大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

一樹の陰一河の流れ~新撰組最後の局長 二十六

2011年07月09日 | 一樹の陰一河の流れ~新撰組最後の局長
 相馬主殿とまつの島での幸せな生活が始まった。朝晩の供養は二人で行い、そして寺子屋で学問を教えた後は、まつの姑である大工の棟梁・植村甚兵衛の手伝いを惜しまない相馬だった。
 種植えの季節ともなれば、「野外学習じゃ」と、寺子屋の子たちを先導して、農作業に従事。太陽が照りつける時には、夕涼みと海岸へまつを伴う。そして蟋蟀の鳴き声が涼やかな頃ともなれば、野山で山菜狩り。
 このまま時が静かに流れるだろうと誰もが思っていた矢先の明治五年(1872)十月。思いもしなかった赦免状が相馬の手の中にあった。
 側では泣く事も適わず放心したまつが、崩れている。赦免状を右の手で握り潰す相馬の懸想もただ事では無い。
 
 一夜が明けると覚悟を決めたまつは、相馬の為に急ぎ下着を縫うのだった。
 だが、相馬を悩ませていたのは、まつにとっての幸せであった。身寄りも無い見知らぬ本土に連れて行って良いものか。もしくは己が島に残るべきか。
 別離を覚悟したまつとは対照的に、二人に最良の生き方を相馬は考えていた。
 そしてついに甚兵衛に、
 「まつを頂きたい」。
 そう告げるが、甚兵衛は、
 「そもそも相馬様に差し上げた娘でございます」。
 「そうではない。まつを伴いたいのだ。そうなれば甚兵衛殿ともそうそう容易く会う事もままならぬ。それでもわたしはまつを伴いたいのだ。お許しをいただけますでしょうか」。
 これにはさすがの甚兵衛も緩んだ涙腺を止める事が出来ずにいた。
 「島で娶った妻はそのまま捨て置かれるのが常。それを正式にお連れくださるとは、この上もない幸せ。まつもそれを望んでいるでしょう。この年寄りのことよりもこれからの二人のことを考えてくだされ」。
 甚兵衛は相馬に深々を頭を下げると目頭を押さえるのだった。
 甚兵衛の許しを得、自室に取って返すと相馬はまつを呼び、正座して向き合った。その改まった姿にまつは既に目が潤み、それを隠す為にか俯き気味である。
 「まつ。わたしは赦免となった。本来なればこのまま島で暮らす方がそなたにとっては良いのやも知れぬが」。
 相馬の重々しい言葉を、最後まで聞きたくはないまつであった。
 「はい」。
 小さな声で頷くとそのまま席を立とうとする。
 「待て、話は終わっておらぬではないか」。
 「先まで話されずとも解ってます」。
 拗ねたようなまつの仕草に相馬はいささか腹立たしさも覚えるが、事が事だけに致し方あるまいとも思い直し、
 「そなたには慣れぬ暮らしになり苦労を掛けるが、共に参ってはくれぬか」。
 去り掛けたまつは我が耳を疑い、思わず息を飲む。
 「ですが、武家の出でも無い、しかも島の女子などを伴いましては…お名前に傷がつきましょう」。
 まつは相馬の申し出を辞退する。だがそれが本心からでは無いことは痛い程解る相馬であった。
 暫しの間二人は無言で向き合い、互いの目を見詰めるだけだ。
 先に言葉を発したのは相馬だった。
 「離縁をする気も、離れる気もない。されど、まつが本土に行きたくないなら、島でわたしの帰りを待っては貰えぬだろうか」。
 相馬は用事を済ませ必ず島に戻ると言う。実直な相馬のこと嘘でないことはまつにも理解出来た。だが、それも今の思いであり、一度島を離れれば、遠ざかるものは日々に疎しくなるもの。相馬が島に戻る事はまず無いであろうことも同時に理解する。
 まつは、こくりと頷いた。

 まつの決断に父親の甚兵衛は目を丸くし、わなわなと震える口でまつに問い質すのだった。
 「相馬様は一緒に行って欲しいとおっしゃっておられる。どうしてお前は島に残るのだ」。
 もし、年老いた自分を思ってのことなら心配要らぬと甚兵衛は付け加えるが、それでもまつは「行きたくない」としか答えないのだった。
 相馬の赦免の船が着く迄すでに数日に迫っていた。まつはその日が来ない事を長いつつも、相馬の旅立ちの支度を整えている。
 島人も別れを惜しみ連日の様に押し掛けていたが、気落ちしたまつの姿に、「やはり相馬様でも一人で出て行かれるか」と、こちらも無念さを隠し切れない。
 だが、幾ら島人に責め立てられようとも相馬は真実を口にはしないのだった。
 「旦那様、如何して本当の事をおっしゃらないのですか。これでは旦那様お一人が悪者にされてしまいます」。
 それでも相馬は黙ったままである。たった一言、
 「まつがわたしを思いやって島に残るのであれば、わたしが置き去りにするのと同じ事である」。
 (この人のこういうところを好いたのだった)。
 まつは、やはり離れ難い思いでいっぱいであった。
 「旦那様はわたしをお連れになることが恥ずかしくはないのですか」。
 「己の妻を伴う事のどこに負い目があろう」。
 「御武家様の親御さんがわたしを気に入らなんだら、如何します」。
 すると相馬は久し振りに顔を綻ばせ、
 「そんなたわいも無い理由で行かぬと申しておったのか」。
 まつを抱き寄せると、
 「案ずる事は無い。見知らぬ土地故心細いやも知れぬが、まつに寂しい思いはさせぬ」。
 ただそうとだけ言うのだった。

 明治五年(1872)十月、相馬は祝言の晩に立ち合いを挑まれた、旧徳島藩士の海部六郎に寺子屋の存続を願い、書き付けを渡す。そこには子どもたちの手習いの進み具合や、得手不得手が子細に書かれていた。
 「このまま手習いが潰えてしまうのも寂しい故、海部殿の赦免の日まで続けてはくださらぬか」。
 海部は相馬の書き付けに目を見張ると、「お引き受けいたしました」。堅く誓うのだった。
 船着き場には、島中の人が集まったのではないかと思えるくらいに浜は人で溢れ、引き取りの役人さへ驚く程の盛大な見送りだった。
 「さながらに そみし我が身は わかるとも 硯の海の 深き心ぞ」。
 相馬が島を離れる前に読んだ句である。



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