかくにもこの徳川慶喜ってお人は、肝心な時に弱腰であるばかりか、逃げ腰とでも言おうか、鳥羽伏見からの前代未聞の逃走と言い、その後の責任回避と言い、戊辰戦争全ての敗因を作っておいて知らん顔である。〈続く〉


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時代を読んだエリート・小栗忠順 ~冤罪により絶たれた命 35 ~

2013年08月03日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 小栗忠順は、文政10(1827)年、二千五百石の大身旗本・三河小栗氏第12代当主であり、幕末に勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した言わば徳川幕府のエトート官僚である。文久3(1863)年に上野介に遷任された事から、以後小栗上野介と称される。
 その非凡さは幼少時から発揮され、8歳で小栗家屋敷内の朱子学者・安積艮斎の私塾「見山楼」に入門。幕末の幕臣であり、明治初期の思想家・栗本鋤雲と席を同じくする。
 一方、幕末の三剣士と言われた、直心影流島田派・島田虎之助に剣術を師事し、後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝を許される。
 小栗の武術修行はこれだけに収まらず、砲術を田付主計、柔術を久保田助太郎にそれぞれ師事している。そして、砲術の同門であった結城啓之助の開国論に影響を受けたのが天保11(1840)年(1840年)前後。この事によって、鎖国、攘夷を唱える多くの者たちとの方向性の違いが生じ始めるのだ。
 今になって思えば、小栗や、会津藩家老・西郷頼母の考えに耳を傾けていたなら、と悔やまれるがそれこそ後の祭りであり、何時の世も、圧倒的多数派の前には無力なものである。
 17歳の天保14(1843)年に出仕し両御番となるも、率直な物言いを疎まれ、幾度か官職を変えられるが、やはり才腕を引き立てる者があり官職を戻されるを繰り返す。
 ここでも、かの鬼平こと、長谷川平蔵を思わせるものがある。正論であっても正義を貫こうとすれば、上から疎まれるのは今も昔も同じといったところであろう。
 そんな折り、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官・マシュー・ペリーが浦賀に来航。嘉永6(1853)年であるから、小栗27歳の時である。当時小栗は、異国船に対処する詰警備役であったが、関船しか所持していない幕府では到底同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れざるを得なかったのである。
 外国船を目の当たりにし、その先進技術を取り入れようと、積極的通商を主張し、造船所を作るという発想を持ち始めるのだった。
 そして安政7(1860)年には、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米。代表ではなかったが、外国人と交渉経験があり、落ち着いた物腰であった小栗が代表と勘違いされた程の器量を備えていた。〈続く〉



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動乱にもみ消された命 長州藩士の涙 ~幕府の横暴 34 ~

