大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~ 二

2011年09月30日 | 百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~
 兄様。春浅し未明に、千代の御主人様瀧山様の御部屋から火の手が上がり、千代も、大変に怖い思いをいたしました。
 万が一、火元ともなれば、瀧山様にも御咎めがございます。部屋方は、火の元を探しましたが、全くもって心当たりもございません。
 天ぷらを食べたい時には、御前膳所の御仲居に揚げてもらうくらいに、大奥では火には気を配っています。
 お調べでも、火種がなかったことが明らかになり、どうやら、お咎めもなく、誰ひとり怪我もせずに事なきを得ましたが、逆に付け火の疑いがもたれています。
 瀧山様がどなたかに恨まれているのではと思うと、それもまた、千代には恐ろしくてなりません。
 瀧山様は証がない故、何も申すなとおっしゃっておられますが、先達て、朝な夕なに御酒を召し上がり、毎日が宴のごとき騒ぎの実成院様を瀧山様が嗜められたことがございました。実成院様とは公方様のお母上様にございます。
 この度の火事と関わりがなければよろしいのですが。
 兄様。間もなく公方様が御上洛なされます。二百三十年振りの将軍様御上洛ということです。
 兄様のお働きお祈りいたしております。




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百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~ 一

2011年09月29日 | 百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~
 文久三年如月十一日にございます。
 兄様。大奥では、他言無用の厳しい戒めがございます。親族なれど、大奥で見聞きした事は話してはならないそうです。
 文は全て改められますので、容易く兄様に知らせも書けません。
 そこで千代は、日々の事を書き連ねる事にしました。もしかすれば、兄様に読んでいただけると思って。
 大奥とは、表立っては華やかな世界にございますが、その裏は女子同士の諍いの耐えぬところにございます。
 兄様が、武家奉公をしたいなら、大名家か御旗本の方が良いとおっしゃっていた事が、身に染みてございます。
 されど、千代は、伯父様の御尽力で、御旗本の養女となって大奥に入りましたので、まだ夜も明け切らぬ内に起きて、氷の用に冷たい水に手を浸すようなお仕事ではない事を感謝しております。
 十四代様は、未だ御若く秀麗な御方にございますが、昨年に宮様を御台様として迎えられてから一年になりますが、御台様御懐妊に兆しもなく、将軍様に於かれましては、前にも後にも御側室はおりません。
 御年寄様方が、己が部屋の御中臈様を献上したいと躍起になり、御中臈様たちの剣呑さは日々増すばかり。
 皆様、御側室になろうと、化粧や衣装に随分と熱が入っているようです。
 兄様は御存じでしょうか。大奥では、御目見え以上と以下があるのです。
 御目見えとは将軍様に御拝謁出来るや否やにございます。ここでも女子たちの思いは交錯いたします。
 八代吉宗公は御目見以下の、御女中を湯殿で見初めたとかで、御目見以下の御女中にも色めきだっている御方もおられます。
 千代には分かりませぬ。一歩御城を出れば、幾らでも男衆はおられます。如何して将軍様おひとりに、皆憔悴なさるのか。
 兄様は今頃、何処におられましょう。聞いて欲しい事ばかりにございます。
 そうそう、兄様、大奥の皆様は、まるで大福餅のような御顔です。千代も否応無しに大福にされました。


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百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~

2011年09月26日 | 百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~
 時は、江戸幕府第十四代将軍・徳川家茂の治世。どこもかしこも不平不満と、足の引っ張り合いで、終わりなき女の執念がぶつかり合う。味方なきバトルロワイヤル。ひとりの奥女中が、兄宛の手紙に模した日記で大奥の実態を綴ります。
 近日連載開始予定。






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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 有為転変は世の習い十 最終話

