大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

月に叢雲花に風 二十五話 赤穂浪士の夜襲

2011年05月31日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 元禄十五年(1702)十二月十四日。吉良邸では茶会が催された。
 先立って、当主の吉良左兵衛義周や用人の清水一学らは、旧赤穂藩国家老の大石内蔵助良雄が江戸入りしたことを知り、吉良上野介義央に茶会の中止を再三申し入れていたが、「この年寄りの最後の楽しみじゃ」と、年明け早々に米沢の上杉家へ移ることが決まっていた義央の別れの茶会とあっては、強行に止めることはできなかったのである。
 「しかし、これではご隠居様が屋敷におわすことが明らかであろう」。
 吉良家の筆頭家老である斎藤宮内忠長や同じく家老の小林平八郎央通らも不安の色を隠せない。
 当日は茶人の山田宗偏始め、多くの客人が屋敷を訪れることになっている。その中に紛れ込まれることを懸念した吉良家はいつにも増した強固な警備をしていた。
 そして、万が一に備え、義央の妻・富子が吉良家に残していた中臈の藤波、高野。侍女の浅尾局、丹後局や小性など十数名は、義周の計らいで、白金の上杉家下屋敷に戻していたのである。ほかにも侍女や奥向きの女性には暇を出していた。
 だが、茶会は事なきを得、誰もが安心し切って深い眠りに落ちた十五日未明(丑の刻七つ/午前四時)のことであった。
 「何事じゃ」。
 義周が寝所で不信な物音を聞いたその時、近習の山吉新八郎盛侍も、屋敷を取り巻くように並ぶ武家長屋の私室で飛び起きていた。
 「殿。赤穂の浪士が討ち行ってございます」。
 「赤穂浪士か。宵討ちとは卑怯な」。
 義周は吐き捨てるように言うと、薙刀を手にそのまま表へ飛び出して行った。
 この時、吉良家邸内にいた家臣は百二十名であったが、そのほとんどは武家長屋におり、屋敷内にはわずか二十数名の手勢にすぎなかった。
 赤穂浪士はまず、武家長屋を包囲し、寝入っていたために出遅れた百名近くをその場に封じ込めていた。
 赤穂浪士は、小坊主の牧野春斎を一太刀で切り捨て、玄関先と進んで来た。
 表門を破られ、玄関先に飛び出した義周の近習の新貝弥七郎は、矢面に立ち奮闘するが多勢に無勢とあって空しく、堀部安兵衛の槍で突かれ討ち死にする。
 剣客としても名高かい家老の小林平八郎央通も、刀を手にするが、南書院前にて討たれ、更に闇夜のこと、その身なりから義央と間違われ首を刎ねられる不運に見舞われた。
 新八郎始め、中小姓の斎藤清左衛門らは義周と共に表へ出て果敢に戦うが、次第に情勢は、武装をした上、人数にも勝っていた赤穂浪士に傾いてくのだった。
 義周は四方を敵に囲まれ、不破数右衛門に背から斬り付けられながらも薙刀を離さず、敵に向かっていくが、武林唯七に額を割られ、滴る血が目を塞いでいく中、ついに気を失いその場に倒れ込んでしまった。背の傷は六尺。額には二尺の痕が残るほどの壮絶なものだった。
 また、長屋から飛び出た新八郎は槍を構えた敵が写ると、取って返し脇差を取り、三人を相手に死闘を繰り広げるが、近松勘六を斬って池に落とし、ほかの一人を縁側に切り伏せたところを後ろから槍で突かれ倒れ込んだこところ、鬢先より口脇まで斬られ気を失った。
 一方、義央の寝所へは用人の鳥井利右衛門正次と取次の須藤与一右衛門が駆け付け、義央を逃がした後、台所にて浪士を食い止めようと清水一学らと戦うが討ち死にする。
 わずか二名の共に守られ、台所横の炭小屋へ身を潜めていた義央は、脇差で抵抗しようとするも、武林隆重の刃にかかって果てた。享年六十三歳。
 こうして、旧赤穂藩の浪士四十七名は、亡き主君・浅野内匠頭長矩の仇討ちを成し遂げると、寅の刻七つ半(午前五時)に主君の眠る高輪の泉岳寺へと吉良邸を後にしたのだった。



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月に叢雲花に風 二十四話 仇討ちへの備え

2011年05月30日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 年が明け元禄十五年(1702)三月も過ぎると、江戸庶民の間からは、「主君の仇討ちもできねえ、腰抜け侍」。「あこうじゃなくてあほうだ。あほう浪士」。などの声が上がるようになっていた。
 それというのも、浅野内匠頭長矩の命日であった三月十四日になっても何ら旧赤穂藩士の動きはなかったからである。
 吉良上野介義央は、「ほれ見たことか」の思いで安堵すると、一時の怒りに任せ里である上杉家に戻らせた妻の富子が哀れにもなっていた。
 「この分なら富子を呼び戻してもなんら不都合はあるまい」。
 その意向を富子が住まう、白金の上杉家の下屋敷に伝えるべく、用人として取り上げたばかりの清水一学を向かわせていた。
 そもそも一学は農民の出であったところを富子が見初めて士分に取り上げた上で吉良家に仕えさせた者。「気に入りの一学の言葉であれば富子も逆らうまい」。義央の思惑があった。
 「一学か、久しいのう」。
 富子は笑みで一学を迎える。一学は、夭逝した富子と義央の二男に良く似ていたのだ。
 一学は挨拶を済ませると早々に義央からの伝言を伝えたが、富子は苦々しく唇を噛み締めると、
 「一学。そなたはどう思うておるのじゃ」。
 「はっ」。
 「遠慮はいらぬ故、申してみよ」。
 すると一学は平伏した顔を上げ、
 「恐れながら、未だ安心はできぬと思われます」。
 その言葉に富子は自身が見抜いた一学の才を見た気がした。
 「して、何故である」。
 「はい。旧赤穂藩の国家老であった大石という男。執拗に御家再興を申し出ておられる由にございます。それ故、その願いが叶わななんだ時が…」。
 「その時が、なんじゃ。はっきり申せ」。
 「その時がお危のうかと存じまする」。
 「さすがじゃ。その通りであろう。して、そなたはいかがする」。
 富子の問いに、一学は不思議な表情を浮かべる。
 「そなたは吉良家に仕えてまだ日も浅い。こうしてそなたを迎えたわらはももはや吉良家にはおらぬ故、去ることも構いない」。
 「奥方様。情けないお言葉にございます。わたしは、士分に取り立てていただき、ご奉公できますことを過剰な幸せと思うております。そのご恩に報いますためにもこの身は惜しゅうはございませぬ。一身を持って殿をお守りいたしまする」。
 「左様か。そなたのような家臣を持ち、殿はお幸せであられるのう」。
 富子はひたすら、浅野家再興を願って止まないのだった。
 だが、長矩の実弟である浅野長広(大学)をもって浅野家再興の大石内蔵助良雄の希望は潰えることとなる。
 兄・長矩の刃傷事件に連座し、三千石の所領を召し上げられた上、閉門謹慎となっていた長広は、この年の七月十八日。広島の浅野本家にお預けとされ、浅野家再興は絶望的となったのだった。
 これにて大石内蔵助は、「主君の仇討ち」を決定するに至った。
 浅野家再興成らずの知らせは、吉良家にももたらされた。当主となった吉良左兵衛義周は、山吉新八郎盛侍、新貝弥七郎安村、村山甚五右衛門ら近習。そして義央の用人である清水一学に問い掛ける。
 「これにて赤穂の者たちは、父上のお命を奪いに参るであろうか」。
 「さて、浅野内匠頭様ご最後からすでに一年以上もの時が経ちましてございます。聞くところによりますれば、赤穂の者も離散した由にございます」。
 甚五右衛門の答えに、一学が、
 「殿。これからにございましょう」。
 「これからとな」。
 「はい。旧赤穂藩の国家老であった大石は、お家再興願っておりましたが、それが潰えた今、次なる手筈を考えているやも知れませぬ」。
 一学は、刃傷事件直後から、手の者を市中に放ち、堀部弥兵衛金丸ら旧赤穂藩の江戸詰め藩士だった者を探らせていた。
 「その大石というのはいかなる男じゃ」。
 「はい。噂には大層慎重な様子で、古き付き合いの者でもその本心を知ることは適わぬと申します。して、何よりも忠義の心これあり」。
 義周は腕組みをしたまま、しばらく考え込むと、
 「万が一に備え、屋敷に抜け穴を造らせよ」。
 と、一学に命じると、
 「父上には、しばしの間、米沢に退かれるのがよかろう」。
 と、義央の元に向かった。
 当初、「気に止むほどのことではない」と取り合わなかった義央だったが、九月に入り、大石内蔵助良雄の嫡子・大石主税良金が江戸に入ったという報がもたらされると、すんなりと米沢に退くこと決めた。
 だが、この決定に異議を唱えたのは上杉家江戸家老の色部安長である。吉良家類を受けることだけは避けなければならない。そう考えたのだ。
 「吉良家と旧赤穂の者とのことへの介入はお止めくだされ」。
 「安長、そなた何を申しておる。父上の御身安泰のためである。子が親をお守りすることが何故ならぬのじゃ」。
 「されど、殿お一人の問題ではございませぬ。米沢上杉十五万石がかかっておりまするぞ」。
 「案ずることはない。父に我が領土を見ていただく。ただそれだけのことじゃ」。
 米沢上杉四代藩主・綱憲は実父である義央の身柄を上杉家で保護することを約束したのだった。 


