相馬主殿は新島で身を寄せている大工の棟梁・植村甚兵衛の娘・まつの思いを知るまでもなく、己の心にもまつの存在が日毎に大きくなっていくのを感じていた。そんな明治四年(1871)暮れも押し迫ったある日のこと。
相馬の暮らす隠居場に見慣れぬ女の姿が会った。
「こちらが建て増しした部分ですか。まあ、噂では聞いていましたがお見事な造りにございますね」。
ずかずかと室に立ち入って来るその女はまつに劣らぬ端正な顔立ちながら、年の頃なら二十八、二十九であろうか、すでの大年増。
相馬は初めて目にする顔であった。
「その方はどなたであろうか」。
女は相馬の激しい問い掛けにぎょっとした顔をし、
「これは失礼しました。どなたも居られないと思いましたので」。
そう詫びを言い、自分は甚兵衛の長女でまつの姉のせつであると告げる。
「そうでしたか。これはこちらこそ失礼致した。そもそもは甚兵衛殿の屋敷故、立ち入られたとて道理であった」。
こちらこそ失礼したと頭を足れる相馬に、せつは苦笑しながら、
「御武家様がわたしのような者に頭を下げるなんて…まつの言っていた通りのお方ですね」。
まつは実姉の嫁ぎ先である島南端の庄屋に相談に行っていた。そして、相馬の人柄をとくと話すと、どうあっても添いたい旨を伝えていたのだ。
まつの一途さに動かされたせつが、足を運んで相馬を説得しようと、こうして久方ぶりの実家に戻ったのである。
「まつの何処がお気に召されません」。
せつは大人しいまつと違い、気っ風の良い女将風である。
「甚兵衛殿にも、まつさんにも申し上げた様にわたしは流人でございます」。
すると、せつは一笑に伏し、
「流人とて、島では嫁を娶ります。そして御許しが出た折りには、早々に御身一つで皆様本土にお帰りになられます」。
相馬は冷水を浴びた様に身震いをし、
「待ってください。己の妻を島に残すのですか」。
せつは軽く笑いながら、妻だけでは無い。成した子迄もだと告げる。本土の人はそれくらいに島の者を軽んじているのだ。なのに何故、相馬がまつに心動かされないのかを問うてきた。だがそれよりも相馬には島と本土の差別の事の方が大きな衝撃だった。
「娶ったからには妻。島の者も本土の者も同じこの国の人では非ぬか。増してや子は己の血を引いた大切な宝だ」。
「わたしらはそうして島に残された悲しい女たちを嫌という程見て参りました。それでもまつはあなた様と添いたいのです。どうか願いを叶えてやってはいただけませんか」。
せつは、いつかは本土に戻る故、まつを娶らぬのかを執拗に迫るが、相馬は、
「わたしは国に戻れるなど思うたこともありませぬ。この島で生涯を閉じる覚悟でありますが、来年で三十八になります。まつさんとは一回りも年が違います」。
すると、せつは己の旨を拳で叩き、
「そんなことを気にしていたのですね。それで、まつを好いているのや否や」。
直接的な問い掛けに顔を赤らめる相馬を目にするとせつは、両の手をぽんと叩き、「決まった」。そう言って母屋へと走るのだった。
数日後の明治五年(1872)正月。植村家の祝宴は正月と祝儀を兼ねたものであった。だが、流人である己の身分を案じた相馬が派手やかなことを嫌ったため、まつは色留袖、相馬は甚兵衛から借り受けた紋付を羽織って盃を交わすのみの祝言となった。
宵の刻こくとなり、すっかり酔いの回った客の中に、同じく島流しになっていた、元徳島藩士の海部六郎の姿もあった。
海部は、稲田家臣の分藩騒動の折り、稲田邸を襲撃した一人として明治三年(1870)より流罪七年に処されたいたのだ。
もちろん、京での新撰組の働きや、戊辰戦争のことは耳にしていた。その新撰組局長が同じ新島に流されている。刀を交えたいのは武士としての性でもあったのだろう。
これまでにも幾度と無く手合わせを申し入れられていた相馬にとってはいささか迷惑な相手でもあった。
この日も海部は、執拗に立ち合いを申し入れる。祝儀の場にこの様な話は似つかわしくないと思った相馬は、ひと呼吸整えると、
「解り申した。お相手致そう。されど今宵、海部殿は酔われておる故、わたしが勝ったところで納得出来ぬであろう。日を改めて勝負致そう」。
相馬は一度だけ竹刀を取った。
多くの野次馬が押し寄せる中、相馬は立ち合い直ぐの、突き一撃にて海部を隣家の垣根まで飛ばすと直ぐさま竹刀を納める。呆気ない勝負であった。
