大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 及ばぬ鯉の滝登り十一

2011年08月31日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「兄さん。た、大変です。直ぐに戻ってくだせえ」。
 「そんなに慌ててどうした佐平」。
 走って来たのだろう、息も絶え絶えの佐平。加助の弟弟子である。
 「親方がおかみさんを離縁するってえんで、もう大騒ぎなんでさ」。
 加助の眉根が動く。千吉も由造も先程までの気怠さが嘘の様に、事次第に驚くのだった。
 「また、おかみさんが近所の祝い事に書を差し上げたことで、ついに親方の堪忍袋の緒が切れたんでさ」。
 「またか」。
 加助は、立ち上がったままの姿勢で首をうな垂れた。
 加助の親方である大工の棟梁・平五郎の女房・志津は、どうにも人様からの貰い物は好きだが、送るのは絶対に嫌。袖から手を出すのも勘弁なのだ。これまでも、子が出来たといっては、己で書いた「安産祈願」。家が無事建ったといっては、「平穏安泰」。商人には、「商売繁盛」。ほかにも折りに付け、ただの和紙に墨で文字を書いて送っていた。
 そしてたちが悪い事に、お返しが無ければ自ら出向き催促をする。お礼をしたいと言われれば、料亭を指定する。所謂送られた側が大損をするといった迷惑な書なのである。
 それが大家の手による物や、寺社仏閣の有り難いお札なら話は別だが、志津は寺子屋で学んだ程度。お世辞にも達筆とは言い難い。
 「そういや、千屋を開いた折りにも、おかみさんから頂いたな」。
 千吉は、とうに襖の裏張りにしてしまった、一枚の紙切れを思い出していた。
 そんな外聞の悪さに、ついに親方が怒りを抑え切れずになったのだった。
 「ですから、兄さん。早く親方を止めてくだせえ」。
 「ああ、直ぐ行く」。
 加助は、そうとだけ言い残すと足早に去って行った。
 「しかしなあ、棟梁は良いお人なんだがな」。
 金治もたまらずに声を出す。
 「銭があっても、始末屋は始末屋ってことかい。だが、そんなで加助たちはちゃんと飯を食わせて貰っているのだろうか」。
 そんな不安を抱く千吉だが、どうやら志津は、貰い物が好きなだけで、万事において始末屋ではないらしく、弟子にはきちんと心配りはするらしい。
 「だがね、好き嫌いが激しいお人だから、嫌われたら最後だがね」。
 金治が力無く笑う。
 「やれやれ、またも始末屋のお陰で騒動がさね。迷惑な話だ」。
 千吉は、直に上方へと旅経つ由造に力無い笑い顔を向けるのだった。



 及ばぬ鯉の滝登り 完
  恋し合っているが、身分などが釣り合わず結ばれないこと。

 次回は
 厭と頭を縦に振る
 うわべの態度と、本当の気持ちがまるで違うというたとえ。
 思い違いの女心に振り回される、加助と由造の取った行動は。


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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 及ばぬ鯉の滝登り十 

2011年08月30日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「もったいねえ」。
 そう言うのは加助。
 「ああ、そうだな」。
 吉造も口ではそう言うが、吉造くらいに出来る者であれば、手代からでも雇ってくれるお店はある。また、小さなお店であれば番頭としてもそれは可能だ。暮らし向きに困る事もないだろうと千吉は考えていた。
 何より今は、千屋の仕事を手伝って貰え、大層助かっているのだ。
 「そうだ千吉、あたしは上方に行こうと思っているのさ」。
 唐突な吉造の言葉に、千吉、加助ばかりか豊金の金治までもが、手にした茶碗を落とすくらいに驚いていた。
 「上方だって」。
 「ああ、近江屋さんと付き合いのある上方の呉服屋へ奉公に行く事になった」。 
 「どうしてまた上方なんだい」。
 「上方は商人の本場さ。そこで学ぶのも良いと思ってな。なに、ちいとばかり江戸を離れるのも悪かねえ」。
 物心付いてから、いつでも顔を合わせられる距離にいた幼馴染みが遠く上方へ行くと聞いて、千吉、加助は置いてけぼりを食ったような寂しさに溢れるが、奉公人に大店の娘が袖にされたと噂されちゃあ立つ瀬もない。そんな絹への思いやりと、そして同時に吹っ切りたい事があるのは十分に理解する二人だった。
 三人がしんみりとそして、深い盃を交わす中、またも聞き慣れた野太い声が近付いて来るのだった。こういった時には必ず顔見せる、実に間の悪い御仁。そしてその間の悪さに気付かずに、気の利かないお人。そう裏長屋の浪人・濱部主善である。柳橋通いに飽きたか、はたまたお目当ての芸者に袖にされたのか、久し振りではあるが、豊金に顔を出すのだった。
 「おう、三人揃って居るとは、久しいのう」。
 陽気に片手を上げ、直ぐさま千吉たちの側に寄ろうとするのを、
 「これは濱部様。あたしらはすでに一時半も、散々飲み食いしてますが、ここから御一緒されてもこれまでの勘定も切合になりますよ」。
 ひってんを制する、極めつけの一言を口にしたには千吉であった。
 「ほう、千吉もたまには思い切った事を言うねえ」。
 金治は勝手から覗き込むように、千吉に声を掛ける。ここまで言われればさすがに気が付く筈だが、どうにも濱部にはぴんとこない様子で、
 「なら、お主たちの飲み食いの肩代わりをさせられたら適わぬ。今日はこちらで呑むとしよう」。
 座敷の千吉たちを離れ、土間の床几に腰を据えた濱部は、冷や酒を一杯飲み干すとそそくさと帰って行った。
 「なんでえ、己の銭なら酒一杯か」。
 「これ加助、良いではないか。取り敢えず今宵は集られなかったんだ」。
 三人は、「相変わらずの人だ」。なぜか力が抜けていく様な思いに陥っていた。
 そこに珍しい客が息せき切って現れた。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 及ばぬ鯉の滝登り九

