大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

幕末 閑花素琴 

2011年04月25日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
参考文献 
子母澤寛「新選組始末記」「新選組物語」「新選組遺聞」
永倉新八「新撰組顛末記」
前田政記「新選組全隊士徹底ガイド」
松浦玲「新選組見れば見るほど」
岳 真也「『新選組』の事情通になる!」
童門冬二「坂本龍馬人間の大きさ」
星亮一「鳥羽伏見の砲声―徳川幕府終焉の舞台裏 」「会津落城―戊辰戦争最大の悲劇」「女たちの会津戦争 」
野口武彦「鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間」

 長い間、拙い文章にお付き合いくださいました皆様ありがとうございました。本編は百十九回をもって終了します。
 多くの事件に絡んだという流れで土方歳三がやはり、主人公になってしまいましたが、当初は、斉藤一を主人公に考えておりました関係で会津が最終決戦地になっています。
 次回は、スピンオフにするか、または全く違った素材にするか検討中です。整いますまで、日々のエッセイを随時アップさせていただきますので、引き続きよろしくお願い申し上げます。
 話は変わりますが、現在NHK BSで放送中の「新縁組血風録」。かなり面白いです。特に、近藤局長と沖田総司がかなりそれっぽい。と申しましても本人知っている訳ではありませんが(笑)。
 改めまして、ありがとうございました。


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幕末 閑花素琴 その百二十一 会津藩士、戊辰戦争その後(文中登場人物)

2011年04月25日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
会津藩9代目藩主・松平容保
明治26年12月5日
蟄居を許された明治13年には日光東照宮の宮司となり正三位まで叙任。東京・目黒の自宅にて肺炎のため死亡。享年59歳。
墓所 福島県会津若松市 松平家院内御廟

斗南藩初代藩主・松平容大
明治43年6月11日
明治2年に会津藩主・松平容保の子として生まれ、会津戦争後家名再興が許されると生後半年で斗南藩藩庁舎の置かれた五戸そして田名部に移る。廃藩置県後は斗南県となの知藩事を免じられる。後に東京へ移住し、早稲田専門学校行政科を卒業後、陸軍入隊日清戦争には少尉として従軍。騎兵大尉まで昇進する。死去までの四年間は貴族院議員を務めた。享年42歳。
墓所 福島県会津若松市 松平家院内御廟

桑名藩第4代藩主・松平定敬
明治41年7月12日
容保の実弟。会津から仙台。そして榎本武揚の艦隊で箱館へ渡り、明治2年に横浜へ戻り降伏。赦免後の明治6年にアメリカ人宣教師S.R.ブラウンが横浜市中共立修文館を設立すると、英語を学ぶ。明治7年11月には渡米を果たす。享年61歳。
墓所 東京都豊島区 染井霊園

照姫
明治17年2月28日
松平容保の義父。先代藩主・容敬の養女となり、豊前藩主・奥平昌服と離婚後は、江戸藩邸で暮らしていたが、戊辰戦争で会津入る。開城後、容保と北滝沢村にある妙国寺にて蟄居。その後は、東京小石川の保科家(東京・牛込の旧会津藩家老山川家説もありにおいて病没。享年53歳。実父は保科正丕。
墓所 福島県会津若松市 松平家院内御廟

主席家老・梶原景武(平馬)
明治22年3月23日
山川浩の妹・二葉と離婚し水野テイと再婚。梶原景雄を名乗り、斗南の上市川村に居を構え、青森県庁庶務課長を務め後、函館・根室に渡り根室県庁庶務課根室にて職に赴く。享年47歳。
家督を継ぎ家老職にあった兄・内藤信節は入城できず、親類の若年寄・上田八郎右衛門の一家と菩提所である泰雲寺にて一族、家臣20余名が集団で自刃。末弟である武川信臣は彰義隊に参加。上野戦争後に捕らえられ斬首。
墓所 
北海道根室市 市営西浜町墓地
会津若松市 泰雲寺(文骨した供養墓)

家老・西郷頼母
明治36年
籠城中、恭順派の頼母は命を狙われ長子・吉十郎のみを伴い城から脱出。会津から落ち延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦い箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなった。一族の婦女子20余名は自刃。
赦免されて伊豆で私塾を開く。その後は神社で神職を務めたが、、郷里の会津若松に戻り十軒長屋で死去。享年74歳。明治時代の講道館柔道の達人で講道館四天王の一人。富田常雄の「姿三四郎」のモデルとなった西郷四郎は頼母の養子である。
墓所 福島県会津若松市 善龍寺

国家老・萱野権兵衛
明治2年
容保助命のため会津戦の責任者を負い飯野藩保科家下屋敷にて自刃。享年42歳。
墓所 
東京白金 興禅寺
福島県会津若松市 天寧寺

国家老・田中土佐(玄清)
慶応4年8月23日
神保内蔵助と共に医師土屋一庵の屋敷にて自刃した。享年49歳。
墓所 福島県会津若松市 天寧寺

国家老・神保内蔵助
慶応4年8月23日
田中土佐と共に医師土屋一庵の屋敷にて自刃した。享年52歳。
墓所 福島県会津若松市 建福寺

家老・佐川官兵衛
謹慎後、斗南藩に移住。廃藩後は警視庁に出仕。明治10年の西南戦争において、熊本県阿蘇郡で被弾し戦死。享年47歳。
墓所 福島県喜多方市 長福寺

斗南藩家老・山川浩(大蔵)
明治31年3月6日
陸軍少佐に昇進し明治7年、佐賀の乱の鎮圧。西南戦争に活躍。陸軍に在籍したまま東京高等師範学校などの校友会である桐陰会の会長も務める。陸軍省総務局制規課長を最後に予備役後は貴族院議員。陸軍少将男爵。明治24年頃より患っていた呼吸器の病いにて死去。享年54歳。弟は東大総長となった健次郎。東京女子高等師範学校舎監となった二葉(梶原景武と離婚)。我が国初の女子留学生で後に大山巌の妻となった捨松(松子)がいる。
墓所 東京都港区 青山霊園

軍事取調役兼大砲頭取・山本覚馬
明治25年
維新後は地方官・政治家として初期の京都府政を指導。同志社英学校(現同志社大学)臨時総長として同志社の発展に尽力。同大学の敷地は山本が譲渡したもの。享年64歳。従五位追贈。
墓所 京都市東山区 同志社墓地

藩士・吉原四郎
新選組に派遣される。

藩士・石塚勇吉
新選組に派遣される。

藩士・常盤盛敦
新選組に派遣される。佐川麾下の別撰組隊士として鳥羽伏見の戦いに参戦し、戊辰戦争では越後方面で負傷。斗南藩を経て会津で警察官となり佐賀の乱に出征。退官後は、会津中学武芸教師を勤めた。兄の数馬は会津戦争で討死

藩士・柴司秀治
大正12年4月28日
新選組に派遣される。会津戦後,斗南移住し藩の創立につくすも、糧米の代金事件に連座し入獄。後、下北郡長・大沼郡長・南会津郡長などを歴任する。享年85歳。
墓所 福島県会津若松市 恵倫寺

藩士・柴司
元治元年6月12日
会津藩と土佐藩の関係修復のため兄の介錯にて切腹。享年21歳。
墓所 京都市左京区 黒谷金戒光明寺会津墓地

藩士・柴四郎
大正11年
戊辰戦争に兄の柴謙介と共に従軍。東京での謹慎生活赦免後、岩崎家の援助を受けて米ペンシルベニア大学、パシフィック・ビジネス・カレッジを卒業。帰国後は、東海散士のペンネームで作家活動。政治家としても衆議院議員。農商務次官・外務参政官などを歴任。大正11年熱海の別荘で死去。享年69歳。
墓所 静岡県熱海市 錦峰山海蔵寺

藩士・柴五郎
昭和20年12月13日
斗南へ移住後、上京して陸軍幼年学校・士官学校へと進み、義和団の乱には北京で籠城など日本陸軍を率い、陸軍大将を最期に予備役となる。東京上野毛の自宅で死亡。享年86歳。
墓所 福島県会津若松市 恵倫寺

藩士・佐川又四郎
官兵衛の弟。慶応3年12月12日夜、京都守護職屋敷前で薩摩藩士と斬りあい慙死。

藩士・秋月悌次郎
明治33年
会津若松城を脱出し米沢藩へ赴き、その協力を得て官軍首脳へ降服。会津戦争の責任を問われ終身禁固刑となるが明治5年特赦によって赦免。同年新政府に左院省議として出仕し、各地の学校の教師となる。五高では小泉八雲と同僚であった。晩年は東京に住む。享年74歳。
墓所 東京都港区の青山霊園

藩士・山浦鉄四郎
明治12年11月8日
新選組に派遣される。戊辰後は、蒲生誠一郎と名前を変え、斗南へ行き明治4年に娘子隊として奮闘した中野優子(竹子の妹)と結婚し、函館に移住後その地で病死。享年36歳。優子は昭和6年79歳にて死去。
墓所 青森県八戸市 御前神社神葬墓地

藩士・秋月登之助
明治18年1月6日
会津に引き揚げず、幕府軍に加わり、宇都宮城の戦いでは伝習第一大隊の隊長として参謀の土方歳三と共に戦う。母成峠の戦いで目撃されたのを最後に消息不明。行年44歳。
墓所 福島県会津若松市 興徳寺