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月に叢雲花に風 二十三話 悲劇への序章

2011年05月29日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 吉良家の本所への移転に合わせるかのように、吉良家にとって不安となる出来事が起きた。
 元禄十四年(1701)八月二十一日、大目付の庄田安利、高家肝煎の大友義孝、書院番士の東条冬重らが「勤務の覚え悪し」として罷免され、小普請編入されたのだ。
 二日前に本所の屋敷に移っていた吉良上野介義央もこの人事には耳を疑った。
 庄田安利は、「浅野内匠頭長矩は罪人である」と主し、庭先で切腹させた張本人。大友義孝は同家格の家柄でもあり義央とは近い存在。そして、東条冬重は義央の実弟である。
 このことは養子である吉良左兵衛義周にももたらされた。
 義周は、目を固く閉じ、腕組みをしたまま、米沢から従った近習の山吉新八郎盛侍、新貝弥七郎安村、村山甚五右衛門。そして吉良上野介義央の妻の富子が残した中臈の藤波らは心中穏やかに非ず、義周を見守る。
 「どうしたものよ。この度の幕府の裁定は」。
 ようやく義周が口を開いた。
 「されど、お父上様はすでにお役御免を申し出られております。当家に類が及ぶことはありますまい」。
 甚五右衛門はそう答えるが、だれもが、幕府が赤穂に寝返ったと感じていた。
 「まあまあ、若様。このようにお考えになられることもできましょう」。
 「藤波。申してみよ」。
 「庄田様、大友様、東条様はいずれも、浅野様を勅使饗応役に御推挙されたと聞き及んでおります。常駐にて刃傷に及ぶような者を推挙した責を追わされた。それだけのことにございましょう」。
 そう言われてみれば、「そうやも知れぬ」と思えなくもないが、
 「では本所への屋敷替えはいかなる所存か」。
 「この度のこととは関係ありますまい。殿が高家肝煎のお役御免をお申し出になられたことにより、煩わしい政務から離れ、ゆるりとお過ごしになられますようにとの配慮かと」。
 「そのような…」。
 と、弥七郎が詰め寄ろうとする膝を手で抑え、「それ以上は申すな」とばかりに新八郎は頭を大きく横に振る。誰もが解っていることである。だがそれを口にすrのは憚られている事実だ。
 「若様が当家をお継ぎになられますれば、またお屋敷換えもございましょう」。
 それは藤波の希望でもあった。
 そしてその言葉が事実となるべく、同年十月二十一日、義周は前髪を剃り元服する。続く十二月十二日には吉良上野介義央の隠居が正式に認められ、義周は表高家・吉良家の当主となったのだった。
 時に義周、十七歳を迎える直前のことであった。


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月に叢雲花に風 二十二話 屋敷換え

2011年05月28日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 元禄十四年(1701)三月二十六日、吉良上野介義央は高家肝煎職のお役御免願いを提出した。表向きは飽くまでも高齢を理由にしてのことだが、十四日に江戸城松の廊下での浅野内匠頭長矩の刃傷。一方的な長矩の切腹そして赤穂藩御取り潰しの裁定に世論は、赤穂藩への道場へと動いていたのだった。
 義央は斬り付けられた上、世紀の悪役となっていったのである。
 「富子が申すように確かにお上の裁定は片手落ちやも知れぬ。なれば余も隠居でもするしかあるまい」。
 義央は自身が隠居をすれば旧赤穂藩士たちの憤りも、世論も鎮まるだろうと安易に考えていた。
 それでも妻の富子は、
 「片や御切腹。それではお役御免などでことは済みますまい」。
 そう洩らすのだが、義央が腹を斬らないとあればそれしか残された道もないのだ。
 「殿、お願いがございます」。
 富子は義央に申し出た。
 「義周殿の養子縁組を解消し、上杉にお戻しくださいませ」。
 「何を申すのじゃ。それではこの吉良の家はどうなるのじゃ」。
 「高家肝煎りを返上なさいませ。世間で言われているような卑怯者の家を義周殿に継がせる訳にいきますまい」。
 「この上野介のどこが卑怯だと申すのじゃ」。
 義央の怒りはそうとうなもので、顔を真っ赤にさせ思わず立ち上がったその拳は小刻みに震えているほどであった。
 養子入りしてた米沢上杉四代藩主・綱憲の二男であり、義央夫妻の実の孫に当たる吉良左兵衛義周は、初めて見る養父の怒りに驚きを隠せなかったが、それでも富子が言い過ぎであると、
 「父上、落ち着いてください。わたしは、上杉に戻るつもりはございませぬ。物心つく前より吉良の家を継ぐ者としてお育ていただきました、父上、母上の恩に報いるべく当家を守っていきまする」。
 「ん。義周、よくぞ申した」。
 義央は安堵の表情を浮かべ、どうだと言わんばかりに富子に目を送った。
 だが八月十九日、吉良家は本所への幕命を受けていた。このことに関しても富子は、
 「お上とて、本所への屋敷換えなど、もはやあなた様を庇うことはありますまい」。
 と頑である。
 元は松平信望の屋敷である本所は、江戸城のお膝元である呉服橋内とは違い郊外の辺鄙なところである。
 この転居による改築、建て回しの資金はまたも上杉家の負担となった。
 「富子、そなたは上杉に戻られよ」。
 こうして夫婦の間にできた溝は、事実上の離縁といった形にまで進んでしまったのである。
 富子は静かに頭を垂れると、そのまま座を辞した。
 「母上、お待ちくださいませ」。
 義周は富子を追った。
 「母上、お気を回し過ぎにございます。浅野様への御裁定はお上が決められたものにございます。当家に非はございませぬ」。
  義周は富子を宥めるが、富子ははらはらと泣き、
 「さりとて、それを受け入れられぬのが人の業じゃ。赤穂の者たちは殿を仇と思うておる」。
 「母上の御懸念が事実でありますれば、尚更わたしは父上をお守りせねばなりませぬ」。
 立派な若者へと成長した義周に富子は感服するが、万が一を考えなくもない。
 先に義周付きとさせた中臈の藤波、侍女の浅尾局のほかに、自身に仕える中臈の高野、侍女の丹後局ほか小性など十数名に、旧赤穂藩士の動きを逐一報告すること、そしてその時が来れば義周を上杉屋敷に導くことを含め、義周の元に残し、白金の上杉下屋敷へと下がって行った。