2011年08月29日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「吉造を諦めてもいいと言いなさるんですね」。
 後日由造と話をさせることを約束し、千吉は表まで二人を見送るが、どうしても気になるのが、美代と絹の関係だった。
 「どうして今日は、お美代さんが付き添ってられるんですかい」。
 「ああ、それかい。最初に不思議そうな顔をしたのは」。
 美代は愉快そうに笑いながら、「実の父親の妾に悩みを打ち明けるなんて」。そう前置きし、
 「金持ちの間じゃ、妾なんざ当たり前なのさ。このお嬢様とも前から何度か会った事があるしね」。
 連れ立って芝居見物にも行く仲だと言う。千吉には、増々理解でき兼ねる女心である。
 さて、膨れっ面のままの奈美にも話をしておかなければならないと、千吉は些か気が重かったが、奈美を座らせると、「さっきのお前の態度は良くないね」。兄としての苦言は呈するのだった。
 その日は、やはり豊金でじっくり話し合うしかない。千吉は吉造に昼間の訪問者の事を話すのだった。
 紫蘇の葉の塩漬けを口に運ぶや、あまりの塩辛さに顔を歪め、それを一気に酒で流し込んだ由造は、「うむ」。と考え込んだきり、言葉も胃の腑に流し込んだのか一向に口を開かない。
 「一度、はっきりと絹さんに話しておあげな」。
 千吉は頼み込むといった具合だが、「はて、どうしてあたしが吉造に頼まなければならないのだろう」。次第にそんな思いも過ってくる。
 「ねえ吉造。お絹さんって大人しくて、良い娘さんじゃないか。何よりお前に惚れている。一体何処が気に入らないんだい」。
 それでも吉造は、塩の固まりの様な紫蘇の葉と猪口を交互に口に運ぶのみ。
 半時も経った頃、ようやく吉造の重い口が開いた。
 「解った」。
 こうして吉造は絹に、己は誰とも所帯を構えるつもりがないこと。そして、絹が最も気に止んでいた、縁組みの話を白紙に戻すので、近江屋に戻るように説得されても、はっきりと断ったのだった。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 及ばぬ鯉の滝登り八

2011年08月28日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 千吉は優しく、絹を覗き込む。「はい」。と絹は言ったのか言わなんだか。これまた、か細い声は聞き取れず、代わりに美代が話し出した。
 「だからあたしは言ったんだ。十五年も奉公した先を飛び出すくらいに嫌な縁組みだったんだ。諦めなってね」。
 この言葉に絹の嗚咽は更に増し、引き付けでも起こし兼ねないくらいに肩を揺すっている。千吉もあまりにも大胆な美代の発言に返す言葉がないのだが、隣の奈美はひとり大きく頷くのだった。
 「まあ、お美代さん。そんな言い方をされたら吉造だって立つ瀬がありゃしませんよ。何か深い事情があったのやも知れないのだから」。
 「その深い事情ってのを聞きたくてやって来たのさ。嫌いなら嫌いだとはっきり言って貰わなくちゃ、お上様だって納得がいかないだろ」。
 確かに美代の言うとおりである。だが、人が誰も美代のようにさばさばと物事を割り切れるものではない。
 「さあ、お絹さん、泣かないでおくれな」。
 どうやらこの中で絹の味方は、千吉だけの様でもあった。
 「あたしは、吉造はお絹さんが嫌だった訳ではないと思うんだがね。多分、吉造は所帯を構えることが嫌だったんじゃないかね」。
 千吉が少しでも絹の気を軽くしようと、ありったけの気を遣うが、
 「だけどね。どう考えたっておかしな話さ。近江屋の暖簾分けまでして貰えて店も出してもらえるに、それを嫌がるってのは」。
 美代は飽くまでも真っ向から物を言う。
 「確かにそうですがね。金目当てだと思われたくない男も居るんじゃないでしょうかね」。
 膨れっ面で黙り込んでいた奈美が急に口を出した。
 「じゃあ何かい。店を持たせて貰えなくても、ただお嬢様を嫁に貰えと言われた方が、吉造さんは納得したってことかい」。
 「そうは言っていないけど…」。
 奈美の旗色が悪くなると、美代は顔を軽く上げて目を細める。
 「ちょっと二人とも、待ってくれないかい。あたしはお絹さんと話がしたいんだ」。
 奈美と美代の剣呑とした空気は、更に絹を追い詰めるだけだ。
 「お絹さんは、吉造の本当の気持ちを知りたいんですね。それで、吉造の口から聞けば、どんな結果でも納得出来るんですね」。
 千吉は諭すかの様にゆっくりと絹に問う。絹は、泣きながら小さく頷くのだった。 
 「今回の事は、あたしがおとっつあんに言って進めて貰ったもので、それで吉造が店を出ることになったなら、申し訳なく…」。
 自分との縁組みは無かったことにして、店には戻って欲しいと絹は思っての事だった。