2011年09月25日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「もちろんさ。そもそも番頭だった旦那を入り婿にしたのさ。店を持たせりゃあ御の字だ」。
 「そんなもんですかね。これまでその旦那さんが商いをしてこられたのでしょう」。
 「千吉も、加助のわしが金持ちになるので、焼いておるのだな。気に止むな、お主らにもそのうち馳走をしてやる」。
 千吉と加助は顔を見合わせ、言葉がない。
 「いいんじゃないか千吉。放っておいてさ。お縄になるならなればいいのさ」。
 「しかしね加助、濱部様も女と銭にはだらしないが、そう気質が悪い訳じゃないんだ」。
 得意満面の濱部が言うだけ言って、また銭を置かずに帰った後、千吉と加助はやれやれといった面持ちである。
 「千吉、加助。これで濱部様が長屋から出て行ってくれりゃあ、災いがひとつ去ろうってもんさ。少しはお前らの身の回りも静かになろうってもんだ。黙って見てなよ」。
 金治に言われるまでもなく、色恋沙汰に思い込みが先走り、決して己の財布の紐を緩めはしないが、飲み食いは大好きな始末屋の濱部が片付けば、先立ってこちらも筋金入りの始末屋・三太も上方へと消えていた。東西の人の褌で相撲を取る横綱は消える。瓢箪の川流れのような、皮相浅薄の自称飛騨匠の小頭・富次も直に居なくなるだろう。
 そうなれば、色惚けの大年増の傘張り・節と、こちらも色惚けの人の牛蒡で法事するのが心情の傘張り・節。女同士の揉めごとを引き起こす、人の鼻息を仰ぐような女髪結い・友だけだ。
 このところすっかりなりを潜めているところを見ると、どこぞの男にでも熱を上げているのだろう。煮売酒屋・豊金に顔を出すことはないので、一安心だ。
 加助も今は通いの大工になり、引かれ者の小唄を地でいく親方の女房の志津とも顔を合わせずに済んでいる。
 これまた新たに現れた札差佐那岡屋の女房の雅とは、決して関わらなければ良い。
 「あたしらも、人こそ人の鏡。ああはならないようにしなくちゃね」。
 千吉は、加助とこの宵、最後の一杯を引っ掛けて千屋へと引き揚げるのだった。
 「由造、早く帰って来ないもんかね」。
 「早くは帰って来て欲しいのは山々だが、由造に気がある女子が皆嫁いじまってからの方が、面倒がなくて良いさ」。
 「違いない」。
 明るい笑い声が、川瀬石町を行く。

  第一部完了

 ※人の褌で相撲を取る(ひとのふんどしですもうをとる) 
  他人のものを利用して自分の利益をはかる「ずるさ」を言う。
 ※瓢箪の川流れ(ひょうたんのかわながれ)
 浮き浮きして落ち着きのないようのたとえ。軽薄な男を冷やかして言う。
 ※皮相浅薄(ひそうせんぱく) 
 表面的で底が浅いこと。
 ※人の牛蒡で法事する(ひとのごぼうでほうじする) 
 他人のものを利用して、自分の義理を済ませることのたとえ。 
 ※人の鼻息を仰ぐ(ひとのはないきをあおぐ) 
 人の意向を気にして、依存しようとすること。
 ※引かれ者の小唄(ひかれもののこうた) 
 追い詰められた者が言ってもかいのない強がりを言うこと。
 ※人こそ人の鏡(ひとこそひとのかがみ) 
 他人の言動は、自分の至らなさを直すよい手本になることを言う。

 ご愛読ありがとうございました。


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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 有為転変は世の習い九

2011年09月24日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「いずれにしてもだ。親方が決めなすったことにあっしらは口出しはできねえ。それにお前さんには大工は向かねえようだ。観念してくんな」。
 加助が言えば、目を大きく見開き剥きになったのか、
 「あっしは、宮工大工なんでえ。町大工の仕事に慣れていないだけだ」。
 「そうかい。だったら江戸でも日本橋の上谷親方の所へでも行ったらいいんじゃないかい」。
 加助の言葉を耳にした富次の目がきらりと輝いた。
 「日本橋の上谷親方ですね。いいことを聞いた。あそこならあっしの腕も生かせるってもんで」。
 富次はそそくさと帰って行くのであった。
 「床も満足に張れね大工が宮工なんぞ、おかしくってへそが茶を沸かすってもんだ。佐平も災難だったな。まあ、呑みな」。
 ようやく佐平もほっとしたのか、加助の酌を受けるのだった。
 「凄まじいお人だね」。
 千吉は、己は小さな店で妹と二人の商い故、おかしなお御仁と働かずとも済むことに感謝したい思いでいた。
 「それが、長屋の女子衆の前では、そうとうに威張り散らしているって話だそうさ」。
 不意な声の主は、富次の話になるまで話題を締めていた、浪人の濱部主善。
 「濱部様、何時からお出でで」。
 「富次が帰ったのと入れ違い。いや、富次が出て行くの待っておった」。
 濱部はにやりと笑う。
 「さすがに、わしもあの男は口先ばかりで訝っておったのだ」。
 そんな濱部もそうとうに訝しい。
 「濱部様、大店のお内儀と割りない仲ってえのは本当ですか」。
 濱部は頭を掻きながら、てれ笑いを浮かべ、
 「お主たちにもこれからは商いを回してしんぜよう」。
 などとぬかしている。
 「わしは武士故、銭勘定には疎くてな、千吉商いを教えてくれ」。
 「いや、濱部は中々に銭勘定には長けておいでですよ。人の銭で飲み食いすることに関してはね」。
 こんな皮肉も伝わらないのか、すっかり褒められた気分で、濱部は、「大店の主人の修行をせねば」。と顔を綻ばせるのだった。
 「濱部様、余計なことやも知れませんが、お相手は大店のお内儀と噂ですが…」。
 千吉は言い難いことだが、それでも見知らぬ仲ではない濱部が、不義密通などにならぬようにと、口を挟んだのだが、そんな心配はいらぬおせっかいだったのだろう、
 「ああ。だがな、どうにも旦那と上手くいっていなくて、直に離縁して、旦那には小さな店を持たせるのさ」。
 「それで、旦那さんってえのは納得しなすってるんですかい」。
 加助も、そういう一番大切なことを濱部が考えていないこと重々承知している。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 有為転変は世の習い八

