大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

浜の七福神 95

2014年06月30日 | 浜の七福神
 「親方。早々に発ちやすからね」。
 「分かってるさ。あっしもあんな諄い酒は御免だ。だがよ…」。
 やはり放っては行けないと、せめて招き猫の一体くらいは、店に残してやりたいと言うのだった。
 「文次郎も円徹も、あのはす向かいの旅籠に泊まって良いからよ」。
 ならばと、甚五郎を残し、はす向かいの旅籠へと部屋を取った文次郎と円徹だった。
 「漸くまともな飯が食えるな、円徹」。
 「でも、親方だけ残して行って構わないのでしょうか」。
 布団もろくにない見世に、甚五郎だけを残すのは恐れ多いと円徹の顔は曇るが、好きで残るのだから構う事はないと、文次郎は早くも油障子の桟を跨いでいた。
 「じゃあ親方、遠慮なく旅籠に移らせて貰いやす」。
 ああと頷きながらも、冷たい弟子だと舌打ちをする甚五郎に、円徹は一礼をするも、慌てて文次郎の後を追うのだった。
 「まあ、わっかいお客様やこと」。
 文次郎と円徹に旅籠の内儀は、目をくりくりと動かすのだった。
 「兄弟やろか」。
 人懐っこい内儀の笑顔に目もくれずに文次郎が、泊まるのは二人だが、飯は四人前頼むと告げれば、内儀の眉間に皺が寄り、その表情は一気に意地悪そうになるのだった。
 「なんぼ若くても、二人で四人前は食べられへんでっしゃろ」。
 「向かいの飯屋に、あっしらの親方が世話になってやすんで、飯くれえはまともに喰って貰いてえのさ」。
 「けったいな話やね。飯屋に飯を届けるなんて」。
 「けったいもなにも、飯屋と言っても米もありゃしねえのさ」。
 内儀の顔が、ふと暗くなるのだった。
 「あんさんら、あの飯屋を知ってますのんか」。
 知りはしないが、一宿の礼に甚五郎が繁盛祈願の招き猫を彫るので、それが仕上がるまで、こちらの旅籠に泊まるのだと文次郎は伝えるのだった。
 「あんさんらの親方とゆうお人は、招き猫を彫れるのやろか」。
 「親方に彫れないものはありません」。
 円徹が誇らしげに微笑むと、内儀はそわそわと目を泳がせながら、小走りに階段を下り、内所へと向かうのだった。
 






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浜の七福神 94

2014年06月29日 | 浜の七福神
 「そうやおまへん。借金の形に女房を取られたんや」。
 目をしばしばさせながら、ぽつりぽつりと語り出す主の話に寄れば、借金を返す為に、旅籠の女中にとして働きに出たが、三月も過ぎた頃には旅籠の主の後妻に収まっていたと言う。
 「それで借金は棒引きかい」。
 だったら、いいじゃないかと、甚五郎。
 「借金はそのままや」。
 ふと、へべれけの筈の甚五郎の眉がぴくりと動く。
 「そりゃあ、おかしな話じゃねえかい。だったらおめえの女房は、進んで後妻になったんじゃねえのかい」。
 「そうやおまへん」。
 界から来た向かいの主が、旅籠を出すに当たり、手を貸したつもりだった。だが根も葉もない悪い噂を立てられ、客が寄り付かなくなった挙げ句に、気が付けば贔屓の客を横取りされにっちもさっちもいかなくなったと言う。
 すると、向かいの主は、それはお困りでしょうと、二両をぽんと差し出してきた。有り難い事だと感謝をしていたが、遠のいた客足がそう容易く戻る筈もなく、二両はあっという間に使い果たし、ならばうちで女中をしながら返せば良いとの、旅籠の主の言うがままに従ったところ、女房は取られ借金だけが残り、どうにも働く気が起きないと言う。
 「すっぱりと女房を忘れて、商いを変えるってえのはどうだい」。
 未練は男を下げるだけだと、甚五郎は他人事のように、他人事だから、安易に話を終わろうとまとめるのだった。
 「せやけど、ひとり息子がおるのや」。
 聞けば、堺の回船問屋で手代にまで出世し、後は番頭。そして暖簾分けが楽しみだと、仏頂面の口元が初めて緩んだ。
 「だったらよ、こんな店は畳んじまってよ、その息子の所に行きゃあいいじゃねえかい」。
 「すかたん言わなんでおくんなはれ。こないなてて親は足手まといや」。
 何だか面倒臭くなってきた甚五郎。主が何を言おうと、重くなった瞼は次第に下がり、ああと空返事をしながら、板の間に横たわるのだった。






