「良いかい、こんなもんを世に出してみやがれ。ただじゃ済まねえぜ」。
涼しい顔の了意を薮睨みにすると、構わずに草紙を破り捨てる万林だった。
「そんな殺生な」。
ああと、紙吹雪を手で受けようと座敷を右往左往する了意は、甚五郎人気に肖り、甚五郎とその弟子の文次郎、円徹の西国への旅の様子を草子に認め刊行しようと下書きを携えたのだった。
「後悔しますよ。これから、東海道名所記や御伽婢子を書くつもりですので、この草紙は、双方を加えた言わば小戦闘です。妖物を書かせたら天下一品と呼び声が上がってから、頭を下げて貰っても遅いですよ」。
「おきゃあがれ。こちとら天下の徳川家大工棟甲良一門だ。おめえのような三文戯作者に書いて貰わなくとも、一向に構わねえよ」。
了意が泳ぐような素振りで、紙吹雪を必死に拾い集めていた時だった。
「おおい、誰かいるかい。親方と円徹が猿若の自身番にしょっ引かれたぜ」。
庭先から聞こえた声の主は、千住で十手を預かる文七だった。猿若町の岡っ引きの知らせで飛んで来たと言う。
「親分、どういうことで」。
縁側に歩み出た万林に、息も切れ切れの文七は、酔って無体を働いた二本差を甚五郎と円徹がまとめて伸してしまい、中村座が大騒ぎになったと、大まかな成り行きを告げるが、目は紙吹雪を追い掛ける僧侶の姿に釘付けであった。
「如何してこうも、こちらの屋敷はまともじゃねえんだか」。
と、半ば呆れるような口振りであったが、甚五郎、円徹の派手な立ち回りに、中村座は明日からの芝居を打てなくなり、座元と座頭の中村勘三郎が奉行所に訴え出た為、二人の身柄は茅場町の番屋に移される手筈だと手短に語った。
「親方が勘三郎に向かって、だったら明日までに、芝居を打てるようにすりゃあ文句ねえだろうって啖呵を切っちまって、これから中村座の普請をするってえのよ」。
「一晩で、中村座を建て直すのですか。これは面白い」。
くふっと喉の奥で笑いながら、左甚五郎浮世物語が駄目なら、左甚五郎可笑記に変更しようと目を輝かせる了意に向かい、万林の口元は、てめえと動いていた。
「あい承知。宗心、長谷川の親方んとこに大道具の助を頼んで来な。文次郎は平太夫の旦那に材木を回して貰ってくんな。幸右衛門は親方と円徹の迎えだ。ほかのもんは道具を持って、あっしと猿若町だ。いいな」。
万林は、紺地に丸甲の文字が染め抜かれた印半纏を羽織ると、沓脱ぎ石に降りた。
「甲良一門の面子に掛けて明日の朝には、中村座の幕を上げて御覧にいれやしょう」。
地獄を見た男・井上円徹。これより先は、甲良一門でも、甚五郎に代わる器用さと洗練された手腕で、甚五郎の右腕、いや左腕として活躍。九十九里の浜の七福神を祀った、一宮町一宮観明寺の地獄極楽欄間など、今生を離れた地獄極楽の彫りを得意とし、多くの宮彫りを後世に伝えていく。
一方の関口文次郎。力強い彫りと、屈強な寝殿造りを得意とするが、その欄間の隅には、必ず小さな蝶を配したのが特徴であった。それはまるで、若かりし頃に西国へと旅した、胡蝶の夢を懐かしんでいるかのようでもあった。
寛永十三年、家光の厳命で、日光東照宮の大造替が行われ、総棟梁に任じられた甚五郎は、後世まで残る名作・眠り猫を彫り上げ、甚五郎の名は不動のものとなり今なお語り継がれている。
ランキングに参加しています。ご協力お願いします。
にほんブログ村
涼しい顔の了意を薮睨みにすると、構わずに草紙を破り捨てる万林だった。
「そんな殺生な」。
ああと、紙吹雪を手で受けようと座敷を右往左往する了意は、甚五郎人気に肖り、甚五郎とその弟子の文次郎、円徹の西国への旅の様子を草子に認め刊行しようと下書きを携えたのだった。
「後悔しますよ。これから、東海道名所記や御伽婢子を書くつもりですので、この草紙は、双方を加えた言わば小戦闘です。妖物を書かせたら天下一品と呼び声が上がってから、頭を下げて貰っても遅いですよ」。
「おきゃあがれ。こちとら天下の徳川家大工棟甲良一門だ。おめえのような三文戯作者に書いて貰わなくとも、一向に構わねえよ」。
了意が泳ぐような素振りで、紙吹雪を必死に拾い集めていた時だった。
「おおい、誰かいるかい。親方と円徹が猿若の自身番にしょっ引かれたぜ」。
庭先から聞こえた声の主は、千住で十手を預かる文七だった。猿若町の岡っ引きの知らせで飛んで来たと言う。
「親分、どういうことで」。
縁側に歩み出た万林に、息も切れ切れの文七は、酔って無体を働いた二本差を甚五郎と円徹がまとめて伸してしまい、中村座が大騒ぎになったと、大まかな成り行きを告げるが、目は紙吹雪を追い掛ける僧侶の姿に釘付けであった。
「如何してこうも、こちらの屋敷はまともじゃねえんだか」。
と、半ば呆れるような口振りであったが、甚五郎、円徹の派手な立ち回りに、中村座は明日からの芝居を打てなくなり、座元と座頭の中村勘三郎が奉行所に訴え出た為、二人の身柄は茅場町の番屋に移される手筈だと手短に語った。
「親方が勘三郎に向かって、だったら明日までに、芝居を打てるようにすりゃあ文句ねえだろうって啖呵を切っちまって、これから中村座の普請をするってえのよ」。
「一晩で、中村座を建て直すのですか。これは面白い」。
くふっと喉の奥で笑いながら、左甚五郎浮世物語が駄目なら、左甚五郎可笑記に変更しようと目を輝かせる了意に向かい、万林の口元は、てめえと動いていた。
「あい承知。宗心、長谷川の親方んとこに大道具の助を頼んで来な。文次郎は平太夫の旦那に材木を回して貰ってくんな。幸右衛門は親方と円徹の迎えだ。ほかのもんは道具を持って、あっしと猿若町だ。いいな」。
万林は、紺地に丸甲の文字が染め抜かれた印半纏を羽織ると、沓脱ぎ石に降りた。
「甲良一門の面子に掛けて明日の朝には、中村座の幕を上げて御覧にいれやしょう」。
地獄を見た男・井上円徹。これより先は、甲良一門でも、甚五郎に代わる器用さと洗練された手腕で、甚五郎の右腕、いや左腕として活躍。九十九里の浜の七福神を祀った、一宮町一宮観明寺の地獄極楽欄間など、今生を離れた地獄極楽の彫りを得意とし、多くの宮彫りを後世に伝えていく。
一方の関口文次郎。力強い彫りと、屈強な寝殿造りを得意とするが、その欄間の隅には、必ず小さな蝶を配したのが特徴であった。それはまるで、若かりし頃に西国へと旅した、胡蝶の夢を懐かしんでいるかのようでもあった。
寛永十三年、家光の厳命で、日光東照宮の大造替が行われ、総棟梁に任じられた甚五郎は、後世まで残る名作・眠り猫を彫り上げ、甚五郎の名は不動のものとなり今なお語り継がれている。
ランキングに参加しています。ご協力お願いします。
にほんブログ村