2011年09月23日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「兄さんが帰られた後、親方が上総屋さんから戻って来なすって、造り足したばかりの帳場の床が抜けたってんで…」。
 「両替商の上総屋さんなら、それは確か、こいつが二、三日前にやった仕事だろう」。
 加助は、土間に立ったまま俯いている男に目をやる。
 「お前さんよ。たった一坪の床も造れねえのかい」。
 「いえ、あっしは何も…。あっしは」。
 「だがよ、床が抜けたってえのは本当なんだろう」。
 富次の首は更に深く折れ曲がり、俯いていく角度が深くなる。
 「それで、ついに親方が富次さんに手を付いて、頼むからもう来ないでくれって言ったんでさあ」。
 「ならそれでいいじゃねえか。佐平、お前はどうしてこいつと一緒なんだ」。
 佐平は富次をちらりと見ると、
 「辞めたかねえって、あっしから離れないです」。
 どうやら途方に暮れた佐平が、加助に助けを求めて来たらしい。
 加助は、溜め息を付くと富次に向かい、
 「そろそろ潮時なんじゃないかい」。
 「ですが、女房が…。借金もあって女房が…。賃金を貰わねえと女房が…」。
 「だったらまともに働きやがれ」。怒鳴りつけたい衝動を堪えて加助は、穏やかに話すが、それでも富次は、「辞めたくない。女房が…」。と繰り返すばかり。見兼ねた千吉が口を挟んだ。
 「富次さんとやら、さっきから女房、女房って繰り返してなさるが、だったらそのおかみさんにも働いて貰ったらどうだい」。
 すると、富次は急に正面の千吉を睨み付けるや否や、
 「女房を外で働かせたら、男共が放っちゃおきやしない。そんな危ねえ目に合わせられねえ」。
 きっぱりと言い切った。
 もはや、言葉を失った千吉、加助、佐平である。
 「あれそんなに良い女だったら、お目に掛かりたいもんだね」。
 金治が横から割り込むと、今さっきまで悲嘆に暮れていた筈の富次が、懐から何やら帳面を取り出すと、徐に見開き、「女房です」。にんまりとしながら、へたくそな絵姿を見せる。自らの手で次々にめくり、立ち姿や、似顔絵、見返り、横向きなど、幾枚もの絵に、誰もがうんざりしているのも構いなく、「この絵は、浅草寺の茶屋で描いたもので」。「ここは上野不忍池」。と、注釈も付く。
 「お前さん、それを毎日持ち歩いてなさるのかい」。
 千吉は大きく頭を左右に振る。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 有為転変は世の習い七