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浜の七福神 93

2014年06月28日 | 浜の七福神
 そんな真面目な話をした端から、美味しそうな匂いに誘われ、縄暖簾を潜ってしまうのが、甚五郎。
 「親方、圓教寺へ急ぎやせんと」。
 「なあに、圓教寺は逃げやしねえさ。それに今から行ったところで、直に日が暮れらあ」。
 「だったら、旅籠を決めましょうや」。
 そんな文次郎には耳も貸さずに潜った縄のれんの奥は、どうにも薄汚い飯屋であった。
 「おい、親父。酒はあるかい」。
 あるとなれば、佇まいなど気にする甚五郎ではない。
 ちろりなんぞは面倒だと、瓶から直に柄杓で冷や酒を酌む。
 ちっと舌を鳴らした文次郎。主に飯はあるかと聞けば、茶漬けくらいは出来ると、どうにも暖簾を出している割には、飯と酒しかないのがあからさまであった。
 それでも、育ち盛りの円徹を抱えての旅である。勝手に入り込んだ板場で、ようやく見付けた沢庵を具に冷や飯を握った文次郎。その皿を円徹の前に差し出すのだった。
 「親方はもういけねえ。あっしらは、この飯を喰ったら寝るぞ」。
 「寝るって、文次郎兄さん、ここでですか」。
 「ああ。小汚ねえ店だが、二階がある。寝るくれえは出来る筈だ」。
 主に寄れば、元は旅籠だったとか。それならば部屋にも夜具にも、不足はないだろうと文次郎が問えば、夜具はとのう昔に売り払い、ただ部屋があるだけだと言う。
 「でも、鼠屋よりは増しですね」。 
 三河安城で泊まった、宿よりも障子が入っているだけ増しだと円徹。
 「まあ、寒い時節じゃねえしな」。
 ふふふと笑いながら、階段を上る二人だった。一方の甚五郎はと言えば、年老いた主の愚痴を聞きながら、ついつい盃を仰ぐのだった。
 「おめえさん。もう良い年だが、ひとり者かい」。
 すると、主の目が急に険しくなる。
 「はす向かいの旅籠が、見えまっしゃろか」。
 暖簾をかき分け、指差した先には、大層な旅籠があった。
 「ああ、繁盛してそうな旅籠じゃねえかい」。
 「あの旅籠の女将が、わての女房なんや」。
 「へっ、じゃあ、愛想付かされて商売敵になったって訳かい」。
 相当に酔いの回った甚五郎。言葉に容赦がない。






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浜の七福神 92

2014年06月27日 | 浜の七福神
 「親方は、この御城の御普請はしていないのですか」。
 「そうさな。呼ばれなかったな。大方飛騨匠の仕事だろうよ」。
 「へえっ。ならこの御城には、不思議な事は起きないのかなあ」。
 「そう思うかい円徹」。
 「えっ、なら、御城が鷺に変わって空を飛んだりするのですか」。
 「こりゃあ良いや」。
 互いにぷっと吹き出し、愉快に笑う甚五郎と文次郎。そんな様子に、首を傾げた円徹。
 「だって、今にも飛び立ちそうな御城ですよ」。
 馬鹿にされたようで面白くなく、唇を尖らせるのだった。
 「良いかい円徹。城の不思議ってえのは、仕掛けって事なんでえ」。
 天守まで一直線に攻め込まれないように、城内にわざと、曲がりくねった細い道を造り、その左右の壁には、敵を弓や鉄砲で狙い撃つ為の、丸や三角の狭間を施すなど、それぞれの城に仕掛けがあると、甚五郎。
 「石垣を見てみろ。まるで扇を開いたように見えねえかい」。
 敵がよじ登るのを防ぐ為だと続ける。更には天守近くには隠し部屋を設けたりなど、絡繰り屋敷さながらだと。
 「だがな円徹。でえじなのは、こっからだ」。
 良く聞いておけと、何時になく目に気合いのこもる甚五郎に、少し身を引いた円徹だった。
 「城の仕掛けは、敵に知られちゃあならねえ。だからよ、普請に関わるあっしら堂宮大工は、常に命の危険にさらされるのさ」。
 「えっ。それは、御城を造り上げたら、殺されてしまうと言う事ですか」。
 ふっと、荒い息を吐いた甚五郎。
 「そんな事もあらあな。相手を見抜く目も必要だぜ。そいで、相手に信用させるだけの男でなけりゃ、ならねえのさ」。
 甚五郎自身、江戸城西の丸地下道普請に関わったが為、この度の防衛となった事を踏まえての、力の入った言葉に、黙って頷く円徹だった。
 「まあよ、幾ら信頼されていても、狙われる時は狙われちまうもんだけどよ」。
 「そう言えば親方、この天守閣にも嫌な噂がありやしたね」。
 三十年程前、城主・池田姫路宰相輝政の命で、九年の歳月を費やし普請を終えた姫路城。その折りの棟梁の桜井源兵衛が、完成した天守閣が少しばかり、辰巳の方向に傾いているのを苦にし、鑿を口にくわえ天守閣から身を投げた事を、文次郎が告げる。
 すると、更に眉間の皺を深く刻んだ甚五郎。
 「ああ。棟梁として、見上げた心意気だなんて言われちゃいるけどよ、真は薮の中だぜ」。
 城内で起きた事を、市井が知る由もない。そうして真実を隠し仰せるのも、城壁に囲まれた城の怖さであると言う。
 「いいか文次郎、円徹。良く聞いておきな。おめえら、甲良一門から一本立ちしてもよ、決して城の普請には手を貸すんじゃねえ」。
 甲良家は、徳川家大工棟であるから仕方ないが、大名家の普請は請け負うなと言う、甚五郎の眼差しには凄みすら感じるのだった。




