明治五年(1872)十月十三日、特赦による赦免で、妻・まつを連れて本土に戻った相馬主殿は、「わずか二年の間に、これ程迄に世の中が変わろうとは」。江戸から東京へと名を変えた息を飲む程の変貌を見せていた。
放免されたは良いものの、先々の暮らし向きを考えねばならない相馬を見ず知らずの男が待っていた。
「相馬様ですね」。
丁寧な口調の、身なり怪しからぬ男である。
「榎本さんからの申しつかりお迎えに上がりました」。
男は新政府開拓使の田中と己の名を告げると、函館政権の総裁だった榎本武揚の現況を話しながら、相馬夫妻を浅草御蔵の大きな屋敷に案内するのだった。
その話によれば、同年一月に釈放された榎本は、三月より黒田清隆が次官を務める開拓使に四等出仕として仕官。すでに新政府の高官に納まっていた。
あまりにも豪奢な屋敷に相馬は、榎本の屋敷だと疑わずにいたが、
「こちらは榎本さんが用意されました、相馬様のお住まいにございます。取り敢えずの家財は揃っております。まずはお疲れをお癒しください」。
「忝ない。して榎本さんはいずれに居られます」。
礼を申さないとと、相馬は榎本の消息を尋ねる。
「今は蝦夷に出向いておられますので、御自身で相馬様をお迎えに参れませんでしたが、東京にお戻りになられましたら直ぐにでもお会いしたいとのことでございます」。
相馬は、永久流罪の己が赦免になれたのには榎本が関与しているのではないかと思わずにはいられないのであった。
田中が去り、二人だけになるとさすがに分不相応に広い屋敷に困惑を隠せない。
新島では大きな屋敷に育ったまつにしても、立派過ぎる屋敷と、この日一日だけで、まつは産まれてから数十年分よりも多くの事を見聞きした思いで、困惑も手伝ってか、成す術なしといった風に座り込んだままである。
「まつ。疲れたであろう。今日は早々に床に付くと良い」。
相馬に気遣いが嬉しいまつではあるが、それでもやはり疲れの色は隠せないでいた。
「やはりわたしのような田舎者には、目が回ります」。
「そうであろう。東京は人が多くて騒がしい故」。
特に浅草御蔵の辺りは、江戸の頃より、御蔵屋敷が立ち並び、多くの米問屋や札差が店を並べた賑わった地である。明治になり、役宅地は政府が管理することになり、政府御蔵と称されたが、それでも商地も数ある。
数日の後、相馬は榎本に呼ばれ、旧江戸城内・太政官中の開拓使室へ向かった。
主を代えた江戸城は威風堂々と聳える。相馬たちが死守したかったその証の城だ。
反逆者となった自分が晴れてその江戸城の門を潜る日が来るとは夢にも思わなかった。そして城内へと進むに連れ、徳川を守れなかったことへの後悔が相馬に深くのしかかるのであった。
「榎本さん、お久し振りにございます」。
「相馬君、君も無事で何より。さ、座りなさい」。
互いの再会を喜び合うも束の間、こうして新政府の役人となっている榎本が相馬には眩しいと同時に、死んで逝った土方歳三や野村利三郎。そしてその後、囚われとなった同志たちの顔が浮かぶのであった。
「相馬君、君には新政府に出仕して貰いたい」。
榎本は、相馬を鳥取県令に推薦する旨伝えるのだった。
相馬に取っては正に青天の霹靂である。
(新政府を相手に最期迄戦った自分が、その役人になるとは)。
そんな相馬の心中を察した榎本は、
「我らが目指した国を作る為にも、我らは政府に身を投じなければならないのだ。もう薩長の世の中ではない。新しい日本国なのだ」。
榎本の言う事も理解は出来る。だが、相馬にはやはり薩長と共に働く事など考えも及ばない。
「榎本さん、御好意感謝致します。されど、徳川の禄を食んだものは徳川に死す。わたしの思いは変わりません」。
榎本の行為は身に余るものであったが、それでも信念を貫き、相馬は申し出を辞退する。
明治五年の暮れは相馬夫妻には厳しい冬になった。
(今更、寺子屋でもなかろう)。
予想以上に大きく変わった世相にとまどいながらも、相馬は生計の手段を考えなければならない。住まいだけは榎本の行為で、浅草御蔵の屋敷に住まわせて貰っていた。
新島を離れる折り、まつの父・甚兵衛が娘愛しさに手渡したのであろう金子をまつが内緒に生活に宛てがっている事も周知していた。
