大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

新政府の生け贄にされた赤報隊・相楽総三 ~薩摩藩の裏切り 32 ~

2013年07月31日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 新政府軍は信濃各藩に赤報隊逮捕の命令を下し、2月17日、中山道と北国街道(北陸道)との分岐点である追分宿で赤報隊は小諸藩などに襲撃され惨敗を喫する。
 また、別の記録では、「軍議があるから出頭せよ」との命令で下諏訪の東山道総督府に出頭したところ、うむもいわさず逮捕されたとも伝わっている。
 そして相楽総三以下の赤報隊の幹部は、取り調べもないまま、3月3日、下諏訪効外で処刑されたのだった。
 赤報隊は江戸の市街を焼き払ったり、伊勢長島藩主・増山正修から軍資金という名目で三千両を強奪するなどの行為も行っており、清廉な部隊とであったとは言い難いが、ならば戊辰戦争で新政府軍が奥羽越で行った陵辱や略奪行為はどうなのだと言いたい。
 二番隊は新政府の帰還命令に従い京都へ戻り、後に徴兵七番隊に編入されるが、三番隊は各地域での略奪行為が多く、桑名近辺で多くの隊士が処刑された。
 これが、赤報隊のあらましであり、一方的な被害者と受け止められるが、新政府の生け贄とされたのだろうか、実際に相楽総三の人物を追ってみよう。
 相楽の本名は小島四郎左衛門将満。下総相馬郡の郷士・小島兵馬の四男として江戸・赤坂に生まれる。小島は名立たる分限者であり、経済的にも恵まれ、四男でありながら兄たちが養子に出たり早世した為、家督を継ぐことになっており、何不自由なく育ったのだ。
 また、国学と兵学を学び、若くして私塾を開き多くの門人を抱えるなど、文武に才にも長けていた。
 何事もなければ、恵まれた生涯を送る事が約束されていた相楽だったが、23歳の時に尊王攘夷活動に身を投じ、ここから彼の運命が大きく変化して行く。
 小島家から五千両もの資金を与えられ関東方面の各義勇軍の組織化に尽力。元治元(1864)年の天狗党の乱にも参戦。言うなれば革命家としての道を歩み出すのである。
 また、薩摩藩・西郷隆盛、同・大久保利通らと交流を持ち、慶応3(1867)年には西郷の命を受け、江戸近辺の倒幕運動に加わる。だが、実際には倒幕運動とは名ばかりの掠奪や暴行などのであった。
 これは大政奉還によって徳川家を武力討伐するための大義名分を失った薩長が、江戸の幕臣を挑発し、戦端を開く口実とする為であり、言うなれば相楽は、西郷の駒として利用されたに過ぎない。この策は功を奏し、屯所を襲撃された庄内藩が、薩摩藩邸を焼き討ちする、江戸薩摩藩邸の焼討事件が起こり、鳥羽伏見の戦いのきっかけとなる。ただ、さすがの西郷にとっても焼き討ちは想定外であったとみえ、狼狽の色を隠せなかった記録が残っている。
 そして慶応4(1868)年1月、戊辰戦争が勃発と同時に赤報隊を組織し、年貢半減令を掲げて東山道軍先鋒として出発。だが、それから僅か1週間後に新政府の方針は180度変更し、年貢は従来道理と決定が下されるのだ。
 下諏訪宿にて官軍参謀・進藤帯刀により捕縛された相楽総三は慶応4(1868)年3月、同地にて処刑される(享年30歳)。
 この知らせを聞いた妻・照は、嫡男・河次郎を総三の姉に託し、自刃。後に相楽の首級は、生前交流のあった諏訪藩士であり国学者・飯田武郷によって盗み出され、秘かに葬られた。
 そして明治3(1870)年、下諏訪に相楽塚(魁塚)が建立される。昭和3(1928)年になり、孫・木村亀太郎の長年の尽力が実を結び、名誉が回復され、ここに晴れて偽官軍の汚名が撤回され正五位が贈られ、翌昭和4(1929)年、靖国神社に合祀された。
 生前親しくしていた薩摩藩・大山巌、土佐藩・板垣退助らが、相楽の名誉回復に動く事はなかった。以前、板垣退助が幕吏に追われた時、相楽は、赤坂・三分坂の自邸に匿った事もあったにも関わらずである。「情けは人の為ならず」。この意味を理解していない日本人が何と多い事か。嘆かわしい限りである。〈次回は、長州藩江戸藩邸没収事件〉



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新政府の生け贄にされた赤報隊・相楽総三 ~薩摩藩の裏切り 31 ~

2013年07月30日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 赤報隊を知っているだろうか。王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする新政府の東山道鎮撫総督指揮下の一部隊である。その結成は、薩摩藩・西郷隆盛、公家・岩倉具視らの支援にて、慶応4(1868年)1月8日に近江国松尾山・金剛輪寺においてとされる。
 その名前は「赤心を持って国恩に報いる」からであり、一番隊、二番隊、三番隊で構成され、一番隊隊長は、下総相馬郡の郷士・小島兵馬の四男・相楽総三であった。
 因に、二番隊隊長は、伊東甲子太郎の実弟で、元新撰組→御陵衛士の鈴木三樹三郎であり、同隊士が中心となっている。三番隊は元水口藩士・油川錬三郎を隊長に同藩士、江州出身者が中心で編成される。
 そんな赤報隊の目的は、各地で新政府による「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得る事にあり、相楽は東山道軍の先鋒として出立する。
 だが、新政府は赤報隊に対し、「官軍之御印」を出さず、文書での証拠を残さないようにした事に、相楽は気付くべきであった。官軍の魁としての証しを持たないままの行軍である。
 冷静に考えれば分かろうかというものであるが、これから新しい政府を築き、新たな世の中へと変えるのであれば、従来以上に金銭が掛るのは必須。国家予算は今も昔も年貢=税金から成り立っているのだ。半減など出来ようもない絵空事である。
 案の定、新政府は年貢半減は困難であると判断し、上層部に寄り赤報隊への命令を取消すのだった。と同時に、同月より意図的に赤報隊を「官軍先鋒と偽る、強盗」との噂を流し出す。真にもって酷い話である。
 大事の前の小事とでも言いたいのだろうが、裏切りは薩摩藩のお家芸なのだろうか。幕末だけでも、将軍に一橋(後の15代将軍)慶喜擁立の為に大奥へ送り込んだ篤姫(天璋院)が、そのライバルであった紀州の徳川慶福(後の15代将軍・家茂)へと寝返り、極秘のうちに薩長同盟を結び、第二次聴取征伐不出陣といった掌返しを行っている。
 だが、最初から赤報隊を切り捨てた訳ではなく、まずは引き返しを指令を出している。この伝令により、出立の遅かった二番隊、三番隊は難なく引き返すも、一番隊には伝わらず、相楽らは東山道を前へと進む。
 これ以上、年貢半減が各地で広まる事に恐れを成した新政府は、同年2月10日、相楽らが勝手に触れ回ったとして、東海道先鋒総督府に一番乗りしていた公家の高松左兵衛権佐実村の軍とともに偽官軍の烙印(回章)を押したのである(高松は京にて謹慎)。〈続く〉