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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 及ばぬ鯉の滝登り七

2011年08月27日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 由造が「口入れ屋にでも行ってみるか」。と、奉公先を探し初めていたある日、千屋に珍しい来客があった。
 「あれ、お珍しい」。
 千吉が目を丸くしたその先には、近江屋の娘・絹と主人・紀左衛門の妾の美代が、まるで姉妹か友のように連れ立っていたのであった。
 牡丹の花の様な艶やかな美代と、可憐な梅の花の様な絹の二人が並ぶと大層華やかではあるが、主の娘と妾である。おかしな組み合わせであった。
 「吉造さんが、こちらにおじゃましてるんじゃいかってね」。
 先に口を開いたのは美代である。どうやら由造の実家の川瀬石町裏長屋にも顔を出したが、そこには戻っていなかったのを知ると、次は幼馴染みの千吉の所だろうとやって来たのだ。
 「はい。家に居ますが、今は出掛けてますよ」。
 千吉を押し退けるように前に出たのは妹の奈美であった。
 「なら、待たせてもらおうかね」。
 美代がそう言うと、奈美は上がり框に立ったまま、
 「あたしが伝えておきますが。どんな用なんでしょう」。
 そう物言いは実の兄である千吉さえもが、傲慢に聞こえるものだった。美代の眉がぴくりと動くと、
 「あんたに話せるような事じゃ無いんでね。まあ、ここで待たせてもらうよ」。
 「ここで待たれちゃ商売の邪魔さ。外で待つか出直して貰いたいんだがね」。
 腹に一物含んだ女同士の言い合いに、千吉は双方の顔を互い違いに見やり、おろおろするばかり。どうやら框に立った奈美の方が、上から見下ろしている分だけ強気にも見える。
 「ならば奥でお待ち下さいな」。
 千吉がそう言うと、奈美は狐の様に目を吊り上げ、   
 「吉造さんは、近江屋を嫌で飛び出して来たんだ。そこの人に待たれたって迷惑さ」。
 千吉にまで食って掛かる始末。とうとう傍らで怯えたように見ていた絹が泣き出してしまった。
 「だからお嬢様は困るんだよ。泣けば何でも解決すると思ってさ」。
 奈美は口を尖らせそっぽを向く。さすがに店先で女同士の大声がしていれば、近所の好奇な目も集まり出し、その中ひとりの女が泣いているとあれば、気まずいこと仕切り。千吉は奈美を制して、二人を奥へと上がらせたのだった。
 「いいかい。あんたが吉造さんに言いたい事があるってんで、こうして来たんだ。泣いてちゃ話にならないだろ」。
 美代は泣きじゃくる絹にも、歯に衣着せぬ口調でぽんぽんと言う。絹の、「はい」。という声は微かに嗚咽の中に聞こえた様な気もする程度に小さなものだ。
 「お絹さん、吉造も直に戻るとは思うが、先にあたしに聞かせちゃ貰えませんか」。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 及ばぬ鯉の滝登り六

2011年08月26日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 その日、由造は近江屋紀左衛門に、店を辞める旨を話していた。
 「それは絹を嫁に出来ないってことかい」。
 「旦那様、申し訳ございません。あたしはお嬢様がどうのというのではありません。今は誰とも所帯を構えるつもりはありません」。
 由造はずっと俯いたままである。紀左衛門は肩で大きく息をすると、
 「お前が絹を気に入らないのならそれでも良い。だがね、あたしはお前を気に入って無理を言って家に来てもらったのだ。こんなことで辞めて貰ったらお前の親御に申し訳ない」。
 武家の子息を一人前の商人にすると預かっていた紀左衛門である。娘・絹との縁は無かったこととし、それでも由造には一人息子の雅之助の片腕となって近江屋に居て欲しいと思うのだった。
 だが由造は、「お嬢様にも申し訳ありませんので」。そのまま近江屋を辞するのだった。商家の奉公人のほとんどは住み込みである。行く宛のない由造が目指したのは、川瀬石町の千屋。千吉の営む古手屋である。
 ついさっきまで散々話題に上っていた由造がふいに顔を見せたのだ。千吉の驚きは並ではない。
 「なんでい。あたしを妖か物の怪のように」。
 「いや、あまりにも急だったもので。ところでこんな刻限にどうしたんだい」。
 由造は、ちょいとばかり気まずそうに、
 「しばらく、厄介にならせてもらうよ」。
 そうとだけ言うと、「まだそう寒くもねえ」。そう呟いて、千屋の店先にごろりと横たわるのだった。
 千吉も奈美も、「直ぐに布団を敷くから」。と言うが、吉造は聞こえない素振りで左腕を枕に目を閉じていた。
 菜っ葉の味噌汁と沢庵の簡素な朝餉を囲みながら、千吉は由造に言うのだった。
 「由造、あたしらは兄弟も同然じゃないか。こんな物しかないが、いつまで居てもらっても構いやしないさ。だけどね、遠慮はしねえで貰いたい。家は古手屋だよ。布団くらいはあるんだからね」。
 板の間で一晩過ごした由造は、あちこちに痛みがあるのか、首をごきごき動かしながら少しばかり口元を緩めるのだった。
 何も聞かなくても、千吉には由造の事情は解っている。近江屋を出て来たということは、絹との縁組みを断ったということだ。
 (男女の仲は、及ばぬ鯉の滝登り。はたまた縁なのか。世の中巧くはいかないものだ)。
 千吉は、飯を頬張る由造と、妙に嬉しそうな奈美を交互に見ながら心の中でそう思うのだった。
 互いに好いていた由造と義妹の理世。思いを胸に仕舞って理世は新たな人生を歩んでいる。だが一途な思いを断ち切れない由造。そんな由造を慕い続ける奈美と絹。どうやら由造への思いを知りながらも奈美に引かれている加助。
 (あれま、またあたしは蚊帳の外かい)。
 千吉は幼馴染みたちの、おおよそ十年にも渡る恋模様に、つい今しがた気が付いたばかりである。