藩士・秋月登之助
明治18年1月6日
会津に引き揚げず、幕府軍に加わり、宇都宮城の戦いでは伝習第一大隊の隊長として参謀の土方歳三と共に戦う。母成峠の戦いで目撃されたのを最後に消息不明。行年44歳。
墓所 福島県会津若松市 興徳寺

藩士・鈴木爲輔
明治10年2月7日
会津戦争終結、降伏の使者として土佐藩の陣営に赴き、降伏の印として城頭に白旗3本を掲げた。享年49歳。
墓所 福島県会津若松市 法華寺

藩士・安藤熊之助
降伏の印として城頭に白旗3本を掲げた。後に海軍兵学寮にて兵学権少属に就く。

藩士・倉沢平治右衛門(重為)
明治33年12月10日 
会津戦争終結の後は、斗南藩小参事を務め廃藩置県後は三戸郡五戸町中ノ沢に住み、私塾を開き、青森県の教育文化に貢献した。五戸町にて死亡。享年76歳。
墓所は 青森県三戸郡五戸町 曹洞宗光明山高雲寺

藩士・高木盛之輔
大正8年2月19日
父・小十郎は、元治元年7月19日に禁門の変にて戦死。戊辰戦争時15歳だったため、護衛隊として藩主の側近を勤め滝沢本陣と戸ノ口原の斥候伝令を受け持つ。
戦後、猪苗代から東京に転送幽居され、翌明治2年1月、東京に転送された。西南の役に山川浩隊に属して、従軍。後に司法官となり、根室・甲府・山形等の地方裁判所検事正を歴任。従四位勲四等。福島市に閉居後。享年66歳。
墓所 福島県会津若松市 青木善龍寺

白虎士中二番隊士・石田和助
慶応4年8月23日
白虎士中二番隊士として戸ノ口原に出陣し、戦利あらず飯盛山にて自刃。享年16歳。
墓所 福島県会津若松市飯盛山。菩提寺は不明

白虎士中二番隊士・西川勝太郎
慶応4年8月23日
白虎士中二番隊士として戸ノ口原に出陣し、戦利あらず飯盛山にて自刃。享年16歳。
墓所 福島県会津若松市飯盛山。菩提寺は不明。

白虎士中二番隊士・坂井峰治
塩川で河原田治部隊に合流入城を果たす。落城後は、謹慎赦免の後に名を正義と改め、郵船会社函館支店の課長に進む。それからの消息は不明。
墓所 福島県会津若松市飯盛山。菩提寺は不明。

白虎士中二番隊士・有賀織之助
慶応4年8月23日
白虎士中二番隊士として戸ノ口原に出陣し、戦利あらず飯盛山にて自刃。享年16歳。
墓所 福島県会津若松市飯盛山。菩提寺は不明。

白虎士中二番隊士・酒井峰治
昭和7年
朱雀士中三番隊合流入城を果たす。明治30年頃まで会津若松市の一箕村で精米業を営み後に北海道紋別雄武村へ移住し、その後旭川で精米業を営む。享年80歳。
墓所 福島県会津若松市飯盛山。菩提寺は不明。

山本八重子
昭和7年。
山本覚馬の妹。戊辰戦争時には断髪・男装し砲術を以て奉仕し、会籠城戦で自らもスペンサー銃を持って奮戦した。夫・川凬尚之助籠城戦最中行方知れず。実兄・覚馬を頼って上洛し、同志社英学校を開いた新島襄と結婚。日清戦争、日露戦争で篤志看護婦となった。功績により昭和3年昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜される。寺町丸太町上ルの自邸にて死去。享年86歳。
墓所 京都市左京区 同志社墓地

娘子隊・中野竹子
慶応4年8月25日
娘子隊を結成し奮戦したが被弾。首級を敵に与えることを潔しとせず、母の介錯により果てた。首級は農兵の手により埋葬された。享年18歳。
墓所 福島県会津若松市 法界寺

篠田やそ
明治4年頃、斗南にて倉沢平治右衛門宅に同居していた斉藤一と結婚。斉藤より4歳年上。離婚時期は不明。

高木時尾
会津藩士高木小十郎の長女時尾。明治7年、斉藤一と結婚。斉藤31歳、時尾29歳。本仲人・松平容保、下仲人・山川浩と佐川官兵衛。10年長男・勉、19年二男・剛、24年三男・ 龍雄が誕生。



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幕末 閑花素琴 その百二十 新選組幹部と、戊辰戦争その後(文中登場人物)

2011年04月25日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
局長・近藤勇
慶応4年4月25日
中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首。享年35歳。
墓所
東京都荒川区 円通寺
東京都北区 寿徳寺境外墓地
東京都三鷹市 龍源寺
福島県会津若松市 天寧寺
愛知県岡崎市 法蔵寺

副長・土方歳三
明治2年5月11日
旧幕府群を率いて、宇都宮、会津、仙台を転戦後函館一本木関門にて銃弾に倒れる。享年35歳。
五稜郭に埋葬されたとも言われるが特定されていない。
墓所
東京都荒川区 円通寺
東京都北区 寿徳寺境外墓地
東京都日野市 石田寺

総長・山南敬助
元治2年2月23日
脱走の罪にて切腹。享年32歳。
墓所 京都市下京区 光縁寺

参謀及び文学師範・伊東甲子太郎
慶応3年11月18日
離脱し、御陵衛士設立後、油小路の本光寺門前にて新選組による暗殺。享年33。墓所 京都市東山区 戒光寺

一番組長及び撃剣師範・沖田総司
慶応4年5月30日
鳥羽伏見の敗戦後、江戸帰還後千駄ヶ谷の植木屋宅にて肺結核で死亡。享年27歳。
東京都港区 専称寺

二番隊組長及び撃剣師範・永倉新八
大正4年1月5日
靖兵隊に参加後米沢にて降伏。松前藩に帰参後、北海道小樽や東京に暮らし、虫歯を原因とする骨膜炎から敗血症を発症し小樽にて死去。享年77歳。
墓所
北海道札幌市  里塚霊園
北海道小樽市 中央墓地
東京都北区 寿徳寺境外墓地
岡山県岡山市 松光院墓地

三番隊組長及び撃剣師範・斎藤一
大正4年9月28日
会津若松城落城後、斗南を経て東京にて警視庁に出仕するなど。胃潰瘍のため死去。享年72歳。
墓所 福島県会津若松市 阿弥陀寺

四番隊組長及び柔術師範・松原忠司
慶応元年9月1日
病死とされるが不明。享年31歳。
墓所 京都市下京区 光縁寺

五番隊組長及び諸士取調兼監察及び文学師範・尾形俊太郎
慶応4年8月21日の母成峠の戦いで敗走し会津若松城下にて消息を絶つ。

五番隊組長及び文学師範・武田観柳斎
慶応3年6月22日
京都郊外の鴨川銭取橋にて暗殺。享年30歳。
墓所 不明

六番隊組長・井上源三郎
慶応4年1月5日
淀千両松の戦いにて敵の銃弾を腹部に受けて戦死。享年39歳。
墓所 東京都日野市 宝泉寺

七番隊組長・谷三十郎
慶応2年4月1日
京都東山の祇園社(現八坂神社)石段下にて頓死。享年不明。
墓所 大阪市北区 本伝寺

八番隊組・藤堂平助
慶応3年11月18日
離脱し、御陵衛士参加後、油小路で新選組に討たれる。享年24歳。
墓所 
京都市東山区 戒光寺墓地
東京都日野市 宝泉寺

九番隊組長・鈴木三樹三郎
大正8年1919年
御陵衛士、陵衛士を経て赤報隊を結成するが、途中で脱し生き延び、新政府の軍務局軍曹として戊辰戦争では北越や会津戦線を戦う。維新後は、司法・警察関係に奉職し鶴岡警察署長を務める。茨城県石岡町にて余生を送り老衰のため死去。享年83歳。
墓所 茨城県石岡市 東耀寺

十番隊組・原田左之助
慶応4年5月17日
靖兵隊を経て彰義隊に加入し、上野戦争にて戦死。享年29歳。
墓所 不明

副長助勤・安藤早太郎
元治元年7月22日
池田屋事件における負傷がもとで死亡。享年43歳。
墓所 
京都市中京区 壬生寺
京都市左京区 聞名寺

諸士調役兼監察方及び柔術師範・篠原泰之進
明治44年6月13日
御陵衛士から薩摩軍に加わり鳥羽伏見を戦う。戊辰戦争では赤報隊に加わり投獄後軍曹として北越戦線で戦功を挙げ、維新後は戦功により永世士族の身分を得る。大蔵省造幣使の監察役、業家に転身するも失敗。、晩年はキリスト教に入信する。東京市青山にて死去。享年84歳。
墓所 東京都港区 都営青山霊園

二番組伍長及び諸士調役兼監察・島田魁
明治33年3月20日
函館まで転戦し守衛新選組隊長を務めるが弁天台場にて降伏。維新後は京都・西本願寺守衛などを務め、勤務先の西本願寺で倒れ死去。享年73歳。
大谷祖廟(東大谷)に納骨