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新撰組の幕引きをした男 相馬主計 ~維新の後の誠 30 ~ 

2013年07月29日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 相馬主計にどれくらいの葛藤があったかは今となっては知る術もないが、相馬は、元新撰組隊士で函館でも共に戦った、豊岡県権参事を務めている大野右仲の説得または仲介により、同県へ十五等出仕として、司法方面の勤務に就いた。
 だが、わずか二年後の明治8(1875)年2月。豊岡県内部の抗争により、突如免官されると、相馬は東京へと戻る。
 同じ抗争にて千葉へと移動になった大野が、そこでの要職を用意するが相馬は新政府への希望を失っていた。そして僅かな期間ではあったが移り住んだ浅草に居を構えるも、某日、妻・マツに用事を言い付け外出させると、割腹して果てた。
 生前相馬は、「他言無用」を厳命し、マツもそれを守り通したため、相馬の死亡年月日、菩提寺。享年など、死に関する詳細は現在も不明である。
 この突然の自刃に際し、「近藤、土方が死んだのに、隊長だったお前が何故生き延びているのだ」などといった非難嘲笑があったとも真しやかに囁かれているが、相馬程の器の大きな男が、金棒引きの言葉に耳を貸すとは考え難く、やはり新政府への失念や、戊辰戦争での心の痛みなど、大きな失望があったと思われる。
 また、蝦夷共和国にて、新撰組隊長に就任した旧桑名藩士・森常吉も、桑名藩の全責任を引き受け、明治2(1869)年に釈放された後、自刃している。享年44歳。
 奇しくも新撰組隊長2名が、自らの命を絶った訳とは…。
 新撰組隊士としてはほとんど無名であり、幕末を戦い抜いた戦史にも彼を知る人は少ない。だが、ここまで実直に生き抜いた相馬主計というひとりの人間がいた事をしっかりと記憶に刻んで欲しいと願って止まないのだ。
 もし、赦免になっても島に残っていれば、恐らくは平穏な人生を全う出来たであろう。
 相馬の死後マツは、新島の実家の植村家へ戻り、大正12(1923)年76歳で没している。彼女もまた、戦乱に人生を狂わされたひとりであった。〈次回は、新政府の生け贄にされた赤報隊・相楽総三〉




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新撰組の幕引きをした男 相馬主計 ~維新の後の誠 29 ~ 

2013年07月28日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 新撰組の全責任を負わされた相馬主計は、東京・辰ノ口軍務局糾問所にて詮議を受け、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑にて明治3(1870)年10月10日、伊豆新島に流罪となる。蝦夷共和国の敗者で、流罪は相馬ひとりであり、最も重い刑であった。
 元幕府・海軍副総裁であり、蝦夷共和国・総裁の榎本武揚でさえ、東京・丸の内・辰の口の牢に投獄だった事に比べると、新政府軍の新撰組への憎しみの程が分かろうと言うものである。
 だが、新島へと流された相馬は、島の大工棟梁・植村甚兵衛に身柄を預けられ、その離れで寺子屋を開いり、甚兵衛の長女・マツと結婚するなど、島民とも打ち解け、穏やかな日を過ごしたようである。
 そもそも新島に生まれていたなら、当たり前のような生活。謹慎所で衣食住に事欠いた会津藩士始め旧幕府軍に比べたら、ある意味では、恵まれていたと言えるかも知れない。
 島での武勇伝として、新撰組の隊長と知り、闇討ちを仕掛けて来た若者を、棒切れで一撃にした武勇伝も伝えられる。
 2年後の明治5(1872)年10月13日に赦免されると、妻・マツを伴い東京・蔵前に移り住む。この赦免も同年1月6日、先に赦免になった榎本の働きかけによろものと言われており、住まいも榎本の手配によるものである。
 また、流罪の折りに現地妻を娶る者は多いが、そのほとんどが流罪の間だけと割り切り、放免に際して連れ帰る事はないに等しいのだ。薩摩藩士時代の西郷隆盛(吉之介)も奄美大島流謫の際には、愛加那を現地妻としているが、彼女が薩摩の地を踏む事はなかった。
 愛加那との間には2人の子ども・菊次郎と菊子(名前は薩摩にて改名)を生しており、後に西郷本家に引き取られているが、これは島の掟によるものであり、西郷の意思とは違うと言えるだろう。
 それは赦免後西郷は、薩摩藩小番・岩山八郎太の二女・イト(糸子)と結婚して、二男・寅太郎、三男・午次郎、四男・酉三をもうけるが、庶子・菊次郎に嫡男としての位置づけはしていない。
 そんな時代にあって、妻を伴っての本土の土を踏む事は勇気のいる行為だと思うと同時に、相馬の実直な人柄を忍ぶ事が出来ると言えよう。
 榎本が己よりも先に赦免になり新政府に登用され、蔵前に住まいを出来る程の地位に着いていると知った東京に戻った相馬の心中は如何ばかりだったのであろうか。
 新撰組の処罰を一身に受け、島で娶った妻を正妻として伴う実直な男が、掌を返したように新政府に出仕する榎本を見て、無念の思いを描かない方がおかしいではないか。
 新撰組局長・近藤勇も、副長・土方歳三も新政府によって命を失っているのである。〈続く〉