2011年09月21日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「それがそうもいかねえのさ。親方が幾ら引導を渡しても辞めねえ。それどころか、満足に鉋もかけられなくても、あっしらに指示を出すのさ」。
 「加助、どういうことだい」。
 「だからよ。口を動かしてばかりで一向に手を動かさねえ」。
 「加助、ちょいと待て。おかみさんだってそんな男は嫌いだろうさね」。
 金治も言うが、
 「女には滅法人気があるな。とにかく口が巧いときている。おっと忘れてた。奴は女房持ちだから、内弟子じじゃねえ。川瀬石町裏長屋からの通いだそうだ。三太の後に入ったらしいぜ」。
 千吉も、金治も口をあんぐりと開け、
 「やはりあの長屋は、おかしなお人しか集まらない、福無し長屋だったのかね」。
 「それが久方ぶりの所帯持ちだろ。大家の近江屋さんは大喜びってえ話だ。これを期に福の神がやって来るんじゃないかってね」。
 千吉と金治は顔を見合わせた後、気になっていることを加助に聞いた。
 「それで今はどうしているのさ」。
 「さすがに親方も堪忍袋の緒が切れて、暫く干した後、飛騨匠の下で修行したなら、町大工なんぞ馬鹿馬鹿しいだろうって。言ったのさ」。
 ふんふんと千吉と金治は話に引き込まれる。
 「そしたら、何と言ったと思う。あっしは教えるのが好きだから、親方のお弟子を立派に育てますって言いやがった」。
 どうやら加助は、この言葉に最後まで押さえていた怒りが沸き出したらしい。
 その後は、「釘も打てねえ奴に教えて貰う程、あっしは未熟じゃねえ」。加助が我を忘れて酔うのは、千吉が知る限り初めてのことだった。
 もはや、濱部と佐那岡屋の雅のことなぞ、勝手にしてくれと言わんばかりの加助の状況である。
 「幾ら親方が干しても、現場には来るのさ。それで口を動かして一端の仕事をしたつもりで帰って行くのさ」。
 憤懣修まらぬ加助が、ひとしきり話し終え、ぐいっと酒を煽った時、煮売酒屋・豊金の縄暖簾が揺れる。
 そこには困惑した顔の加助の弟弟子・佐平の姿が合った。
 「あれ、佐平じゃねえか。加助なら奥だよ」。
 主人の金治に声を掛けられると、尚更、眉を八の字に下げ、今にも泣き出さんばかりの表情である。
 「兄さん」。
 「佐平、どうしたい情けなねえ面しやがって」。
 それもその筈、佐平の肩越しにぬぼうとして締まりのない男が、泣きじゃくりながら立っていた。
 「お前は…」。
 「兄さん済まねえ」。
 加助は、千吉と金治に、「あれが礼の飛騨匠の小頭だったってえ富次だ」。そう小声で囁くのだった。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 有為転変は世の習い六

2011年09月20日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 棟梁の女房・志津以外は、ほとんどが聞き役だった加助にもついに試練の時がやってきた。
 「飛騨匠の元で小頭まで務めたって男がやって来たのさ」。
 「それは凄いお人だね」。
 千吉でも飛騨匠の名は知っているくらいに有名な堂宮大工の棟梁である。
 「そんなお人が、何でまた町大工になんかなったのさ」。
 「まあ聞いてくんな」。
 加助は、深く溜め息を付くと、
 「最初は威勢が良かったが、そのうちに現場に来なくなったのさ」。
 「あれま」。
 「その訳ってえのが凄げえ。女房が風を引いた。女房が米を買いに行くって具合だ」。
 「それで平五郎親方は許してるのかい」。
 「いいや。腹に据えかねて言ったさ。そうしたら泣くんだ。三十路の男が、おいおい泣きながら、あっしは働く為に江戸に来たんじゃねえ。女房と一緒の時を過ごしてえって」。
 千吉は己の耳を疑い、もはや倒れる寸前の驚きである。そっと聞き耳を立てていた、煮売り酒屋・豊金の主の金治でさえも、胸の鼓動を押さえ切れずにいた。
 「なら辞めてもらえばいいだけの話じゃないのかい」。
 「千吉。あっしだってそう思ったさ。もちろん、親方もそう言った」。
 「なら良かった」。
 「するってえと、辞めたくないって、おいおい泣くのさ。すると、おかみさんが庇って辞める話は無くなるって寸法さ」。
 「おい加助、さっきから聞かせて貰ったが、その男は、飛騨匠の元で小頭まで務めたんなら腕は確かなんだろう」。
 思わず金治が口を挟むと、加助は頭を横に振り、
 「鉋も満足にかけられねえ」。
 「あれま、飛騨匠ってえのは鉋を使わないのかい。
 千吉は心底驚いていた。
 「それでな、なら彫り物ならいいだろうってえんで、親方が欄間を任せたのさ。そしたら三月経っても鑿が入ってねえのさ」。
 その事実にも驚いたが、既に三月以上も平五郎の下で働いていたことに千吉も金治も驚きを隠せないでいた。
 「加助。これまで一度もそのお人のことを言わなかったねえ」。
 「ああ、由造のことや、おかみさんのことや、色々あって話す機会も無かったのさ」。
 加助は三人の幼馴染みの中で、最も気持ちの大きな男である。人の話を聞いてはあれこれ思うが、己の愚痴はほとんど話さない。
 そんな加助が、この日は唾を飛ばしながらの熱弁である。余程腹に据えかねたのであろう。
 「それで、その欄間はどうなった」。
 「あっしらが手分けして江戸中の彫り師を当たって、休み無く彫ってもらったさ」。
 「なら良かった」。
 千吉も人ごとながら、ほっと胸をなで下ろすのだった。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 有為転変は世の習い五