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月に叢雲花に風 二十一話 富子の決心

2011年05月27日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 屋敷の戻った吉良上野介義央に妻の富子は切腹を勧めた。ただ斬りつけられ、納得のいかない義央は反論するが、富子は、
 「このような事態を引き起こした責はあなた様にも有りましょうぞ。何よりも浅野殿の御家中が黙っておりますまい」。
 富子は、赤穂の家臣たちによる仇討ちを懸念していたのである。
 「万が一、浅野殿の御家中があなた様を討ちに参れば、多くの不幸を招きます。なれば、あなた様お一人の命に代えてこの吉良家をお救いあそばせ」。
 この申し出には義央は驚きを隠せなかった。長年連れ添った妻である。ましてや義央は、側室の一人も持たないほど実直に妻だけを愛してきたのだ。その妻が、死ねと言っている。
 「吉良家だけのことでは済まされませぬ。よもや上杉が巻き込まれるようなことになれば」。
 「そちは、夫である我が身より、家名が大事と申すか」。
 「さもあらん」。
 義央は拳をふるふると振るわせていた。その全てを側で聞いていた養子であり孫の吉良左兵衛義周は、富子の言葉にただただ驚くのみだったが、
 「殿。我らは長く生きて参りました。もはや思い残すこともありませぬ。ですが、義周殿はまだお若い。殿と浅野様とのことで義周殿に難が及ぶことだけは避けとうごいざまする。殿の御身一つで我が家中の者、義周殿が難を逃れられるのであれば本望にございましょう。我が身も殿と共に参ります故御決断を」。
 義周は富子の申し出に背筋が震える思いだった。
 「母上、何を申される。お上の裁は下されております。公方様も父上には非がないどころか、殿中において刃を抜かなんだ故、お褒めの言葉さえいただいておりすます」。
 「義周殿、そなたは若い」。
 「母上」。
 「いかに正義であろうと、人の心は虚ろなものじゃ。ましてや、この度のお上の裁は片手落ち。これでは浅野様の御家中は納得せまい」。
 「されど、それは幕府の裁にございまする。当家はそれに従ったまでのこと」。
 義周は必死で言うが、富子は頭を横に振り、
 「人は攻められるところを攻めるもの。公方様には太刀打ちできぬであれば、憎しは吉良になるものじゃ」。
 「では、赤穂の者たちが父上を狙ってくると、そうおっしゃるのですか」。 
 「いかにも」。
 富子はきっぱりと言い放った。
 「なれば、我が身をとして父上の御身をお守りいたしまする」。
 義周が答える。
 「それがいかんのじゃ。赤穂の者も当家の者の主君のために命をかける。そうなる前に殿と我が身がなくなれば、遺恨も失せようぞ」。
 障子を隔てて控えたいた義周の近習である山吉新八郎盛侍、新貝弥七郎安村、村山甚五右衛門は、富子の心意気に感服し涙を堪え切れない思いだった。
 上杉はいついかなる場合でも家臣を重んじ、重臣や主君自らが録を削っても付き従う家臣を養い続けていた。飢饉の時でさえ、領地の農民に過分な税を与えたこともない。飽くまでも義を重んじる上杉ならではの考えだった。
 だが、高家肝煎りの御曹司として育った義央にはそのような武門の志は通じる術もない。
 一方的な被害者でもあり、幕府もそれを認めているにも関わらず、なぜに自ら命を絶つのか。理解できないことであった。
 こうして、これまではおしどり夫婦だった義央と富子の間に溝ができていくのだった。


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月に叢雲花に風 二十話 浅野内匠頭長矩刃傷

2011年05月26日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 元禄十四年(1701)三月十四日。
 この日は将軍が聖旨・院旨に対して奉答するという勅答の儀が行われる、幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日であった。
 巳の下刻(午前11時)江戸城本丸大廊下、通称、松の廊下において吉良上野介義央は、旗本の梶川頼照と儀式の手筈を確認していた。
 そこへ、背後から近づいて来た、浅野内匠頭長矩が、「この間の遺恨覚えたるか」と叫ぶや否や、脇差で義央に斬り掛かったのだ。
 額に一太刀。そして逃れようと背を向けたところを右上から斬りつけた。
 あまりに突然の刃傷沙汰に、一瞬怯んだ梶川ではあったが、
 「殿中でございまする。浅野様、殿中にございまする」。
 そう叫ぶと、直ぐさま長矩を後ろから羽交い締めにした。
 「武士の情け。どうか」。
 長矩の形相凄まじく、振り上げた脇差しを収めることなく義央に鋭い視線を送り続ける。
 義央は、額を抑えながらも、
 「浅野殿、遺恨とは…」。
 こう言うのが痛みに耐えるのが精一杯であった。
 その騒ぎを聞きつけた、院使饗応役の伊達宗春、高家衆、そして茶坊主も次々と浅野の取り押さえに加わり、長矩は致命傷を与えることは適わなかった。
 一方の義央は、高家の品川伊氏と畠山義寧に支えられ、蘇鉄の間に落ち着いたのだった。
 慌てふためいた義央だったが、自身の身の安全が解ると、
 「浅野殿は乱心にござるか。否、逆恨みであるか。いおすれにせよ、このようなことをされる覚えはない」。
 長矩憎しの心情を露にしていた。

 捕らえられた長矩は、「お上へ対しての憤りはいささかもあり申さぬ。これ全て私事の遺恨にあり、前後忘却されど、上野介を討ち果たすべく刃傷に及びもうした。この上はいかなるお咎めも受けましょう。さりとて、上野介を打ち損じたことだけが無念にございまする」。
 と、義央に遺恨があって刃傷に及んだことは認めたが、その動機や経緯についてはついぞ口を噤んでしまった。
 そして、「上野介はいかがなりましたでしょうか」と仕切りに気にするのだった。長矩の心中を思いやった多門は、「上野介様は何ぶんお年でございます故、養生も心許ないかと」。すると、長矩は微かに口の端を上げるのだった。
 わずか一刻半後の、午の下刻(午後1時)、長矩は、陸奥一関藩主・田村建顕の芝愛宕下屋敷にお預けが決まった。
 よもやこのように早急なことになろうとは思いも寄らなかった田村は急ぎ屋敷に戻り、桧川源五、牟岐平右衛門、原田源四郎、菅治左衛門ら藩士七十五名を長矩の身柄受け取りのために江戸城へ派遣したのだった。
 軽輩の罪人として扱おうとする幕府に対し、田村は飽くまでも長矩を大名としての作法を重んじたのである。
 未の下刻(午後3時)、網駕籠に乗せられた長矩は、不浄門とされた平川口門より江戸城を出、田村邸へと送られて行った。
 この護送中のわずかな間に長矩の処分は決まった。
 徳川五代将軍・綱吉の尊皇心の厚さは夙に知れ渡る程。その朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹。そして赤穂浅野家五万石の取り潰しを命じたのだった。