諸士調役兼監察・山崎烝
慶応四年1月13日
鳥羽伏見の戦いの傷が元で江戸帰還途中の富士山丸の船上で死亡、紀州沖で水葬されたとされている。享年38歳。

諸士調役兼監察・大石鍬次郎
明治3年10月10日
甲陽鎮撫隊敗走後、江戸に潜伏中、捕縛され坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられるが後に撤回。伊東甲子太郎の殺害の罪で斬首。享年32歳。
墓所 不明

伍長・近藤芳助
大正11年
会津母成峠の戦いで新選組本隊とはぐれ、米沢に向かい城下で新政府軍に捕まる。新政府の訊問では、新選組隊士である事は明かさずに、単に幕臣であるとした。釈放後は弁護士市議会議員、県議会議員を務める。享年80歳。
墓所 横浜市西区 東福寺

諸士調役兼監察及び撃剣師範・新井忠雄
明治24年
戊辰戦争では新政府軍に所属。維新後、司法省官吏として明治政府に出仕。享年57歳。
墓所 東京都台東区 谷中霊園

諸士調役兼監察・浅野薫
慶応3年頃
御陵衛士に加わろうとしたが伊拒絶され、屯所へ戻ろうとしたところを沖田総司に斬られる説が有望。享年24歳。
墓所 不明

諸士取扱役兼監察方及び撃剣師範・吉村貫一郎
慶応4年1月3日
鳥羽・伏見の戦いに参戦後の消息は途絶える。子孫の嘉村家の過去帳には、明治3年1月15日没とあるという。 慶応4年説とするなら享年27歳。
墓所 不明

伍長・橋本皆助
離脱し、御陵衛士脱退後、陸援隊に入隊。維新後、大和郡山藩への帰藩後間もなく病死。享年37歳。
墓所 奈良県大和郡山市 常光寺

伍長及び大砲差図役頭取・志村武蔵
会津戦争に参加し如来堂の戦いで離散。東京で病死。
墓所 不明

伍長・林信太郎
明治元年10月27日
甲州勝沼の戦いの後、靖共隊に参加し会津などで転戦するが、水戸街道で久留米藩兵との戦いで討死。享年31歳。
墓所 不明

伍長・前野五郎
明治25年4月19日
甲州勝沼の戦いの後、靖共隊に参加し関東を転戦後、薩摩軍に投降。千島開発計画に共鳴、私財を投じて千島救済会を設立。エトロフ島ににて沙那郡磯谷山中で橋から転落しその際に猟銃の暴発による事故死。享年48歳。
墓所 北海道清田区 里塚霊園

旗役頭取・漢一郎
慶応4年8月21日
宇都宮、会津と転戦し母成峠の戦いで戦死。享年31歳。
墓所 不明

隊士・谷万太郎
明治19年
兄・三十郎の死後離脱。西南戦争従軍。晩年は、商家の用心棒などに就く。食道ガンのため大阪にて死去。享年51歳。
墓所 大阪市北区 本伝寺

隊士・谷昌武(近藤周平)
明治34年
江戸帰還後脱走。転職、離婚を繰り返し山陽鉄道神戸事務所の下級職員となる。神戸市にて病死。享年54歳。墓所 大阪市北区 本伝寺

隊士・加納道之助
明治35年10月
御陵衛士を経て、戊辰戦争では新政府軍に参加。維新後は開拓使、農商務省などに出仕し、東京麻布で死去。享年64歳。
墓所 東京都港区 青山霊園

隊士・服部武雄
慶応3年11月18日
離脱し、御陵衛士参加後、油小路で新選組に討たれる。享年36歳。
墓所 京都市東山区 戒光寺

隊士・佐野七五三之助
慶応3年6月14日
御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ会津藩邸内にて切腹。享年31歳。
墓所 京都市東山区 戒光寺

隊士・茨木司
慶応3年6月14日
御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ会津藩邸内にて切腹。
墓所 京都市東山区 戒光寺

隊士・富川十郎
慶応3年6月14日
御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ会津藩邸内にて切腹。享年24歳。
墓所 京都市東山区 戒光寺

隊士・中村五郎
御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ会津藩邸内にて切腹。享年19歳。
墓所 京都市東山区 戒光寺

隊士・内海次郎
御陵衛士を経て薩摩藩に属し戊辰戦争に参戦。明治2年に戒光寺に御陵衛士墓碑を建立後消息不明。

隊士・中島登
明治20年4月2日
箱館まで転戦し弁天台場にて降伏。謹慎赦免後は多摩に戻り、静岡藩の開墾に尽力後浜松にて死亡。享年50歳。
墓所 浜松市山下町 天林寺

隊士・今井祐次郎三
慶応4年1月5日
淀千両松の戦いにて戦死もしくは、江戸帰還途中も富士山丸船中にて死亡。享年26歳。
墓所 不明

隊士・畠山二郎
母成峠の戦い後、仙台で降伏。その後の消息は不明。

隊士・松沢乙造
母成峠の戦い後、函館まで行くが明治2年5月1日屯所から脱走。その後の消息は不明。離隊後、函館で暮らしたとも言われる。

函館新選隊長・相馬主計
土方が戦死後、隊長(就任は明治2年5月15日)として恭順の書状に名前を印し、新選組の歴史に幕を引いた。その後、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられて伊豆新島に流罪になり、明治5年赦免後は、東京の住む。翌年、豊岡県へ1主に司法方面の勤務に就いたが、明治8年2月、免官され、東京に戻り死亡。割腹自殺説が有望。
墓所 不明

隊士・村上三郎
白河口の戦いにて重傷を負い、仙台にて残留。その後の消息は不明。

隊士・野村利三郎
明治2年3月25日
宮古湾海戦で戦死。新政府軍により遺体は海に棄てられたと言う。享年26歳。

隊士・矢田健之助
慶応4年5月6日
甲州勝沼の戦いの後、靖共隊に参加し今市戦で戦死。
墓所 福島市南沢又 高徳寺

隊士・中条常八郎
甲州勝沼の戦いの後、靖共隊に参加。その後の消息は不明。

隊士・松本喜次郎
慶応4年8月17日
甲州勝沼の戦いの後、靖共隊に参加。会津戦で戦死。
墓所 福島県郡山市 正福寺

隊士・林正吉
鳥羽・伏見の戦い敗戦から江戸に帰還後脱走。その後、靖共隊に参加。後に林鐘吉の名で、函館戦争降伏。その後の消息は不明。

隊士・中山重蔵
鳥羽・伏見の戦い敗戦から江戸に帰還。函館弁天台場にて降伏。その後の消息は不明。

馬丁・沢忠助
箱館戦争まで同行し、土方の戦死にも居合わせた。五稜郭降伏前に、土方の遺品でを預かって箱館から湯ノ川へ脱出。明治3年、日野宿の佐藤家に遺品を届け、その後の消息は不明。

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幕末 閑花素琴 その百十九 幕末は終わらない

2011年04月25日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
 「琴美、早くしないと遅れるぞ」。
 琴美はけたたましい騒音の中に目を覚ました。そこは、見慣れた東京お茶の水ににある宝栄社『月刊歴史を歩こう』の編集部。琴美は自分の机の突っ伏して眠り惚けていたのだった。
 「幾ら徹夜だからって、こうまで熟睡できるかね」。
 嘲るような同僚の声がする。
 碓雲がかかったようなすっきりとしない頭ながら、「今日は、何日」と聞くと、「九月十六日です。何をとぼけてるんだ」。「いえ、何年の…」。「昭和六十年。1985年だ。くだらないことを言っていないで、早くしないと新幹線に起これるぞ」。
 (戻っている。昭和だ。昭和のあの日だ。夢でも見ていたのか。それにしては長い妙な夢だった)。
 琴美には、何が何やら分からなかった。
 どやされるまま、琴美は編集部を出た。同行している男は誰だろう。見覚えない顔である。「新しいカメラマンか」。
 京都駅には、島田裕也が出迎えに来ていた。
 「ようお越しやす」。
 島田裕也に間違いない。
 「初めまして、宝栄社『月刊歴史を歩こう』の松本琴美です。こちらはカメラの…」。
 「林信太郎です」。
 (えっ、林君…)。
 琴美の見知った林とは全くの別人。
 (ということは、やはり夢ではなく、林君は水戸街道で死んだのか。すると、この時代の林信太郎は、今目の前にいるこの人ということなのか)。
 琴美は苦悩したが、当の林もそして島田も全く気にも留めていないようだった。
 島田裕也は二人を伴い、西本願寺近くの自宅へと案内した。島田の家は、町家と呼ばれる築二百年を誇る古民家で、かなり手は入れたが、それでも江戸時代の佇まいは残したい祖父の意思を受け継いでのものだった。
 押し入れの奥から古い写真が見付かったということだった。出されたその写真はついこの前に琴美も写ったその一枚。
 裕也は、
 「島田魁はん、永倉新八はん、斉藤一はんに間違いおませんやろ」。
 と言う。
 (違う、夢とは違っている)。
 琴美は夢のように耳鳴りこそしないものの、違いは肌で感じていた。
 翌日は、八木家から、池田屋、蛤御門、池田屋跡、京都御所、西本願寺を周り、琴美はこれで東京に戻ろうとしたのだが、
 林信太郎と名乗る男が、
 「黒谷金戒光明寺に行こう」。
 と切り出した。
 「黒谷金戒光明寺に、どうして」。
 琴美は聞き返すと、
 「京都守護職の会津藩の陣が置かれた場所だ。ここから始めなければ」。
 (夢と違う。でも、黒谷金戒光明寺は行かない方がいいような気がする)。
 「今回のグラビアはもう大丈夫。これで東京に戻りましょう」。
 だが、林と名乗るその男は殺気だっているかのように歩みを進め、とうとう黒谷金戒光明寺の石段前に着いてしまう。琴美は一歩が踏み出せない。躊躇する二人を石段の上から、林を名乗る男は見下ろして、
 「ならば、ここまでで結構。お手前らが揃えば黒谷の結界も開けたであろう」。
 と、急に国語調にしゃべり出し、「ではこれにて」。と一気に駆け上る、その後ろ姿に琴美は、
 「林さん。あなたは、新選組の林信太郎さんなのですか」。
 と声をかけた。林を名乗る男は、振り返ると、
 「いかにも」。
 一瞬だけ笑顔を覗かせ、また石段を駆け上る。だが、その姿は最上段のところで煙のように消えた。
 「行っちゃいましたね」。
 裕也が琴美に話しかける。
 「行っちゃいましたって、何処へ」。
 「未だ分からないのですか。僕ですよ。庄作です、島田庄作」。
 「じゃあ、あなたも」。
 「はい。幕末からおととい戻りましたよ。お琴さん」。
 琴美は未だ整理がつかないが、裕也はまるでお使いから戻ったような軽い口ぶりだ。
 「何せ僕は、からくり儀右衛門に会っていますからね」。
 裕也は不敵な笑みをこぼすと、
 「行くなら今しかありませんよ。幕末に」。
 その言葉が終わり切らないうちに、二人は顔を見合わせ目配せを交わすと、石段を駆け上り始めていた。