2013年08月02日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 元治元(1864)年7月26日未明、幕府老中・出羽国山形藩主・水野和泉守忠精は、長州藩邸家老代理・波多野藤兵衛、留守居役・遠藤市太郎を召喚し藩邸没収を伝える。藩邸明け渡しにおいては、庄内藩、杵築藩の指示に従うことを厳命。
 7月27日、砲数十門、 幕兵二大隊、山家藩(やまがはん)、宇和島藩の兵が長州上屋敷桜田邸近隣の雲州藩邸に陣を敷く。孫藩である清末藩・藩主親子には謹慎が命ぜられたのを始め、長州支藩に当たる長府・徳山全てと吉川家江戸屋敷も没収されるなど、徹底した長州排除を行う。 
  この江戸藩邸没収時に、「回天史」では自殺者を含め、118名、 波多野藤兵衛の「解放願書」にでは116名、遠藤市太郎によると士格以上は178名、軽率100余名、婦女子3名の拘禁者数が挙げられるが、この時点での死者43名はこの数に含まれていない。このように、記録による人数のばらつきはあるものの、幕府側の徹底的な追い詰め作戦と、それにより逃げ場のない長州藩関係者の拘束の事実は拭われないのだ。
 ちょうど丸2年後の慶応2(1866)年、 長州藩士の拘束・監禁を一任されていた老中・小笠原長行に代わり、丹後国宮津藩主・本荘宗秀が着任する。記録から本荘により、長州藩主名代・宍戸備後助、並びに小田村素太郎が釈放されrた事実があり、この事から、拘束されていた長州藩士全員の釈放がなされたと考えられる。「回天史」によれば釈放後は、同年6月密かに波多野以下生存者全員を海路広島に護送し本藩に戻している。
 密かにという辺りが解せなくもないが、同「回天史」では、拘禁3年に渉り旧陸軍所に拘禁せられる者120名にして拘禁中並びに前後死亡するもの51名の多きに至り其の非命を悲しむと残している。
 一方で、幕府の記録では、同年5月18日、拘禁していた萩藩・同支藩・同支族の江戸藩邸吏員並びに家族を、広島に護送し、広島藩に命じて、彼らを本藩に引き渡すとある。
 「回天史」の時期は、ちょうど第二次長州征伐の頃である。将軍・家茂は大坂にあり、混乱の最中であり、再び朝敵となった長州へわざわざ送り返す事は考えられず、幕府の記録による5月が正しいと思われる。
 こうして多くの命を奪った監禁は終わりを告げるが、長州側の史料「毛利家乗長府毛利家編」に、送り返された者たちを、「慶応2年6月10日、江戸の囚人広島より帰る」と、囚人という言葉を使った、興味深い一説もある事を付け加えておこう。
 この一連の事件で命を落とした藩士たちの墓は、現松蔭神社(世田谷若林)にあるが、その死因については一切触れられていない。〈次回は、エリート幕臣の顛末・小栗忠順〉




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動乱にもみ消された命 長州藩士の涙 ~幕府の横暴 33 ~

2013年08月01日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 これまで、佐幕よりの悲嘆を書いてきたが、長州藩にもあれ程までに幕府を恨む裏付けはあったのだ。
 京で暗躍する長州藩士は有名であるが、長州藩士は京や国元だけに居た訳ではない。江戸藩邸にも江戸詰め藩士は居たのである。
 文久3年(1863)8月18日の政変により、御所内の尊攘激派と長州藩は京から追放され、更に元治元(1864)年7月19日の禁門の変(蛤御門の変)にて、長州藩の政治的進出は絶望的状態に陥り、幕府の敵として追われる立場に陥った。
 この時幕府が行った制裁に、長州藩邸没収がある。まあ、元治元(1864)年7月23日には正式に第一次長州征討が行われているのだから、藩邸没収は致し方ないとしても、この時京都藩邸は米沢藩・中老大滝新蔵の配慮により無事脱出、大坂藩邸は話し合いにより紳士的な明け渡しが行われたのだが、江戸藩邸においては、全員が拘束されるといった事件が起きている。長州藩は江戸に、上(桜田門外)・中(龍土町)・下(砂村村)屋敷、並びに若林の抱え屋敷を有していた。
 元治元年7月24日、幕府は禁門の変の処分として、米沢藩に長州藩・桜田藩邸没収の内命を下し、26日実行される。 米沢藩では酒井左衛門を責任者とし麻布龍士邸を没収し家屋の破却。そこの藩士を桜田屋敷に拘禁する。後に、藩士は諸藩・諸家に預けられた。
 無人となった桜田藩邸も同様に破却され、8月7日、 廷内に残された蓄え金や米穀を新シ橋の籾蔵へ移送し、翌8日から町火消しらによって解体作業を行い同月26日までかけて長州藩邸全ての破却を行っている。その時藩邸内にあった文物書籍は 越中島で焚棄し、木材は風呂屋に下されたというから、幕府の怒りも一方ならぬ物であったのだろう。
 だが、問題はこれからである。諸藩・諸家に預けられた藩士たちが、相次いで死亡しているのだ。表向きには病死とされているも、短い間に51名とあればただ事ではない(1名は自刃。ほか1名は武州逆井渡にて捕縛され、後の消息は不明)。流行病であれば、江戸の町にも蔓延して然り。
 この江戸藩邸における動きと疑惑を、残された乏しい記録から探ってみよう。〈続く〉