 江戸城内蘇鉄の間で、外科医・栗崎道有の治療を受けた後、義央は目付の大久保忠鎮らの取り調べを受けた。
 「浅野殿が何故刃傷に及んだか、皆目解りませぬ。ただただ浅野殿の乱心とお見受け致しまする。我が身はこのような老体故、遺恨など覚えはございませぬ」。
 これは、義央が出来る精一杯の長矩への助力だった。乱心ならば、長矩は蟄居もしくは隠居でことが済む。義央はそう考えていたのだ。
 義央が刃傷により負傷した知らせは吉良邸にももたらされた。
 養子であり、孫に当たる吉良左兵衛義周は知らせを耳にするや否や、富子の元を訪れ、「今直ぐにも江戸城に参上したい」と告げる義周に、妻の富子は、ただただ目をつむり無言である。
 その前に正座する義周。半時も過ぎた頃、ようやく富子が、
 「義周殿。子細を待たれよ」。
 そうとだけ言い、また目をつむった。
 第二報は、義央の無事を知らせるものだった。ここでようやく富子は安堵の表情を浮かべるのだった。
 義周も大きく肩で息をした後、
 「して、父上と浅野様との間には遺恨がございましたのでしょうか」。
 そう富子に尋ねた。
 「どのようなことがあったのかは計り知れませぬが、一城の大名が我が身を削り刃傷に及ぶとは、それなりのお覚悟あってのことと存じまする。我が殿にも落ち度があったやも知れぬ」。
 義周はこの時改めて、夫を傷つけた相手を罵るでもなく、冷静な判断を下す富子の大きさを感じ入っていた。

 そして、長矩はお預け先の田村邸で即日切腹となったのだった。それも座敷ではなく庭先によるもの。大名の切腹とはほど遠い措置であった。
 田村は長矩の同情すると同時に幕府のあまりにも理不尽な裁定に、切腹の座敷を設えていたのだが、目付に厳しく諭され、致し方なく庭先となった。
 それでも、出来うる限りの設えを施したのだった。



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月に叢雲花に風 十九話 饗応役

2011年05月25日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 元禄十四年(1701)二月四日。その日、吉良上野介義央は浮かない顔で江戸城から呉服橋の自宅へと戻った。
 「殿、いかがなされました。お顔の色が悪うございまする」。
 妻の富子がそう尋ねると、義央は、
 「この度の朝廷からの御使者の饗応役に赤穂の浅野長矩が任じられた」。
 播磨赤穂藩主・浅野長矩と伊予吉田藩主伊達村豊両名が任じられたのである。
 富子は先の江戸を焼き尽くした勅額火事の折りの長矩の冷たい面差しを思い浮かべていた。
 「浅野様でございますか。されど殿、火災における一件はお忘れなさいませ」」。
 「忘れられぬものか。そなたとてあの浅野のあの言葉を聞いたであろう」。
 義央は昔年の恨みとまでも鼻息が荒い。
 「浅野殿は、殿から見ればお子のようなお年にございます。あの年頃には無法なこともありまする故、殿がお引きにならずいかがなさいます」。
 「されど浅野が我が言いつけを守るのであろうか」。
 「それは公方様の思し召しあれば浅野殿でも従いますでしょう」。
 そして義央は指南役を受け持ってはいたが、朝廷への年賀の使者として京都に向かい、帰途に体調を崩して二月二十九日まで江戸に戻ることが適わなかった。
 それまでの二十五日の間、長矩は自身で準備を進めなければならず、「今更、吉良は不要」といった感も否めなかった。
 この間、二度目の饗応役であった長矩は、十四年前のの経験を元に饗応準備を勧めていたのだった。
 万事事なきを得ず進んでいたかに思えたのだが、義央が江戸に戻ると、些細なことない不具合が生じる。
 かつてとは変更になっていることもあり手違いを生じていたことに長矩は不平を抱いたのだった。
 「吉良殿は細かすぎる。余に恨みでも抱いておるのであろうか」。
 長矩からすれば、己が心魂込めて行ったことにけちをつけられているかのように思え、義央から見れば、間違いを正しただけといったことだった。だが、こうして義央と長矩の間は日毎に拗れていった。
 浅野家でも主君・長矩と指南役の義央との関係には頭を悩ませていた。
 「殿、ここは穏便に吉良様のご指示に従われるのが最良かと」。
 江戸詰めの重臣たちは口を揃えるが、一度成し遂げたことへの自信は大きかった。
 「五千石にも満たない旗本風情が」。
 この長矩の驕りと、高家肝煎の義央との己が面目を重んじた結果が、多くの家臣たちの不運を呼び起こすのであった。 



 次回はいよいよ松の廊下の刃傷事件。
 そして物語は、討ち入り、諏訪流しへと駆け抜けます。

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月に叢雲花に風 十八話 兄弟の絆

2011年05月24日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 元禄十一年(1698)九月六日の火災により白金の上杉家下屋敷に身を寄せていた吉良左兵衛義周は、実父の米沢上杉四代藩主・綱憲と語り合える時間が持てることを期待していたが、綱憲の住まいは江戸城桜田門前の上杉上屋敷。同じ屋根の下で寝起きを共にするなど及ばぬ夢であった。
 「やはり余は何も知らぬ幼子じゃ」。
 唐突に義周は言う。
 「すでに十三歳。早い者であれば、元服を済ませましょう」。
 近習の山吉新八郎盛侍はこう答える。
 「そうであった。そなたば余と共に米沢を後にしたのは確か十四の時であった。やはり余はまだ幼い」。
 面差しに未だ幼さは残るが、涼やかな目元の端正な顔立ちの若者へと成長した義周は深い溜め息をついた。
 「何故でございまするか」。
 「余は、上杉の屋敷に参れば父上と共に過ごせると思うておったにじゃ」。
 すると、新八郎は安堵し、
 「そのようなことでございましたか」。
 「そのような。とは何じゃ」。
 「これは失礼つかまつりました。お身内とお過ごしになられたい思いは恥じるべきことではないと存じます」。
 新八郎はそう言いながらも、俯いて口元に笑みを称えるのだった。すると、
 「それ、新八郎とて笑おておる。やはり余を未だ幼子だと思うておる証拠じゃ」。
 そんなやり取りをしていると、近習の一人である新貝弥七郎安村が、
 「若様、吉憲様のお成りであらせられます」。
 と、義周の同腹の兄であり米沢上杉家嫡子の来訪を告げる。
 「兄上が…」。
 「良い、良い。誰も構うな。兄弟が会うだけじゃ。堅苦しいことは要らぬ」。
 外の廊下から吉憲の声が聞こえた次の瞬間、吉憲は共も連れずに義周の前に姿を現した。
 「吉憲様。お久しゅうございまする」。
 義周がうやうやしく居ずまいを正し頭を下げると、
 「何を改まっておるのじゃ。実の兄弟が会うのに堅苦しいことは無用。本日は上杉の跡目でも吉良家の跡目でもなく、兄弟として参ったのじゃ」。
 吉憲は笑みを浮かべながらそう言うと、上座を空けた義周を制し、気楽に座敷に胡座をかいた。
 「この度のことは難儀であったが、こうして義周と形式を経なんでも気楽に会えることを嬉しく思うておる」。
 吉憲の住まいは桜田門の上屋敷であはるが、同じ上杉藩邸。吉良家に足を向けることは難儀であっても白金下屋敷へは思いつきで来られるほど安易なことであった。
 恐縮する義周に向かい、
 「公の場以外では兄と呼んではくれまいか」。
 吉憲はにこやかにそして諭すように義周に言うと続けて、
 「余は、一つになるやならぬかで江戸に送られた故、米沢のことも実の母上のことも何も知らぬのじゃ。そなたに教えて欲しい。米沢とはどのような所ぞ。母上はどのようなお方であった」。
 義周はこの時、公の場でしか知らなかった兄の吉憲がこのように気さくだったと初めて知った。と同時にこれまでは大名と旗本といった格差を感じていたが、兄弟の血を感じ入り、深く感銘していたのだった。
 「何を泣いておる」。
 兄の吉憲に言われ、慌てて涙を拭う義周。
 「兄上とお呼びできるなど思うてもおりませなんだ故」。
 すると吉憲は義周を抱き寄せ、
 「余は何も解らぬ乳飲み子のみぎり江戸に参り、父上の正室であられる栄姫様を母上と思うて育った故、まだ義周よりは幸せであったやも知れぬな。母御が一番恋しい時に引き離されたそなたが不憫でならぬ」。
 「兄上様…」。
 義周は八年前、米沢出立の折り、抱き締められた実母・お要の抱擁と同じ匂いを感じていた。
 側にいた新八郎たちも貰い泣きしたくらいに熱い兄弟の絆であった。
 双方の側近を遠ざけ二人だけで語り合った兄弟。
 「義周、そなたは我慢強く勤勉と聞き及ぶが、そなたの養父母は血を分けた祖父母であらせられるぞ。もちっと力を抜いて甘えられよ」。
 吉憲はこう言い残して去って行った。


