大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~

2011年07月11日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 時は十三代将軍家茂の治世、万延元年(1860)。間もなく維新が起ころうかといったそんな時代。徳川の世が終焉を迎えるなど予想だにせず、江戸の町家は未だ未だ暢気なもので…。
 浮き世に転がる良縁、悪縁、腐れ縁…。「正に昨日は人の身、今日は我が身」とばかりに好まざるお人=ひってん(=文無し)、与太郎(=嘘つき)たちに見入られ、常に通り雨のような騒動の渦中に巻き込まれてしまう、古手屋の千吉、呉服屋手代の由造、大工の加助。幼馴染みの三人の受難の物語。

登場人物

古手屋千屋(川瀬石町)・千吉 二十三歳
 おっとしとした性格で気が良いため、裏長屋の住人ひってん与太郎たちの餌食となる。
呉服屋近江屋(日本橋呉服町通)手代・由造 二十四歳
 千吉の幼馴染みで遊び友だち。一見温厚そうだが、手代の顔と素の顔を持つ。大層な男前でもてる。
大工(元大工町)・加助 二十三歳
 気っ風が良く誠実で面倒見も良い。ここ一番では力を発揮する頼れる存在。

煮売酒屋豊金(川瀬石町)主人・金治 五十歳
 三人の溜まり場の主人で協力者。
 
川瀬石町裏長屋住人
 この物語の陰の主人公。常に千吉に災いを振り掛ける、色恋沙汰と銭が大好物ないずれ劣らぬ始末屋(倹約家)たち。思い込みだけで生きている、お気楽なひってん(文無し)、弥太郎(嘘つき)でもある。
 
磐城平藩浪人・濱部主善 四十五歳
傘張り・節 四十三歳
女髪結い・友 二十九歳
一膳飯屋女中・竹 三十歳
瀬戸物焼き継ぎ・三太 二十七歳



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一樹の陰一河の流れ~新撰組最後の局長 二十八  最終話

2011年07月11日 | 一樹の陰一河の流れ~新撰組最後の局長
 相馬主殿はもはや土方歳三の遺言ともなった使命を斉藤一に明かすのだった。斉藤は、「警視局に出仕している俺の方が早いだろう」。そう相馬への協力を申し出る。
 
 嘉永五年(1852)、十七歳だった土方は、江戸伝馬町の木綿問屋に奉公に上がり、そこで働いていた年上の女中を妊娠させていた。その子が健在であれば現在は十六歳。
 己の唯一の子が息災であるか否か。それが気掛かりな土方だったのだ。
 相馬に託したのは、「息災であればそれで良い。だが万が一、不幸せであったなら救っては貰えぬだろうか」。
 当時は若さ故、先の事など思いもせなんだ土方も日々生き死にの狭間にあって、己の不実さを実感していた。
 「局中法度なら、俺は切腹ものだ」。
 土方は苦笑いをしながらそう言うと、相馬に、もしもの時は多摩石田村の佐藤彦五郎を頼る様にも話し、市村鉄之助もそこに逃がしたことを告げる。
 地を絞る様な悲痛な願いを相馬は承諾した。
 それ故、新島での平穏な生活を捨てて迄東京に戻ったのである。
 これからは土方の遺児を捜す事に没頭したい。慎ましやかな暮らしの中で幾ばくかの蓄えも出来ていた。
 