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幕末 閑花素琴 その百十八 今生の別れは来世へと

2011年04月25日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
 島田魁は、まるで亡霊でも見るかのように目をまん丸にして驚いたが、直ぐに泣き笑いになり、斉藤一と互いが生きているのとに喜び合った。そして、
 「ちょうど良かった。今日は永倉君も来るんですよ。永倉君じゃなかった。今は杉村治備だ」。
 永倉新八こと杉村治備は、米沢藩に滞留中に会津藩の降伏を知り、江戸へ帰還後、松前藩に帰参が認められ、明治四年(1871)、藩医の杉村介庵の婿養子として北海道松前町に渡った。
 そして明治六年(1873)に家督を相続するに辺り杉村治備と改名。その後は小樽へ移るが、樺戸監獄の剣術師範を退職後は東京の牛込に剣術道場を開いていた。この頃、永倉は、鳥羽伏見出陣に際し、生き別れとなっていた娘の磯子を探し、京を訪れることがたびたびあったため、島田とも親交があった。
 永倉も斉藤と琴美を見ると、島田と同じように一瞬呆然とするが、
 「良く生きていた。良かった良かった」。
 と、讃え合った。
 永倉は、庭先に出ると、
 「良い時代になった。近藤さんや土方さんにも見せてやりたかった」。
 と言い。思わず土方の名前を出したことで琴美に、「失礼」と謝りながらも。
 「だが、斉藤君と琴さんが結婚なさったとは…。琴さんは、斉藤君の気持ちを知っていましたか」。
 と切り出した。
 「どういうことでしょう」。
 「斉藤君は、京にいた頃からあなたを見ていましたよ」。
 琴美は斉藤とはろくに口を聞いた覚えもない。
 「そうでしょう。琴さんは土方さんしか目に入っておられなかった」。
 なぜか永倉に言われると重みを感じるから不思議なものだ。

 島田は、「新選組の見回り中に丹波屋で茶の接待を受けた」のが馴れ初めだと言う妻のさくに、こうして皆がそろったんだ」と、さくに近くの写真館へ、撮影を依頼してくるように申し付けた。
 琴美には全てが理解できた。昭和六十年(1985)島田裕也の家で見た、正にその写真に違いない。そこには、島田魁、永倉新八、斉藤一が写っていたのだから。
 琴美も、最期に林信太郎のカメラで一枚撮った。
 「それは何ですか」。
 と、皆が驚くが、「新しいカメラです」と笑いながら、そのカメラを仕舞う。林はどんな幕末を写したのだろうか。フィルムの現像技術が伝わるのはまだまだ先に話だ。だが、琴美は、林が最期まで従った永倉を写すことで、林への供養と考えていた。
 そして、この再会が藤田五郎こと斉藤一にとっては、昔を懐かしむ新選組隊士との最後になる。島田魁は、三年後の明治三十三年(1900)三月二十日、守衛を務めていた西本願寺で深夜倒れ死去。享年七十三歳。東大谷墓地に葬られた。葬儀には永倉も参列。
 その三年後の明治三十六年(1903)十二月二十一日には、八木源之丞が九十歳にて死去。
 永倉新八は、明治三十二年(1899)、妻と子供が暮らす、北海道小樽へと再び戻り、その翌年には、関西の女役者・尾上小亀となっていた娘・磯子と念願の父娘の名乗りを挙げる。そして、大正四年(1915)一月五日、虫歯を原因とする骨膜炎から敗血症を発症し死去。享年七十七歳。遺骨は分骨され、東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地。明治九年(1879)に、永倉が松本良順(松本順)と共に、近藤と土方の供養碑を建立し、近藤の遺体を葬ったその場所に埋葬された。
 永倉は、後に「新撰組顛末記」として一冊にまとめられる著書を多く残している。
 その死の二年前の大正二年(1913年)五月二十二日には、近藤勇の京都時代の娘で、竹本綱枝こと山田音羽が、「北海タイムス」に連載していた新聞記事から永倉と近藤のことを知って 永倉新八を訪問している。
 斉藤一は、女子高等師範学校の庶務係兼会計係になるなど、七十歳近くまで働き、三人の息子と、四人の孫にも恵まれ、 大正四年(1915)九月二十八日、胃潰瘍のため死去。
 「斉藤さん。今夜はお豆腐でいいですか。ちょっと買ってきます」。
 琴美が病床にある斉藤の好きな豆腐を買いに出掛けた、ほんの数分のことだった。斉藤は、床の間に向かい、結跏趺坐をして往生を遂げた。それはまるで切腹の姿勢のようでもあった。享年七十二歳。生前からの本人の希望で、墓は福島県会津若松市の阿弥陀寺にある。

 「お疲れ様でした。世が世なれば、剣一つで生きられたものを、慣れないお仕事までしてありがとうございました。あなた様は剣ではなく、わたしを守ってくださいました。近藤さんも、土方さんも…皆さん首を長くしてお待ちでしょう」。
 琴美は、幕末の京を震え上がらせた剣客の静かな最期を看取った。


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幕末 閑花素琴 その百十七 明治の京では…

2011年04月24日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし

 明治三十年(1897)春。藤田五郎こと斉藤一は、琴美を伴い、京都駅へと降り立った。中山道幹線で三日かかる長旅だったが、これまでの徒歩や船とは比べ物にならない便利さである。斉藤は、
 「近藤さんや土方さんは若くして逝ってしまわれたから、このような便利な世の中になるとは思ってもおらなんだろう」。
 京に着いた途端。これまで口にしようとはしなかった、近藤勇、土方歳三の名を挙げ、本人も斉藤一に戻っていた。
 自ずと足は壬生村に向かう。
 八木家の前に立つと、二人には込み上げてくるものがあった。
 「懐かしいですね」。
 「そうだな。少しも変わってはいない。あの頃に戻ったようだ」。
 「訪ねてみましょうよ」。
 琴美が門を潜ろうとすると、斉藤は、
 「今さら、ご迷惑であろう。こうして家を見られたのだからもういいであろう」。
 そんなやり取りをしていると、中から気配を察したのか、四十代後半の男が顔を出した。
 先に気が付いたのは、その男である。
 「お琴はん。お琴はんやないか。えらいこっちゃ。とうはん。とうはん。お琴はんが、ようやっと戻られはった」。
 そう、奥に大声を張り上げる。
 「もしかして、為三郎さんですか」。
 為三郎がすでに四十を超して五十に手が届こうかとしているのだ。正に光陰矢の如しである。
 斉藤と琴美は、源之丞と妻の雅の待つ居間へと通された。かつて暮らした懐かしい家である。
 源之丞は、すでに八十三歳の翁である。それでも矍鑠としている辺りは、昔のままだ。
 「それよりもあれ持ってきやす」。
 源之丞に促されて為三郎が持ってきたのは、林信太郎が蔵に隠しておいたカメラだった。
 「これは」。
 「林はんのですやろ。名が書いてあります。林はんはもういてはらへんよって、お琴はんにお返しします」。
 琴美は、数年振りに懐かしい林の香りを嗅いだ。
 「なんや新選組さんの生き残りのお方はようけ来はります。懐かしどっしゃろ。そやさけ、お琴はんと斉藤はんがな…知りませんどした。そないなことよりも、お琴はん、わてらみいんな、あんたはんの帰りを待っとりましたんで」。
 琴美は、慶応四年(1868)に八木家を飛び出したままの非礼を詫びた。そして、会津までの話をすると、源之丞と雅、為三郎も一応に驚きを隠せず、
 「よう生きていなはった。斉藤はんもや。ようこうして来てくれはりました」。
 と涙する。
 「島田はんは京においでどす。お西さん(西本願寺)で守衛をされとります」。
 為三郎に島田魁の住まいを聞き、二人は足を向けた。花屋町通を東に大宮通のひと筋前。
 「ここは…」。
 琴美には覚えのある道筋だった。