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新撰組の幕引きをした男 相馬主計 ~維新の後の誠 28 ~

2013年07月27日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 笠間藩預かりの謹慎の後、放免後とも脱走したとも伝えられるが、相馬主計は野村利三郎共々彰義隊に参加し、彰義隊頭並・春日左衛門(元旗本)の支配下に入り、上野の山での決戦に挑む。
 彰義隊の瓦解後は、野村と共に旧幕府陸軍・陸軍隊に加わり、磐城方面へと転戦するも「殊に器量の者なり」と賞賛される軍才を示し、幹部に就任する。
 そして仙台(石巻とも)で新選組副長・土方歳三と再会し、陸軍幹部として新撰組へと復帰し、蝦夷へと転戦する。
 蝦夷共和国では、新撰組は箱館市中の取締に着任するのだが、相馬もこの時、新撰組隊士として同任務に当たっている。因に土方は陸軍奉行並として、もはや新撰組を指揮するよりも、蝦夷共和国の軍事に当たったと言って良い。だが、完全に新撰組から離れた訳ではなく、言うなれば、新撰組は、土方の指揮下幾つかの部隊のひとつになったのだ。
 新撰組の正式な隊長には、元桑名藩士・森常吉が就任。
 明治2(1869年)年3月25日の宮古湾海戦時相馬は、旗艦・回天にて土方指揮の下、陸軍添役として参戦し、負傷している。野村は敵艦に斬り込み、討ち死に。
 新政府軍が函館に上陸すると、松前、木古内、二股口の戦いの後、新政府の箱館総攻撃に際し、新撰組は弁天台場を死守するべく守りに着く。
 5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始されると、弁天台場は新政府軍に包囲され、完全に孤立する形となり、籠城戦になる事が必須を考えられたが、それを嫌った土方が、弁天台場の援軍向かうも、一本木関門にて銃弾に腹部を貫かれて落命。
 籠城する新撰組が土方の死を知ったのは12日とされるが、5月15日の終戦を持って新政府軍への恭順の書状に相馬は主殿と名を変え新撰組隊長として署名する。
 相馬の隊長就任に関しては、土方の死を知った12日とし、終戦までの3日間だけの隊長とする説。元幕府奥詰医師・高松凌雲の書簡によれば、この署名を持って就任したとする説があるが、いずれにしても実質隊長としての日はないに等しかったのだ。
 にも関わらずである。新政府軍かえあすれば、誰でも良い。とにかく新撰組の尻拭いが欲しかったのだの理論は、当時は成立したのだろうが、それにしても酷い話ではないか。
 相馬が新参者であり、伊東甲子太郎暗殺どころか、京での新撰組の暗殺には一切手を染めていないどころか加入もしていない事は周知の筈である。
 また、ここで、何故に相馬が隊長となったのかが疑問である。ひとつには、生前土方から、万が一があった場合は隊長を頼まれていたためとも言われているが、蝦夷共和国の正式な新撰組隊長は元桑名藩士・森常吉であり、これを新政府軍が認めなかったとしても、古参の島田魁がいたにも関わらずである。
 この謎は、会津藩が敗戦にあたり、梶原平馬でなく萱野権兵衛が切腹したのと似たり寄ったりの不思議を感じ得るのだ(会津藩では戦犯として3名の家老の首を差し出す事を条件に出され、先に、田中土佐、神保内蔵助が切腹していたため、家老席次の上位であった萱野権兵衛が責務を負ったのだが、一番上の筆頭家老・西郷頼母は出奔、次は首席家老・梶原平馬である。また、この梶原こそが奥羽越列藩同盟を築き上げた抗戦派であった)。〈続く〉


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新撰組の幕引きをした男 相馬主計 ~維新の後の誠 27 ~

2013年07月26日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 相馬主計(明治時代以降は主殿または肇)は、加入時期は不明だが、慶応3(1867)年12月の新撰組編成表に平隊士として名を連ねているので、その直前であろう。
 同年10月、副長・土方歳三が江戸で隊士を募った際に応募し上洛した説が最も濃厚である。
 新撰組としてはもはや晩年であり、衰退の一途を辿る中にあって、名も無き隊士として終わる筈であった。
 そんな相馬主計が歴史の表舞台に顔を現すのは、同年4月、下総流山で局長・近藤勇が新政府軍に投降し、板橋の総督府に出頭した後である。
 まずは相馬主計の略歴を振り返ろう。天保6(1835)年、常陸国笠間藩士・船橋平八郎の子として生まれる。笠間藩では、唯心一刀流剣術、示現流剣術が盛んであり、相馬もいずれかの流派であったと思われる。
 慶応4(1868)年1月・鳥羽伏見の戦いにおいては、入隊間もなくにも関わらず、隊長附50名の組頭を任じられている事から、上記・剣術の腕前の程を知る事が出来るというものだ。
 その頭角を現し始めたのが、甲州勝沼の戦いであり、ここで優れた軍事力を示し、副長・土方歳三の目に留る。
 そして同戦いに敗走後に陣を敷いた房州流山にて、4月3日捕縛された局長・近藤助命の為、幕府の軍事総裁・勝海舟、陸軍軍事方・松濤権之丞、新撰組副長・土方歳三(幕臣・内藤隼人)の書状を携え、隊士・野村利三郎と共に板橋の東山道軍本営(総督府)を訪れた際に、初めてその名を見る事ができる。
 だが
 総督府では、近藤との面会も許されず、先に捕えられた局長付・野村利三郎(近藤に同道)と同じ牢に入れられ、斬首刑が決まっていたが、近藤が、「(斬首は)わたしひとりで良かろう」と、彼らの助命をし、近藤の処刑後、笠間藩に預けられ謹慎生活を送る。
 近藤の処刑を強引に押し進めたのは、坂本龍馬暗殺を新撰組とする、土佐藩・谷干城とされているが、近藤はともかく、相馬や野村といった言わば新参の名も無き兵士の首を取ったところでどうなるのだと思うのだが…。
 実際に、龍馬暗殺時に彼らは新撰組には入隊もしていない。
 こういった新政府の勝ち驕った裁定が嫌でたまらないのだ。新政府軍の主力は下級武士。己の藩で虐げられた弱者の気持ちを分かっていた筈ではないか。
 そもそも維新のきっかけは尊王だ。攘夷だではなかったのか。尊王は天皇政権にしようと実行したのは良いとして、外国人を実力行使で排斥しようという思想の下の攘夷の筈が、外国から武器は買うなど接近し、明治になれば西欧文化を取り入れまくり。
 その辺りを薩長土に是非とも伺いたいものだ。〈続く〉