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月に叢雲花に風 十七話 勅額火事

2011年05月23日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 元禄十一年(1698)九月六日巳の刻四つ半(午前十一時)頃、山下町の仕立物屋・九右衛門宅より出火。
 火の手は折からの南風に煽られ、日蔭町、数寄屋橋門内にまで延び、大名屋敷、旗本屋敷なども一手に飲み込み、神田橋の外に延焼した。
 鍛冶橋にあった吉良上野介義央の屋敷も例外ではなく、中庭からも噴煙が見えるほど近くまで火の手は迫っていた。
 「若様、火事にございます。お急ぎくだいませ」。
 吉良家の養子となった左兵衛義周の近習の山吉新八郎盛侍、新貝弥七郎安村、村山甚五右衛門は、まずは義周の身を守るのが先決。直ぐさま義周の元へ走った。
 「父上と母上はいかがした」。
 「間もなくお逃れになられます。若様も早う」。
 十三歳になっていた義周は、六歳の誕生祝いに実父である米沢上杉四代藩主・綱憲から拝領した刀を手にした。
 「何処に参るのじゃ」。
 「白金の上杉下屋敷へと御命令にございます」。
 不謹慎ではあるが、実の父に会える。そんな思いが過った義周だ。
 吉良の屋敷表門を出ると、火炎を逃れながらも養父であり実の祖父の上野介義央が、大名火消しの浅野内匠頭長矩に、屋敷炎上を止めるよう懇願したている。
 「父上、この上は一刻も早う逃れるのが得策にございまする」。
 義周は義央を促すが、長矩は侮蔑の表情を浮かべ「ええい。今は江戸の危機でござる。私利私欲のために、ご自分のことだけを申されるのは控えよ」。と言い放ったのだった。
 義央は若輩の長矩にこう言われ面目を潰され、一方ならぬ形相に変わる。
 義周とて、長矩の言動の腹立たしさを覚えない訳ではないが、江戸において火事は避けられない天災にも近いものと認識していた。
 馬上の長矩を睨みながらも義周は長矩を駕篭に乗せ、上杉屋敷へと向かった。
 長矩のこの言葉は、義周へ向けられたものではないが、それでも新八郎らは後に、「大名というものはああも傍若な物言いをするものなのか」と後に語り合ったほどであった。新八郎らは大名といえば主君である綱憲しか知る由もなかったが、綱憲が目上の者はもちろん、家臣にさえ、あのような物言いをしているのを耳にしたことはないのだった。
 武家屋敷を焼き付くした火の手は駿河台から下谷、神田明神下、湯島天神下を焼き尽くすと、上野池之端から浅草へと拡大。上野寛永寺境内までも延焼し、三ノ輪から千住にまで達するほどだった。
 また、日本橋方面の炎は、両国橋を焼き落として本所にまで及んだ。
 そして、半日以上燃え盛った後、亥の刻四つになり(午後10時)突如降り出した大雨によってようやく鎮火したのだった。
 江戸市中はほとんど焼き尽くされたと言っても過言ではないほどの大火であった。死者の数は、三千人以上にも上ったほどである。
 この年の八月には、上野寛永寺の根本中堂、文殊楼、仁王門が落成し、わずか三日前には落慶法要が執り行われた矢先。
 そして火災の起きたのは、東山天皇の勅額により根本中堂に掲げる瑠璃殿の宸筆が彫り込まれた勅額が江戸に到着したその日のことだった。
 この火災により鍛冶橋の吉良邸は類焼し、呉服橋に再建するのだが、この費用は全て上杉家が負担した。
 それまでも再三に渡る吉良家からの金の無心に、頭を抱えていた上杉家の老臣の中からは、吉良家を憎悪する声も上り始めたのだった。 


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月に叢雲花に風 十六話 江戸城下

2011年05月22日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 吉良家のある鍛冶橋は、江戸城の外堀りの内、二重橋前から永代通りにある。ほとんど城内といってもいい。
 外堀通りから出て初めて城下となる。
 「若様、どこか行きたい所はおありですか」。
 「そうじゃな。上野や浅草が賑わっておると聞き及んでおる」。
 「上野でございまするか。そう遠くはありません故、参りましょう」。
 先導するのは、元禄五年(1692)に農民ながらその技量士吉良上野介義央の妻・富子に見込まれ士分取り立ての上、召し抱えられた清水一学である。
 「一学は、我らよりも江戸に来て日が浅いにも関わらず地理に詳しいのはなぜだ」。
 吉良家の養子に入った左兵衛義周の近習いの山吉新八郎盛侍、新貝弥七郎安村、村山甚五右衛門の三人は、すでの七年近く江戸に住まわっているが、江戸城の外堀りの外はほとんど知らなかった。
 一学は苦笑いしながら、
 「その方らはお勤め第一で、片時も若様のお側を離れない故であろう」。
 「そう言われると、そうであった」。
 三人は力なく笑い合う。非番の時に日本橋などの大店を周り、水茶屋で茶の一杯も飲むのが関の山であった。
 「その様子では吉原にも行ってはおらぬな」。
 一学が言うと、
 「吉原とは何じゃ」。
 義周が耳聡く聞きつける。
 「若様がお気に留めるようなことではありませぬ」。
 新八郎が耳まで赤くして慌てて答えるのを、一学はさも愉快そうに笑う。
 上野の山は寒桜、染井吉野、山桜、雛菊桜などが咲き誇る花見の名所である。庶民に春先の楽しみの場でもあるが、徳川家菩提樹の寛永寺に近いことから、宴を催すことは幕府から禁じられており、桜の下を歩きながら風情を味わうことで、酒の上での厄介な事柄もない。
 桜に見とれ足早になる義周を新八郎がが追って行くと、弥七郎は、
 「一学は吉原に行ったことがあるのか」。
 そう耳に近づいてそうささやいた。
 「先ほどから黙っておるからどうしたかと思っておったが、そのことか」。
 「で、どうなのじゃ」。
 「あり申さぬ。吉原になど通えるほどの身分ではないわ」。
 一笑に伏した。
 「それよりも弥七郎は好いた女子がおろう」。
 一学の唐突な申し出に弥七郎は狼狽を隠せない。
 「何を…」。
 「浅尾局殿だ。お綺麗な方故な」。
 侍女の浅尾局は御年二十八になる年増であるが、出会ったときは二十二歳。十四歳の弥七郎は母にも似た思慕を感じていたのだが、それが次第に淡い恋心へと変わっていた。
 「隠すな。隠すな。お見通しだ」。
 一学にこう言われては仕方ない。
 「いつから気付いていた」。
 「そうよのう。お屋敷に上がった日からと言ったら言い過ぎか」。
 二人が楽しそうに話をしているのを聞きつけた甚五右衛門が、
 「浅尾局殿がいかがした」。
 と口を挟むので、弥七郎は、
 「いや、あれほどお綺麗でお優しいお方がなぜ嫁に参らぬか話しておった」。
 思わず口から出た言葉だったが、実はずっと以前から気になっていたことだった。
 「弥七郎、知らぬのか」。
 「甚五右衛門、何のことだ」。
 「浅尾局殿は、後家だ。お屋敷に奉公するにいたったのも夫殿に先立たれたからと聞いておる」。
 弥七郎は見る見る顔を曇らせる。
 「それは真か」。
 「ああ。だから一生奉公のお覚悟だそうだ」。
 甚五右衛門の襟元を掴み詰め寄る様は、もはや気持ちを隠しおうすこともできない。
 「どうしたのじゃ、弥七郎は。気分が優れぬのか」。
 義周が尋ねると、甚五右衛門、一学は、
 「大事ございませぬ」。
 薄笑いを浮かべながら弥七郎の方を見た。