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幕末 閑花素琴 その百十六 明治の門出

2011年04月24日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
 元会津藩大目付故高木小十郎の妻・克子の夫婦養子となった山口二郎(斉藤一)は、「嫡男の盛之輔殿がお帰りになられたら家名を継がれるのが良かろう」と、克子の姓である藤田を名乗り、藤田五郎と改名。斗南藩領の五戸に移住する。
 明治二年(1869)以降には、それぞれ戦い抜き生き残った元新選組隊士らが、書いたとされる書籍が出版されている。中には謹慎中に筆を取ったものもある。永倉新八著「浪士文久報国記事」、島田魁著「島田魁日記」、中島登著「中島登覚書」、御陵衛士毛内有之助の友人が書いた「毛内良胤青雲志録」、立川主税著「立川主税戦争日記」、多摩郡小野路村の近藤勇、土方歳三の支援者小島鹿之助による「両雄士伝」、旧幕府医学所頭取・松本良順著「殉節両雄の碑・碑文」などである。
 斉藤は新選組の話すらしたがらず、本も読もうとはしないが、出版を聞くと、「永倉君も生きていたか、島田君もか。中島君も…」。感慨深そうだった。

 その後、明治七年(1874)東京・お茶の水に移住。警視庁の警視官に採用される。琴美との結婚から三年が過ぎていた。
 だが二人の間には夫婦としての関係はない。それは多分に斉藤が遠慮してのことだろう。
 「斉藤さん」。
 琴美は、ずっと慣れ親しんだ名前で呼んでいた。琴美は、穏やかな三年の月日を過ごしてはいたものの、斉藤のお荷物となっていることに遠慮があった。
 「永倉さんや島田さんも生きておいでです。斉藤さんだけがわたしに責任を感じることはありません」。
 「責任…」。
 「はい。いくら土方に頼まれたとは言え、このようにお世話いただくのも気が引けます。皆さん、回想録としてすでに新選組は思い出の中です。わたしもこの辺りでおいとました方が、よろしいかと感じています」。
 すると斉藤は、何を言い出すのだと言わんばかりに、
 「我らは夫婦ではないか。遠慮はいらぬ」。
 「形ばかりの夫婦であっては、斉藤さんが本当にお好きな方と結ばれることができません。このままでは斉藤さんがご自身の幸せを掴むのはわたしが死んだ後になります。それならば、わたしは生きていることが苦痛です」。
  実直な斉藤にとって、それは苦しい選択だった。
 「では、琴さんの心にもう土方さんはいないと言うことか」。
 「いえ。土方さんが消えることがないのは、斉藤さんや永倉さん、島田さんとて同じでしょう。ただ、もはや思い出の方に過ぎません。共に生きてゆこうと思ったのは、あなたです」。
 そして、明治十年(1877) 二月二十日。待望の長男・勉が誕生する。この年の五月には、斉藤は警部補に昇進。
 明治十二年(1879)十月四日。西南戦争鎮圧の為、九州へ。
 「また戦ですね」。
 「ああ、だがな、相手は薩摩だ。会津を裏切ったあの恨みは忘れてはおらぬ」。
 この頃、警視官には旧会津藩始め、多くの奥羽越の旧藩士が務めており、この戦いで、昔年の恨みを晴らしたと言われる。
 明治十九年(1886)七月一日。二男・剛。続いて、明治二十四年(1891)四月二日。三男・ 龍雄が誕生する。
 そして斉藤は、新政府の要職にある、旧会津藩士・山川大蔵(浩)らの、再三に渡る新政府への出仕を拒み続け、警部で警視庁を退職した後は、高等師範学校附属東京教育博物館の看守として過ごしていた。
 あの斉藤一も既に五十の大台を超えたある日、
 「琴、京へ行ってみないか」。
 「京ですか。また急にどうしました」。
 「いや、無性に京が見たくなったのだ」。

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幕末 閑花素琴 その百十五 斉藤一の真実

2011年04月23日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
 明治4年(1971)七月十四日。政府は廃藩置県を断行する。斗南藩もわずか一年で消滅することになった。藩士たちの間から憤懣遣る瀬ない声が挙る。「我らの斗南での一年は無駄だったのか」。耐え偲びながらも藩に忠誠を尽くした藩士たちである。
 会津若松城落城後、禁固謹慎の身となる。明治3年(1870)斗南藩入りを果たし家老に就任していた山川浩は、自身の妻のトセが爆死するなど、会津戦争では辛い思いをし、さらに、実収の少ない斗南藩の財政から、妹・咲子を口減らし同然に函館に里子に出すなどの苦杯を舐めていた。藩士の思いは痛いほど分かる。
「今、この事態を収めるには殿しかおられぬ」。預り処分で東京にいた前藩主・松平容保に斗南藩入りを要請した。目的は、藩士に、命を下してもらうことにある。
 容保は二十日、藩庁が置かれていた田名部の円通寺に入り、ひと月をここで過ごしている。会津落城以来の藩主との再会である。
 そんな折り、佐川官兵衛が「殿のお召しである」。と、琴美を円通寺に招聘した。そこには、倉沢平治右衛門と共に、懐かしい容保の顔があった。
 「お久し振りにございます」。
 「そちの城での働き、感服致すところ。ご苦労であった」。
 そして、佐川が本題に入り、山口二郎(斉藤一)との件を話し出すのだった。予想だにしたここ柄に琴美は、唖然とするが、容保が、
 「予も異存はない。良き縁組みじゃと思うておる」。
 そして、松平容保が上仲人、佐川官兵衛と倉沢平治右衛門が下仲人を務め、婚儀の話が進められていく。
 困ったのは斉藤である。旧藩主の容保の申し出では断りようもない。
 「琴さん。すぐに京に経ちなさい」。
 「どうしてでしょうか」。
 「殿が仲人をなさるとおっしゃっておられる以上、断ることはできません。だが、あなたが逃げてくれればそれで済むのだ」。
 「それでは斉藤さんの面目丸つぶれではないですか」。
 「俺は構わぬ」。
 「それに、斉藤さんはお嫌なのでしょうか」。 
 斉藤は、土方の最後の頼みを琴美に話した。
 「ならば、土方の意思に添っていただくのが良いかと」。
 「琴さん。そういう意味ではないだろう。俺はこれからもあなたを見守っていくつもりでいますが、婚儀は話が違う」。
 「もし、斉藤さんが嫌なら、わたしは今直ぐにでもここを経ちますが、斉藤さんさえよろしければわたしに異存はありません」。
 琴美は、容保に言われて初めて気が付いたのだった。林信太郎は同姓同名の新選組隊士としてこの時代に招かれた。島田裕也が、坂本龍馬の気まぐれで改名した島田庄作も、坂本暗殺の際、実際にいた人物である。島田裕也がこの時代に来た意味も分かった。
 だが、自分に匹敵する人間は見当たらなかった。自分がここに呼ばれた理由、それは斉藤一の妻になることだ。斉藤の妻となるはずだった篠田やそと高木時尾は共に会津城内で逝っている。

 「斉藤さんにどうしても聞きたいことがあります」。
 琴美はずっと抱いていたことを口にした。
 「斉藤さんは、どうしてここまで会津に恭順するのでしょうか。それに、いくら新選組幹部とはいえ、藩主自ら仲人を買って出たり…斉藤さんは何者ですか」。
 山口二郎こと斉藤一は、目を瞑り大きく息を吸うと、淡々と話し出した。
 「俺は会津藩から新選組に送り込まれた密偵だった」。
 琴美は、「やはり、そうか」と思った。いくら何でも烏合の浪士集団をそのまま抱え込むほど会津藩もお人好しではないだろう。密偵くらい送り込んでいても不思議ではない。
 「ならば、御陵衛士に参加されたのもそのお役目ですか」。
 斉藤は頷く。