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新政府の生け贄にされた赤報隊・相楽総三 ~薩摩藩の裏切り 32 ~

2013年07月31日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 新政府軍は信濃各藩に赤報隊逮捕の命令を下し、2月17日、中山道と北国街道(北陸道)との分岐点である追分宿で赤報隊は小諸藩などに襲撃され惨敗を喫する。
 また、別の記録では、「軍議があるから出頭せよ」との命令で下諏訪の東山道総督府に出頭したところ、うむもいわさず逮捕されたとも伝わっている。
 そして相楽総三以下の赤報隊の幹部は、取り調べもないまま、3月3日、下諏訪効外で処刑されたのだった。
 赤報隊は江戸の市街を焼き払ったり、伊勢長島藩主・増山正修から軍資金という名目で三千両を強奪するなどの行為も行っており、清廉な部隊とであったとは言い難いが、ならば戊辰戦争で新政府軍が奥羽越で行った陵辱や略奪行為はどうなのだと言いたい。
 二番隊は新政府の帰還命令に従い京都へ戻り、後に徴兵七番隊に編入されるが、三番隊は各地域での略奪行為が多く、桑名近辺で多くの隊士が処刑された。
 これが、赤報隊のあらましであり、一方的な被害者と受け止められるが、新政府の生け贄とされたのだろうか、実際に相楽総三の人物を追ってみよう。
 相楽の本名は小島四郎左衛門将満。下総相馬郡の郷士・小島兵馬の四男として江戸・赤坂に生まれる。小島は名立たる分限者であり、経済的にも恵まれ、四男でありながら兄たちが養子に出たり早世した為、家督を継ぐことになっており、何不自由なく育ったのだ。
 また、国学と兵学を学び、若くして私塾を開き多くの門人を抱えるなど、文武に才にも長けていた。
 何事もなければ、恵まれた生涯を送る事が約束されていた相楽だったが、23歳の時に尊王攘夷活動に身を投じ、ここから彼の運命が大きく変化して行く。
 小島家から五千両もの資金を与えられ関東方面の各義勇軍の組織化に尽力。元治元(1864)年の天狗党の乱にも参戦。言うなれば革命家としての道を歩み出すのである。
 また、薩摩藩・西郷隆盛、同・大久保利通らと交流を持ち、慶応3(1867)年には西郷の命を受け、江戸近辺の倒幕運動に加わる。だが、実際には倒幕運動とは名ばかりの掠奪や暴行などのであった。
 これは大政奉還によって徳川家を武力討伐するための大義名分を失った薩長が、江戸の幕臣を挑発し、戦端を開く口実とする為であり、言うなれば相楽は、西郷の駒として利用されたに過ぎない。この策は功を奏し、屯所を襲撃された庄内藩が、薩摩藩邸を焼き討ちする、江戸薩摩藩邸の焼討事件が起こり、鳥羽伏見の戦いのきっかけとなる。ただ、さすがの西郷にとっても焼き討ちは想定外であったとみえ、狼狽の色を隠せなかった記録が残っている。
 そして慶応4(1868)年1月、戊辰戦争が勃発と同時に赤報隊を組織し、年貢半減令を掲げて東山道軍先鋒として出発。だが、それから僅か1週間後に新政府の方針は180度変更し、年貢は従来道理と決定が下されるのだ。
 下諏訪宿にて官軍参謀・進藤帯刀により捕縛された相楽総三は慶応4(1868)年3月、同地にて処刑される(享年30歳)。
 この知らせを聞いた妻・照は、嫡男・河次郎を総三の姉に託し、自刃。後に相楽の首級は、生前交流のあった諏訪藩士であり国学者・飯田武郷によって盗み出され、秘かに葬られた。
 そして明治3(1870)年、下諏訪に相楽塚(魁塚)が建立される。昭和3(1928)年になり、孫・木村亀太郎の長年の尽力が実を結び、名誉が回復され、ここに晴れて偽官軍の汚名が撤回され正五位が贈られ、翌昭和4(1929)年、靖国神社に合祀された。
 生前親しくしていた薩摩藩・大山巌、土佐藩・板垣退助らが、相楽の名誉回復に動く事はなかった。以前、板垣退助が幕吏に追われた時、相楽は、赤坂・三分坂の自邸に匿った事もあったにも関わらずである。「情けは人の為ならず」。この意味を理解していない日本人が何と多い事か。嘆かわしい限りである。〈次回は、長州藩江戸藩邸没収事件〉