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浜の七福神 91

2014年06月26日 | 浜の七福神
 「親方の不動明王には、病いを退ける力もあるのですか」。
 「いいや。こればっかりはな。幾ら神様だって出来ねえ相談だ」。
 ならば、騙したのかと円徹。すると、何時になく物悲しそうな声の甚五郎だった。
 「いいか円徹。人には定めってもんがあらあ。それを変える事は出来やしねえ。いや、しちゃならねえのさ」。
 「だったら、御殿様には不動明王様の御利益はないのですか」。
 「ねえかも知れねえが、あるかも知れねえ。人は何かに縋って、思いも寄らねえ力が生まれる時もあるからな」。
 何はともあれ、この事で領民が、藩主を恨むのではなく、気持ちを寄せる事が出来れば、人の力が何かを動かすかも知れないと、甚五郎は説くのだった。
 「恨みを買うような事は、してはいけないと。親方は言いたかったのですか」。
 「まあ、そんなところだろうけどよ、美味そうな鴨を目の前に、喰わねえ手はねえってのも本心ってとこかな」。
 悪戯っぽく戯ける甚五郎だったが、その実、彫り上げた不動明王を庸直の快癒を願い、岩屋神社の神官に開眼して貰っていた事も事実。
 未だ見ぬ庸直を思い、何やら、ほろ苦さが込み上げ、胸が詰まる円徹。明石の旅は、少しばかり人の定めを見知ったような気にさせたのであった。
 「まあ、江戸にけえったら、庸直の見舞いにでも行こうぜ」。
 若き藩主の快癒を、切に願う甚五郎たちであった。

 「漸く姫路の御城下だ。親方、圓教寺を見届けたら、今度こそ船に乗りますぜ」。
 文次郎が釘を刺す。
 「おう、あたぼうよ。そろそろ行かねえと、高俊も腹を立ててやがるだろうぜ」。
 「うわっ、これが姫路の御城ですか。本当に白鷺が翼を広げたよですね。ねっ、文次郎兄さん」。
 甚五郎と文次郎の懸念を他所に、悦に入る円徹であった。




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浜の七福神 90

2014年06月25日 | 浜の七福神
 その頃、甚五郎の彫った鴨は、城の中庭へと着地すると、元のように木彫りへと戻っていた。
 「御家老様。庭にこのような物が」。
 差し出されたのは、ねぎを背負った木彫りの鴨。誰の悪戯だと、眉をしかめた家老の圭之進だったが、足に結び付けられた文を目にした瞬時、顔色がさっと変わるのだった。
 「乗物、いや馬だ。馬を引けい」。
 「ほれ、来なすった。家老自らだぜ」。
 こっちだと、右の手を頭上で大きく振る甚五郎に、馬を降りた圭之進が走り寄る。遅れて馬を走らせたのだろう、若侍が二人ばかり従っていた。
 「御家老様よ、見てみなせい」。
 鴨で覆いつくされた田んぼを指差しながら、これでは、百姓衆が喰ってはいけないと進言する。それは如何にも分かって入るが、何分にも藩主庸直の病気快癒までは殺生は避けたいと圭之進。
 「おきゃあがれ。てえげえにしやがれ」。
 「何を申される。幾ら左甚五郎殿とて、容赦はせぬぞ」。
 共侍が、鯉口に手を掛けるが、一向に怯まぬ甚五郎であった。
 「良く考えなせえ。殺生を禁じたからって、殿様の病いが治るって保証はねえ。でいち、御領地からの年貢米が上がらねえとありゃあ、その殿様の薬湯を買う金子もねえんだぜ」。
 「それは、御尤もではござるが…」。
 口籠る圭之進に、更に追い打ちを掛ける甚五郎だった。
 「御国替えになったばかりの領民に、辛え思いをさせちゃあ、松平の名が廃るってもんじゃねえのかい」。
 「なれば、どうせよと申される」。
 「だからよ、殿様の為にこれを彫っておいたぜ」。
 懐から、小さな不動明王の像を差し出すのだった。己の木像が病いに利いたといった話はないが、殺生を禁じるよりは、御利益がありそうじゃないかと笑う甚五郎。続けて、病いであれば信心よりも、精の付く食べ物が一番だと。
 「どうでい、この鴨を江戸に送って、殿様に喰わせてみちゃあ」。
 顎に手を当て、暫し考え込む圭之進であはったが、甚五郎の不動明王は有り難い。
 「それとよ。病いには人の気ってもんも、でえじなのさ」。
 「気とは」。
 「領民がみんなして、殿様の快癒を願うってこったな」。
 目を閉じ、大きく息を吸った圭之進。
 「相分かり申した」。
 「そうけえ。そんじゃあ早速鴨を掴めえて、鍋にでもするか」。
 「甚五郎殿。それは」。
 「おい、捨吉。百姓衆を呼んで来な。御家老様が、鴨鍋を振る舞ってくれるってよ」。
 さすが七万石の大名だと、甚五郎に囃し立てられれば、致し方なく紙入れの紐を解いた圭之進。持ち合わせがこれしかないが、百姓衆への労いに用立てよと、小判数枚を捨吉に握らせるのだった。
 「では、御家老様。たった今から猟は解禁で良ござんすね」。
 「ああ。だが、江戸の殿に送る分は残して置かれよ」。
 これにて、田んぼの作物を巣食う鴨の大群も減り、稲穂は実りの秋に向け、青々と育つだろう。