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幕末 閑花素琴 その百十四 斉藤一の真実

2011年04月22日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
 献身的に看病をしたのは、斉藤一改め、山口二郎である。だが、熱にうなされる琴美の身体を温める術は無い。
 三日三晩熱の下がらない琴美は、寒さで震えていた。斉藤は、「ご免」と一言。下帯一枚になって、琴美の眠る薄っぺらい布団に身を投じ、己が身体で琴美を温めたのだった。琴美は朦朧とする中で温かな体温を感じていた。
 「疲れが出たのであろう」。
 倉沢平治右衛門、。克子やいく子らは琴美を不憫に思っていると同時に、斉藤の献身さに驚きを隠せなかった。
 「(新選組)副長の命でありますので、琴さんの身は一身に変えてお守りします」。
 その副長・土方歳三はもうこの世にはいない。歳三明治二年(1869)五月十一日、一本木関門にて戦死している。
 斉藤が言うと、「ならば、山口殿も共に京に戻られた方が良いのでは」と勧められるのだった。「わたしはここを離れられません」。
 琴美も大分回復し、そろそろ出立をと思った矢先、旧会津藩家老の佐川官兵衛が斉藤の元を訪れた。京都所司代時代からの知り合いである。
 「実は、斉藤、いや山口じゃったな。高木小十郎殿の奥方から申し入れがござって。それで参った」。
 「どのようなことでしょう」。
 高木の妻・克子が言うには、
 「主も、娘・時尾も亡き今、嫡男である盛之輔(16)も今は離れております。わたしは、山口様に時尾と一緒になっていただき、家名を継いで欲しいと願ったこともありました。今ではそれは適いませぬが、斉藤様さえよろしければ、琴殿と夫婦養子として、我が高木の家を継いでは貰えまいか」。
 だと、佐川は告げる。高木小十郎の嫡男・盛之輔は、猪苗代から東京に転送幽居されていた。
 佐川は、「琴美なら自分も見知った仲で、お主とも浅からぬ縁。いい話だ」と続けるのだった。
 「しかし、琴さんは土方さんの…」。
 「土方さんか。懐かしいの。だが、もうこの世には居らぬお人だ。生き残った者は先に進まなければならぬのだ」。
 斉藤は、「時間が欲しい」とその場は終わった。そして数日の後、琴美を呼んだ。この間、琴美は京に戻る手筈が進んでおらず、周りからもそれらしき話がでないことにいささかおかしさを感じていただけに、ついに出立が決まったのだと思い込んでいたのだが、斉藤から出た最初の言葉は、
 「琴さんは、これからどうするつもりですか」。
 だった。
 「どうするって、京に戻って」。
 「いや、そうではない。もっと先のことだ。土方さんの菩提を弔って生きていかれるおつもりか」。
 先の人生のことなど、考えたこともなかった。毎日毎日が精一杯で、明日のことすら考えてみたこともなかった。それは毎日が充実していたということだろうか。
 「斉藤さん、新選組。楽しかったですね」。
 突拍子もない琴美の答えに斉藤はうろたえるが、
 「そうだな。あの頃は良かった」。
 「でも、もう皆いないんですよね」。
 「琴さん。先を考えてからでも遅くはない」。
 斉藤は、そう言うと、琴美の上洛を伸ばしていた。だが、その真意は打ち明けられずにいたのだった。


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幕末 閑花素琴 その百十三 会津藩、斗南への移封

2011年04月21日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
 会津藩の不幸はそれだけに留まらず、明治二年(1869)に旧藩主・松平容保の子、容大(4カ月)を藩主として家名存続は許されたものの斗南三万石に移封が決まる。
 猪苗代か、斗南への選択があったのだが、藩内の意見が別れ、新たな出直しに斗南移住を押す永岡久茂(29)と、祖の墳墓に近い猪苗代を押す町野主水(30)。激論の末、主水が抜刀して久茂に迫り、久茂は素手で跳ね返すということもあった。
 翌明治三年(1870)一月五日、旧会津藩士四千七百余名の謹慎が解かれ移住が許されたが、斗南三万石に二十三万石の旧会津藩全員の移住は無理である。
 そこで二千八百戸。家族を含めて約一万五千人が移住することになった。斗南藩主となった松平容大は、未だ生後半年。藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗る痛ましいものであった。
 旧会津藩士の家族たちは、藩士らより約六カ月後の十月陸路にて旅立った。老人や婦女子が多く行程の困難さに加え、宿泊を拒絶する旅籠も多く、みぞれに打たれ食べ物にも事欠く有様に、途中で死んでいった者もいたほどである。
 旧会津藩筆頭家老・梶原景武の妻・二葉と琴美の姿もこの一行の中にあった。二葉の兄・山川浩や、夫・梶原始め誰もが、「貴行は、会津にもう付き合う必要なはない。京に戻られよ」。と勧めてくれたが、自分たちを快く面倒を見てくれていた家老の萱野権兵衛も一身に罪を背負った。ましてや、非戦闘員の老人や婦女子が斗南に向かうのに、戦った自分がその罰を受けないのはおかしいと感じていたのだ。
 そして、敗退者への世間の残酷さも改めて知った。今でこそ、誰もが、白虎隊の子孫のような顔をして、会津魂を詠っているが、実際に苦渋を舐めたのは武士だけである。どこの藩内でも士分以外は、この戊辰戦争で新鮮府擁立を願っていたのだ。
 入植した藩士たちの生活は困窮を極めた。3万石という触れ込みの斗南藩は実質7千石に過ぎなかった上に、やませと呼ばれる極偏東風の影響の為、冬場は、尋常ではない寒さに見舞われる。また、多くの東北地方が米所として知られるが、米作にも不向きであった。
 琴美が斗南に着いたことに一番驚いたのは、旧会津藩領の塩川、そして越後高田で謹慎生活を送った後に斗南藩に入っていた、斉藤一改め、山口二郎だった。
 「どうして琴さんが。あなたが斗南に来られることはない。京に戻られた方がいい」。
 斉藤は、すぐにでも船に乗れるように手配しようと身を寄せていた倉沢平治右衛門(45)に相談をするのだが、琴美には戻る意思はないのだ。といって藩領に入って以来、目にするものは景色と呼ぶには相応しくない、ひなびたものだった。緑に囲まれた会津とは比べ物のからない。
 琴美は斉藤から、斗南がとても人の暮らせるような所ではないことや、三万石のはずがわずか七千石しかなく、藩士の多くは困窮を極めていること。武士であっても今は鍬や鋤を手に荒れ地を開拓せざるを得ない現状を知らされた。
 事実、重臣の住まいでさえ雨露を凌ぐのがやっとで、破れた障子や襖からは容赦のない風が吹き込む始末。畳さえもない板間からは寒さがしんしんと身体に伝わる。
 琴美は、琴美を養うだけの余力がないことを知ると、自分の浅はかな行動を恥じた。そして、京の八木家に戻ることを告げるのだった。
 その晩は、斉藤の口利きで、倉沢宅に泊まれる手筈となった。ここには、ほかに元会津藩大目付の高木小十郎(禁門の変で戦死)の妻・克子や高木小十郎の妹で自刃した白虎隊士・有賀織之助の母・いく子の姿もあった。誰もが数家族で一つの家に住まわっているのだ。高木小十郎は、会津城内で死亡した時尾の父である。旧会津藩では、家族を失わなかった者はいなかった。
 霙の中の長旅から琴美はその晩より高熱を出してしまう。


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幕末 閑花素琴 その百十二 会津落城

2011年04月20日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
 元号が改まり、明治元年(1868)九月二十一日、会津藩主・松平容保は開場を決意する。翌二十二日午前十時、秋月悌次郎、鈴木爲輔、安藤熊之助が北追手門に白旗を立て、一カ月に渡る籠城戦に終止符が打たれた。
 新政府軍からは軍監薩摩藩士中村半次郎(桐野利秋)、軍曹・山県小太郎らが、錦の旗を立てて式場に入る。
 筆頭家老梶原景武、その実兄の家老・内藤介右衛門を先案内に、藩主容保は世子の喜徳、家老萱野権兵衛を従えて追手門前、甲賀町通に設けられた降伏式場に臨む。
 藩主松平容保筆頭家老梶原景武、その実兄の家老・内藤介右衛門を先案内に、藩主容保は世子の喜徳、家老萱野権兵衛を従えて追手門前、甲賀町通に設けられた降伏式場に臨む。皆、麻上下姿である、容保は「降伏謝罪書」、重臣たちは藩主父子の寛典を求める「嘆願書」を軍監中村半次郎に提出して、式を終えた。
 新政府軍は、藩主・松平容保に罪を問おうとするが、先に田中土佐、神保内蔵助の国家老が自刃していたため、萱野権兵衛が「主君には罪は非ず。抗戦の罪は全て我にあり」と、一身に罪を背負い、江戸の久留米藩邸にお預け後、明治二年(1869)、飯野藩保科家下屋敷にて自刃。享年四十二歳。

 萱野の申し出に寄って一命を救われた容保は藩士に別れを告げると、戦死者を葬った城内の空井戸・二ノ丸の墓地に花を捧げたあと、薩摩・土佐の二小隊に護られて、北追手門を出て滝沢村の妙国寺に入った。照姫もこれに続く。
 城中の兵士は九月二十三日、米沢藩士に護られて猪苗代に謹慎。五百余人の病人・負傷者は城内から青木村に移して治療させ、婦女・老幼・城外にあって降伏した藩士千七百余名は塩川・喜多方に立ち退かされた。
 ここで、琴美は、山本八重子と共に、男子の列に並ぶ。そこで薩摩の中村半次郎、土佐の中島信行に、
 「女子はここではないきに、女子んこつ列に行きや」。
 と促されるが、
 「中村様、中島様、女子ではありますが、お味方を何人も撃殺しております。腹を斬るなり、斬首なり、男として受けます」。
 琴美は言い切った。中村半次郎は、会津城明け渡しの約定を読み上げた事実上の責任者。京で、山本平馬を拘束したその人である。中島は、坂本の海援隊の一員で、西郷頼母の娘の介錯をした男だ。
 中村、中島がこのような残酷な戦をするなど、京で会った折りには想像もできないことだった。「戦は人の心まで壊すのか」。琴美は人の怖さを知った気もしていた。 
 翌二十四日、軍監中村半次郎が入城し目録に照らして鶴ケ城を受け取り、城門には錦の旗がひるがえった。