2011年09月19日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「濱部は、器量はともかく若い女好きだった筈だけどね」。
 「年増でも色気がありゃあ、濱部様には問題ねえ」。
 加助は雅に会ったことがないことを千吉は思い出し、
 「色気っていうよりも、女としてどうかなって」。
 「そりゃあどういう意味だい。器量が悪いのかい」。
 加助は興味深そうに、千吉を見詰める。そんな素直な眼差しに、千吉の口も軽くなり、
 「器量の善し悪しよりも、物の言い方とか仕草がね。どうにも意地が悪いと言うか…。その、舐め回すような目付きがどうにも蛇みたいなんだ」。
 決して器量も良いとは言えないけどねと、千吉は付け加えることを忘れなかった。
 「じゃあ何かい。あの三太みたいな感じかい」。
 加助に指摘され、千吉は、「ああ、そうだ。その通りだ」。思わず加助を指で指し、膝立ちで腰を浮かしていた。
 千吉は胸につかえてたものが取れたような、すっとした思いだった。
 「そうあの三太に良く似たお人だった。それと鶴二のような目付きの」。
 三太は一時、川瀬石町の裏長屋に住まっていた上方の瀬戸物焼き継ぎ屋で、現在は何処へ行ったのか行く方知れずになっている。鶴二とは、濱部の知り合いで読売書きをしていたが、ひょんなことから人を殺め、お仕置きになったのだった。
 加助は寸の間、雅を思い描こうとしたが、どうにもその人となりが浮かばない。すると千吉が、
 「そうだ。気の強いところは、お志津さんと良い勝負だね」。
 「親方のおかみさんか」。
 志津とは加助の親方・平五郎の女房である。この志津のせいで、加助は内弟子から、通いの大工へとなり、千吉の住まいに寄宿するはめになったのであった。
 「千吉、そういうことは、鶴二のような風貌で、三太みたいな厚かましさと、おかみさんのような気風ってことかい。そりゃあ人じゃないな」。
 「だがね、札差の家付きだ。金子はある。そこが違うかな」。
 千吉は、酒を口に運ぶと涼しそうな顔で、言い放つのだった。それを聞いた加助は頭を捻りながら、
 「千吉よ、お前さん。がきの頃から人様を悪く言うことなんぞなかったのによ。このところ一体どうしちまったんだい」。
 「そうだねえ」。
 言われてみればそのとおりである。
 「あたしの思いを遥かに超えた、お人がこのところ多いのさ」。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 有為転変は世の習い四

2011年09月18日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 そしてろれつも回らなくなった頃、濱部が唐突に、
 「わしは武士を辞めた。これからは商人の時代だ。わしも商人になる」。
 そう言い出すのだった。
 「商人になるったって、そのお年で奉公もなりますまい。店を構えるだけの銭はあるんですかい」。
 加助は、いつものほらだろうと言わんばかり。すると待ってましたとばかりに濱部は、
 「女ができたのだ。大店のおかみだ。どうしてもわしに店を任せたいと申すでなあ」。
 得意満面の笑みで御満悦である。
 「濱部様、大店のおかみさんなら、既に旦那がいるでしょう。それとも後家ですかい」。
 千吉も半信半疑で問い質す。
 「うーむ」。
 濱部は幾分口元を歪めるが、
 「旦那は元は奉公人さ。どうにも気質が良くないと申してな。離縁すると言っておる」。
 「それじゃあ、不義密通じゃないですか」。
 加助は大きな口をあんぐりを開けていた。
 (あれ、どこかで聞いたような話だね)。
 小首を傾げる千吉の脇腹を突く加助。
 「離縁するのと、濱部様を旦那にするのはまた話が違うが、確かなんでしょうね」。
 「加助、何を申しておるのだ」。
 「いえね。これまでの濱部様ですとね、離縁するって聞いただけの早とちりで、己が後釜に座るって思い込んでいるんじゃねえかって思いましてね」。
 加助の指摘に濱部は口籠る。
 「おい、加助言い過ぎだ」。
 豊金の主の金治が見兼ね、おからに刻んだネギを練り込み、丸めてごま油で揚げた肴をぽんと前に置く。
 「だけど濱部様もよ、これまではあっしも黙ってましたがね、今度は亭主持ちってなら話は別だ。身勝手な思い込みで人様の家に波風を立てちゃあならねえ」。
 いつにない金治の激しい口調に、さすがの濱部も顔色を変えると、「用を思い出した」。とそそくさと帰ってしまった。
 「おい、濱部様。勘定がまだだぜい」。
 そんな金治の声も聞こえてないのか、または確信犯か。
 「加助。佐那岡屋さんの旦那も婿養子だよね」。
 「正か、そんな訳はないだろうさ」。
 「そうだよね」。
 とかく悪い予感は当たるもので、どうやら濱部は蔵前辺りに足を伸ばしていると風の噂を耳にした千吉だった。
 「だけどよ。お節さんよりも酷でえ始末屋で気性は、親方のおかみさんみたいに激しいんだろう」。
 加助は、以前に千吉が話した雅のことを思い出していた。「ああ」。と頷く千吉も半信半疑である。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 有為転変は世の習い三