 斉藤の尽力で行方が知れた土方の遺児は既に鬼籍に属していた。
 その事を知ると相馬は、「もはや我が身に使命無し」。

 ある日、妻のまつを呼ぶと、
 「まつ、東京や豊岡での暮らしは大層気疲れであったであろう」。
 唐突なこの問い掛けにまつは躊躇するも、
 「いえ、旦那様に嫁ぎましたからには安穏とした暮らしは出来ない事は覚悟していました」。
 目まぐるしく変わる環境の中、数年の間にまつもすっかり肝を据えていた。
 「まつは、我妻となり幸せであったや否や」。
 この様なことを聞かれるのは初めてのまつは、ただ成らぬ空気を感じながら本音をぶつける。
 「どこでどの様な暮らし振りとて、旦那様と一緒であれば悔いはありません。ただ、一つだけ…」。
 「一つだけ、それは何だ」。
 「子を産めなんだことです」。
 これはまつが常々悔いていたことだったが、相馬がその事を口にする事が無く、まつはそれだけが救いだった。
 すると相馬は、
 「左様か。それを気に病んでおったか。気付かずにすまぬことをした。子が居らぬとやはり寂しいか」。
 「いえ、旦那様に申し訳なく」。
 相馬は、子が出来ないのは誰の攻めでも無く定めときっぱりと告げ、更に、
 「子を設けられずとも、相馬主計、三国一の嫁を娶った。わたしは幸せ者にあった」。
 これはもはや死を覚悟した言葉ではないだろうか。まつは背筋が凍り付く思いでいた。だが、そんなまつに構わず、
 「遺言と思って欲しい」。
 相馬はそう言うと、
 「いつ何処で我が身が朽ちようとも、そして我が骸をいずこに埋葬せようとも、一切他言無用」。
 力強い重々しい口調だった。返答が出来ないまつに、相馬は、今直ぐの事ではなく、老いて後のことだと笑って言いながらも、眼光は決して笑う事は無い。
 まつは夫の死を直感していた。

 数日後、相馬は、多摩石田村の佐藤彦五郎、常陸国の実家への文を持たせ、郵便局へと外出させる。
 まつはこの時、嫌な予感が走り、行く事を渋るが、
 「なあに、暮らしも落ち着いた故、我が住まいを知らせるのみ」。
 笑顔の相馬に促されるのだった。
 まつを送り出した相馬は身を清め、割腹して果てた。
 まつが目にしたのは血飛沫に染まった障子と、変わり果てた相馬の姿であった。
 血に染まった傍らの遺言書には、
 「一切の他言無用。まつ殿には誠に申し訳なく、詫びようも無いが、函館にて腹を斬っているべき御身を生き長らえさせたのはある使命の為。それが潰えた今、生き恥を晒すよりも武士としての己を全うしたい」。
 そしてまつの今後は、旧新撰組三番組組長であった斉藤一が面倒をみてくれることを告げていた。
 だがまつは、斉藤の援助を良しとせず、新島の実家の植村家へ戻り、大正十二年七十六歳で没する。
 「わたしは相馬様が居たからこそ、こうして東京迄参りましたが、相馬様亡き今、留まる理由はありません。島の女子故、住み慣れた島で菩提を弔いとうございます」。
 相馬を失ってからの年月は、共に過ごしたそれよりも長いものであった。だが、まつは相馬に出会えた事に感謝し、静かな余生を送る。
 そして相馬の遺言を頑に守り、相馬の没年も埋葬の寺も明かさなぬまま生涯を閉じたのだった。
 最期迄、新撰組隊士であり続けた相馬の自刃は、その時を生きていた斉藤、永倉新八、島田魁、野村利三郎にとっても衝撃であった。
 斉藤は翌年、西南の役に従軍している。

 懐かしい新島の海岸で、まつは相馬の姿を思い描いていた。
 まつにとっても相馬にとっても生涯最も幸せな時は、この新島での二年間だった。
 相馬が実直でなければ、時代を受け入れる柔軟さがあれば、命を落とす事は無かっただろう。
 だが、相馬は最後迄、新政府を認めなかった。土方歳三の忠臣であったのだ。
 相馬主計。この名を新撰組の歴史の中に見ることはほとんど無い。それでも相馬は新撰組を背負って生き抜いたのだった。
 
 割腹の直前迄、相馬は新島の海を思い浮かべていた。そして己の傲慢であの美しい島からまつを連れ出したことを後悔するのだった。それでももはや生きる気力が失せた哀れな最後でもあった。
 斉藤は、
 「相馬君は生真面目過ぎたのだ。新撰組の局長などと名乗り出なければもっと違った生き方が合った。新政府を糧の為だと割り切れば生きる術も合った。不器用な男であったが、その生き様、感服致す」。
 まつにそう告げている。


 相馬主計。幕末を駆け抜けた男は、時代に翻弄されながらも己の信念を曲げなかった最期の新撰組局長であった。

 完



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