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幕末 閑花素琴 その百十一 会津落城

2011年04月19日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
 慶応四年(1868)八月二十三日。追手門が閉ざされ入城できなかった中野竹子たちより少し早く入城を果たしていたのが、朱雀隊などを指揮し、日光口の五十里に宿陣していた山川浩だった。
 山川は、国境が破られ、帰城の命令を受け会津城下に駆け戻ってきた。だが、飯寺までくると城はすでに新政府軍の包囲網の囲まれている。入城はとうてい無理かと思えた。
 ここで山川は一計を案じ、会津伝統の彼岸獅子の姿で入城することを決める。山川の隊は、笛、太鼓を先頭にそれぞれ装束纏い、優々と敵陣の中を進んだ。応戦の為、砲撃を撃っていた城兵も、会津伝統の彼岸獅子に攻撃を止め、西追手門を開ける。新政府軍はあまりにも堂々たる入城にただただ見送るだけであった。
 一方、入城できず、河原町の東端に集まった竹子を含めた婦女子九名は、城外で男に交じって戦うことを余儀なくされた。当初こそ、「女の手など借りたら武門の名折れ」と言っていた会津藩士言葉が出なくなるほどの奮闘を繰り広げる。
 八月二十五日。中野竹子率いる母・こう子(44)、妹・優子。依田まき子・菊子姉妹。岡村咲子(30)、神保雪子(26)、平田小蝶(18)・吉(16)姉妹は、柳橋へと進み長州・大垣兵を相手に、怯むことなく戦いを繰り広げていた。
 その時である。返り血で着物が真っ赤になるくらい薙刀で相手を斬り倒す竹子を、銃弾が貫いた。竹子が倒れるや否や母のこう子がすかさずその首を落としたのだった。

 改元となり明治元年(1868)年九月四日。白石へ向かう土方歳三たちと別れた新選組隊士は、城下に迫った新政府軍の進行を阻止すべく、わずか十数人で如来堂に立て籠る。
 五日になって、新政府軍の攻撃が始まり、その激しい戦いをいに新選組全員討ち死にしたと思われたが斉藤一始め、数名は辛くも脱出をし、斉藤は、志村武蔵(35)とさらに城外線に転戦した。琴美はそこで斉藤に会う。 
 如来堂の戦いで生き残り、離散した久米部正親、吉田俊太郎、池田七三郎、志村武蔵、河合鉄五郎はそれぞれ転戦を試みるが、新政府軍に降伏する。
 「斉藤さん、ご無事で」。
 琴美は、もはや斉藤しかいなくなった旧知の新選組の無事を喜んだ。
 「琴さんもお変わりなく、何より」。
 元々骨っぽい性格で、何事も貫き通し、必ず仕事は成し遂げる。新選組内でも信頼厚かった斉藤である。それは唯一、試衛館生え抜きでないにも関わらず、近藤勇、土方に重用されたことからも伺える。
 だが、琴美には、斉藤の会津へのここまでの強い思い入れが理解できないでいた。斉藤が愛した新選組は、土方と共に北に去った。その愛した新選組をも斉藤は、永倉新八らと去ろうとしたこともあった。斉藤の目指す義は会津にあるのだろうか。
 琴美たちは、二十八日になってようやく、高久に陣していた家老・萱野権兵衛の隊と共に、入城が適う。

 籠城がひと月近くもなると、新政府軍の攻撃は昼夜を問わず行われるようになった。
 戦えない女たちは、撃ち込まれた不発弾に濡れた布団をかけて、その弾を確保するなり火災を防いでいた。城では、弾薬もすでに尽きようとしていた。それでも琴美は城壁から山本八重子らと銃を撃っていた。
 「琴様、お見事。どこかで銃を習いましたか」。
 「はい、八重子さんの兄上様に手ほどきを」。
 「そうでしたか。どうりでお上手な筈」。
 八重子の兄は、京で薩摩藩に拘束された山本覚馬である。だがいくら教わったからとそうそう巧く扱える筈などなかろうというところだが、琴美は、林信太郎が以前言っていた、「身体能力が違うんだ」ということを思い出していた。しかも銃には複雑な物は一切無く、玉を補充して撃てば良い。狙いは自分の目だけが頼りだ。「ゲームセンターの方がもっと難しいくらい」。不謹慎だがそんな思いがふと過っていた。
 正に雨霰のように降り注ぐ新政府軍の砲弾は、城の中にも達し、女子ども容赦なく標的となっていった。
 琴美は山本八重子と城内に下がる。
 城の中では、幕府医学所頭取の松本良順が米沢から入っていた。八代藩主・容敬の養女で、容保の姉にあたる照姫(36)は、戦による初めての国元入りで、あったが、看護や炊き出しから撃ち込まれた砲弾によって火災が起こるのを防ぐなど、自らが先頭に立ち六百命を超える女子を指揮した。
 もはや、会津藩そうがかりの攻防戦だ。
 ひと時の休息を取っていた時ですら、壁を打ち破る砲弾が撃ち込まれる。慌ててその破裂音の聞こえた方に行くと、負傷兵とそれを看護していた女たちも一応に息を絶たれていた。
 「やそさん。お気を確かに」。
 八重子が篠田やそを抱き抱える。やそは、白虎隊士中二番隊として戸ノ口原に出陣し、飯盛山で自刃した篠田儀三郎の親類である。その悲しみが癒される間もなく、やそは逝った。
 琴美が会津城下に来た当初、やそは新選組のことを聞きたがり、良く琴美に話しかけていた。特に「それで、山口様は、どのようなお働きをなさっていたのですか」。と、山口二郎と改名した斉藤一のことを聞きたがり、その話に一喜一憂していたものだった。
 土方歳三が怪我療養のため隊を離れ、事実上の戦線組隊長となっていた斉藤に思いを寄せていたのは、やそだけではない。
 今、息を引き取った者を、安置する間もなく、次から次へと新政府軍の攻撃は続く。
 「琴様、危ない」。
 琴美の背後から撃ち込まれた銃弾の楯となって倒れたのは、やはり飯盛山で自刃した白虎隊士中二番隊の有賀織之助の母の妹・高木時尾だ。入城した琴美に、「このような男の子ような髪になさってしまわれて、本当によろしいのですか。しかし、良くお似合いです」。などと笑い合うこともあった。
 「時尾さん。どうして」。
 「わたしには敵を倒すことはできません。会津の為に戦ってくださっているあなた様をお救いするのが務めです。どうぞ、会津のために…」。


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幕末 閑花素琴 その百十 新選組副長、最後の頼み

2011年04月18日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
 「ちくしょう。どこもかしこも薩長だらけだぜ」。
 城門が閉ざされているのを知ると、土方は猪苗代で会津藩兵に聞いていた坂下の法界寺へと夜陰に紛れ急ぐ。
 「琴、琴はどこだ」。
 さすがにまだ、夜の攻撃はなく、そこには短く髪を切り、白羽二重で鉢巻をしている琴美がいた。着物は白い襷で袖をからげていた。刀の仕えない琴美は、わずかばかりの知識で、男性と鉄砲を撃って戦った。
 「どうした」。
 「土方さんこそ。どうしてここに」。
 「お前を迎えに来た。白石に行くぞ。時間が無い乗れ」。
 すると琴美は寂しそうに首を横に振る。土方は無理にでも馬に乗せようと馬上から琴美の腕を掴むが、その力をも撥ね除け、
 「わたしは、お味方の足手まといながらも、会津で戦っております。今、ここを離れることはできません」。
 意外な答えに土方は驚くが、白虎隊、そして西郷頼母の一族始め多くの藩士の家族の死。また、城下で好き放題の新政府軍。琴美は、会津に対する哀れみだけではなく新政府軍に対する憎しみを抱いていた。
 そもそも、徳川は滅び、新政府軍は戦わずして勝利を得た今、恭順を示し、蟄居すると申し出た藩主・松平容保に対しそれを認めず、分かっている勝ち戦を仕掛けてきた。これは憂さを晴らすだけの意味のない戦いである。
 だが、会津は有無を言わさず戦わなければならいのだ。こんな不条理なことがあっていいのだろうか。死ななくてすんだ命が幾つも奪われた。それも女や子どもまでも。
 人斬り集団。壬生狼と言われた新選組は、実直に幕府の為に命をかけた。だが、新政府にそれを感じ得なかった。この戦いには義がない。琴美はその新政府が作り上げた日本に生まれたことを恥じた。そして、その憤懣を果たすことこそが、幕末に迷い込んだ所以であると解釈したのである。
 もはや、命など惜しくはなかった。
 「会津は落ちるぞ」。
 「それでも会津を離れられません」。
 「死ぬぞ」。
 すると琴美は苦笑いで、
 「土方さんは、わたしにもう一つ約束をしてくれました。自分以外の誰にもわたしに手をかけさせないと。だから、死にません。死ぬ時は、土方さんに斬られる時です。生きる為に、会津で戦います。土方さんはお心のままに自分を信じてください」。
 恋しいその人が手の届くところに居る。だが、土方とは道が違ってしまったのだった。
 「琴、全てが終わったら、共に多摩で暮らそう」。
 土方は疾走した。
 「土方さん。あなたに出会えて良かった」。
 土方がこの約束を守れることがないことは分かり切っている。それでも、土方の心遣いが嬉しい琴美だった。
 
 「斉藤君、では白石に行くとしよう」。
 猪苗代に戻った土方は休む間もなく、進軍を促すが、
 「土方さん、すまない。俺は、会津を見捨てることはできない。落城せんとするのを見て志を捨て去ることは、義に非ず」。
 「斉藤、会津と運命を共にすると言うのか」。
 「ああ。俺もそろそろ死に時かも知れませんよ。よく、ここまで長らえたものです」。
 「ならば斉藤、新選組副長として最後の頼みがある」。
 「何なりと」。
 「琴がお前と同じことを言っていた。琴を頼む」。
 「承知しました」。 
 