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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 及ばぬ鯉の滝登り五

2011年08月25日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 なぜか金治の目には涙が光っている。加助も神妙な面持ちだ。
 「だったら吉造がお理世ちゃんに一言告げれば」。
 千吉は、知らず知らずのうちにむきになっていた。そんな千吉の肩に手を置いた金治は、
 「そこが由造なんだよ。御武家の娘のお理世を御武家に嫁がせて幸せにしてえってな」。
 三人はやり切れない思いだった。
 「奈美はどうするのだろう」。
 千吉は己の妹の心情を思いあぐねるばかり。するとやはり涙で頬を濡らした金治の女房の紺がこう言った。
 「お奈美ちゃんは心底、由造さんを好いているのさ。だから、由造さんとお理世ちゃんの思いを知って、自分の気持ちを封じたんじゃないかい」。
 「なら奈美は、由造と一緒になれなくても良いって思っているのかい」。
 「多分。お奈美ちゃんは頭では解っているのさ。だけど、気持ちがまだ吹っ切れない。辛いんじゃないかい」。
 「お紺さん。だったらあたしはどうしたらいいんだい」。
 千吉は妹の思いは成就させてやりたい。その為なら由造に跪いて頼む事さえ厭わない。だが、親友の由造の将来を思えば近江屋の縁談の方がずっと良い。どうしたものかと思いあぐねていた。
 「由造は、多分、お理世ちゃんの幸せを見守るつもりじゃねか」。
 金治は由造は、「所帯を構えるつもりは無いのだろう」。と言うのだった。
 夜もどっぷり更けていた。鈴虫やら蟋蟀が騒ぎ立てる中、もうすぐ木戸の閉まる刻限である。千屋までの道のり千吉は、
 (思うに別れて思わぬに添う。男女の仲は思うようにはいかず、縁とは不思議なものだ)。
 そう思わずにはいられないでいた。
 「あれ、兄さん。随分と遅いお戻りだね」。
 奈美の明るい笑顔に迎えられながらも、小さな子どもだとばかり思っていた妹も、心に痛みを抱えていた事を思い知ると、千吉は思わず奈美を抱き締めていた。
 「兄さん、どうしたんです」。
 何も解らずに目を白黒させる奈美だった。


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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 及ばぬ鯉の滝登り四

2011年08月24日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「そう言えば、あの時、あたしと加助は抱き合って泣いたけど、由造は必死に堪えて涙を見せなかった」。
 千吉は、一緒に遊んだ事も無い由造が率先して己を探してくれたことで、心を通わせたのだった。
 「あの帰り道も、泣きじゃくるあたしたちを由造はずっと励ましてくれてたな」。
 「ああ、武士は泣いてはいけねえって言ってな。それでも、由造は長屋でおっかさんの顔を見た途端に涙ぐんでたな」。 
 この一件で子ども三人は親たちからこってり叱られたが、それでも芽生えた友情の絆は、どんなに叱られようとも代えられない深いものとなっていったのだった。
 
