大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~ 二十七  完

2012年01月03日 | 百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~
 美緒は、何もかも忘れ、静かに生きたいと、死した事にしていたと、告げる。
 「忘れたいとは、父様や母様、私の事もにございますか」。
 梅泉院の細いうなじが、ゆっくりと前に傾く。
 「多摩で過ごした思い出も、姉様はいらぬと申されますか」。
 「昔を懐かしんでも、空しいだけ。なれば、全てを忘れる事が…忘れねば生きてはおれなかったのじゃ」。
 己と掛け離れたほかの者を羨まぬ為には、何もなかった事にしなければ、あまりにも辛過ぎたと梅泉院。
 「では姉様は、兄様の事もお忘れにございますか」。
 「無論です」。
 「兄様は、戦死致しました。まだ三十五にございました」。
 
 再び昇る事のない、英勝寺の石段を足早に降りた千代。最期に一度だけ振り返ると、山門のところで。深々と頭を垂れる梅泉院の姿があった。
 「姉様、これにてお別れにございます」。
 忽然と姿を消した姉を探す為、大奥への奉公に出てから、実に三十年近い年月が流れていたのである。
 瀧山も川口で夫婦養子を迎え、瀧山家を興したが、明治九年に七十二歳で他界。
 見上げた空は、江戸の頃と同じく、怖いような青に染まっていた。
 静寛院宮は、明治十年、療養先の、箱根塔ノ沢温泉にて、脚気衝心にて三十二歳にて薨去。「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重し、増上寺に埋葬された。
 天璋院は、千駄ヶ谷の徳川宗家邸に住まい、十六代家達の養育に励んでいたが、明治十六年、徳川宗家邸で脳溢血で倒れ四十七歳にて死去。上野の寛永寺境内にある夫・家定の墓の隣に埋葬された。
 近藤勇も沖田総司も、明治の世を見る事なく、その若い命を散らしていた。
 宙に差し出した掌に、ひとひらの桜の花びらが舞い落ちる。それを柔らかく握った千代。
 「兄様、伊庭様。千代はすっかり年を取ってしまいました。もはや、千代だとは気が付かれますまい」。
 己の手の皺に、生きた年月を重ねると、老いた己の身が口惜しくもある。
 だが、若かりし頃の思い出だけは、胸にしっかりと刻まれているのだ。その思いを全て無になりたい。そんな姉の選択を、分かる日こないだろう。 
 「兄様、伊庭様。千代の戦も漸く終わりました」。
 新政府軍の作り上げた明治を、土方歳三、伊庭八郎はどう受け止めているだろうか。いや、後の世を思い描く事なく、ただ義の為にのみ戦い抜いたのだ。
 そんな武士道も、遠い昔話になろうとしていた。
 
 完



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百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~ 二十六

2012年01月02日 | 百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~
 明治の世の中は、目まぐるしく変わり、江戸の面影など微塵もなく進歩を遂げていた。
 
 明治二年 東京~横浜間で電信事業が開始
 明治三年 廃藩置県
 明治四年 牛鍋屋が賑わい、大坂造幣局の辺りで最初の西洋式ガス燈が灯る
 明治五年 横浜の馬車道に西洋式ガス燈設置される
      東京日日新聞創刊
      新橋~横浜間、鉄道開業
      太陽暦を採用
 明治六年 地租改正条例を布告
 明治七年 二階建て乗合馬車運行
      東京警視庁
 明治十年 西南戦争勃発
 明治十五年 東京馬車鉄道会社開業、新橋~日本橋間開業

 町は煉瓦造りの建物へと変貌し、歩く人々からも、二本差しや髷姿は消え失せていた。
 歳三の遺品を函館より届けた、市村鉄之助も彦五郎が二年程匿い、郷里へと返したが、噂では西南戦争に従軍したとも伝えられる。
 函館戦争終結後、歳三の追悼歌集や自筆の日記を携えた立川主税は、終生土方の菩提を弔いたいと仏門に入った。
 新撰組最期の隊長として、新撰組の歴史に幕を下ろした相馬主計も放免後、割腹自殺を遂げた。
 名実共に、江戸は終わりを告げたのである。

 慶応三年以来再び、神奈川の扇ガ谷は、英勝寺の山門を潜った千代も既に五十手前に達していた。
 「庵主様は、おられますか」。
 庵主も代替わりはしているだろう。だが、徳川の世の痕跡すらなくなった今、改めて姉・美緒の墓前に、これまでの世の流れを告げたかったのであった。
 「庵主の梅泉院にございます」。
 そこに顔を出したのは、紛れもなく美緒。
 「姉様、どうして…」。
 「千代か」。
 亡霊を目の当たりにした面持ちの千代。自刃したと聞かされ、弔い続けたその人が目の前に姿を現したのだ。それも当然であった。
 「千代、許してたもれ」。



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