 土方は、同行する隊士を率い、白石へ向かった。そこで、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚(32)率いる旧幕府艦隊の仙台入港を白石から仙台へ。
 十月十二日、仙台折浜から榎本艦隊、蝦夷に向け。土方は蝦夷地に渡る。その時点で、会津落城は土方の耳にも届いていた。だが、時既に土方は新選組を率いている身ではなく、旧幕府群の指揮官となっていたのだ。己の都合で会津に引き返すこともならない。
 そして、蝦夷地へと転戦した土方は、明治二年(1869)五月十一日、一本木関門にて銃弾に腹部を貫かれて落馬、絶命する。己が死さえも受け入れる間もない呆気ないものだった。函館五稜郭に遺体は運ばれるが、その墓所は特定されていない。土方歳三。享年三十五歳。
 会津落城から八カ月の後のことであった。



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幕末 閑花素琴 その百九 新選組副長、最後の頼み

2011年04月17日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
 その晩のことである。前日の慶応四年(1868)八月二十二日に戸ノ口原に出陣したばかりの白虎隊士中二番隊が、八月二十三日早朝に始まった戦いで敗走し、飯盛山に退き、総員十九名が自刃したとの知らせがもたらされた。この時、原田隊員として戸ノ口に斥候に出ていた者は自刃から逃れている。
 城内のあちこちから啜り泣きが聞こえる。誰の脳裏にも少年たちの屈託のない笑顔が浮かんでいた。
 琴美は、入城ならなかった場合の集合地に定めてあった河原町の東端に急いだ。そこにも白虎隊自刃の伝書は届く。琴美は、飯盛山に走りたかった。それは、飯沼貞吉意外にも、自刃しながら幸運にも生き残った者がいるのではないかと考えたからだ。早く見付けてあげられれば落とさなくてもいい若い命があったかも知れない。だが、城下は火の海である。

 その頃、土方歳三は、援軍要請に庄内藩へ向かっていた。だが、すでに新政府に恭順を示した米沢藩領内を通ることはできず、庄内領へも行き着けない折り、奥羽列藩同盟軍の軍医として従軍していた旧幕府医学所頭取の松本良順、壬生藩士・友平慎三郎、庄内藩士・服部十郎右衛門と出会い、仙台に向かうことを決めると土方は、母成峠から猪苗代まで退却を余儀なくされていた隊に戻り、新選組に白石に向かうことを告げる。松本良順はその足で会津城下を目指した。
 「会津は落ちる。これから白石に向かうぞ」。
 「土方さん、琴さんはどうする気ですか。会津において行くおつもりですか」。
 斉藤一が土方に詰め寄ると、
 「琴は京に戻った筈だ」。
 「本当にそう思っておいでか。戻ろうにも、すでに薩長に会津は囲まれ、身動きが取れません」。
 「では、琴はどうしたのだ」。
 「城に入っているようです」。
 「すまぬ。明日の晩まで待ってくれ」。
 土方はそう言うと、有無を言わさず、馬を走らせ会津城下へ向かった。



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幕末 閑花素琴 その百八 会津城下炎上

2011年04月16日 | 幕末 閑花素琴~新撰組はかく闘いし
 会津城に母成峠の敗報が入ったのは慶応四年(1868)八月二十二日の午前五時頃。新政府軍の進行は予想以上に早く、会津城下は混乱を極める。
 城内では防衛策を嵩じるが主力部隊は国境に出ており、城にはわずか千名しかおらず、策が見付からない。そうこうすうちに戸ノ口も敵に落ちたとの知らせが入る。

 八月二十三日。会津藩は総力を挙げて侵入口を死守する覚悟でいた。白河口総督として白河城を守っていたがそこが墜ちると母成峠に出陣していた家老の西郷頼母は、二十一日母成峠を破られ帰城していた。土方歳三率いる新選組もここで破れ、猪苗代まで下がっていた。それでも国家老の田中土佐は甲賀町口で、同じく神保内蔵助は六日町口で自らそれぞれ、侵入を防ぐべく戦っていたが、新政府軍は、二十三日には戸ノ口も突破。最期の防衛線である甲賀町口、六日町口も敵の進軍を防ぐことはできず、、田中土佐と神保内蔵助は共に医師の土屋一庵邸で自刃して果てた。田中土佐、享年四十九歳。神保内蔵助、享年五十二歳。

 「琴様、すぐそこまで敵が来ております。こうなられてはもはや、京にお戻りにはなれますまい。早く、お城に入りましょう」。
 筆頭家老・梶原景武の妻の二葉に促され琴美も急ぐが、藩士とその家族が城に逃げ込むのと、新政府軍の進行はほぼ同じであった。主を戦に送り出している家族の多くは、「足手まといにならぬように」と自らの命を絶った。それも、悲壮を極め、家に自ら火を放ち、老親や子を刺し殺し自らは喉や腹に刃を突き立てる。正に地獄絵の中、城を目指すのだった。
 城に入ろうとする人ごみでもみくちゃになった道。琴美は直ぐに二葉と逸れてしまい、気が付くと押し流されて、城の門前近くではあろうが、方角を見失ってしまっていた。
 「あれは」。
 琴美の目に、立派な武家屋敷がある。中はひっそりとしており人の気配もないが、何かに誘われるかのように中に足を踏み入れていた。寄り道などしている場合ではないことは頭では分かっていてもつい間が指してということがあるが、この場面ではそれが命取りになることを、昭和で行きてきた琴美にはやはりまだ分かっていなかったのだ。
 琴美は人気のしない家を表から回り込み、そこで信じられない光景を目にする。閉め切った障子の隙間から、倒れ込む人の姿。
 「どうしました。お加減でも悪いのですか」。
 と、声をかけながら障子を開けると、そこには二十数名の女性が、喉を短剣で突き、血の海になっていた。
 思わず後ずさりをし、縁側にしゃがみ込んだ琴美だった。そのくらい時間が過ぎただろう。ようやく事態を把握した琴美に、苦しみに喘ぐ声が聞こえてくる。
 その主を捜すと、喉を刺してはいるが死に切れないでいる断末魔。見ればまだ十代と思しき若さの女性である。
 もはや目も定かではなく、呼吸だけが続いている状態だった。琴美の気配に気が付くと、
 「介錯を」。
 と、今にも消えそうな声で言っている。苦しみを長引かせるのも哀れだが、しかし、琴美にはどうすることもできず、ただただ手を握って呆然としていた。
 静まり返った屋敷に、慌ただしい足音と、怒声が響く。
 「おまん、何をしゆうがか」。
 琴美が視線を挙げると、黒の上下の洋装に、黒い三角帽の男が三、四名。そして中央には、その上に陣羽織をはおり、黒のしゃぐまを被っている。
 そのしゃぐまの男は琴美のつないだ手の先の少女の様子に気付くと、抱き起こした。少女は、「敵でございまするか。お味方でございまするか」。と最後の力を振り絞って言う。「味方でござる」。すると、「介錯」。
 男は、短刀を少女の喉にあてた。そして事が終わると、男は手を併せ祈りを捧げた。
 次の瞬間、琴美は「ひっ」。声に成らない声を挙げていた、
 「こん家は会津藩家老の西郷頼母と家だと聞いちゅうが相違なかやろうか」。
 言葉が頭に届かない琴美だった。

 西郷頼母の母・律子(58)を始め、妻・千重子(34)、妹・眉寿子(26)、妹・由布子(23)、長女・細布子(16)、二女・瀑布子(13)に赤子までを含む一族の女たち二十余名の集団自決であった。 
 中島が介錯したのは細布子である。いずれも辞世の句を残しての立派な最期だった。

 「おまんはどうひてここにいゆう。何をしてたちゃ」。
 見上げたその男の顔は、土佐藩士・中島信行(22)だった。慶応三年(1867)十一月十八日近江屋で執り行われた坂本龍馬、中岡慎太郎の葬儀の折、見知った顔であった。坂本、中岡の死に涙していた心優しい男で、坂本の海援隊員の一人。
 「中島さん…どうして、中島さん。これが坂本さんが求めていた答えですか」。
 琴美は腰を抜かしたまま、中島に向かって言った。
 その後、琴美を拘束しようとする新政府軍兵を制すると、
 「おまんはこれからどうするがや」。
 「お城に入ります」。
 「城に、城下は、もうわしら官軍でいっぱいぜよ。城には行けんぜよ」。
 「それでもお城に入ります」。
 西郷頼母の私邸から北出丸は目と鼻の先である。
 すると中島は、新政府軍が早くも略奪を始めた物騒な城下を、部下を二名琴美に付けてくれたが、すでに追手門は閉まり入城は適わなかった。

 時を同じくして、あの元治元年(1864)6月10日に起きた明保野亭事件で、会津藩と土佐藩の関係修復のため兄・秀治の介錯にて切腹して果てた柴司の兄弟の家族も、会津藩兵として戦う四郎(16)、五郎(8)の幼い兄弟を残し全員が自刃。ほか多くの藩士の家族も似たように果てている。戦いを生き抜いても家族全員を失った藩士も少なくない。


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