 「それで加助お前は、いつから由造がお理世ちゃんを好いているって築気付いたのさ」。
 思い出に浸り、すっかり話が逸れてしまっていた。
 「実はな、気が付いたのはお奈美ちゃんさ」。
 「奈美が、どうしてまた」。
 千吉は兄の自分では無く、加助に話していた事に驚いていた。
 「お奈美ちゃんは、ずっと前から吉造に惚れているのさ」。
 千吉は声にならない。目を大きく見開き、そのまま表情も身体も固まってしまったかのようだ。
 「あれ千吉、気が付かなかったのかい」。
 千吉はただ首を横に振る。
 「いつだったか、お奈美ちゃんが思いにふけっていてさ。随分悩んでたみてえだったが、とうとう由造には思いを告げてはいねえみたいだ」。
 「そうなのかい」。
 身内の事は意外に解らないものである。千吉は己の鼓動が早まっていくのを感じていた。
 「奈美は今でも吉造を好いているのかい」。
 「いや、それは解らねえが、お理世ちゃんの婚礼が整った時に思いは胸に封じた様だぜ」。
 「ちょいと待った」。千吉は、理世がほかの男に嫁ぐなら奈美にとっては都合が良いのではないか。そう思うのだった。
 だが理世は、婚儀が決まって後、己が貰い子だと知ったのだった。
 「あんなに悲しそうな花嫁を見た事はねえって、お奈美ちゃんは言ってたな」。
 「加助、あたしには色んな事が今解って、混乱しているのだが、お理世ちゃんと由造は好きあっていたってことかい」。
 加助は、「ああ」。と小さく頷く。
 「ならば吉造と一緒になれば八方丸く納まるってもんじゃないか」。
 そこに、先程から神妙な千吉と加助に目を光らせていた豊金の主人・金治が、「聞こえちまったんだがな」。と割って入る。
 「あっしが思うには、お理世は由造を好いた思いに悩んでいたんじゃないかい。兄を好いている事にさ。それで、思いを吹っ切る為にも境川様の方を向いた。だがその時になって、実の兄妹じゃねえって知らされたんじゃあ、もうどうにもならねえ」。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 及ばぬ鯉の滝登り三

2011年08月23日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「由造は知っているのかい」。
 「ああ、もちろんだ」。
 千吉は隠し事などないと思い込んでいた幼馴染みたちの間で、この様に重大なことを己ひとりが知らなかったことに憤慨を隠し切れなくなっていた。
 「どうして今まで教えてくれなかったのさ」。
 「どうしてって言われたって、てっきり承知だと思っていたぜ。第一、由造が長屋に来た時にはお理世ちゃんは居なかったじゃねえか」。
 加助にこう言われても、どうにも信じ得ない千吉だった。
 確か千吉はみっつだった筈だ。二十年前の記憶が曖昧なのは仕方ないが、それでも幼馴染みの家族を忘れるものだろうか。憤慨が次第に不甲斐ない思いへと変わっていった。それを察したのか、横では加助も昔を思い出そうとしている。
 「あっしは由造とは直ぐに仲良くなったが、御武家様だったから家には上がったことは無かったな。千吉は…。千吉とも良く遊んだけど…」。
 一方の千吉は由造と仲良くなったのがいつかも覚えてはいない。
 「そうだ。思い出した」。
 先に思い出したのは加助である。
 「お前さんは、小せえ頃は酷でえ人見知りで、由造と親しくなるのも随分と時間が掛かったもんだった。それに泣き虫で、気も小せえもんだから、御武家の由造には近付けなかったのさ」。
 由造は、今でこそどこから見ても商人だが、江戸に着いた頃は、未だ前髪者だがそれでも袴を履き小太刀を挿していた。
 泣き虫で、気も小さいと指摘された千吉は、ぷっと頬を膨らませ唇を尖らせるが、加助はおかまい無しに続ける。
 「お前さんがひとりで、日本橋を渡って十軒店の方迄行っちまって時のことは覚えてるだろ」。
 「そりゃあ覚えてるさ。子犬の後を付いて行ったら迷子になっちまった時さ」。
 秋の短い陽が次第に暮れ掛けた時の心細さは、今となっても夕陽を見ると胸が痛くなる切ない思い出である。
 「あん時は、長屋の大人たちが手分けしてお前を捜してよ」。
 子どもたちは長屋に居るように言い付けられていたが、心配で居たたまれない加助の心中を察した由造が無言で走り出したのだった。加助は、「おとっつあんに怒られるよ」。そう言いながら吉造を袖を引いて止めようとしたが、由造は振り向き様に「じっとしている間に千吉の身に何かあったらどうする」。険しい眼差しで、加助に言い切ったのだった。
 幼子にとっては、たとえ二人でも日本橋を渡るとそこは別世界であった。加助は由造の袖をずっと掴んだまま後ろからおっかなびっくりだったが、その時に、「やはり御武家の子だ」。由造の肝の座り具合に加助は感激していた。
 「通りで戸の閉まったお店の前で、お前を見付けた時は、心底ほっとしたよ」。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 及ばぬ鯉の滝登り二