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月に叢雲花に風 十五話 武士として

2011年05月21日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 高家肝煎り吉良家の養子となっていた左兵衛義周は、幼少の頃より文武に長けた利発さで将来を嘱望されていたが、気概の弱さが懸念されていた。
 だが、もはや戻るべき所はないと悟ってからは、気丈なまでの心構えで吉良家の跡取りとしての任を全うしようとしているように見えた。
 反面、人なつこくて優しかった義周だったが、口数が少なくなってもいった。
 元禄九年(1696)十一月二十一日。時の五代将軍・徳川綱吉に拝謁を果たした折りには、十一歳とは思えぬくらいの威風堂々としたものだった。
 年の瀬も迫り、江戸の町にも雪が舞うようになると、吉良家家中でもあちこちに火鉢が置かれ、綿入れを着込んで寒さを凌ぐが、義周は火鉢こそ部屋に置くものの綿入れは好まないようでいくら近習の山吉新八郎盛侍、新貝弥七郎安村、村山甚五右衛門が勧めても袖を通そうとはしなかった。
 「しかし、若様。お風邪を召されては」。
 「米沢で育った我らがこれくらいの寒さで弱音を吐くとは」。
 「しかし、米沢とはまた違った寒さで江戸の冬も寒うございます」。 
 口数が少なくはなってはいたが、やはり気心知れた新八郎、弥七郎、甚五右衛門とは気安さがあった。
 そんなある日、いつになく暖かな陽射しが降り注ぐ中、中庭での稽古を終え、縁側で日の光を浴びていた。
 「ちと尋ねるが、武門とは何であろうか」。
 義周の唐突な問い掛けに、三人の近習は返答のしようがない。
 「若様、何かございましたか」。
 「いや、ただ寝ても覚めてもお家、お家。世継ぎとばかり囃し立てているようで、余は、人としての心もままならぬものかと」。
 そして、今しがたまで指南を受けていた清水一学に目を送る。一学は未だ竹刀で素振りをしていた。
 「一学。そちはどう思う」。
 「はっ」。
 「武家というものは、人としての心もままならないということじゃ」。
 「若様。恐れながらわたしは三河の百姓でございます。それでも兄が吉良様の岡山陣屋の任に着かせていただきました故、幼少の頃から剣術にも親しむことができ、百姓としては恵まれていたと思うておりまする。そして、今、こうしてこちらで過分なお取り上げにいただき、この上もなき幸せ。もはや望むことなどございませぬ」。
 「百姓とな」。
 これは義周始め、新八郎、弥七郎、甚五右衛門にも初耳だった。
 「はい。奥方様が士分へとお取り上げ、お召し抱えくださりました」。
 「そうであったか。じゃが、そなたの剣術は見事である」。
 「恐れながら、人には産まれもっても宿命がございます。わたしはその宿命を超えてしまいました。この後はどのようなことがあろうが、一身に変えて当家にお仕えする所存にございます。もはや自身の心など持ち合わせてはおりませぬ」。
 そうきっぱりと言ったその力強さに皆圧倒された。その空気を拭おうと、新八郎は、
 「若様、城下をご覧になられてはいかがでございましょう。気鬱も晴れるかと存じます」。
 「だが、新八郎。それは殿や奥方様がお許しにはなるまい」。
 弥七郎が水を差すが、
 「いや、若様ももう十一。我ら三人と一学が共をすれば問題あるまい」。
 「わたしもでございますか」。
 新八郎の意外な答えに一学は耳を疑った。なぜなら正に今、自分は百姓だと素性を明かしたところである。身分違いと蔑まれることさえも否めない。
 「当たり前だ。我ら三人ではもしやの時に心もとないが、そなたがいれば心強い」。
 「しかし、わたしは殿の中小性でございます」。
 「それならば、問題はない。余から父上にお願いいたそう。どうじゃ」。
 義周にこう言われては一学は断る術もない。
 当初は渋った義央と富子だったが、家老の小林平八郎央通の、
 「どうでございましょう。新八郎の功に免じてお許しくださいませ」。
 取りなしで、事なきを得たのだった。
 新八郎の功績とは、前年の元禄八年(1695)に起きた喜連川家の騒動に当たり、その騒動を鎮めるのに吉良家から派遣された新八郎も功を立て、家中の信任を得ていたのである。
 そして春の訪れを待ち晴れて、義周は新八郎、弥七郎、甚五右衛門、一学を共に、初めてお忍びで城下へと足を伸ばすのだった。