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浜の七福神 89

2014年06月24日 | 浜の七福神
 「ほれ、腹は正直だ。まあ、食いねえ」。
 呆気に取られる捨吉だが、それでもやはり空きっ腹には勝てずに、四人は鴨鍋を囲むのだった。
 「捨吉よ、明日にはあの畑の鴨を、一羽残らず喰えるぜ」。
 妙に自信に満ちた甚五郎。その晩は空が白むまで、一心に鑿を動かし続けるのだった。
 その横で、こちらも不乱に見詰める二つの眼。鴨にしては、おかしな姿だと、瞬きもせずに見入る円徹だった。
 「おい、捨吉。縄はねえかい」。
 甚五郎は、彫り上がった鴨の足に文を結ぶと、今度は縄で、土間に転がっていたねぎの端っこを背負わせた。
 「さあ、この文を、城の渡部圭之進に届けるんだぜ」。
 甚五郎は、目を開けているのは憚られる程の、眩しい陽の光の中に、両の手で掴んだ鴨を高く放り上げる。
 すると鴨は、一度羽ばたいたかを思えば、何と何と、空高く舞い上がり、刷毛で掃いたような一筋の線を、城の方角へと描くのだった。
 「嘘でっしゃろ」。
 捨吉は己の目を手で擦り、再び空を仰ぐが、既に鴨の姿は空高く舞い、目で追う事は出来ない。
 円徹も、眩しさに寸の間目を閉じている間に、鴨は地面に落ちてはいないかと、足下を確かめるが、それらしき姿は何処にも見当たらないのだった。
 「あんさんたちは、何者やろか」。
 「おう、泊めて貰っておいて、名乗らねえとは済まなねえ」。
 江戸の堂宮大工の左甚五郎だと、名乗った途端、捨吉の顔が曇るのだった。
 「いってえどうしたんでい。あっしが何かしたかい」。
 そもそも鴨が繁殖したのは、岩屋神社の鴨居の、甚五郎が彫った鴨が、夜な夜な稲を食い荒らし、それが何時しか仲間を呼び卵を産み、気が付けばあそこまでの数に増えたのだと捨吉は言う。
 あれまと、月代をぴしゃりと叩いた甚五郎。
 「あっしのせいだったのけ」。
 ならば、国家老の渡部圭之進の返事を待つ間に、岩屋神社の鴨を動けなくして来ようと、腰を上げるのだった。
 「親方、鴨の目を釘で打ち付けるのですか」。
 「そうさ、円徹。やってみるかい」。
 園城寺で、龍に打ち付けたのだ。鴨なら容易いだろうと甚五郎は言うが、円徹の顔は冴えない。
 「鴨は小さくて、可哀想だから」。






