大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 俎上の魚一

2011年07月12日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 俎上の魚(そじょうのうお) 相手の思うままになるよりしょうがない立場に立たされていることのたとえ 


 ぽかぽかと温かくなった文政元年(1818)春三月。「夜出も苦にはならなくなった」と、古手屋の千吉と、幼馴染みの呉服屋手代の由造、大工の加助は、馴染みのの川瀬石町の煮売酒屋・豊金を目指していた。
 この豊金の屋号は主人の金治が、慶長五年(1596)鎌倉河岸神田橋辺に、常陸国出身の初代豊島屋十右衛門が、酒の空き樽を、酒造に一割弱で引き取ってもらうことで儲けを出し、享保の改革で不況に陥っていた江戸市民に酒を原価で売り評判となったことから、「肖りたい」とばかりに、豊島屋の豊に己の名の金を付けた豊金としたものだった。
 豊金とはまあ、恍けた屋号ではあるが、主人の金治も負けず劣らず恍けた御仁で、齢五十に手が届こうかといったところだが、一回り以上も歳の離れた三十二歳の紺を後妻に娶ったばかりである。
 さて、件の豊島屋が酒の肴として特大の豆腐田楽を破格の値段で売り、赤味噌を塗って酒が進むように仕掛け、「田楽も鎌倉河岸は地者也」と詠われたことから、金治も何か店の看板を売り出そうと日々工夫を凝らしており、妙な試作を食べさせられるのが千吉たちである。
 「さあて。一杯」そう言いながら、豊金の縄のれんを右の手でかき分けた加助の動きが止まった。少し顔を強張らせ、
 「別の店にしようや」。
 「なんだ加助。おかしな奴だな」。
 次に覗き込んだ由造も、「こらあ駄目だ」と、今来たばかりの方角に踵を返そうとする。
 「なんだい、二人共。今宵は呑むと言ったじゃないか」。
 すでに頭の中は、「卵巻をあてに一杯」と思いが出来上がっている千吉が構わず縄のれんを潜ると、ようやく加助と由造の言葉を理解するが、時既に遅し。会ってはならない御仁と目を合わせてしまっていたのである。
 「これは千吉ではないか。ささ、こちらへ。呑もうではないか」。
 上がり框で真っ赤な顔で手招きをするのは、すでにかなりの量を呑んだであろう、川瀬石町裏長屋の浪人・濱部主善である。盆を挟んだ向かいには、濱部よりは若干年少に見えるが四十は過ぎているだろう、貧相な鶴に良く似た痩せた男がこれまた顔を赤く染めている。
 「いえ、加助と由造を探してたんだが、今日は顔を出していねえようだ」。
 千吉も早々に場を去ろうとするが、普段からしつこい上に酒が入り更に諄くなった濱部は、その大きな身体から出た太い手で、千吉の腕を掴むとぐいと框に座らせた。
 こんな時、馴染み客である千吉を店の主人である金治が助けてくれても良さそうなものだが、濱部に代金を「付けといてくれ」。とそのまま踏み倒されたことのある金治は、千吉が居てくれた方がありがたいと見て見ぬ振りをする。



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