2011年09月17日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 不満たらたらの雅は、「お前さんひとりじゃあ、損をしちまうかも知れないだろ」。などと丸で千吉を悪徳のように、散々暴言を吐いてはいたが、「境川様の御紹介だぞ」。と、喜兵衛に一喝されると、渋々座を離れるのだった。
 ほっとした面持ちの千吉に、喜兵衛は雅の無礼を詫びる。どうやら喜兵衛は雅の気質を知り尽くしているようだった。
 「どうにもね、欲深い女でしてね。わたしも難義しているのですよ」。
 (どうして一緒になったんです)。
 正か聞く訳にもいかず、千吉はただただ無表情を装うのだった。
 そんな千吉の思いが漏れてしまったのか、それとも毎度のことなのか、喜兵衛は自ら、
 「わたしは番頭上がりの養子でしてね」。
 千吉は大きく頷くのだった。
 商いは、献残屋が引き取らない骨董の壷、屏風や茶碗など十数点にも及んだ。
 「蔵が手狭になりましてな。幾らでも構いませんお引き取り願えますかな」。
 喜兵衛が言うには、新しい物好きの雅が、次々と買い替えるので、蔵に仕舞って置くのも難儀になり、そのことをそれとなく境川に洩らしたところ、千吉の菜が上がったということだった。
 「良い商いをさせて頂きました。これからも御贔屓にお願いします」。
 千吉は両の手に大きな風呂敷包みを抱え、持ち切れない大物は翌日引き取りに来ると伝え、佐那岡屋を後にするのだった。
 「加助、聞いておくれな」。
 ここはいつもの川瀬石町の煮売酒屋・豊金の座敷である。だが、由造の顔はなく、千吉と加助が差し向かい。
 千吉は、佐那岡屋の女房の雅のことを話すのだった。
 「幾ら大店の娘でも、あのお人を嫁御にできるとは、驚いたよ」。
 それに比べれば、近江屋の娘・絹との縁組みを断った、由造は何たることかというのが、千吉の言い分である。
 「そんなに酷でえのかい。お節さんよりもかい。お竹さんよりもかい。お友さんよりもかい。家の親方のおかみさんよりもかい」。
 いい加減酒の回った二人は言いたい放題。そこに現れたのは、最も歓迎されざる川瀬石町下長屋の住人の浪人・濱部主善だった。
 「おう、千吉に加助。久しいのう。由造が上方に上ったと聞いたがお主らも寂しかろう」。
 千吉と加助の剣呑な顔付も何のその、濱部は千吉たちの元に座り込むのだった。
 「金治さん。勘定は別ですぜ」。
 加助がすかさず声を張り上げるが、そんな加助の肩を叩きながら濱部は、「遠慮はするな。今宵はわしの奢りじゃ」。千吉と加助が更に剣呑な表情を浮かべ、眉を吊り上げてもお構いなしに、にやにやしている濱部である。


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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 有為転変は世の習い二