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浜の七福神 88

2014年06月23日 | 浜の七福神
 「だったらよ。てめえの国元も見てねえ大名が、如何して鴨を捕らえちゃいけねえ、なんて法を作るんでい」。
 甚五郎の覚えでは、松平丹波守庸直は、未だ十代の筈である。領主になった途端の国替えなら、江戸屋敷の設えや役目に追われている筈。国元の鴨になど気が回るものかと、眉を潜めるのだった。
 「殿様が、お身体が弱いよってに、病気快癒を願って、国中の殺生を止めておるとのことや」。
 「ならよ、触れを出したのは、庸直じゃねんだな」。
 こくりと頷いた捨吉。国家老の渡部圭之進によるものだと言う。
 「親方、四方や城下まで戻るつもりじゃ、ありやせんよね」。
 折角、姫路に近付いて来たのに、明石の城まで戻ると言い出すのではないかと、文次郎は先程からはらはらしながら、事の成り行きを見守っていたのだが、ここにきて、我慢が出来ずに思わず口を挟んでいた。
 そんな文次郎を、ぎろりと睨んだ甚五郎は一喝。
 「馬鹿野郎。百姓衆がお困りなんでい」。
 「いってえ、どうしなさるんですかい」。
 ふんと、鼻で笑った甚五郎。まずは、鴨に城まで文を届けさせると言う。
 「おい、捨吉。今晩はおめえの家に泊めてくんな」。
 不意に言われても、食べる物もろくにないと捨吉が困惑すれば、田んぼに入り、一匹の鴨を横抱えにする甚五郎だった。
 「さて、鴨鍋にでもしようぜ」。
 「それは」。
 「構うこたあねえ」。 
 捨吉の家に入り込むなり、何やら掘り出した甚五郎であった。
 「親方、何を彫っているのです」。
 「おう、渡部圭之進の元まで、文を届ける鴨さ」。
 またも、小首を傾げる円徹であった。
 「親方、文を届けるなら、鳩じゃないですか」。
 何れにしても木彫りである。遥か遠くの城まで、文を届けられると、到底信じ難いが、それでも大真面目な甚五郎。
 「百姓衆は、鴨に困ってるんだ。鳩なんかじゃ、気持ちは伝わらねえってもんよ」。
 何を言っているのか、いまひとつ分からぬ円徹。助けを求めて文次郎を見れば、捨吉の怯えたような顔の前で、のうのうと、裁いた鴨を鍋に放り込んでいる。
 「文次郎兄さん。鴨を撃ったお人は、所払いになったって聞いたばかりじゃないですか」。
 口になど入れようものなら、どんな目に合わされるかと、円徹は目を見開くのだが、どうにも香ばしい香りが空きっ腹を刺激し、ぐうと腹の虫が鳴く。





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浜の七福神 87

2014年06月22日 | 浜の七福神
 「今度は、不思議は起こらなかったですね。文次郎兄さん」。
 「当たりめえだ。親方のおとっつあんの墓参りだ」。
 姫路へと急ぐ一行が、明石の外れへと差し掛かった時だった。
 「なんでい、こりゃあ」。
 甚五郎が驚くのも無理はない。田んぼへと引き込まれた水路から、田んぼの中までも、見渡す限りの鴨の群れ。もはや田んぼではなく、一体の地面は、鴨と化しているのだった。
 畦には途方にくれた若者が、それでも僅かに棒を振って、鴨を追い払おうと試みるが、全くもって効果はない様子。
 「おい、若えの。どうしなすった」。
 「どうもこうもない。この有様や」。
 聞けばここ数年、大いに繁殖した鴨に稲も穂も食い荒らされ、天災よりも酷い飢饉だと若者は言う。
 「だったらよ。その鴨を捉まえて、喰っちまったらどうだい」。
 これだけの数の鴨なら、喰いごたえがあるだろうと、舌なめずりをする甚五郎に、土地の者でないならさっさと消えろと、若者の怒りにも似た声が飛ぶのだった。
 「おい、てめえ。折角あっしが、考えてやってるのに、その言いざまは何でい」。
 「喰えるもんなら、とうに喰っとるわ」。
 その瞳は実に悲しそうだった。訳ありと見た甚五郎。軽率な無礼を詫び、捨吉と名乗る若者と膝を交えるのだった。
 「訳を話してみねえか」。
 すると、鴨を喰うどころか捉えるのも御法度だと、捨吉は言う。以前、我慢ならないとばかりに、撃った猟師は所払いになったと。
 「それじゃあ、百姓衆が生きていけねえじゃねえかい」。
 聞けば、前の年に藩主が変わってからの法で、これまでは、自在に鴨を追い払えていたと言うではないか。
 ぴくりと甚五郎の眉が動く。
 「確か、藩主は松平丹波守庸直だったな」。
 「こら、藩主様を呼び捨てとは何事や」。
 声が漏れていないかと、捨吉は辺りを見回すが、何度見ても、鴨、鴨。鴨。
 「丹波守庸直と言やあ、信濃松本の康長の息子だ。そういや、康長の後を継いだとか言ってたな」。
 松本から明石に移封になったのかと甚五郎。
 「おい捨吉。庸直は国にいるのけ」。
 国替えになったばかりで、一度も国入りはしていないと、首を横に振る。