そこへひょいと、懐かしい顔が現れた。元新撰組隊士で函館でも共に戦った大野右仲である。
大野は、弘前の薬王院から青森の蓮華寺へ移送され、更に二カ月後には蓮心寺に。そして東京へ送られ、旧藩の唐津藩お預けとなった後、明治三年(1870)一月に解き放たれていた。
相馬が未だ東京辰ノ口軍務局糾問所にて詮議を受けていた自分のことである。
「相馬さんが戻られたと聞き、駆け付けました」。
大野によれば、解き放たれてから一年は随分と迷ったが、翌明治四年(1871)からは新政府に出仕し、豊岡県権参事を務めているとのことだった。
そして相馬にも、「豊岡県へ来ないか」と勧める。だが、相馬には成さねば成らぬ事がある。豊岡県へ赴くとなるとそれもままならない。
「相馬さん、昔を忘れる事は出来なくても、生き残った者は暮らしを立てねば成らぬ。新政府で働く事は徳川を裏切る事に非ず。徳川の意志を新政府に息吹かせることなのだ」。
この言葉に動かされた相馬は同県へ十五等出仕として、司法方面の勤務に就いた。
そんな平穏な時も束の間、わずか二年後の明治八年(1875)二月。豊岡県内部の抗争により、突如免官されると、相馬は東京へと戻る。
その騒動で千葉へと移動になった大野が、そこでの要職を用意するが相馬は新政府への希望を失っていた。
そしてわすかな期間ではあったが移り住んだ浅草に居を構えると、その頃、会津戦線を戦い抜き斗南で苦渋を舐めた斉藤一が警視局に出仕し、お茶の水に住んでいる事を知るのだった。
「斉藤さん」。
出迎えた斉藤は、相馬を見るなり、無念の口上を述べ、
「新撰組のけつを君に拭わせてしまった。申し訳ない」。
そう詫びるのだった。
「新撰組に幕を下ろすのは俺の役目であった」。
「これも運命でしょう。わたしに悔いはありません」。
斉藤は、東京に移り住んで以来、山川浩など旧会津藩士との交流は持ったが、新撰組とは疎遠だった。それは風化させたい過去故かそれとも誰をも寄せ付けぬ思い出として残す為か。それは相馬も同じであった。
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放免されたは良いものの、先々の暮らし向きを考えねばならない相馬を見ず知らずの男が待っていた。
「相馬様ですね」。
丁寧な口調の、身なり怪しからぬ男である。
「榎本さんからの申しつかりお迎えに上がりました」。
男は新政府開拓使の田中と己の名を告げると、函館政権の総裁だった榎本武揚の現況を話しながら、相馬夫妻を浅草御蔵の大きな屋敷に案内するのだった。
その話によれば、同年一月に釈放された榎本は、三月より黒田清隆が次官を務める開拓使に四等出仕として仕官。すでに新政府の高官に納まっていた。
あまりにも豪奢な屋敷に相馬は、榎本の屋敷だと疑わずにいたが、
「こちらは榎本さんが用意されました、相馬様のお住まいにございます。取り敢えずの家財は揃っております。まずはお疲れをお癒しください」。
「忝ない。して榎本さんはいずれに居られます」。
礼を申さないとと、相馬は榎本の消息を尋ねる。
「今は蝦夷に出向いておられますので、御自身で相馬様をお迎えに参れませんでしたが、東京にお戻りになられましたら直ぐにでもお会いしたいとのことでございます」。
相馬は、永久流罪の己が赦免になれたのには榎本が関与しているのではないかと思わずにはいられないのであった。
田中が去り、二人だけになるとさすがに分不相応に広い屋敷に困惑を隠せない。
新島では大きな屋敷に育ったまつにしても、立派過ぎる屋敷と、この日一日だけで、まつは産まれてから数十年分よりも多くの事を見聞きした思いで、困惑も手伝ってか、成す術なしといった風に座り込んだままである。
「まつ。疲れたであろう。今日は早々に床に付くと良い」。
相馬に気遣いが嬉しいまつではあるが、それでもやはり疲れの色は隠せないでいた。
「やはりわたしのような田舎者には、目が回ります」。
「そうであろう。東京は人が多くて騒がしい故」。