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脱藩藩主・林忠崇の戊辰戦争 ~もうひとつの会津戦争 第三章 26 ~

2013年07月25日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 林忠崇の請西藩は改易となったが、辛うじて甥の忠弘(明治2(1869)年・東京府士族(三百石)によって家名存続が認めらたものの、家禄は三十五石に減らされ、その後の秩禄処分によって困窮した生活を余儀なくされていく。
 林忠崇は如何に生きたのであろうか。もはや黙っていても領民が税を納めてくれる大名でもなければ録もない。己の身体で活計(たつき)など得た事のないお殿様である。甥の忠弘に、または親族に泣き付き、捨て扶持を宛てがわれて糊口を凌いだのか…。答えは否である。
 そもそも藩主でありながら前代未聞の脱藩をやらかしたお殿様は、自らの手で生きる道を選んだのだ。
 明治5(1872)年1月になり漸く赦免された忠崇は、士族には認められたものの、旧諸侯にもかかわらず、改易の事情から華族の礼遇が与えられる事もなく、長屋に住まい、鍬を手に開拓農民、東京府や大阪府の下級官吏、商家の番頭など困窮した生活を送ったのである。
 最期まで抵抗した榎本武揚の放免もこの時期なので(同年1月6日の特赦出獄)、忠崇の放免も
特赦であると思われる。
 大名が百姓まで…。幾ら人は平等とはいえ、中々出来ない選択である。プライドや固定概念に捕われない、ある意味では最も新しい明治と言う時代に相応しい人物だったのではないだろうか。
 現存する彼の若かりし頃の写真は、あたかも歌舞伎役者のようでもあり、老いてからも面長に切れ長の眼差し、きりりと結んだ口元には品格が感じられる。
 明治26(1893)年になり、漸く旧藩士による尽力で、林家の家名復興の嘆願が認められ、忠弘は男爵を授けられて華族に列する事が出来、分家扱いだった忠崇も復籍して華族の一員となる事が出来たのである。
 そして翌年には従五位に叙され、その後は宮内省や日光東照宮などに勤め、明治・大正・昭和を生き抜いた忠崇は、昭和12(1937)年に旧広島藩主・浅野長勲の死去に伴い、生存する唯一の元大名となった。
 晩年は娘と同居しながら隠居の生活を送り、「最後の大名」として各取材を受けるなどし、昭和16(1941)年1月22日、二女・ミツの経営するアパートにて92歳の波乱の生涯を閉じた。
 死に際して、「明治元年にやった。今は無い」と答えた、明治元年の 辞世の句は、「真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ」であった。
 タイトルの「もうひとつの会津戦争」とは、違ってはいるが、東北戦線で戦い抜いた事で、この章にて紹介させていただいた。
 林忠崇が戊辰戦争で取り上げられ語られる事はないが、こんな気概のある大名もいた事を知っておいて欲しい。
 一万石の小藩であっても大名家の若様として育ったひとりの男が、全てを投げ打ち、第一線での戦いを経て、罪人、農民、役人(政府の下級官吏)、商人…。正に波瀾万丈と呼ぶに相応しい人生を悔いなく生き抜いた武士(もののふ)であった。
 さて、この「もうひとつの会津戦争」を閉めるにあたりひと言。「慶喜さんよ。みんなこうして徳川のために全てを投げ打ったのに、お前さんは何してたんだい。安穏と、側室まで従えて静岡で写真撮ったり、狩りしたり、自転車走らせてたらしいじゃないかい」。
 激動の時代を乗り切るには、頭(将軍)が悪かった。〈次回は、新撰組最期の隊長 相馬主計〉





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脱藩藩主・林忠崇の戊辰戦争 ~もうひとつの会津戦争 第三章 25 ~