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浜の七福神 86

2014年06月21日 | 浜の七福神
 弟子になりたいと門を叩いてから、甲良一門の誰もが、円徹の生い立ちを知ろうとはしなかった。
 そしてまた、ほかの誰の過去も口にはしない。それでいて、どこかで察してくれているような、春先の降日向のようなふんわりとした心地良さがあった。
 単に堂宮大工になりたいといった信念とは別に、漸くしがらみのない、円徹として生きていける場を得たような気がしたのである。
 「親方も、そのうちに話してえ時がくれば、話してくれるだろうよ。おめえもそうだろう」。
 熱くなった目頭から、涙が溢れないように、そっと指を当てた円徹だった。
 「おおい。けえるぞ」。
 「いけねえ。親方だ」。
 「隠れたって遅えや。おめえらが付けてたのは、先刻承知さ。だけど済まねえな。親父も小倉屋の団子は好物だったぜ」。
 にっこりと微笑む甚五郎の背から漏れる、夕陽が後光のように差し掛け、甚五郎の姿に金色の枠を付ける。その眩しさに、袖で目を擦って目をぱちくりとさせる円徹だった。
 「あっしが明石にいたのは、七つか八つくれえまでで、後は叔父を頼って飛騨高山だ」。
 その後十三歳で、京の伏見で禁裏大工棟梁の遊左法橋与平次に弟子入りした為、故郷と言える所はないが、それでも、ここで産まれたとなれば、どこかしら懐かしいものだと甚五郎。
 「だからよ、文次郎も円徹も、故郷は忘れちゃならねえぜ」。
 そして円徹には、もうひと言があった。
 「あっしが、おっかさんと離れたの十三の年だ。文次郎なんかもっと早えんだぞ。九つだ。円徹、おめえだけが寂しいんじゃねえ」。
 もういけない。押さえていた涙がぽろりと落ちるや、後は堰を切ったように、留まる事を知らず。
 茜色の空が、次第に紫から紺に変わるまで、甚五郎の胸に顔を埋めた円徹だった。




※「ついた餅も心持ち~寛永寺普請のお江戸草紙」は、その後のお話。合わせてお読みください。



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浜の七福神 85

2014年06月20日 | 浜の七福神
 「文次郎兄さん。お寺は分からないのですか」。
 「面目ねえ」。
 はあと、わざとらしい溜め息を付く円徹。直ぐさま踵を返し、先程の団子屋の主に、寺の名を尋ねるのだった。
 「円乗寺だそうです。ここから半町です」。
 団子屋の主が、伊丹様と言っていた事をしっかりと覚えていた円徹。その言い方から、恩義のある相手か、旧知の御方かと、円徹は想像していた。
 「おめえって奴は、てんから利口ながきだ」。
 へへっと、舌を出す円徹の仕草が、子ども染みているだけに、その違いに下を巻く文次郎。目から鼻に抜けるとは正にこの事。円徹の利発さには、脱帽するのだった。
 「伊丹、伊丹と。おっとここだぜ」。
 伊丹家と彫られた墓石の前には、未だ線香の煙が立ち込め、案の定山法師の花が生けられていた。そこへ、先程の団子二包みを備えた文次郎と円徹。手を合わせて黙祷を捧げるのだった。
 「文次郎兄さん。親方の父上は、御武家様だったのですか」。
 「どうしてだい円徹」。
 「こんな立派な墓は、御武家様か、そうとうな大店のでしょう。それに戒名が」。
 やはり僧籍にあっただけの事はあると、文次郎。
 「ああ、確か足利様にお仕えしていた筈だ」。
 「足利様って、前の将軍家ですか」。
 何が何やら分からなくなってきた、円徹だった。由緒ある足利家家臣だった父を持ちながら、それだけの家柄を惜しげもなく捨て職人になった甚五郎。
 その道で、将軍家、大名家とも対等に渡り合える、徳川家大工棟とまでなった。
 だが、だが、だがである。つい先達ても、川に飛び込み、二尺もの大きな真鯉に、股間に食い付かれていた男である。
 陸に上がっても、鯉は暴れて跳ねるものの、一向に甚五郎の股間から離れようとはせず、騒ぎに集まった洗濯女たちの目の前で、あられもない姿で赤松の枝に緋鯉を彫り上げ、その緋鯉を川へと離し、真鯉に後を付いて行かせたその男が、その師匠が、その甚五郎が、足利家と繋がる名門だったとは、心の臓がぴくぴくと動くのを感じる円徹だった。
 「親方は、如何して職人になったのでしょう」。
 「そうさな円徹。おめえと似たような訳があったのかも知れねえな」。
 「文次郎兄さん」。
 「誰しもよ、人には言いたくねえ事の、ひとつや二つはあろうってもんさ」。
 円徹の肩をぽんと叩く文次郎。その手の温もりがじんわりと円徹を包み込む。