特に浅草御蔵の辺りは、江戸の頃より、御蔵屋敷が立ち並び、多くの米問屋や札差が店を並べた賑わった地である。明治になり、役宅地は政府が管理することになり、政府御蔵と称されたが、それでも商地も数ある。
数日の後、相馬は榎本に呼ばれ、旧江戸城内・太政官中の開拓使室へ向かった。
主を代えた江戸城は威風堂々と聳える。相馬たちが死守したかったその証の城だ。
反逆者となった自分が晴れてその江戸城の門を潜る日が来るとは夢にも思わなかった。そして城内へと進むに連れ、徳川を守れなかったことへの後悔が相馬に深くのしかかるのであった。
「榎本さん、お久し振りにございます」。
「相馬君、君も無事で何より。さ、座りなさい」。
互いの再会を喜び合うも束の間、こうして新政府の役人となっている榎本が相馬には眩しいと同時に、死んで逝った土方歳三や野村利三郎。そしてその後、囚われとなった同志たちの顔が浮かぶのであった。
「相馬君、君には新政府に出仕して貰いたい」。
榎本は、相馬を鳥取県令に推薦する旨伝えるのだった。
相馬に取っては正に青天の霹靂である。
(新政府を相手に最期迄戦った自分が、その役人になるとは)。
そんな相馬の心中を察した榎本は、
「我らが目指した国を作る為にも、我らは政府に身を投じなければならないのだ。もう薩長の世の中ではない。新しい日本国なのだ」。
榎本の言う事も理解は出来る。だが、相馬にはやはり薩長と共に働く事など考えも及ばない。
「榎本さん、御好意感謝致します。されど、徳川の禄を食んだものは徳川に死す。わたしの思いは変わりません」。
榎本の行為は身に余るものであったが、それでも信念を貫き、相馬は申し出を辞退する。
明治五年の暮れは相馬夫妻には厳しい冬になった。
(今更、寺子屋でもなかろう)。
予想以上に大きく変わった世相にとまどいながらも、相馬は生計の手段を考えなければならない。住まいだけは榎本の行為で、浅草御蔵の屋敷に住まわせて貰っていた。
新島を離れる折り、まつの父・甚兵衛が娘愛しさに手渡したのであろう金子をまつが内緒に生活に宛てがっている事も周知していた。
そこへひょいと、懐かしい顔が現れた。元新撰組隊士で函館でも共に戦った大野右仲である。
大野は、弘前の薬王院から青森の蓮華寺へ移送され、更に二カ月後には蓮心寺に。そして東京へ送られ、旧藩の唐津藩お預けとなった後、明治三年(1870)一月に解き放たれていた。
相馬が未だ東京辰ノ口軍務局糾問所にて詮議を受けていた自分のことである。
「相馬さんが戻られたと聞き、駆け付けました」。
大野によれば、解き放たれてから一年は随分と迷ったが、翌明治四年(1871)からは新政府に出仕し、豊岡県権参事を務めているとのことだった。
そして相馬にも、「豊岡県へ来ないか」と勧める。だが、相馬には成さねば成らぬ事がある。豊岡県へ赴くとなるとそれもままならない。
「相馬さん、昔を忘れる事は出来なくても、生き残った者は暮らしを立てねば成らぬ。新政府で働く事は徳川を裏切る事に非ず。徳川の意志を新政府に息吹かせることなのだ」。
この言葉に動かされた相馬は同県へ十五等出仕として、司法方面の勤務に就いた。
そんな平穏な時も束の間、わずか二年後の明治八年(1875)二月。豊岡県内部の抗争により、突如免官されると、相馬は東京へと戻る。
その騒動で千葉へと移動になった大野が、そこでの要職を用意するが相馬は新政府への希望を失っていた。
そしてわすかな期間ではあったが移り住んだ浅草に居を構えると、その頃、会津戦線を戦い抜き斗南で苦渋を舐めた斉藤一が警視局に出仕し、お茶の水に住んでいる事を知るのだった。
「斉藤さん」。
出迎えた斉藤は、相馬を見るなり、無念の口上を述べ、
「新撰組のけつを君に拭わせてしまった。申し訳ない」。
そう詫びるのだった。
「新撰組に幕を下ろすのは俺の役目であった」。
「これも運命でしょう。わたしに悔いはありません」。
斉藤は、東京に移り住んで以来、山川浩など旧会津藩士との交流は持ったが、新撰組とは疎遠だった。それは風化させたい過去故かそれとも誰をも寄せ付けぬ思い出として残す為か。それは相馬も同じであった。
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