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新政府の生け贄にされた赤報隊・相楽総三 ~薩摩藩の裏切り 31 ~

2013年07月30日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 赤報隊を知っているだろうか。王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする新政府の東山道鎮撫総督指揮下の一部隊である。その結成は、薩摩藩・西郷隆盛、公家・岩倉具視らの支援にて、慶応4(1868年)1月8日に近江国松尾山・金剛輪寺においてとされる。
 その名前は「赤心を持って国恩に報いる」からであり、一番隊、二番隊、三番隊で構成され、一番隊隊長は、下総相馬郡の郷士・小島兵馬の四男・相楽総三であった。
 因に、二番隊隊長は、伊東甲子太郎の実弟で、元新撰組→御陵衛士の鈴木三樹三郎であり、同隊士が中心となっている。三番隊は元水口藩士・油川錬三郎を隊長に同藩士、江州出身者が中心で編成される。
 そんな赤報隊の目的は、各地で新政府による「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得る事にあり、相楽は東山道軍の先鋒として出立する。
 だが、新政府は赤報隊に対し、「官軍之御印」を出さず、文書での証拠を残さないようにした事に、相楽は気付くべきであった。官軍の魁としての証しを持たないままの行軍である。
 冷静に考えれば分かろうかというものであるが、これから新しい政府を築き、新たな世の中へと変えるのであれば、従来以上に金銭が掛るのは必須。国家予算は今も昔も年貢=税金から成り立っているのだ。半減など出来ようもない絵空事である。
 案の定、新政府は年貢半減は困難であると判断し、上層部に寄り赤報隊への命令を取消すのだった。と同時に、同月より意図的に赤報隊を「官軍先鋒と偽る、強盗」との噂を流し出す。真にもって酷い話である。
 大事の前の小事とでも言いたいのだろうが、裏切りは薩摩藩のお家芸なのだろうか。幕末だけでも、将軍に一橋(後の15代将軍)慶喜擁立の為に大奥へ送り込んだ篤姫(天璋院)が、そのライバルであった紀州の徳川慶福(後の15代将軍・家茂)へと寝返り、極秘のうちに薩長同盟を結び、第二次聴取征伐不出陣といった掌返しを行っている。
 だが、最初から赤報隊を切り捨てた訳ではなく、まずは引き返しを指令を出している。この伝令により、出立の遅かった二番隊、三番隊は難なく引き返すも、一番隊には伝わらず、相楽らは東山道を前へと進む。
 これ以上、年貢半減が各地で広まる事に恐れを成した新政府は、同年2月10日、相楽らが勝手に触れ回ったとして、東海道先鋒総督府に一番乗りしていた公家の高松左兵衛権佐実村の軍とともに偽官軍の烙印(回章)を押したのである(高松は京にて謹慎)。〈続く〉





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新撰組の幕引きをした男 相馬主計 ~維新の後の誠 30 ~ 

