大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

一樹の陰一河の流れ~新撰組最後の局長 二十一

2011年07月04日 | 一樹の陰一河の流れ~新撰組最後の局長
 「土方さんは如何しておられるのでしょう」。
 相馬主計が弁天台場に戻るのを待ち構えていたように訪ねるのは、大野右仲である。かれもまた嫌な予感を抱えながら戦っていた。
 「五稜郭に援軍要請に行かれておるようだ」。
 相馬は咄嗟にそう答えていた。
 「ならばここで持ちこたえれば、援軍が来ると言うことですか」。
 相馬は黙って銃を敵に撃ち続けるが、その横顔に光る物を見た大野は、相馬の襟を掴むと己の方に身を向かせ、
 「相馬さん。土方さんは如何しておられるのですか。まさか、我らを見捨てたのでは」。
 「馬鹿野郎。土方さんが我らを見捨てるなどあろう筈も無い」。
 大野の言葉が終わらないうちに相馬は、大野を殴り倒していた。尻餅をついた大野は、
 「ならば、ならば土方さんは…」。
 相馬は静かに首を横に振った。

 新撰組を中心とした旧幕府軍は、弁天台場に立て籠り奮闘するも、箱館市内が新政府軍によって占領されたことにより孤立。明治二年(1869)五月十五日、箱館奉行・永井尚志以下二百四十名は五稜郭に先立ちここに降伏する。
 「責任者は前に出てくいやんせ」。
 「箱館奉行・永井尚志でござる」。
 続いて、
 「新撰組隊長・相馬主計」。
 この相馬の言動に驚いたにはむしろ味方の方であった。「土方さんが援軍を率いて来る」。そう信じて戦っていた新撰組ではあったが、一向にその気配がないことに不信もあった。しかし、そんな思いを、「そこいら中が戦に成っているのだ。土方さんもどこぞで戦い、来たくても来られないのだろう」と、打ち消してきたことが現実となった瞬間である。
 「お主が新撰組局長とな。そや土方と聞いとうが。土方はいけんした」。
 「十一日、戦死なさいました」。
 口を開けば涙がこぼれる。相馬はこう答えるだけで精一杯だった。周囲からは啜り泣きが漏れる。

 降伏を決めた旧幕府軍は、十七日朝、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、亀田の斥候所に出頭し、陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、幹部の服罪と引き換えに兵士たちの寛典を嘆願する。だがこれを良しとしない新政府軍に、旧幕府軍は無条件降伏に同意する。 
 翌十八日。五稜郭開城。城内の約千名も投降し、ついに戊辰戦争が終結した。
 この日、相馬は主殿と名を変え、新撰組隊長として降伏条に署名する。十五日に名乗り出てからわずか三日後のことである。ここに新撰組は、文久三年(1863)三月、壬生浪士組から数えて六年間の終焉を迎えたのであった。
 五稜郭開場の翌日、相馬は永井らと共に猪倉屋にて謹慎後、二十日、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎、陸軍奉行・大鳥圭介、函館奉行・永井尚志らと共に青森を経て東京に送られ、三十日に東京辰ノ口軍務局糾問所に到着。
 約一年半の禁固の後、明治三年(1870)十月、終身流罪の刑が決まり伊豆諸島新島に流された。これは総裁であった榎本よりも重い判決で、戊辰戦争の敗者で島流しにされたのは相馬だけである。
 相馬は、大石鍬次郎による坂本龍馬暗殺に関する供述の尋問を受けるも、「京都見廻組の仕業。新撰組は関与しておらぬ」と、容疑を否認するが、伊東甲子太郎暗殺に関与したとしての重刑であった。

 すでに冬の訪れていた十一月、寒い船出であった。
 辰ノ口軍務局糾問所から永代橋に矛ばれた相馬は、そこから隅田川を下り、品川沖で親船へと乗り換え浦賀奉行所を経て新島へ向かうのだった。
 自ら隊長と名乗り出たからには死をも覚悟していた
。だが土方歳三亡き今、死ぬ訳にはいかなかったのである。生前の土方から託されたある願いの為でもあるが、終身流罪とあってはそれを果たすのは安易なことではない。しかし、生き恥を晒そうとも生きなくてはならなかったのである。
 (だが万が一、島で生涯を閉じることになったなら、土方さんとの約束を守ることができない)。
 律儀な相馬はそれだけが気掛かりで、これから己が向かうのは、どのような未開の地まのかなど思い巡らすこともなく、静かに船底で瞑想していた。
 (そう言えば生類哀れみの礼の刑罰にて、新島に流された烏がいたと聞いた事がある)。
 我が身は烏と同じと思うと情けなさよりも笑みが溢れるのだった。
 しかし、件の烏は、島で放された瞬間に江戸に向かい飛び立った。
 (飛べない我が身は烏以下やも知れぬな)。



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