局長・近藤勇
慶応4年4月25日
中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首。享年35歳。
墓所
東京都荒川区 円通寺
東京都北区 寿徳寺境外墓地
東京都三鷹市 龍源寺
福島県会津若松市 天寧寺
愛知県岡崎市 法蔵寺
副長・土方歳三
明治2年5月11日
旧幕府群を率いて、宇都宮、会津、仙台を転戦後函館一本木関門にて銃弾に倒れる。享年35歳。
五稜郭に埋葬されたとも言われるが特定されていない。
墓所
東京都荒川区 円通寺
東京都北区 寿徳寺境外墓地
東京都日野市 石田寺
総長・山南敬助
元治2年2月23日
脱走の罪にて切腹。享年32歳。
墓所 京都市下京区 光縁寺
参謀及び文学師範・伊東甲子太郎
慶応3年11月18日
離脱し、御陵衛士設立後、油小路の本光寺門前にて新選組による暗殺。享年33。墓所 京都市東山区 戒光寺
一番組長及び撃剣師範・沖田総司
慶応4年5月30日
鳥羽伏見の敗戦後、江戸帰還後千駄ヶ谷の植木屋宅にて肺結核で死亡。享年27歳。
東京都港区 専称寺
二番隊組長及び撃剣師範・永倉新八
大正4年1月5日
靖兵隊に参加後米沢にて降伏。松前藩に帰参後、北海道小樽や東京に暮らし、虫歯を原因とする骨膜炎から敗血症を発症し小樽にて死去。享年77歳。
墓所
北海道札幌市 里塚霊園
北海道小樽市 中央墓地
東京都北区 寿徳寺境外墓地
岡山県岡山市 松光院墓地
三番隊組長及び撃剣師範・斎藤一
大正4年9月28日
会津若松城落城後、斗南を経て東京にて警視庁に出仕するなど。胃潰瘍のため死去。享年72歳。
墓所 福島県会津若松市 阿弥陀寺
四番隊組長及び柔術師範・松原忠司
慶応元年9月1日
病死とされるが不明。享年31歳。
墓所 京都市下京区 光縁寺
五番隊組長及び諸士取調兼監察及び文学師範・尾形俊太郎
慶応4年8月21日の母成峠の戦いで敗走し会津若松城下にて消息を絶つ。
五番隊組長及び文学師範・武田観柳斎
慶応3年6月22日
京都郊外の鴨川銭取橋にて暗殺。享年30歳。
墓所 不明
六番隊組長・井上源三郎
慶応4年1月5日
淀千両松の戦いにて敵の銃弾を腹部に受けて戦死。享年39歳。
墓所 東京都日野市 宝泉寺
七番隊組長・谷三十郎
慶応2年4月1日
京都東山の祇園社(現八坂神社)石段下にて頓死。享年不明。
墓所 大阪市北区 本伝寺
八番隊組・藤堂平助
慶応3年11月18日
離脱し、御陵衛士参加後、油小路で新選組に討たれる。享年24歳。
墓所
京都市東山区 戒光寺墓地
東京都日野市 宝泉寺
九番隊組長・鈴木三樹三郎
大正8年1919年
御陵衛士、陵衛士を経て赤報隊を結成するが、途中で脱し生き延び、新政府の軍務局軍曹として戊辰戦争では北越や会津戦線を戦う。維新後は、司法・警察関係に奉職し鶴岡警察署長を務める。茨城県石岡町にて余生を送り老衰のため死去。享年83歳。
墓所 茨城県石岡市 東耀寺
十番隊組・原田左之助
慶応4年5月17日
靖兵隊を経て彰義隊に加入し、上野戦争にて戦死。享年29歳。
墓所 不明
副長助勤・安藤早太郎
元治元年7月22日
池田屋事件における負傷がもとで死亡。享年43歳。
墓所
京都市中京区 壬生寺
京都市左京区 聞名寺
諸士調役兼監察方及び柔術師範・篠原泰之進
明治44年6月13日