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浜の七福神 84

2014年06月19日 | 浜の七福神
 「家は団子屋やよ」。
 「分かってるさ。だからよ、そこを曲げて」。
 香ばしい醤油のたれも要らなければ、餡もきな粉もかけるな。ただ、白い団子を欲しいとせがむ文次郎に、怪訝な顔をするなと言う方が無理である。
 「団子屋は、餡の味で値打ちが決まるのや」。
 「餡が美味かねえって言ってるんじゃねえ。今度ばかりは、白い団子が欲しいってんだい」。
 団子屋の主は、餡なしの半端な団子を売るのは、暖簾に傷が付くと、どうにも強情である。
 「ええい、分かったよ。ひと串幾らだい。だったら倍出そうじゃねえかい」。
 文次郎も、引くに引けずに、団子代を倍支払うと啖呵を切る。瞬時、主の目がきらりと光るが、頭を横に振る。
 「四倍なら、考えてもええーやよ」。
 「おきゃあがれ。この業突く張りが」。
 団子ひとつで、一触即発の形相を見せる二人。円徹は、文次郎の袖を引くと、そっと耳打ちをするのだった。
 「ほかにも団子屋はありますよ」。  
 「いいや、駄目だ。ここの団子じゃねえと駄目なんだ」。
 その言葉に、主の耳がぴくりと動く。
 「あんさん、どなたやろか」。
 「あっしは、関口文次郎。江戸の堂宮大工甲良一門の者でやす」。
 「その文次郎さんが、なんで家をお知りなのやろか」。
 そこで、文次郎改めて訳を話すのだった。
 「伊丹様の…」。
 主は、快く串を通さぬ前の白い団子を、竹の皮にひと包み。そして、みたらしをたっぷりともうもうひと包みを、文次郎と円徹に手渡すのだった。
 「お代は結構や。ただ文次郎さん。あんさんの名が世に出たら、商い繁盛の木像を彫っておくんなはれ」。
 「親方じゃなく、あっしで良いんですかい」。
 「あんさんやなくては駄目や。これは、あんさんとわての取引や」。
 「へい。必ず」。
 団子を手に、文次郎。急いで甚五郎の後に続くぞと、上機嫌であるが、円徹が水を差す。
 「あのう文次郎兄さん。御仏への御供物は、故人の好きだった物で良いのですよ」。
 白い団子に拘らずとも、供養したいという気持ちが大切だと説く円徹。
 「それを早く言いねえ」。
 「だって、文次郎兄さん。私には何も言わずに、団子団子って大騒ぎだったじゃないですか」。
 ぴしゃりと掌で己の額を叩く文次郎。
 「でも、お団子を沢山貰えて良かったですね。親方も喜びますよ」。
 だが、団子屋で思いのほか手間取った為に、すっかり甚五郎を見失っていた。





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浜の七福神 83

2014年06月18日 | 浜の七福神
 「あの母娘を見てたら、でえじな事を思い出したぜ」。
 何やらきな臭い香りがしなくもない。すっかり明石で足止めを食ったのだ。一刻も早く出立したい文次郎だった。
 「いや、そう手間は取らせねえよ。半時ばかり待っていてくんねえ」。
 「待ってろって、親方ひとりで、何処へ行きなさるんですかい」。
 ふっと片方の口元を上げた甚五郎。訳も話さず、単身どこかへふらりと出掛けるのだった。
 「何かありそうだぜ。円徹、付いて来な」。
 甚五郎の後ろ姿を見失わないように。甚五郎に見付からぬようにと、付かず離れずの二人である。
 「こんな事をして、親方に怒られないですか」。
 待っているように言われた筈だと、円徹は乗り気ではない。
 「親方ひとりで、何かあってみろ」。
 忘れているかも知れないが、一応は幕府から命を狙われている身だと、力を込める文次郎。
 そんな二人の様子に、気付いているのかいないのか、花売りが通り掛かれば花を買い、至って暢気に歩を進める甚五郎だった。
 「親方は、情婦(いろ)にでも会いに行く気かい」。
 言ってから、相手が円徹だった事に気づき、はっと口元を押さえる文次郎。
 「大丈夫です。分かっています」。
 「えっ、おめえ男と女の事が分かるのかい」。
 意外であった。僅か十一歳。しかも僧籍にあった円徹がと、文次郎はまじまじと、その幼い顔を見詰めるのであった。
 その団栗のような文次郎の瞳を異に返さずに、円徹は答える。
 「あれは山法師。仏花です」。
 「えっ、何だって」。
 「だから、親方はこれから、どなたかの御供養に参るのでしょう」。
 妙に大人びた言葉遣いに、どきりとする文次郎。何故分かるのだと問えば、この時期には山法師の花が、良く墓前に手向けられていたと、円徹。
 「墓参りか。知り合いでもいるのか…。あっ」。
 思わず出掛かった大声を、両の手で塞いで押し止めた文次郎だった。
 「すっかり忘れてたぜ。あっしらもこうしちゃいられねえ」。
 急にどうしたのだと言う、円徹の問いには答えず、文次郎は団子屋を探し始めるのだった。