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月に叢雲花に風 十四話 母の死

2011年05月20日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 時は元禄六年(1693)春。吉良家での生活は平穏なものだった。養子となった吉良左兵衛義周もすでに八歳になっていた。
 毎年二月二十二日の誕生日に合わせて、米沢から祝いの品は届くがそれ以外に文の一通もないことに幾ばくかの不信感が拭えないでいた。
 「母上は余を忘れてしまったのだろうか」。
 時折、思い出したようにそう呟かれると、米沢から追従した山吉新八郎盛侍、新貝弥七郎安村、村山甚五右衛門の近習たちは身につまされる思いで答えに思案した。そんな折り、郷里の米沢から新八郎に文が届く。
 「兄上からと…」。
 新八郎は、米沢藩上杉家の物頭・五十石取りの山吉七郎左衛門盛俊の二男として産まれている。
 父・盛俊は、天和四年(1684)に死去し変わって家督を継いでいたのは長兄・盛富。その盛富からの初めての文であった。
 新八郎は、吉良家の屋敷を囲むように四方に建てられた武家長屋の自室に戻り、開いた文は母の死を知らせるものだった。
 わずか三年ばかり前に、一生部屋住みで終わるかも知れぬ自分が、若様の小性としてお仕えできることを喜び、笑顔で送ってくれた母だった。新八郎は、信じられない思いでいたが読み進めるうちに、母が流行病を患いながらも、新八郎の身を案じていたこと。そして、決して自身の病いを新八郎には知らせるなと気遣ってくれていたことを知り、気が付くとその文を慢心の力で握り締めていた。
 新八郎の兄・盛富からとは別に藩の目付からの文により、弥七郎、甚五右衛門ら吉良家家中の者も新八郎の母の死を知ることになる。
 「新八郎、入るぞ」。
 弥七郎、甚五右衛門は直ぐさま新八郎の元へ走り、一度米沢に戻ることを進言する。
 「奥方様も、そう申された」。
 吉良上野介義央の妻・富子は、まだ十七歳で両の親を亡くした新八郎を不憫に思い、「もはや対面は適うまいが菩提を弔われよ」。と、伝えたのだ。
 だが、新八郎は首を横に振るのみ。
 「わたしは若様の近習なれば、一身の都合で米沢に戻るなどできますまい。ましてや若様とて母上様の菩提を弔っておられぬ」。
 この言葉を伝え聞いた富子は、早々に孫でもあり養子の吉良左兵衛義周、そして、新八郎を召し出した。
 まだ目を赤くしたままの新八郎の様子に、義周はその顔を覗き込み、
 「新八郎いかがしたのじゃ」。
 と気配りを示す。
 「いえ、なんでもございません。ちと、汗が目に入り痛うございまして」。
 その様子を見ていた富子は、
 「義周殿。今日は、義周殿に折り入ってのお話をしなくてはなりませぬ」。
 富子の厳し表情は見慣れているが、どうにもいつもとは違う空気を義周は小さいながらも感じ取っていた。
 第一に新八郎の様子がいつもと違っている。何より、弥七郎と甚五右衛門の姿がない。
 「義周殿。そなたのお母上はのう…」。
 富子がこう言いかけた時、新八郎が、
 「奥方様」。
 言葉を制したのだが、
 「いや、義周殿ももうお分かりになられるお年頃じゃ。いつかは知らねばならぬこと故」。
 と、義周の実母であるお要がすでにこの世の者ではないことを告げる。
 正に目耳に水のような富子の話を義周が一瞬に理解するのは難しいことだった。
 「義周殿、ささ、お婆の膝に参られよ」。
 そう言い、義周を膝に抱くと、
 「そなたは上杉の血を引く者。そして今はこの高家肝煎りの吉良家の跡取りにございます。これからは武士としての心構えも必要です。解るな」。
 「はい」。
 「そうか、解ってくださるか」。
 「母上にはもうお会いできないのですか」。
 まだまだ子どもである義周には、死んだという現実よりも、会えるか否かの方が大きなことだった。
 「左様。母上様にお目通りは適いませぬが、義周殿のお側には常に沿うてございますよ」。
 富子が神含めるように言うと、
 「母上は死んだのですか」。
 ようやく全てを理解し、義周はこれ以上はないくらいに大粒の涙を後から後から零すのだった。
 それは自分のことはさておき、新八郎ももらい泣きするくらいの悲しみであった。
 「良いか、義周殿。今は泣いても、今後は涙を見せてはいけませぬ。武門の者は悲しみとは内に秘めるものです。ここにおる新八郎とて、つい先達て母を亡くされたのじゃ」。
 義周は涙で濡れた顔を新八郎に向けた。
 「じゃがな、新八郎はお勤めがあると言うて、母の菩提を弔うことも辞したのじゃぞ。お勤めとは、義周殿。そなたの側に仕えることじゃ。解るな」。
 義周はもはや米沢に戻ることも母の温かい懐に抱かれることも適わないことをこの日初めて認識した。
 新八郎はその後、二度と母のことを口にすることはなかったが、小さな木造の阿弥陀如来像を彫り、母を弔い自らの心を鎮めたのだった。


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月に叢雲花に風 十三話 剣客・清水一学

2011年05月19日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 元禄五年(1692)春。高家肝煎の吉良家に入っていた上野介義央の孫であり、養子でもある吉良左兵衛義周は、七歳になっていた。
 江戸鍛冶橋の吉良邸に入りすでに二年。母への思慕は薄れることはないが、己の運命を少しずつではあるが受け入れることへの抵抗もなくなってきていた。
 ある雨の日のことである。いつものように庭での剣術の稽古もできず、静かに書を読んでいると、侍女の浅尾局が、上野介義央の妻・富子からのお召しを伝えた。
 富子の部屋には、見知らぬ若者が畏まって控えていた。
 義周はその若者にちらりと視線を送ると、富子の前に座り挨拶をする。
 「義周殿も大きゅうなられました」。
 富子は礼儀作法には厳しいが、義周の成長を誰よりも楽しみにしているのは、細やかな気配りから幼い義周にも理解できるよになっていた。
 義周は、この優しが芯の通った祖母であり、養母を次第に敬愛していったのだ。
 「義周殿、近う」。
 義周が前に出ると、富子は若者を紹介する。
 「ここに控える者は、この度殿の中小性として召し抱えた者じゃ。まだ年は若いが竹内流斎手を収めておる。義周殿の良きお相手となりましょうぞ」。
 そう言うと、若者を促した。
 「清水一学と申します。田舎者故、江戸には不慣れでございまするが、よろしくお願い申し上げます」。
 と義周に一例をする。見れば、義周の近習の山吉新八郎盛侍、新貝弥七郎安村、村山甚五右衛門と同じ年頃のようだ。
 「米沢から参ったのか」。
 「いえ、三河にございまする」。
 「三河…三河とはどこじゃ」。
 義周は後方の廊下に控える新八郎たちに向いて尋ねる。
 「恐れながら、西国にございまする」。
 「西国。米沢からは遠いのか」。
 すると一学は、
 「江戸を挟んで米沢とは反対に位置しております」。
 清水一学は、吉良家の所領である三河国幡豆郡宮迫村の農家の出である。
 だが、幼い頃より武芸に親しみ、兄の藤兵衛が吉良家の陣屋である岡山陣屋に出仕していた縁で、同陣屋にて竹内流斎手の二刀流を習っていた。
 その武勇のほどが富子の耳に届き、この年、江戸にて富子に対面を果たした。
 富子は、一目見るなり、一学に夭逝した二男・三郎を重ね合わせ、士分に取り立て召し抱えたのである。
 百姓の小倅が、七両三人扶持で高家肝煎りの旗本家の家臣として迎えられる。これ以上出世など考えられないものであった。
 一学はこのことを深く感謝し、一身を投げ出して吉良家に尽くすことになる。
 「手前は、米沢上杉藩士山吉新八郎盛侍にございます。義周様に従い吉良家に参りました」。
 「同じく、新貝弥七郎安村」。
 「村山甚五右衛門にございます」。
 義周の近習との顔合わせも済んだ。
 「なんと、清水様は二刀流とな。是非ともお手合わせ願いたい」。
 富子の前から下がった新八郎は、声をかけた。
 「清水様はお止めくだされ。手前の方が新参者。加えて若輩にございます。一学とお呼びください」。
 「では、我らも名でお呼びくだされ」。
 年端の近い若者同士、気心を通わせるのも早い。