2013年07月24日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 もうひとつの会津戦争とは異なるが、藩主自らが脱藩し、旧幕府軍に参加。奥州へと転戦した珍しい例として、ここに記する。
 上総国請西藩3代藩主・林忠崇がその人である。上総国請西藩の石高は一万石。城を持たない陣屋大名である。忠崇は、嘉永元(1848)年、請西藩初代主・林忠旭の五男として生まれているので、慶応3(1867)年の大政奉還戊辰戦争当時は、19歳。若き青年藩主・忠崇は文武両道で幕閣の覚えも目出たく、将来は閣老にもなろうかという器と評されていた。
 そんな英明な藩主を幕臣たちが放っておく筈もなく、大政奉還の報を受けた同藩が、洋式軍の調練を行なうなど有事に備える中、同年閏4月、対外防衛と国内体制維持を目的として創設された幕府の撤兵隊や、幕臣・伊庭八郎・人見勝太郎率いる遊撃隊など、旧幕府軍からの助力要請が後を絶たなかったのである。
 無論、藩内は恭順派と抗戦派に分かれて伯仲。こちらも小藩ならではの生き残りを掛けた苦悩があったのだ。
 だが、ここで忠崇が下した決断は、自らの脱藩という予想も着かないものであった。
 忠崇の思いとしては、己は徳川に忠義を示したいものの、藩を挙げての佐幕派となれば、負けた場合の責務が藩に降り掛かる。ならば脱藩すれば、藩は、御家は無事であろう。そんな思いだったと推測出来る。郡上藩のどちらが勝っても生き残る道。その為に藩士を犠牲にしたのとは真逆の、自らが犠牲になったと言えよう。
 脱藩した忠崇らは幕府海軍の協力を得て、館山・箱根・伊豆を転戦し、奥州戦線に参戦するも、徳川家存続の報を受け、大義名分が果たされたとして仙台にて新政府軍に降伏。江戸の唐津藩邸に幽閉される。
 藩士70名を伴い遊撃隊に参加した忠崇を、新政府は反逆と見なし、林家は改易処分となる。戊辰戦争の戦後処理として敗者17藩には減封・移封の処分等が下されるが、改易は請西藩のみである。〈続く〉



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出口のない戦 二本松少年隊 ~もうひとつの会津戦争 第二章 24 ~

2013年07月23日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 ここで二本松少年隊について少し触れておこう。二本松少年隊すなわち、二本松藩の12~17歳の少年から成る兵部隊である。会津藩の白虎隊との違いは、発足から隊名があったのではなく、当時は少年部隊としてのみで、二本松少年隊と名付けられたのは戊辰戦没者50回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からである。
 そもそも、戦への出陣が12・13歳の子どもに適う筈もないのだが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算する入れ年の制度があり、最少年齢の隊士の実年齢は12歳なのだが、先の制度により、14歳として出陣している。
 平均して白虎隊よりも4歳も年下となる訳だが、この年齢の4歳は大人とは違いかなりの開きのあるもので、武家の子息といえども、漸く武術に手を染め出した年頃。少年と言うよりも、子どもと呼ぶ方が相応しい。
 その出陣も軍服を整える刻もなく、どの家でも母親が前の晩に徹夜して、父や兄の着物を肩上げしたり、袴の裾を祭り上げたりといった急ごしらえな物であったと言う。
 親も子も、別れを惜しむ間もなくといった光景が目に浮かび、胸が痛くなる思いだ。
 家名に泥を塗ろうとも、奥羽越列藩同盟を裏切る形となり、卑怯者呼ばわりされようとも、戦いを回避する道もあったと思うのだが…。
 だが、家老始め重臣も自刃して城に火を放つといった最期を選んだ。この時、開城の後に、重臣らの命と共に戦闘を終わらせる仕儀もあったのではないだろうか。
 否である。仮に二本松藩が降伏・恭順を示した場合、会津・仙台両藩に挟まれる二本松藩は、真っ先に両藩から攻撃される事になる。二本松藩が敵に回れば、会津・仙台両藩の連絡の為に二本松を確保する必要性が生まれるからである。
 いずれにしても二本松藩には、滅びる運命が待ち受けていたのである。
 先立つ28日、病を患いながらも城に留まろうとする藩主・丹羽長国は無理矢理城から撤退させている。
 いずれにしても、城外にあった二本松少年隊は、新政府軍によって隔てられ城の動きを知る事が適わず、隊長・木村銃太郎、副隊長・二階堂衛守が相次いで戦死し、指揮官不在の中、最前線に放置される事態に陥るのだった。
 指揮官もなく、戦場を彷徨うううちに離れ離れとなった彼らは、ついに新政府軍との戦闘に巻き込まれて命を落としていく。その中には13歳になる少年兵と遭遇した土佐藩兵が、その幼さに驚愕して生け捕りにしようとするも、抵抗されたために射殺するしかなかったケースもあったと言う。
 中でも、西洋流(高島流)砲術を習得した木村銃太郎率いる25名少年たちが戦った、大壇口での戦いは戊辰戦争の悲劇を語る上では外せない傷ましいものであった。
 例えば、久保家においては、病弱な兄・鉄次郎(15歳)を置いて、弟・豊三郎(12歳)が出陣すると、「おめおめと寝ている訳にはいかない」と鉄次郎は、母親を振り切り出陣。戦いの最中、それぞれに負傷した2人は、称念寺に運ばれるも、お互いが近くに居る事を知らないままに、息を引き取る。
 また、戦いが終わり、倒れていたところを農民に助けられた三浦行蔵は、隊長も仲間も戦死したにも関わらず、生き残った自分を悔やみ、農民が目を離したすきにいなくなっていたという。
 二本松藩の死者は、家老以下18名の上級藩士を含む218名。17歳までの少年兵は18名(少年隊全62名中)であった。
 また、二本松藩の激しい抵抗により多くの戦傷者が発生し、会津藩39名、仙台藩19名、新政府軍は17名の死者を数える。
 この戦いに小隊長として参戦していた薩摩藩士・野津道貫は、後に「戊辰戦争中第一の激戦」と語っている程である。
 二本松と会津の大きな違いは、戦いか否かを選択し、己の信念を貫いた会津藩に対し、攻める新政府側も守る二本松藩も戦いの理由がないままに、互いに武器を向け合わなくならざるを得ない状況に置かれたという点にある。
 未だ幼い二本松少年隊の隊士たちは、理由も分からず「殿のため」、「お家のため」と死んで逝ったに違いない。〈次回は、脱藩藩主 林忠崇〉





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出口のない戦 二本松少年隊 ~もうひとつの会津戦争 第二章 23 ~