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浜の七福神 82

2014年06月17日 | 浜の七福神
 さて、甚五郎の彫った頭の人形は、美和が三味線を奏でると、ぱっと目を見開いたかと思いきや、静々と立ち上がると、母の浄瑠璃に合わせて所作を始めるのだった。
 「えっ、誰が人形を彩っているのですか」。
 円徹は、人形の後ろ手に回り込むが、母親は横で浄瑠璃を唄い、美和は更にその横で三味線を弾いている。
 甚五郎と文次郎も、正面で胡座をかいて、人形芝居に見入っているのだった。
 「そうか」。
 天井から糸を垂らして、操っているに違いないと円徹。宙を手刀で探ってみるが、何ものにも行き当たらないのだった。
 「円徹。天井から誰かが操っているとしたら、それはいってえ誰の仕業だってえんだい」。
 文次郎は、全ての顔はこの座敷に揃っているだろうと一言。
 「宿の誰かに、頼んだのかも知れません」。
 「そうかい。人形を操るなんぞは今日明日で出来るもんじゃねえぜ」。
 甚五郎も、そう気難しく考えずに、そうそう見られぬ人形浄瑠璃を楽しめと、円徹を座らせるのだった。
 一方、勘定も支払わずに長逗留を決め込んだ、甚五郎を訝しがり、様子を伺っていた宿の主。
 暇さえあれば、甚五郎たちを覗いていたが、この有様にはびっくり仰天。
 思わず襖を押し倒し、部屋へと流れ込むのだった。
 「これは、この人形は妖やろか」。
 「妖っちゅうよりよ、魂が入ってるってところさ」。
 「あんさんは、いったいどなたはんやろか」。
 「あっしかい。あっしは、世間様では、左甚五郎と呼ばれてやす」。
 さて、これが評判となり、遠近からも訪れる客が増え、何とか当座をしのぐ見通しも立った母娘。甚五郎に感謝し涙にくれるのだった。
 「円徹はどうしたんだい」。
 またも大人しい円徹が気掛かりな甚五郎。文次郎に、訳を尋ねる。
 「いやね、近江の山上藩がどうのと言い出しやして」。
 「山上藩。確か安藤伊勢守重長か」。
 房州を故郷と言っていた円徹が、何故に近江の山上藩を知っているかはいざ知らず、何やら因果を感じる甚五郎と文次郎だった。

 人形浄瑠璃の母娘。甚五郎の頭の人形は、まるで生きているかのようだと、大層評判になり、国へ戻る算段もついたある夜の事。
 忍び込んだ盗人に、人形を奪われてしまったのだった。幸いな事に盗人は直ぐにお縄になったが、評判だけで、ちっとも動きやしないと、惜しげもなく人形を差し出すのだった。
 だが、娘が浄瑠璃三味線を弾き始めると、人形はむっくりと起き上がり芝居を始めたから、役人も盗賊も目の玉が飛び出さんばかりの仰天の表情。
 こうして母娘は、無事に国に戻ることが出来たと言う。しかし、淡路島に戻って以来、甚五郎の人形は全く動かなくなったそうである。
 「だってよ、あの母娘は国へけえりてえって願いだったんだぜ。御利益ってもんは、一度きりだからありがてえのさ」。
 過ぎたるは及ば去る如しと、甚五郎。




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浜の七福神 81

2014年06月16日 | 浜の七福神
 「文次郎さんも、三味線を覚えませんか」。
 ふっくらとした頬の美和に見詰められ、断り切れずに無骨な手でばちを握った文次郎だったが、驚く程の飲み込みの悪さに、円徹は苦笑を隠しきれずに、ついに大笑い。
 「文次郎兄さんは、不器用ですね」。
 「だったら、おめえは、弾けるのかい」。
 「戻橋を少しばかり、覚えました」。
 浄瑠璃の楽曲である。わずかな時で、始めて手にした三味線を弾けるとあって、円徹の元来の器用さに、尻尾を巻く文次郎であった。
 ちんとんしゃん。覚えた戻橋の序盤だけを弾き終えた円徹。ふと、妙な事を口走る。
 「文次郎兄さん、近江の山上藩は、ここから遠いのですか」。
 「近江は琵琶湖の北だ。もう随分と南へ来ちまった。何でまた、山上藩城下が気になるんだい」。 
 何でもないと、首を振る円徹。
 山上藩と言えば、その藩主こそ、江戸で寺社奉行を務める安藤対馬守重長だが、その領地は、わずか一万三千石。城を持たぬ陣屋大名である。円徹のような子どもが、知り得る大名家ではない。
 そう言えば、伏見で山上藩と聞いた時の、尋常でなかった円徹の顔色を、文次郎は思い出していた。
 「円徹、おめえが訳ありなのは、あっしも親方も承知の上だ。おめえが、山上城下に行きてえなら、親方に話して、あっしと二人で行って来ようじゃねえか」。
 「ううん、良いんです。文次郎兄さん。山上城下なんか行った事もないですから」。
 山上藩。到底、旅人の口に上る事もない、地味な琵琶湖の畔の城下町であった。
 そんな円徹の思いを他所に、漸く口を開いた甚五郎。
 「ほれ、首が出来上がったよ」。
 人形の首を母娘の前に差し出すのだった。そしてその首に、母の縫った着物を着せ、姿形が整うと、美和が三味線で、傾成阿波の鳴戸を弾き始める。
 始めて目にする人形浄瑠璃に、円徹は子どもらしく、目を輝かせるのだった。





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