「千吉に相思相愛の女子ができた。そりゃあ別嬪で似合いの二人だ」。
川瀬石町裏長屋にこんな噂が飛び交うまでそう日数はかからなかった。噂の主は、つい今しがたまで、「千吉が節を好いている」。いい加減なことを言って節を嗾けていた濱部である。濱部の耳に入れたのは、豊金の主の金治と、由造、加助だった。
「何だって」。
節は顔を強張らせ、濱部の胸ぐらを掴むと、
「そんな話は聞いちゃいないよ」。
大層な剣幕である。これには濱部も寸の間黙ったが、すぐに、
「そう言われてもなあ。それにお節さんが何故そのように怒っておるのだ」。
「あんた…あんたが言ったんじゃないか」。
濱部は、「わしが何が申したのか」。恍けているのか、心から忘れているのか。この男、己の惚れた腫れたのほかはとんと興味がないのだ。
「もしやお節さん、お前さん千吉に惚の字なのか」。
濱部は冗談めいて言うが、耳迄真っ赤にして俯いてしまった節を目の当たりにすれば、幾ら疎い濱部にも手に取るように解る。ここで慰めの言葉の一つもかける気配りを持ち合わせぬこの男。己の思いの侭に、馬鹿笑いをすると、笑い過ぎて目には涙まで浮かべる始末。
そして、節の肩をぽんぽんと叩くと、
「お前さん、己の年を考えてもみろ。千吉は息子ほども年下ではないか。幾らお前さんが好いたとしても、千吉がお前さんに惚れるなんざ、万に一つもないだろう」。
「何を。大体あんたがね」。
節は怒りに震える手で、大きな濱部の首を力任せに絞めていた。
「止めろ、止めろ」。
この人目も憚らぬ中年二人の喧噪を、物見高い江戸っ子が黙って見ている訳もなく、いつしか長屋の前は人だかりで溢れていた。
「何の騒ぎなんでえ」。
折り悪く、訪ねて来たのは加助であった。
「あれ、加助さん。千吉さんに女子がいたってんで、お節さんが、濱部様に食ってかかってるのさ」。
千吉に女子がいたからって、節が怒るのもおかしければ、濱部と喧嘩をするのも辻褄が合わないと長屋の住民はこの不思議な光景に頭を傾げるが、そこは事情が解っている加助だ。千吉の災難が去って一安心するも、流石に女が武家に腕っ節で適う訳もなく、「しかたねえや」。間に割って入り、ことを収めるのだった。
「かたじけない」。
食い下がる節を引き離すと、濱部は簡単に礼を言い、罰が悪いのか己の家へと直ぐに引き揚げる。
後には神を振り乱し肩で息をする節が、加助の両腕で後ろから肩をがっしりと掴まれていた。
「まあ、お節さん少しは落ち着いて。おっとそうだ」。
加助は懐から包みを差し出すと、
「今日の棟上げで貰った、両国の幾世餅だ。甘い物を食べると気持ちも落ち着くだろうさ」。
そっと節に握らせた。その時、節の指が加助の手に微かに触れると、節の目がまた剣呑に光ったのだが、加助は全く気付かずにいるのだった。
(いけね。おっかさんに食べさせたくて持って来たんだがな。まあ、これで千吉の難も去ったってことでおっかさんも承知してくれるだろう)。
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川瀬石町裏長屋にこんな噂が飛び交うまでそう日数はかからなかった。噂の主は、つい今しがたまで、「千吉が節を好いている」。いい加減なことを言って節を嗾けていた濱部である。濱部の耳に入れたのは、豊金の主の金治と、由造、加助だった。
「何だって」。
節は顔を強張らせ、濱部の胸ぐらを掴むと、
「そんな話は聞いちゃいないよ」。
大層な剣幕である。これには濱部も寸の間黙ったが、すぐに、
「そう言われてもなあ。それにお節さんが何故そのように怒っておるのだ」。
「あんた…あんたが言ったんじゃないか」。
濱部は、「わしが何が申したのか」。恍けているのか、心から忘れているのか。この男、己の惚れた腫れたのほかはとんと興味がないのだ。
「もしやお節さん、お前さん千吉に惚の字なのか」。
濱部は冗談めいて言うが、耳迄真っ赤にして俯いてしまった節を目の当たりにすれば、幾ら疎い濱部にも手に取るように解る。ここで慰めの言葉の一つもかける気配りを持ち合わせぬこの男。己の思いの侭に、馬鹿笑いをすると、笑い過ぎて目には涙まで浮かべる始末。
そして、節の肩をぽんぽんと叩くと、
「お前さん、己の年を考えてもみろ。千吉は息子ほども年下ではないか。幾らお前さんが好いたとしても、千吉がお前さんに惚れるなんざ、万に一つもないだろう」。
「何を。大体あんたがね」。
節は怒りに震える手で、大きな濱部の首を力任せに絞めていた。
「止めろ、止めろ」。
この人目も憚らぬ中年二人の喧噪を、物見高い江戸っ子が黙って見ている訳もなく、いつしか長屋の前は人だかりで溢れていた。
「何の騒ぎなんでえ」。
折り悪く、訪ねて来たのは加助であった。
「あれ、加助さん。千吉さんに女子がいたってんで、お節さんが、濱部様に食ってかかってるのさ」。
千吉に女子がいたからって、節が怒るのもおかしければ、濱部と喧嘩をするのも辻褄が合わないと長屋の住民はこの不思議な光景に頭を傾げるが、そこは事情が解っている加助だ。千吉の災難が去って一安心するも、流石に女が武家に腕っ節で適う訳もなく、「しかたねえや」。間に割って入り、ことを収めるのだった。
「かたじけない」。
食い下がる節を引き離すと、濱部は簡単に礼を言い、罰が悪いのか己の家へと直ぐに引き揚げる。
後には神を振り乱し肩で息をする節が、加助の両腕で後ろから肩をがっしりと掴まれていた。
「まあ、お節さん少しは落ち着いて。おっとそうだ」。
加助は懐から包みを差し出すと、
「今日の棟上げで貰った、両国の幾世餅だ。甘い物を食べると気持ちも落ち着くだろうさ」。
そっと節に握らせた。その時、節の指が加助の手に微かに触れると、節の目がまた剣呑に光ったのだが、加助は全く気付かずにいるのだった。
(いけね。おっかさんに食べさせたくて持って来たんだがな。まあ、これで千吉の難も去ったってことでおっかさんも承知してくれるだろう)。
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