2011年08月22日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「千吉、お前本当に知らねえのかい」。
 加助は惚けた顔の千吉をまじまじと見詰め、目を閉じて今度は己が頭を横に振る。
 そう言われ千吉は昔を思い出そうとするが、どうにも何が重要な事で己が何を見落としているのか皆目見当も付かない。
 同い年でこの年二十三になる千吉と加助は、川瀬石町の裏長屋で産まれ落ちた時からの仲である。
 由造の父・芦田伝八郎は但馬出石藩の藩士だったが、御家騒動に巻き込まれ浪々の身と成り、妻の佳代と、四っつの由造を伴い川瀬石町の裏長屋に住み始めたのだった。それからは内職や日雇いで喰い繋いでいたが仕官の話も無いまま時は流れ、食うや食わずの親子は由造が九つの時、近江屋の丁稚奉公に出したのだった。
 加助は、「理世は一年後に貰われたのだ」。と言い張る。
 「じゃあ、お理世ちゃんの親はどうしたんだい」。
 「両の親とも亡くなったのさ」。
 「由造とは親類なのかい」。
 理世の父は由造の父・伝八郎同様に御家騒動に破れ、浪々の身と成っていた。だが、病いから若くして亡くなると、心労からか母も後を追うように他界。藩の罪人となった者の子である理世を、親族さえも引き取る事を拒み、親友だった伝八郎が我が子として育てていたのである。
 「加助お前、どうしてそんな事を知っているんだい」。
 「お理世ちゃんの婚礼がまとまりかけた時に、境川様が長屋に来なすったのを覚えているかい」。
 千吉は、「うーん」。と腕組みをし天井を見上げて思い出そうとするが、どうにも何ら浮かんでこない。
 「境川様は御武家で同心だ。幾ら藩内の揉め事でも罪人の娘であるお理世ちゃんの素性を隠して嫁がせ、後々知れたら一大事ってんで由造のおとっつあんが境川様に話したのさ」。
 「境川様に話したのは解るが、どうしてそれを加助、お前が知っているのかを聞いているんだよ」。
 加助は片方の眉尻を上げてにやりと笑うと、「聞いちまった」。とだけ言うのであった。
 「盗み聞きかい」。
 同心が長屋に来るなど珍しく、ついつい出来心で外で聞き耳を立てていたことを加助は白状するが、「この話を人様にするのはお前が初めてだ」。そう言った後、
 「お奈美ちゃんも一緒だったぜ」。
 千吉は奈美の名が出て寸の間、己の妹のはしたなさに憤るが、奈美がいやに自信ありげに由造には好いた女子があると言い切った訳がようやく飲み込めたのだった。

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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 及ばぬ鯉の滝登り一

2011年08月21日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 恋し合っているが、身分などが釣り合わず結ばれないこと。

 「兄さん、由造さんは近江屋さんの祝言を受けたのかい」。
 川瀬石町の小さな古手を扱う千屋の店先で、千吉の妹の奈美が唐突に言い出した。
 由造の縁談の相手は、日本橋呉服町通の大店・呉服屋の近江屋の一人娘の絹である。近江屋には絹の下に十六になる長男の雅之助がいるため、由造は婿養子に入るのではなく、絹を娶り暖簾分けをして店を構える事ができる。お店の奉公人にとってはこの上ない良縁なのだ。
 「お前も嫁ぎたいのかい」。
 「そうじゃないよ。ただどうなったかなと思ってさ。由造さんはどう言っているんだい」。
 奈美よりひとつ下の絹はこの年十八になった。千吉はてっきり年の近い娘の縁談を耳にし、己も嫁入りがしたくなったのだろうくらいに思っていた。
 「それがねえ、近江屋さんは暖簾分けして店を持たせるって言ってなさるのに、当の由造に迷いがあるみたいだ」。
 奈美はふーんといった表情で千吉を見ると、
 「迷いがあるってのはほかに好いた女子がおるってことじゃないかい」。
 そう言われても千吉には心当たりがない。
 「由造はそりゃあ女子に言い寄られたり懸想文も良く貰うが、由造が誰ぞやを好いたって話は聞いた事がないね」。
 首を捻ろうが、頭を抱えようがどうにも思い浮かばない千吉だった。
 「幾ら幼馴染みだって言えない事だってあるさ」。
 何やら奈美は機嫌が悪い。
 「お奈美、お前は何が言いてえんだい」。
 「だから、由造さんは好いたお人があるってことさ」。
 いやに自信に満ちた奈美の言葉に、千吉も心当たりの女子を思い浮かべようとはするが、由造が手を出すのは商売女ばかり。それも馴染みは作らないといった徹底ぶりである。一向に好いた女子が解らない。
 「お奈美、何か知ってるのかい」。
 千吉は思いあぐねて奈美に聞くのだった。すると奈美が拗ねたように口を尖らせ俯きながら、「だから兄さんには嫁御が来ないんだ」。そう言うだけであった。
 千吉は、やはり幼馴染みの大工の加助に聞いてみた。
 「なあ加助。由造には誰か好いた女子でもあるのかい」。
 川瀬石町の煮売酒屋・豊金の座敷で加助は口に含んだ酒をぷーっと霧のように吐き出しながら、
 「千吉、お前…知らねえのか」。
 「加助は知っているのかい」。
 「知っているも何もお前さん何を見てたんだい」。
 加助は千吉の疎さに呆れながらも、「千吉のらしいや」。と思うのである。
 「お理世ちゃんだよ」。
 すると千吉は、己に耳打ちする加助を突き飛ばし頭を大きく振った。
 「何を言い出すのやら。お理世ちゃんは妹じゃないか」。
 そりゃあ千吉とて妹の奈美は可愛い。だが惚れた腫れたとは違った思いである。


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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 思うに別れて思わぬに添う十四