2013年07月22日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 二本松城へ向かう新政府軍は二隊に別れ、阿武隈川を挟んで至近に位置する小浜からは、長州藩・薩摩藩・備前藩が。板垣退助率いる主力の薩摩藩・土佐藩・彦根藩・佐土原藩は南から二本松へ7月29日午前6時に出陣する。
 迎え撃つ二本松藩は軍師・小川平助の指揮の元、本陣から南に離れた位置にある絶竣で知られる尼子平に突出する形で陣地を形成し、本宮からの板垣支隊への妨害を図るが、圧倒的に兵力の劣る二本松藩の望みは、後方の会津藩と仙台藩の援軍だったのだが、両藩とも大軍を割ける状態ではなく、派遣された援軍も二本松城にたどり着く前に新政府軍によって半壊の被害を受け撤退。郡山に布陣していた旧幕府軍も、本宮の戦闘後に夜間に仙台藩領へと撤退し、二本松藩を救援するには至らなかった。また、先に二本松城に入っていた仙台・会津の兵も城を脱出すると、二本松藩兵のみが残される結果となった。
 つまり、二本松は援軍への期待も出来ず、孤立した状態で、旧兵力と少ない兵士で戦わざるを得ない状態にありながらも、彼らは恭順するよりも義を立て滅びる道を選んだのである。
 そもそも会津藩が恭順を示しているにも関わらず、言い掛かり甚だしい奥羽越の戦闘である。単に新政府の力を示すため、個人的な遺恨、振り上げた拳の下し先を失った故の無意味な戦なのだ。
 幕臣は何をしていたのだ。もちろん、榎本武揚や伊庭八郎、鳳啓介など戦い抜いた幕臣は数知れず。ここで指す幕臣とは、勝安房守海舟のような重臣にある。更には徳川慶喜。自分だけ恭順の謹慎で難を逃れようというのは如何なる心境。
 越前福井藩主・松平春嶽、尾張徳川家・徳川慶勝辺りは、この戦をどう見ていたのだろう。仲立をしようとはしなかったのか。
 この大名らと会津藩との関わりは、そもそも京都守護職は松平春嶽が2度就任し、状況が拙くなったところで容保に2度とも引き渡したのだ。
 徳川慶勝は、容保の実兄である。そして、この慶勝こそが、いち早く幕府を見限ったと言っても過言ではない。何故に新政府軍が、西国に数多いる徳川譜代の大名たちと一戦も構えずに江戸まで進軍出来たのか。それは慶勝が、戦はまかり成らぬとの文書を送っていたためである。
 この辺りの話は、後の機会にするとして、このような経緯から始まった戦に、助っ人よろしく駆り出された二本松藩であったが、諸藩の寝返りが相次ぐ中、武士道を貫き通し、降伏・開城を良しとしなかったのだ。
 先立つ28日、病を患いながらも城に留まろうとする藩主・丹羽長国を水原に撤去させると、軍事総督の家老・丹羽一学は城に自ら火を放ち、重臣7名と共に自刃し、僅か半日の抗戦で二本松籠城は終わりを告げる。〈続く〉



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出口のない戦 二本松少年隊 ~もうひとつの会津戦争 第二章 22 ~

2013年07月21日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 多くの藩が奥羽越列藩同盟の盟約を破棄し、新政府に恭順する中、信義を貫いた岩代国・二本松藩丹羽家の守信玉砕戦は、戊辰戦争でも類を見ない壮絶な戦いだった。
 二本松藩・十万七百石は、第11代藩主・丹羽長国の治世である元治元(1864)年4月から、慶応元(1865)年冬の間に2度に渡る京都警備の任に着いていた。元より尊王も攘夷もなく、領地が陸奥国でさえなければ、戊辰戦争に加わる事もなく、会津領の猪苗代盆地へ通じる奥羽街道の要衝に位置ていなければ、会津戦争の要たる白河城の城郭預かっていなければ、多くの犠牲者を出す事もなかった筈である。
 藩としては、軍制、兵装、戦術の洋化の動きは鈍く、旧態依然の軍備で戊辰戦争に参加することになり、兵力も、農民兵、老兵、少年兵を動員してかろうじて2000を維持していた程度に軍事力は低いものだった。その軍事力に反し、会津藩同様に漢学が盛んであり、忠君愛国の教育が家臣団に深く根付いていた事が、最期まで戦い抜いた二本松魂と言えるだろう。
 慶応3(1868)年4月20日、会津藩兵が白河城に入り、23日には、仙台藩、棚倉藩の2300の軍勢が入ると、二本松藩兵は自領へと引き揚げるも、5月1日、新政府軍の攻撃により白河城が再び新政府側に落ちる。その奪還のため会津藩に援軍を求められた二本松藩は、8小隊と砲隊からなる主力を白河口に送ったのである。
 新政府軍の猛攻は続き、三春藩が新政府軍に帰順した翌日の7月27日、二本松藩の主力は仙台藩と共に三春藩の南西にある郡山に布陣していたのだ。この三春藩の裏切りにより領内を難なく通過出来た新政府軍は、三春と二本松藩の中間地点、本宮村に向けて兵を進める。
 二本松藩は、家老・丹羽一学による「死を賭して信義を守るは武士の本懐」の一言により抵抗の道を選んだ。
 そして、主力部隊不在の城下。それを守る戦力は老人隊、少年隊、農民兵を含んだ予備兵のみであった。
 そこに新政府軍は、二本松城を攻め落としに掛ったのである。〈続く〉




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故郷を失った男たち 凌霜隊 ~もうひとつの会津戦争 第一章 21 ~