2013年07月29日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 相馬主計にどれくらいの葛藤があったかは今となっては知る術もないが、相馬は、元新撰組隊士で函館でも共に戦った、豊岡県権参事を務めている大野右仲の説得または仲介により、同県へ十五等出仕として、司法方面の勤務に就いた。
 だが、わずか二年後の明治8(1875)年2月。豊岡県内部の抗争により、突如免官されると、相馬は東京へと戻る。
 同じ抗争にて千葉へと移動になった大野が、そこでの要職を用意するが相馬は新政府への希望を失っていた。そして僅かな期間ではあったが移り住んだ浅草に居を構えるも、某日、妻・マツに用事を言い付け外出させると、割腹して果てた。
 生前相馬は、「他言無用」を厳命し、マツもそれを守り通したため、相馬の死亡年月日、菩提寺。享年など、死に関する詳細は現在も不明である。
 この突然の自刃に際し、「近藤、土方が死んだのに、隊長だったお前が何故生き延びているのだ」などといった非難嘲笑があったとも真しやかに囁かれているが、相馬程の器の大きな男が、金棒引きの言葉に耳を貸すとは考え難く、やはり新政府への失念や、戊辰戦争での心の痛みなど、大きな失望があったと思われる。
 また、蝦夷共和国にて、新撰組隊長に就任した旧桑名藩士・森常吉も、桑名藩の全責任を引き受け、明治2(1869)年に釈放された後、自刃している。享年44歳。
 奇しくも新撰組隊長2名が、自らの命を絶った訳とは…。
 新撰組隊士としてはほとんど無名であり、幕末を戦い抜いた戦史にも彼を知る人は少ない。だが、ここまで実直に生き抜いた相馬主計というひとりの人間がいた事をしっかりと記憶に刻んで欲しいと願って止まないのだ。
 もし、赦免になっても島に残っていれば、恐らくは平穏な人生を全う出来たであろう。
 相馬の死後マツは、新島の実家の植村家へ戻り、大正12(1923)年76歳で没している。彼女もまた、戦乱に人生を狂わされたひとりであった。〈次回は、新政府の生け贄にされた赤報隊・相楽総三〉




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新撰組の幕引きをした男 相馬主計 ~維新の後の誠 29 ~ 

2013年07月28日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 新撰組の全責任を負わされた相馬主計は、東京・辰ノ口軍務局糾問所にて詮議を受け、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑にて明治3(1870)年10月10日、伊豆新島に流罪となる。蝦夷共和国の敗者で、流罪は相馬ひとりであり、最も重い刑であった。
 元幕府・海軍副総裁であり、蝦夷共和国・総裁の榎本武揚でさえ、東京・丸の内・辰の口の牢に投獄だった事に比べると、新政府軍の新撰組への憎しみの程が分かろうと言うものである。
 だが、新島へと流された相馬は、島の大工棟梁・植村甚兵衛に身柄を預けられ、その離れで寺子屋を開いり、甚兵衛の長女・マツと結婚するなど、島民とも打ち解け、穏やかな日を過ごしたようである。
 そもそも新島に生まれていたなら、当たり前のような生活。謹慎所で衣食住に事欠いた会津藩士始め旧幕府軍に比べたら、ある意味では、恵まれていたと言えるかも知れない。
 島での武勇伝として、新撰組の隊長と知り、闇討ちを仕掛けて来た若者を、棒切れで一撃にした武勇伝も伝えられる。
 2年後の明治5(1872)年10月13日に赦免されると、妻・マツを伴い東京・蔵前に移り住む。この赦免も同年1月6日、先に赦免になった榎本の働きかけによろものと言われており、住まいも榎本の手配によるものである。
 また、流罪の折りに現地妻を娶る者は多いが、そのほとんどが流罪の間だけと割り切り、放免に際して連れ帰る事はないに等しいのだ。薩摩藩士時代の西郷隆盛(吉之介)も奄美大島流謫の際には、愛加那を現地妻としているが、彼女が薩摩の地を踏む事はなかった。
 愛加那との間には2人の子ども・菊次郎と菊子(名前は薩摩にて改名)を生しており、後に西郷本家に引き取られているが、これは島の掟によるものであり、西郷の意思とは違うと言えるだろう。
 それは赦免後西郷は、薩摩藩小番・岩山八郎太の二女・イト(糸子)と結婚して、二男・寅太郎、三男・午次郎、四男・酉三をもうけるが、庶子・菊次郎に嫡男としての位置づけはしていない。
 そんな時代にあって、妻を伴っての本土の土を踏む事は勇気のいる行為だと思うと同時に、相馬の実直な人柄を忍ぶ事が出来ると言えよう。
 榎本が己よりも先に赦免になり新政府に登用され、蔵前に住まいを出来る程の地位に着いていると知った東京に戻った相馬の心中は如何ばかりだったのであろうか。
 新撰組の処罰を一身に受け、島で娶った妻を正妻として伴う実直な男が、掌を返したように新政府に出仕する榎本を見て、無念の思いを描かない方がおかしいではないか。
 新撰組局長・近藤勇も、副長・土方歳三も新政府によって命を失っているのである。〈続く〉