2011年08月20日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 それから幾日も経たず、千吉、由造、加助の耳に飛び込んで来たのは、「三太の姿が消えた」。といった裏長屋からの情報だった。
 どうやら節に執拗に追い掛けられ、居たたまれずに上方に帰ったらしい。
 「これで一安心」。
 千吉はもう三太の顔を見なくて済むと思うと、ようやく一息付けた気分でいた。
 「だがよ、お節さんにはちいとばかり可哀想なことだったんじゃないか」。
 加助は幾分胸に支えるものがあると見える。だがそんな思いも由造の一言で払拭される。
 「なあに、お節さんだって久方ぶりに良い思いをしたんだ。幾ら相手が三太でも若い男とさ。女冥利に尽きるってもんさ」。
 「あっしはお前らをがきの時分から知っているが、こうして聞いていると、お前らの心根が解らなくなってくらあ」。
 茹でた蕎麦をごま油で炒り醤油で味付けし、刻んだねぎと鰹節をまぶした代物を持って金治が現れた。
 「あれ、また今宵のあては奇妙だね」。
 一口食べた千吉は、「金治さん、案外いけるよ」。口をもぐもぐさせながら、三太が消えてひとつ肩の荷が降りた思いがしていた。
 「だが、あんまし人の好き嫌いのねえ千吉が嫌うってんだ。三太も大した野郎だったな」。
 由造は愉快そうに笑う。それには答えずに千吉は謳うように呟くのだった。
 「世の中ってえのは、思うに別れて思わぬに添うって言うんだけどねえ」。
 「添えねえ奴も居るってことさ。そういうお前らだってそろそろ本気にならねえと危ねえんじゃないかい」。
 金治に一本取られた。



思うに別れて思わぬに添う 完
 男女の仲は思うようにはいかず、縁とは不思議なものだということ。

次回は
及ばぬ鯉の滝登り
 恋し合っているが、身分などが釣り合わず結ばれないこと。
 奉公先の近江屋の一人娘との縁組みが持ち上がった由造だったが、どうにも色よい返事をしない。そこには、由造に隠された秘密が…。 



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 思うに別れて思わぬに添う十三

2011年08月19日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 数日の後、金治は店の障子を張り替えると言って節を豊金に呼んでいた。紺は、「障子の張り替えなぞ自分がするのに銭が勿体ない」。と渋ってはいるが。
 間口の障子二枚と座敷を仕切る障子の几帳三枚。然程の労力では無い。だが、金治の目的は節を呼び出す事。
 「金治さんよ、たんと賃金弾んでおくんなよ」。
 節は髪結い代を惜しんで己で結い上げた、総髪の先を丸めただけに櫛を挿した髷姿でにやりと口元を緩める。
 (どこまで始末屋なんでい。仕事を貰った礼も言いやしねえ。しかしこんな也で女子として通用するのかね)。
 金治は久方ぶりに会った節が、また一段と薄汚れて皺も増えたように感じていた。
 「お節よ。お前さん良い小袖を持ってるらしいじゃないかい。どうして普段着ねえのさ」。
 痛いところを付かれた節は、眉間に皺を寄せると口を尖らせ、
 「障子の張り替えになんぞ着られるもんか。それに金治さん、あんたに見せても張り合いがないってもんよ」。
 金治は、「ああそうかい」。と心の中で呟くのだった。
 さすがに普段から傘張りを生業としたり、口入れ屋からの仕事は断らないだけあって障子の張り替えも堂に入ったもので、あっという間に綺麗な仕上がりに終わった。
 「お節どうでい。久々に一杯やって行ってくんな」。
 節は、飯の菜は沢庵があれば結構。味噌汁の具は大根の葉やほんのわずかなねぎで十分といった有様だが、ただならば話は別。酒も大好きなのだが、ただ酒しか呑まないと決めている。
 にやりと顔を崩すと、
 「いいねえ」。
 金治がちろりから茶碗に接いだ酒を一気に煽るのだった。
 「今日はあっしの奢りだ。好きなだけ呑んでくんな」。
 金治がこう言うと、
 「あれま、正か酒で賃金を誤摩化そうったってそうはいかないよ」。
 節は右手の平を金治に差し出すのだった。そこに障子張りの賃金を乗せると、節は目で銭勘定をし、直ぐさま懐の紙入れに仕舞うと、「さてでは遠慮なく」。酒を催促するのであった。
 半時も過ぎたであろうか、酔いの回った節が、
 「それにしてもいやに気前がいいね。何を企んでいるのさ」。
 そう金治に言ったもので、寸の間ぎくりとした金治だが、「これからも色々細かい仕事を頼みたいからさ」。そう誤摩化すのだった。
 「お前さん、これ以上呑まれたら上がったりだよ」。
 金治の女房の紺が横で口を尖らせる頃、ようやくお目当ての三太が暖簾から顔を覗かせた。
 「あれ、今日は皆はん来ておらへんのやね」。
 皆さんとは千吉、由造、加助のことである。彼ら三人はこの日は、金治との打ち合わせで外していたのだった。
 「三太じゃねえかい。まあ座れ。珍しい客が居るんだ」。
 金治が目線を送った床几には節の姿がある。
 「お節はん。どないしたのや」。
 女子が一人で煮売酒屋で酒を呑むなど信じ難い光景である。金治が訳を説明しようやく納得した三太は、
 「そな、わてにも驕っておくんなはれ」。
 誠に呆れて物が言えない。だが酔いが回れば必ず色気が顔を覗かせる三太である。例え相手が一回り以上も年上の節であろうが、女子であれば見境がない。
 二人は寄り添うように川瀬石町の裏長屋へ姿を消した。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 思うに別れて思わぬに添う十二