2013年07月20日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 凌霜隊・最年少の隊長・朝比奈茂吉は、常に先頭に立って、隊士たちを叱咤激励し戦っていた記録が残され(隊士・矢野原与七著「心苦雑記」)、日光口から追撃してきた新政府軍との激戦を戦い抜いた中でも、大内峠に於いては狭隘した地形を利用し、スペンサー銃で薩軍を4時間以上釘付けにしたという。
 だが、会津若松開城後、彼らに郡上藩青山家から下された処分は過酷極まるものであった。生き残った者26名は、会津から群上へ護送されるが、戦犯首謀者・朝比奈茂吉なる罪人札を括り付けられた罪人籠にてである。これは、会津藩士の東京への護送よりも厳しい処遇。それも、これも郡上藩のどっち付かずの曖昧さが招いたにほか成らないのだ。
 罪人として国元に戻った彼らは、東殿山のふもと赤谷村の揚屋(牢獄)にて半年間の幽閉生活を余儀なくされるも、これもまた、劣悪な環境であり、戦いに生き残ったにも関わらず病死者を出す始末であった。
 そして明治2年5月、領内寺僧の嘆願により自宅謹慎を経て、翌年3月晴れて自由の身となるのだが、青山家が彼らに手を差し伸べることはなく、新政府の目を気にして、賊扱いの彼らに国許での居場所はなかったのである。
 いずれにしても、どちらにも良い顔をしておこうといった、実に日本人的かつ村社会の円滑さを図る田舎の小藩の浅智恵が招いた結果である。そして彼らは戊辰戦争屈指の被害者と言えるだろう。
 平穏時であれば、いや、藩命がなければ、家老家の嫡男として、家督を約束されていた朝比奈茂吉だったが、罪人として故郷を追われながらも、名も義彦と改め、父・藤兵衛の実家である近江国・彦根藩井伊家の重臣・椋原家の養子となれた事は幸運である。
 これは一重に、実家が家老職であったから出来た事で、ほかの隊士に関しては不遇の後半生を送った者もあっただろう。そして、そんな名もない者たちの記録は残されていないのが常であるが、名のなき者たちの屍の上に現代は成り立っているのだ。
 例えば、新撰組を例に挙げてみても、浪士組設立からの戦闘での死者は六番隊組長・井上源三郎のみである。副長・土方歳三は、戦死時には事実上旧幕府軍の指揮官となっていたのでカウントせず、十番隊組長・原田左之助も、同様に彰義隊として上野の戦にて戦死のため、こちらも無カウント。名もなき一兵卒が歴史を作り上げていると言っても過言ではないだろう。
 話が逸れたが、藩命により命を欠けて戦いながらも、罪人にされた無念の程は察して余ある。会津の悲劇は語り継がれても、会津とは何らしがらみもない美濃の小国の若者たちが流した血の涙を知る人は少ないであろう。
 維新後、椋原義彦(朝比奈茂吉)は、滋賀県犬上郡青波村の村長を務め、明治27年に急逝(享年43歳)。父と朝比奈家を継いだ弟・辰静の家族も呼び寄せ養ったと伝えられる。酒に酔うと隊を切り捨てた藩を痛烈に批判し、臨終に際しては、「凌霜隊、白虎隊」と呟いたと伝わる。〈次回は、会津の盾になった少年たち 二本松少年隊〉




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故郷を失った男たち 凌霜隊 ~もうひとつの会津戦争 第一章 20 ~

2013年07月19日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 奥州諸藩のほかに、会津のために戦った藩があったのをご存じだろうか。新撰組、靖兵隊、伝習隊…。旧幕臣が中心となり戊辰戦争を戦った隊名である。そんな中に、美濃国の小藩・郡上藩が会津へと派遣した隊があったのをご存じだろうか。
 郡上藩・四万八千石、最期の藩主は第7代・青山幸宜である。藩主・幸宜は、佐幕派であったが、藩内では佐幕派と尊王派が対立し、慶応4(1868)年、戊辰戦争が始まると、国元ではわずかひと月後の2月11日に新政府に恭順を示す誓書を差し出した。
 このまま、新政府に組し維新を迎えていれば、何事もなく終わる筈であった。だが、そこが小藩の悲しさ。万が一、幕府が勝利した場合の藩存続へと思いを巡らした事が悲劇の幕開けであったのだ。藩の決定に不安を抱いた江戸家老・朝比奈藤兵衛ら強固な佐幕派が、薩長政権を容認しない徳川家家臣の大量脱走に、17歳の嫡男・茂吉を隊長とする藩士47名から成る凌霜隊を同行させるも、彼らは青山家への責任を回避するため、脱藩身分であった。
 同年4月10日、本所中の橋菊屋に集合し江戸湾を出航した凌霜隊は、大鳥圭介率いる伝習隊に合流し、下野国・小山、宇都宮から日光街道を経て塩原へと転戦。
 8月23日、若松の城下へと向かうも、城下には母成・滝沢峠を突破した西軍が侵攻しており、城は籠城戦に入っていた。凌霜隊は、辛うじて若松城の西口・河原町口郭門まで辿り着くが、そこから9月6日の入城までに約2週間を要し、白虎士中一番隊・二番隊の生存者で再編成された白虎隊士と共に西出丸の防衛に当たる。
 籠城戦に入った会津城への入城は困難を極め、山川大蔵の彼岸獅子に扮しての敵前突破は有名だが、一度閉まった城門は、各地での戦から戻った藩士たちにも中々開く事はなく、山川に至っては、「門兵を殺しででも入れ」と叫び、漸く重い門が開いたと言われている。〈続く〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第五章 柴五郎 19 ~

2013年07月18日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 会津を舞台にしたドラマや映画などで、柴兄弟が取り上げられる事は稀であるが、彼らの著書は戊辰戦争の真実を世に知ら示した貴重な資料であると共に、その生き方は、真の会津魂を伝えていると言えるだろう。
 戦により、その半生に大きな傷を負いながらも、己の行き場所を見出した兄弟は、時は明治へと移り、政界、軍部、文筆と、それぞれに名を残す飛躍的な活躍を示したのであった。