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相馬の暮らす隠居場に見慣れぬ女の姿が会った。
「こちらが建て増しした部分ですか。まあ、噂では聞いていましたがお見事な造りにございますね」。
ずかずかと室に立ち入って来るその女はまつに劣らぬ端正な顔立ちながら、年の頃なら二十八、二十九であろうか、すでの大年増。
相馬は初めて目にする顔であった。
「その方はどなたであろうか」。
女は相馬の激しい問い掛けにぎょっとした顔をし、
「これは失礼しました。どなたも居られないと思いましたので」。
そう詫びを言い、自分は甚兵衛の長女でまつの姉のせつであると告げる。
「そうでしたか。これはこちらこそ失礼致した。そもそもは甚兵衛殿の屋敷故、立ち入られたとて道理であった」。
こちらこそ失礼したと頭を足れる相馬に、せつは苦笑しながら、
「御武家様がわたしのような者に頭を下げるなんて…まつの言っていた通りのお方ですね」。
まつは実姉の嫁ぎ先である島南端の庄屋に相談に行っていた。そして、相馬の人柄をとくと話すと、どうあっても添いたい旨を伝えていたのだ。
まつの一途さに動かされたせつが、足を運んで相馬を説得しようと、こうして久方ぶりの実家に戻ったのである。
「まつの何処がお気に召されません」。
せつは大人しいまつと違い、気っ風の良い女将風である。
「甚兵衛殿にも、まつさんにも申し上げた様にわたしは流人でございます」。
すると、せつは一笑に伏し、
「流人とて、島では嫁を娶ります。そして御許しが出た折りには、早々に御身一つで皆様本土にお帰りになられます」。
相馬は冷水を浴びた様に身震いをし、
「待ってください。己の妻を島に残すのですか」。
せつは軽く笑いながら、妻だけでは無い。成した子迄もだと告げる。本土の人はそれくらいに島の者を軽んじているのだ。なのに何故、相馬がまつに心動かされないのかを問うてきた。だがそれよりも相馬には島と本土の差別の事の方が大きな衝撃だった。
「娶ったからには妻。島の者も本土の者も同じこの国の人では非ぬか。増してや子は己の血を引いた大切な宝だ」。
「わたしらはそうして島に残された悲しい女たちを嫌という程見て参りました。それでもまつはあなた様と添いたいのです。どうか願いを叶えてやってはいただけませんか」。
せつは、いつかは本土に戻る故、まつを娶らぬのかを執拗に迫るが、相馬は、
「わたしは国に戻れるなど思うたこともありませぬ。この島で生涯を閉じる覚悟でありますが、来年で三十八になります。まつさんとは一回りも年が違います」。
すると、せつは己の旨を拳で叩き、
「そんなことを気にしていたのですね。それで、まつを好いているのや否や」。
直接的な問い掛けに顔を赤らめる相馬を目にするとせつは、両の手をぽんと叩き、「決まった」。そう言って母屋へと走るのだった。
数日後の明治五年(1872)正月。植村家の祝宴は正月と祝儀を兼ねたものであった。だが、流人である己の身分を案じた相馬が派手やかなことを嫌ったため、まつは色留袖、相馬は甚兵衛から借り受けた紋付を羽織って盃を交わすのみの祝言となった。
宵の刻こくとなり、すっかり酔いの回った客の中に、同じく島流しになっていた、元徳島藩士の海部六郎の姿もあった。
海部は、稲田家臣の分藩騒動の折り、稲田邸を襲撃した一人として明治三年(1870)より流罪七年に処されたいたのだ。
もちろん、京での新撰組の働きや、戊辰戦争のことは耳にしていた。その新撰組局長が同じ新島に流されている。刀を交えたいのは武士としての性でもあったのだろう。
これまでにも幾度と無く手合わせを申し入れられていた相馬にとってはいささか迷惑な相手でもあった。
この日も海部は、執拗に立ち合いを申し入れる。祝儀の場にこの様な話は似つかわしくないと思った相馬は、ひと呼吸整えると、
「解り申した。お相手致そう。されど今宵、海部殿は酔われておる故、わたしが勝ったところで納得出来ぬであろう。日を改めて勝負致そう」。
相馬は一度だけ竹刀を取った。
多くの野次馬が押し寄せる中、相馬は立ち合い直ぐの、突き一撃にて海部を隣家の垣根まで飛ばすと直ぐさま竹刀を納める。呆気ない勝負であった。
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