御陵衛士から薩摩軍に加わり鳥羽伏見を戦う。戊辰戦争では赤報隊に加わり投獄後軍曹として北越戦線で戦功を挙げ、維新後は戦功により永世士族の身分を得る。大蔵省造幣使の監察役、業家に転身するも失敗。、晩年はキリスト教に入信する。東京市青山にて死去。享年84歳。
墓所 東京都港区 都営青山霊園
二番組伍長及び諸士調役兼監察・島田魁
明治33年3月20日
函館まで転戦し守衛新選組隊長を務めるが弁天台場にて降伏。維新後は京都・西本願寺守衛などを務め、勤務先の西本願寺で倒れ死去。享年73歳。
大谷祖廟(東大谷)に納骨
諸士調役兼監察・山崎烝
慶応四年1月13日
鳥羽伏見の戦いの傷が元で江戸帰還途中の富士山丸の船上で死亡、紀州沖で水葬されたとされている。享年38歳。
諸士調役兼監察・大石鍬次郎
明治3年10月10日
甲陽鎮撫隊敗走後、江戸に潜伏中、捕縛され坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられるが後に撤回。伊東甲子太郎の殺害の罪で斬首。享年32歳。
墓所 不明
伍長・近藤芳助
大正11年
会津母成峠の戦いで新選組本隊とはぐれ、米沢に向かい城下で新政府軍に捕まる。新政府の訊問では、新選組隊士である事は明かさずに、単に幕臣であるとした。釈放後は弁護士市議会議員、県議会議員を務める。享年80歳。
墓所 横浜市西区 東福寺
諸士調役兼監察及び撃剣師範・新井忠雄
明治24年
戊辰戦争では新政府軍に所属。維新後、司法省官吏として明治政府に出仕。享年57歳。
墓所 東京都台東区 谷中霊園
諸士調役兼監察・浅野薫
慶応3年頃
御陵衛士に加わろうとしたが伊拒絶され、屯所へ戻ろうとしたところを沖田総司に斬られる説が有望。享年24歳。
墓所 不明
諸士取扱役兼監察方及び撃剣師範・吉村貫一郎
慶応4年1月3日
鳥羽・伏見の戦いに参戦後の消息は途絶える。子孫の嘉村家の過去帳には、明治3年1月15日没とあるという。 慶応4年説とするなら享年27歳。
墓所 不明
伍長・橋本皆助
離脱し、御陵衛士脱退後、陸援隊に入隊。維新後、大和郡山藩への帰藩後間もなく病死。享年37歳。
墓所 奈良県大和郡山市 常光寺
伍長及び大砲差図役頭取・志村武蔵
会津戦争に参加し如来堂の戦いで離散。東京で病死。
墓所 不明
伍長・林信太郎
明治元年10月27日
甲州勝沼の戦いの後、靖共隊に参加し会津などで転戦するが、水戸街道で久留米藩兵との戦いで討死。享年31歳。
墓所 不明
伍長・前野五郎
明治25年4月19日
甲州勝沼の戦いの後、靖共隊に参加し関東を転戦後、薩摩軍に投降。千島開発計画に共鳴、私財を投じて千島救済会を設立。エトロフ島ににて沙那郡磯谷山中で橋から転落しその際に猟銃の暴発による事故死。享年48歳。
墓所 北海道清田区 里塚霊園
旗役頭取・漢一郎
慶応4年8月21日
宇都宮、会津と転戦し母成峠の戦いで戦死。享年31歳。
墓所 不明
隊士・谷万太郎
明治19年
兄・三十郎の死後離脱。西南戦争従軍。晩年は、商家の用心棒などに就く。食道ガンのため大阪にて死去。享年51歳。
墓所 大阪市北区 本伝寺
隊士・谷昌武(近藤周平)
明治34年
江戸帰還後脱走。転職、離婚を繰り返し山陽鉄道神戸事務所の下級職員となる。神戸市にて病死。享年54歳。墓所 大阪市北区 本伝寺
隊士・加納道之助
明治35年10月
御陵衛士を経て、戊辰戦争では新政府軍に参加。維新後は開拓使、農商務省などに出仕し、東京麻布で死去。享年64歳。
墓所 東京都港区 青山霊園
隊士・服部武雄
慶応3年11月18日
