美緒は、何もかも忘れ、静かに生きたいと、死した事にしていたと、告げる。
「忘れたいとは、父様や母様、私の事もにございますか」。
梅泉院の細いうなじが、ゆっくりと前に傾く。
「多摩で過ごした思い出も、姉様はいらぬと申されますか」。
「昔を懐かしんでも、空しいだけ。なれば、全てを忘れる事が…忘れねば生きてはおれなかったのじゃ」。
己と掛け離れたほかの者を羨まぬ為には、何もなかった事にしなければ、あまりにも辛過ぎたと梅泉院。
「では姉様は、兄様の事もお忘れにございますか」。
「無論です」。
「兄様は、戦死致しました。まだ三十五にございました」。
再び昇る事のない、英勝寺の石段を足早に降りた千代。最期に一度だけ振り返ると、山門のところで。深々と頭を垂れる梅泉院の姿があった。
「姉様、これにてお別れにございます」。
忽然と姿を消した姉を探す為、大奥への奉公に出てから、実に三十年近い年月が流れていたのである。
瀧山も川口で夫婦養子を迎え、瀧山家を興したが、明治九年に七十二歳で他界。
見上げた空は、江戸の頃と同じく、怖いような青に染まっていた。
静寛院宮は、明治十年、療養先の、箱根塔ノ沢温泉にて、脚気衝心にて三十二歳にて薨去。「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重し、増上寺に埋葬された。
天璋院は、千駄ヶ谷の徳川宗家邸に住まい、十六代家達の養育に励んでいたが、明治十六年、徳川宗家邸で脳溢血で倒れ四十七歳にて死去。上野の寛永寺境内にある夫・家定の墓の隣に埋葬された。
近藤勇も沖田総司も、明治の世を見る事なく、その若い命を散らしていた。
宙に差し出した掌に、ひとひらの桜の花びらが舞い落ちる。それを柔らかく握った千代。
「兄様、伊庭様。千代はすっかり年を取ってしまいました。もはや、千代だとは気が付かれますまい」。
己の手の皺に、生きた年月を重ねると、老いた己の身が口惜しくもある。
だが、若かりし頃の思い出だけは、胸にしっかりと刻まれているのだ。その思いを全て無になりたい。そんな姉の選択を、分かる日こないだろう。
「兄様、伊庭様。千代の戦も漸く終わりました」。
新政府軍の作り上げた明治を、土方歳三、伊庭八郎はどう受け止めているだろうか。いや、後の世を思い描く事なく、ただ義の為にのみ戦い抜いたのだ。
そんな武士道も、遠い昔話になろうとしていた。
完
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「忘れたいとは、父様や母様、私の事もにございますか」。
梅泉院の細いうなじが、ゆっくりと前に傾く。
「多摩で過ごした思い出も、姉様はいらぬと申されますか」。
「昔を懐かしんでも、空しいだけ。なれば、全てを忘れる事が…忘れねば生きてはおれなかったのじゃ」。
己と掛け離れたほかの者を羨まぬ為には、何もなかった事にしなければ、あまりにも辛過ぎたと梅泉院。
「では姉様は、兄様の事もお忘れにございますか」。
「無論です」。
「兄様は、戦死致しました。まだ三十五にございました」。
再び昇る事のない、英勝寺の石段を足早に降りた千代。最期に一度だけ振り返ると、山門のところで。深々と頭を垂れる梅泉院の姿があった。
「姉様、これにてお別れにございます」。
忽然と姿を消した姉を探す為、大奥への奉公に出てから、実に三十年近い年月が流れていたのである。
瀧山も川口で夫婦養子を迎え、瀧山家を興したが、明治九年に七十二歳で他界。
見上げた空は、江戸の頃と同じく、怖いような青に染まっていた。
静寛院宮は、明治十年、療養先の、箱根塔ノ沢温泉にて、脚気衝心にて三十二歳にて薨去。「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重し、増上寺に埋葬された。
天璋院は、千駄ヶ谷の徳川宗家邸に住まい、十六代家達の養育に励んでいたが、明治十六年、徳川宗家邸で脳溢血で倒れ四十七歳にて死去。上野の寛永寺境内にある夫・家定の墓の隣に埋葬された。
近藤勇も沖田総司も、明治の世を見る事なく、その若い命を散らしていた。
宙に差し出した掌に、ひとひらの桜の花びらが舞い落ちる。それを柔らかく握った千代。
「兄様、伊庭様。千代はすっかり年を取ってしまいました。もはや、千代だとは気が付かれますまい」。
己の手の皺に、生きた年月を重ねると、老いた己の身が口惜しくもある。
だが、若かりし頃の思い出だけは、胸にしっかりと刻まれているのだ。その思いを全て無になりたい。そんな姉の選択を、分かる日こないだろう。
「兄様、伊庭様。千代の戦も漸く終わりました」。
新政府軍の作り上げた明治を、土方歳三、伊庭八郎はどう受け止めているだろうか。いや、後の世を思い描く事なく、ただ義の為にのみ戦い抜いたのだ。
そんな武士道も、遠い昔話になろうとしていた。
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