2011年09月16日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 浅草蔵前は隅田川添いに、御蔵屋敷が立ち並び、札差の看板を掲げる店も多い。
 札差とは、幕府から旗本や御家人に支給される米の受け取り、運搬、売却により手数料を得るほか、蔵米を担保に高利貸しを行い大きな利益を生む大商人である。
 「千屋にございます。佐那岡屋さんのお呼びで参りました」。
 千吉は裏口から声を掛けた。表先も大層な設えだったが、裏も広いとみえ返答がない。ならばと更に声を張り上げると、
 「そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるよ」。
 面倒臭そうに、老婆が裏木戸を開ける。
 (聞こえているなら返事くらいしても良さそうなものを)。
 だが、「千屋にございます」。と千吉は笑顔を作るのだった。
 「………」。
 丸で損だとでも言わんばかりに、口を噤んだまま老婆は千吉を促すと、八畳の一室に通し、これまた無言で襖を閉めて行ってしまった。
 (あれま、あたしはどこに座ったらいいのやら)。
 千吉が、所在ないまま下座に座っていると、程なくして、妙に小柄で化粧はしているのだろうが、それもまだら。着物や髪で判断しなければ女とは解らないようなお人が現れた。
 「あんたは千屋かい」。
 女は不躾に千吉を下から上へと舐め回すように見ると、
 「佐那岡屋の商いに手代を寄越したのかい。舐められたもんだねえ」。
 若い千吉を手代と勘違いしているよのだった。
 「いえ、千屋の主の千吉にございます。主と申しましても、小さな店故、奉公人を抱える余裕もありません」。
 女は勘違いも何のその、
 「境川の旦那の紹介だから、来てもらったけど、そんな小さな店とは知らなかったねえ」。
 如何にも訝しそうに千吉を見る。
 どうやら、由造の義弟の同心・境川小一郎の推挙だったことは解った。
 「目利きは確かって聞いちゃいるんだけどね。いいかい、気に入らなかったら商いはなしだよ」。
 そこへ、どたばたと廊下を走る足音が聞こえたかと思いきや、乱暴に襖が開き息を切らせた割腹の良い男が、主人の「喜兵衛」。だと名乗る。
 「これは千屋さん。お待たせして申し訳ありませんでした」。
 商人らしく、低姿勢な喜兵衛は、先程からの無礼な女を、「女房の雅です」。そう言った後、直ぐに雅に向き直ると、下がっているように命じるのだった。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 有為転変は世の習い一

2011年09月15日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 有為転変(ういてんぺん)は世の習い この世のものごとすべて、とどまることなく移り変わっていく。それが世の常であるということ。

  いつの間にか日も短くなり、朝晩は空気も冷たくなっていたある日。ついに由造の旅立ちの時がやって来たのだった。
 日本橋近くの西彼岸まで、由造と肩を並べて歩く千吉、加助だったが、この日ばかりは誰もが口が重く、言葉を交わさないまま、とぼとぼと行く。
 西彼岸からは堀川を小舟で佃島まで行き、そこから五十尺の菱垣廻船で上方を目指す十日あまりの旅である。同じ弁才船でも、樽廻船なら六日と短いのだが、「そう急ぐこともあるまい」。と、由造はにこやかに旅立って行った。
 「寂しくなるねえ」。
 西彼岸で由造が見えなくなるまで見送った千吉は、傍らの加助に呟くのだった。
 「ああ。呆気ないもんだ」。
 「しかし、有為転変は世の習いって言うくらいだ。仕方ないのかも知れないね」。
 二人は、三人で歩いた道を戻るのだった。
 「お理世ちゃんは、泣いていたねえ」。
 西彼岸には、由造の妹の理世とその夫の、同心・境川小一郎の姿もあった。
 千吉は、由造が理世を好いていると人伝に聞いてから、初めて二人を目の当たりにし、何故だか己が心の臓の鼓動が波打っていたのだった。
 「加助や、やっぱり由造は、お理世ちゃんを諦め切れなくて、上方へ行っちまったのかな」。
 唐突に聞かれなくとも、加助も思いは同じである。
 「ああ。だがな、どうにもならねえ思いを吹っ切るには、良い機会なんじゃねえかい」。
 後は言葉が見付からない二人だった。そんな重苦しい中、「あっしは仕事に行くぜ」。見送りで随分と遅れてしまったのだろう、加助は風のように走り去るのだった。
 「あたしも仕事をしなくちゃね。今日は、札差の佐那岡屋さんの買い取りだったねえ」。
 古手屋の千吉にとって、大店からの買い取りの品は掘り出し物も多く、喜ばしい客である。佐那岡屋から声が掛かるのは初めてだったが、浅草蔵前までの足取りも軽く商いへと向かうのだった。
 (あれ、あたしも西彼岸から猪牙舟を使った方が良かったかねえ)。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 厭と頭を縦に振る十