離脱し、御陵衛士参加後、油小路で新選組に討たれる。享年36歳。
墓所 京都市東山区 戒光寺
隊士・佐野七五三之助
慶応3年6月14日
御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ会津藩邸内にて切腹。享年31歳。
墓所 京都市東山区 戒光寺
隊士・茨木司
慶応3年6月14日
御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ会津藩邸内にて切腹。
墓所 京都市東山区 戒光寺
隊士・富川十郎
慶応3年6月14日
御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ会津藩邸内にて切腹。享年24歳。
墓所 京都市東山区 戒光寺
隊士・中村五郎
御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ会津藩邸内にて切腹。享年19歳。
墓所 京都市東山区 戒光寺
隊士・内海次郎
御陵衛士を経て薩摩藩に属し戊辰戦争に参戦。明治2年に戒光寺に御陵衛士墓碑を建立後消息不明。
隊士・中島登
明治20年4月2日
箱館まで転戦し弁天台場にて降伏。謹慎赦免後は多摩に戻り、静岡藩の開墾に尽力後浜松にて死亡。享年50歳。
墓所 浜松市山下町 天林寺
隊士・今井祐次郎三
慶応4年1月5日
淀千両松の戦いにて戦死もしくは、江戸帰還途中も富士山丸船中にて死亡。享年26歳。
墓所 不明
隊士・畠山二郎
母成峠の戦い後、仙台で降伏。その後の消息は不明。
隊士・松沢乙造
母成峠の戦い後、函館まで行くが明治2年5月1日屯所から脱走。その後の消息は不明。離隊後、函館で暮らしたとも言われる。
函館新選隊長・相馬主計
土方が戦死後、隊長(就任は明治2年5月15日)として恭順の書状に名前を印し、新選組の歴史に幕を引いた。その後、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられて伊豆新島に流罪になり、明治5年赦免後は、東京の住む。翌年、豊岡県へ1主に司法方面の勤務に就いたが、明治8年2月、免官され、東京に戻り死亡。割腹自殺説が有望。
墓所 不明
隊士・村上三郎
白河口の戦いにて重傷を負い、仙台にて残留。その後の消息は不明。
隊士・野村利三郎
明治2年3月25日
宮古湾海戦で戦死。新政府軍により遺体は海に棄てられたと言う。享年26歳。
隊士・矢田健之助
慶応4年5月6日
甲州勝沼の戦いの後、靖共隊に参加し今市戦で戦死。
墓所 福島市南沢又 高徳寺
隊士・中条常八郎
甲州勝沼の戦いの後、靖共隊に参加。その後の消息は不明。
隊士・松本喜次郎
慶応4年8月17日
甲州勝沼の戦いの後、靖共隊に参加。会津戦で戦死。
墓所 福島県郡山市 正福寺
隊士・林正吉
鳥羽・伏見の戦い敗戦から江戸に帰還後脱走。その後、靖共隊に参加。後に林鐘吉の名で、函館戦争降伏。その後の消息は不明。
隊士・中山重蔵
鳥羽・伏見の戦い敗戦から江戸に帰還。函館弁天台場にて降伏。その後の消息は不明。
馬丁・沢忠助
箱館戦争まで同行し、土方の戦死にも居合わせた。五稜郭降伏前に、土方の遺品でを預かって箱館から湯ノ川へ脱出。明治3年、日野宿の佐藤家に遺品を届け、その後の消息は不明。
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