 長兄・太一郎
 文久2(1862)年、藩主・松平容保が京都守護職となると、先発隊として上洛し、朝廷や諸藩などとの折衝などに当たる。
 明治元(1868)年から始まった戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦から北越戦争へと転戦。若松城籠城戦で奮戦するも怪我の為、戦線離脱。降伏後は謹慎の身となるが、赦免後、弟五郎らとともに会津藩の移封先奥州斗南に移住。
 だが、斗南藩の米購入代金の横領事件に巻き込まれ逮捕され、明治10(1877)年4月の釈放まで7年あまりの間、東京で保釈と拘束を繰り返された。※川崎尚之助に連座。
 釈放後は新政府に出仕し鹿児島県に務め、同年の西南戦争にも出陣。後に会津に戻って南会津郡長などを務め、明治30(1897)年に退職。大正12(1923)年死去。

 次兄・謙助
 山川大蔵指揮下の大砲士中一番日向隊にて日光口の戦いに出陣。慶応4(1868)年4月6日、下野・家中村にて、偵察中、農民に虐殺される。(享年25歳)。

 三兄・五三郎
 藩主・松平容保が京都守護職の任に着くと、上洛し、禁門の変に参戦。戦後は、会津戦争時の貴重な資料ともなる「辰のまぼろし」を記し、ベストセラーとなるも、帰郷し父・柴佐多蔵(榮由道)の面倒をみながら静かに暮らす。

 四兄・四朗(東海散士)
 戊辰戦争時は、白虎白虎士中合同隊に参加。その後、別働隊として西南戦争に参戦。米国留学後、小説「佳人之奇遇」を発表、ベストセラーとなる。
 明治25(1892)年、福島県選出の衆議院議員初当選後、以降8回当選し、農商務次官や外務省参政官などを歴任。〈次回は、藩命により反逆者に 朝比奈茂吉〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第五章 柴五郎 18 ~

2013年07月17日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 二十四万石の大大名家が、いきなりの三万石。移封の斗南は、しかも実質は一万石にも満たない、森林や牛馬の放牧を主とした未開墾の草野であった。米はひと粒も実らず稗、栗、豆などが穫れる程度。人家も僅か450戸という、いうなれば寒村の地である。加えて冬の厳しさは会津の非ではない。
 家という家には残らず割り当られて、元より財産など持たず、誰もが無一文である。日用器物夜具などまで家主より借用すると云う有様だった。移封当初こそ、当主交代で歓迎もされたが、次第に村の厄介者として旧会津藩士は見られていくようになる。
 五郎は、父・佐多蔵(榮由道)、長兄・太一郎、三兄・五三郎と共にここに暮らす。喰うや喰わずの中でも、家族で暮らせた事は幸いだったのではないだろうか。四兄・四郎は、謹慎後、東京に残り勉学に励む道を選んでいるが、こちらも資金難から、あちこちを転々とする暮らし振りであった。
 女子どもの一族自刃といった不幸はあっても、戦場に出た男子5名のうち、4名までもが帰還出来たのは、会津でも珍しい。
 借家が足りない為に、急遽設えられた住まいは、六畳に二畳位の掘立小屋で、畳もなく、米俵の薦や、蓆を敷いての住居。五郎の家族は借家住まいだったので、それよりも幾分増しでは合ったが、それでも障子を貼る金がなく、米俵の薦や叺の蓆を結び付けて漸く風を防いでいた。
 その生活は、日に玄米三合と銭二百文の支給のみで、玄米三合の御渡米を粥にして飢を凌ぎながらも、それを食べ残して現金に代えるなど、困窮を極めた。野草や海藻は言うの及ばず、時には犬の死骸を見付け、それを分け合って食した事もあったと言う。
 そのような劣悪な環境下、1年が過ぎた明治4(1872)年の暮れに、五郎は、青森に県庁が新設され、給仕として森寅之助と出仕する。
 その後の五郎の飛躍は凄まじく、明治6(1873)年に上京し、旧藩士らを頼りながら、陸軍幼年学校・陸軍士官学校を卒業後、陸軍で順調に出世を遂げ、明治27(1894)年、大本営参謀として日清戦争を迎える。
 そして、その名を世界中に知ら示した明治33(1900)年の義和団事変(北清事変)の際には、駐在武官として清国公使館にあり、暴徒に包囲された北京城に約2カ月籠城し、防衛に成功。その適切で勇敢な行動は、世界各国から高い称賛を受けた。欧米及びキリスト教徒中国人に深く信頼を寄せられ、北京が連合国によって制圧されて後に開かれた、第1回列国指揮官会議の席上で、籠城した防衛軍の指揮を委ねられていたイギリス公使マクドナルドが「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵(五郎)に帰すべきものである」と賞賛している。
 さらに、解放後に占領した北京では、略奪や虐待を厳しく戒め、中国の人々の保護にも努めているのは、戊辰戦争下の会津での暴挙を目の当たりにした幼い記憶の為であろう。
 その後、大正8(1919)年、61歳で会津藩出身者としては初めて陸軍大将になり、その4年後に退役。既に65歳の高齢であり、苦難の前半生を取り戻すべく、穏やかな日々を過ごすかに思われたが、太平洋戦争の敗戦を告げる玉音放送を聞いたひと月後の昭和20(1945)年9月15日、身辺を整理すると自決を計る。この時は辛くも一命を取り留めたものの、その傷が元で12月13日に、85歳で息を引き取った。
 その訳は明らかではないが、太平洋戦争の敗戦責任を感じての事とも伝えられている。とすれば、最期まで会津の武士(もののふ)魂を胸に抱き続けた柴五郎。これ程までに、己を戒めた人生を賞賛せず何とする。
 戊辰戦争に始まり、人生の大半を戦いに費やした柴五郎。五郎著「ある明治人の記録」によれば、会津の戦況下の会津、そして斗南での過酷を極めた暮らしの中で、餓死を免れたのは、会津の国辱を雪ぐ迄生き延びる父からきつく武士の戒めを解かれた事による。〈続く〉



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