2011年09月14日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「なら、ほかに好いたお人がいるのかい」。
 絹の問い掛けに、由造はすっと息をすうと、深く頷き、
 「心に決めたお人がおります」。
 そうとだけ言うと互いに続く言葉がなくなっていた。その心に決めたお人を知りたいのは山々だが、知ったところでどうなるものでもないことも重々分かっている。
 己が好いた由造が、その人と結ばれることを願うのが一番良いとも分かってはいるが、今は未だそんな気持ちにはなれない絹だった。
 「それでお嬢さんの方は片がついたのかい」。
 勝手口に腰を据えた切り、全く役立たずだった千吉だが、帰り道は足取りも軽いとみえる。
 由造は、「さあな」。と遠くを見詰めて洩らした後、
 「千吉よ。あたしは嫁を貰わないやも知れないよ」。
 呟くように言うのだった。
 (あれ、これを聞いたら奈美はどう思うかしら)。
 千吉は由造の端正な顔を、食い入るように見入る。その視線に気付いた由造、
 「だからといって、あたしは衆道じゃないよ」。
 慌てふためく由造の、女遊びは端から分かっている千吉だが、
 「あたしも嫁の来てがないところだ。どうだいいっそのこと」。
 由造の肩に頭を凭れ掛けさせ、「やめろ。気味の悪い」。と撥ね除けられ、「あいや。待っておくれな」。二人は転げるように追い掛けながら金治の店まで走るのだった。


厭と頭を縦に振る 完
 うわべの態度と、本当の気持ちがまるで違うというたとえ。

次回は
有為転変(ういてんぺん)は世の習い
 この世のものごとすべて、とどまることなく移り変わっていく。それが世の常であるということ。


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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 厭と頭を縦に振る九

2011年09月13日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「だからって、どうしてあたしまで一緒なのさ」。
 川瀬石町から日本橋呉服町通の道すがら、ずっと膨れっ面の千吉である。
 「お前、こんなにあたしが困っているっていうのに、何だい、さっきからその態度は」。
 こちらも口を尖らせ、眉間に皺を刻んだままの由造。
 「また、あの泣き落としを使えばいいじゃないか」。
 千吉は、竹を退けた芝居を再び打てと言う。だが幾ら何でも長年の奉公先で、奉公人にも知れるとなると気恥ずかしい由造。さすがにそれには眉をしかめるのだった。
 「いっそ、上方になんぞ行くのを止めて、近江屋さんの縁組みを受けちまったらいいじゃないか。そうしたらあたしも由造に会えるし、嬉しいんだがね」。
 憎まれ口を交わしながら歩いて来たが、近江屋の暖簾が目に入ると、互いの足が急に重くなるのだった。
 二人はどちらが先に裏木戸を潜るか、互いを探り合いゆっくりとした歩調で、肩をぶつけながら進が、もはや後戻りはできない。
 「由造にございます。旦那様おいでですか」。
 勝手口から入った由造は、賄いの女中に声を掛ける。すると、待ってましたとばかりに、飛び出して来た紀左衛門にしっかりと右を手首を掴まれ、通された座敷には、先刻から待っていたのであろう、既に絹の姿が合った。
 (確かに窶れているようだ)。
 ひと目で分かるくらいにふっくらとした頬はこけ、赤味がかっていた頬は青ざめている。さすがの由造も気の毒な思いにかられるのだった。
 「これ絹や。こうして由造が来てくれたのだ。言いたいことがあるのだろう」。
 紀左衛門に促されても、頷いたままの絹は顔を上げようとはしない。再三に渡る紀左衛門の勧めにようやく、
 「おとっつあん。二人だけで話させてください」。
 蚊の鳴くような声でようやく言うのだった。千吉は先程の勝手口から、由造が紀左衛門に連れられて行ったのを良いことに、上がり框に腰を下ろしたまま座敷に上がってはいないのだった。
 絹は畳の目を追いながら、由造がどうしてここまで頑に縁組みを嫌がるのかを教えて欲しいと言う。手代が奉公先の娘と所帯を構え暖簾分けまでしてもらえるのだ。お江戸広しといえど、娘に余程難がない限り、いやあっても断る男などいよう筈もない。
 由造とて、絹を嫌っている訳ではない。だが、好いてもいない。そんな半端な気持ちで嫁を貰いたくないというのが由造の思いであった。


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