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月に叢雲花に風 十二話 上杉邸での謁見

2011年05月18日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 「義周、久しいのう」。
 上座に入った米沢上杉四代藩主・綱憲が一声を発した。
 その左右には、綱憲の正室・栄姫と嫡子・吉憲が座する。吉良左兵衛義周より二歳年上の同腹の兄であるが、対面はこれが初めてであった。
 吉憲は義周の母であるお要が産んだ子だが、子宝に恵まれない正室の栄姫の養子としてこれまた乳飲み子の時に江戸に送られていた。
 義周は、吉良上野介義央の妻・富子の教えられた通りに、
 「本日はお招きありがとうございまする。父上様にも御壮健にあられ…」。
 そう述べた。すると、栄姫が、
 「まあ、なんと利発のお子でありましょう。そなた幾つになられた」。
 「六つでございます」。
 義周は、昨日六歳になったのだ。
 「義周。こなたはそちの兄じゃだ」。
 綱憲が言う先には、義周より多少年上の子どもがいた。
 「兄じゃ…。兄じゃはこちらに」。
 義周は近習の山吉新八郎盛侍、新貝弥七郎安村、村山甚五右衛門の方を向いて言う。
 すると弥七郎が大きく首を横に振った。
 「母上がお城を経つ前に、この者がこれからよの兄じゃになると申しました」。
 義周は、綱憲にきっぱりと言い放った。綱憲は笑いながら、
 「そうか、そうか。そちの母じゃはそちが寂しくないように兄じゃを使わしたのじゃな。だがな、義周。ここにおる吉憲はそなたと血を分けた実の兄である」。
 兄弟と言えども、初めての対面であった。
 「兄上様…」。
 義周が不可思議そうに頭を向けると、吉憲は、
 「そうじゃ。そなたの兄じゃ。共に江戸で暮らすことになり申した故、時には訪ねて来られよ」。
 わずか二歳しか違わないがすでに大人の口ぶりだった。急に実の兄と言われても義周には、新八郎たちの方が気心が知れている。急には馴染めない。
 すると、綱憲は一振りの義周の身丈にあった小さな刀を前に置き、
 「義周、そなたへの祝いじゃ。そなたは剣術を良う好んでおった故のう」。
 紫の縮緬に覆われた刀をうやうやしく受け取り義周の前に差し出したのは義央だった。
 「さてお礼を」。
 義央に促され、
 「執着至極にございまする」。
 「義周。どうじゃ、大事ないか」。
 「はい」。
 義周は富子に教えてもらった言葉をそのまま口にした。もちろん、意味など解っていない。
 一連の儀式が終わり義周は呉服橋の吉良邸に戻っていた。
 弥七郎によって、礼服からゆるりとした縮緬の部屋着に着替えさせてもらっている間、義周は気になっていたのだろう。仕切りに兄である吉憲のことを尋ねるのだった。
 「吉憲様は、われ…余の兄じゃなのか」。
 「左様にございます。お父上様もお母上様も同じ、実の御兄弟にございます」。
 すると義周は小さな頭を傾げ、
 「じゃが、母上がおった」。
 綱憲の正室である栄姫の存在が不思議に写ったらしいい。正室、側室のことなどをどう説明すべきか弥七郎は悩むが、
 「兄上様は、若様と同じく米沢でお産まれになられましたが、米沢藩上杉家の御世継ぎであられますため、幼くして江戸屋敷にお移りあそばされました」。
 「兄上も米沢で…」。
 「左様。ただし、兄上様は若様よりもっとお小さい頃に母上様と離れて江戸に参ったのです」。
 「余よりも小さい頃にか」。
 「まだ二つにもなっておりませなんだ。それでも兄上様はお寂しいなど申してはおられませぬ。若様も、兄上様を見習って、強い子にならねばなりませぬ」。
 こう言われ、義周は目線を畳みに落とした。
 「兄上の母上は江戸におった」。
 「若様の母上様も江戸におわしです。富子様でございます」。
 まだ霧がはってはいるが、薄らと光が射し始め、状況が解り出したような義周だった。
 だが、弥七郎は内心、「物心も着かぬ乳飲み子の頃の方が、母への思いもなく楽であろう」と、義周を不憫に思っていた。


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月に叢雲花に風 十一話 武門に産まれて

2011年05月17日 | 月に叢雲花に風~吉良義周の生涯
 「どうにも義周殿は幼いのう」。
 吉良上野介義央の妻・富子は義周に教育を及ぼす。
 「義周殿よろしいか、六つになられたのじゃ。われではなく、ご自身をよと申しなされ」。
 「われは、よであるのか」。
 「左様にございます」。
 義周は、急に言葉遣いを直されることに憤りを感じていたが、逆らう術もない。
 「さて、明日の綱憲殿への御謁見の習いをしましょうぞ」。
 富子にそう言われても慣れ親しんだ父に対しての「御謁見」がいかなるものか解る筈もない。
 「父上にお会いするのにどうして、そのようなことを言わなくてはならないのじゃ」。
 義周は富子に教えられた言上を不可思議に感じていた。
 「義周殿は、吉良家の者。綱憲殿は、上杉。米沢藩主にございまする」。
 「われ…余も米沢の…」。
 義周は泣きっ面でそう言うが、
 「いえ。義周殿はもはや吉良家の跡目」。
 そう言われては、成す術も無い。そればかりか、祖父母が、両親で、実父に会うことがお目見えといったことすらあまり良く理解できないだった。義周は米沢での生活に戻りたい一心だった。
 「新八郎。明日はお城に帰るのか」。
 寝間で羽二重の寝具に身を横たえた吉良左兵衛義周は、この夜の番を努める近習の山吉新八郎盛侍の問うていた。
 「若様、お城ではございません。上杉家の上屋敷にございます」。
 「それは、米沢ではないのか」。
 「はい。江戸でございます」。
 「なんじゃ…米沢ではないのか」。
 義周は先ほど吉良上野介義央の妻・富子が言った「綱憲殿に御挨拶に参りましょう」の言葉を米沢の父の元へ帰るのだと誤解していたのだった。
 義周の実父は米沢上杉四代藩主の綱憲であり、義周が養子となった吉良上野介義央と富子の嫡子でもあった。
 大層気を落としたのだろう。義周は深い溜め息をつくと、
 「では、母上にはお会いできないのか」。
 「左様でございますな。お母上様は米沢にお出でになられます故」。
 新八郎はそう答えながらも、義周の母・お要の死をいつまで隠せ果せるのか気が気ではない。いつかは耳に入れなくてはならない悲しい真実である。
 母親には会えず、米沢にも帰れないと知ると、義周は布団の上掛けを頭まで引き揚げ、声を殺して泣いているのが、新八郎には痛々しかった。
 「若様、お父上様にお会いになられるのはいつぶりになりましょうや」。
 新八郎は、義周の関心を実父の綱憲に向けようとした。しかし、義周は、
 「忘れた」。
 とだけ言うと、そのまま泣き疲れ眠りに入った。
 明けて元禄4年二月二十三日、吉良家の屋敷には二挺の駕篭が用意されていた。
 一挺には義央が、もう一挺には富子に抱き抱えられた義周が乗り込む。
 「お駕篭は嫌じゃ」。
 義周はだだをこねるが、富子は容赦なくそのまま駕篭に入った。
 そして、近習の山吉新八郎盛侍、新貝弥七郎安村、村山甚五右衛門始め、義央用人・大須賀治部右衛門、富子の輿入れに際し上杉から吉良家に入った家老・左右田孫兵衛重次、中臈の藤波、侍女の浅尾局などほか、二十名が付き従った。
 江戸城桜田門前の上杉上屋敷までは半時だった。駕篭が門を潜り、謁見の間に通されると、富子は、義周に向かって、
 「きちんと御挨拶できますね」。
 と笑みを浮かべた。
 義周は、この祖母でもある母の真意を分かり兼ねていた。
 米沢の実母であるお要は優しい母だった。だが富子は厳しい。だからと言ってそれが悪意に満ちたものでもないことは幼いながらにも理解はできた。
 ただ、一心に甘えることはできないようだ。


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