2011年08月18日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 通常の人ならば、目の前でこんな会話が交わされていれば居たたまれないものだが、一向に己が邪魔者だとは気が付かない三太は構わずに盃を傾けている。その姿がまた忌々しいのだ。
 「おい三太。そういう訳だ。席を変わるか帰ってくんな」。
 業を煮やした由造が多少大きめの声で言うが、ただへらへらと笑ったままの三太である。
 ならばと千吉と由造も床几に席を移す。不思議そうな加助に、千吉が経緯を説明するのだった。
 由造を付け回すのを止めるように言っても聞き入れず五百文もの銭をせがまれたために、つい由造の義弟が同心だと洩らしてしまった事。そうしたら掌を返すかのように、己と由造に媚びへつらって困っている事。
 「同心に知り合いがいれば徳だと計算したんだろうよ。どこまで寝穢い奴だ」。
 由造も憤慨を隠せない。
 そこへ豊金の主人である金治が顔を出す。
 「どうにもあの三太って奴は、このところ一日と開けずに通って来るんだがね。一人で来た日にゃあ、お紺にまとわりついて薄気味悪りいったらねえのさ」。
 紺は金治の年の離れた恋女房である。その紺の尻を追い掛け回し、酔いが回れば肩を抱いたりもすると言う。しかも茶碗酒一杯でつまみも採らずに一刻も二刻も粘るというから達が悪い。
 「頻りに何やら恨みがましい事を言ってなさるが、何せ声が小せえ。聞こえやしねえ」。
 金治もこの迷惑な常連に困り果てていた。
 「こうなったらあっしが三太とお節の仲を纏めてやろうじゃないか」。
 金治の当然の宣言に、千吉は思わず立ち上がった程である。横では加助が茶碗から酒を土間に零し、由造が口から霧のように酒を吹き出している。
 「あの始末屋のお節と一緒になれば、酒なんぞ呑ませて貰える筈もねえ」。
 そう断言する金治の側で、三人は三太と節が並んだ姿を思い浮かべるのだった。
 「まあ、巧くいけばあたしたちも気兼ねなく呑めるってもんさ」。
 「千吉は本気で上手くいくと思ってるのかい」。
 「あれ加助、妙な事をお言いだね。前にお節さんとめあわせようって言ってたのはお前じゃないか」。
 そう言われると次の言葉が見付からない加助である。
 「どうなるか金治さんの腕次第さね」。
 由造は何やら楽しそうにも見える。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 思うに別れて思わぬに添う十一

2011年08月17日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 千吉は仕方なしに重い足を引き摺り、川瀬石町裏長屋の三太を訪ねるのだった。一刻も早くその場を去りたい千吉は単刀直入に、由造を付け回す訳を尋ねた。
 「あいつはわての草履を馬鹿にしたんや。ほんでわてを店から投げ出したんや。せやからぎょうさん銭を貰わなくては合いまへんのや」。
 どこまでも身勝手な男である。千吉も呆れるのを越して、気味悪くなっていた。
 「だったら銭を渡せば、由造を付け回すのを止めるのかい」。
 「そうや」。
 「それでどれくらい欲しいのさ」。
 千吉は顎に手を当て上を見て考え込みながらも、どじょうだの握り寿司だの呟いている。
 「ほな五百文もいただきまひょか」。
 「五百文だって」。
 千吉は声が上ずっていくのが己でも解るくらいに、驚いていた。
 「お前さん、いい加減におしよ。幾ら何でも五百文は法外だ。これはもう集りだね」。
 「わては怪我しましたんえ」。
 にやりと笑ったその顔は、正に欲の亡者。この浅ましさに、ついに千吉も先程から小刻みに震えていた己の拳を三太の頭にひとつ落としていた。
 「何するんや」。その頭をさすりながら、大声で叫ぶ三太に千吉は、
 「ひとつだけ言っておく。由造の義弟は同心だ。これ以上由造におかしな真似をすれば、八丁堀の旦那が黙っちゃいねえぜ」。
 そう怒鳴りつけると、長屋自体が傾くくらいに勢いよく引き戸を閉め、三太の元を去るのだった。
 その音に驚いたのか、はたまた由造の義弟が同心だとうことに肝を潰したのか、三太は腰を抜かしたかのように座り込んだまま、千吉が閉めた引き戸を呆然と眺めたままだった。
 千吉が三太に話をつけてから、こそこそ隠れて由造を付け回すことは無くなったものの、今度は豊金であからさまに千吉、由造たちを待ち伏せし、姿が見えるとまるで旧知の仲のように割り入ってくるのだった。
 「これは珍しい顔触れじゃねえか。雪でも降らなけりゃいいがな」。
 千吉、由造そして三太の組み合わせで盆を囲む姿に、目を白黒させる加助である。
 「じゃあ今日はあっしはこちらで」。
 加助は座敷に上がろうとはせずに床几に腰を下ろすと、茶碗を片手に一人酒と洒落込んだ。
 「おい、加助。こっちに来い」。
 由造の怒った時の声が耳に届くも、加助は黙りを決め込む。
 「加助。一人じゃ寂しいだろう。おいでな」。
 今度は千吉が懇願するかのような仕草を見せる。
 「あっしは千吉や由造のように心が広くねえもんで。嫌いな奴と呑む度量は持ち合わせちゃいないんで」。
 「意地悪をお言いでないよ。あたしらだって好き好んで呑んで訳じゃないんだからさ」。

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