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新撰組の幕引きをした男 相馬主計 ~維新の後の誠 28 ~

2013年07月27日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 笠間藩預かりの謹慎の後、放免後とも脱走したとも伝えられるが、相馬主計は野村利三郎共々彰義隊に参加し、彰義隊頭並・春日左衛門(元旗本)の支配下に入り、上野の山での決戦に挑む。
 彰義隊の瓦解後は、野村と共に旧幕府陸軍・陸軍隊に加わり、磐城方面へと転戦するも「殊に器量の者なり」と賞賛される軍才を示し、幹部に就任する。
 そして仙台(石巻とも)で新選組副長・土方歳三と再会し、陸軍幹部として新撰組へと復帰し、蝦夷へと転戦する。
 蝦夷共和国では、新撰組は箱館市中の取締に着任するのだが、相馬もこの時、新撰組隊士として同任務に当たっている。因に土方は陸軍奉行並として、もはや新撰組を指揮するよりも、蝦夷共和国の軍事に当たったと言って良い。だが、完全に新撰組から離れた訳ではなく、言うなれば、新撰組は、土方の指揮下幾つかの部隊のひとつになったのだ。
 新撰組の正式な隊長には、元桑名藩士・森常吉が就任。
 明治2(1869年)年3月25日の宮古湾海戦時相馬は、旗艦・回天にて土方指揮の下、陸軍添役として参戦し、負傷している。野村は敵艦に斬り込み、討ち死に。
 新政府軍が函館に上陸すると、松前、木古内、二股口の戦いの後、新政府の箱館総攻撃に際し、新撰組は弁天台場を死守するべく守りに着く。
 5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始されると、弁天台場は新政府軍に包囲され、完全に孤立する形となり、籠城戦になる事が必須を考えられたが、それを嫌った土方が、弁天台場の援軍向かうも、一本木関門にて銃弾に腹部を貫かれて落命。
 籠城する新撰組が土方の死を知ったのは12日とされるが、5月15日の終戦を持って新政府軍への恭順の書状に相馬は主殿と名を変え新撰組隊長として署名する。
 相馬の隊長就任に関しては、土方の死を知った12日とし、終戦までの3日間だけの隊長とする説。元幕府奥詰医師・高松凌雲の書簡によれば、この署名を持って就任したとする説があるが、いずれにしても実質隊長としての日はないに等しかったのだ。
 にも関わらずである。新政府軍かえあすれば、誰でも良い。とにかく新撰組の尻拭いが欲しかったのだの理論は、当時は成立したのだろうが、それにしても酷い話ではないか。
 相馬が新参者であり、伊東甲子太郎暗殺どころか、京での新撰組の暗殺には一切手を染めていないどころか加入もしていない事は周知の筈である。
 また、ここで、何故に相馬が隊長となったのかが疑問である。ひとつには、生前土方から、万が一があった場合は隊長を頼まれていたためとも言われているが、蝦夷共和国の正式な新撰組隊長は元桑名藩士・森常吉であり、これを新政府軍が認めなかったとしても、古参の島田魁がいたにも関わらずである。
 この謎は、会津藩が敗戦にあたり、梶原平馬でなく萱野権兵衛が切腹したのと似たり寄ったりの不思議を感じ得るのだ(会津藩では戦犯として3名の家老の首を差し出す事を条件に出され、先に、田中土佐、神保内蔵助が切腹していたため、家老席次の上位であった萱野権兵衛が責務を負ったのだが、一番上の筆頭家老・西郷頼母は出奔、次は首席家老・梶原平馬である。また、この梶原こそが奥羽越列藩同盟を築き上げた抗戦派であった)。〈続く〉


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