元禄十五年(1702)十二月十四日。吉良邸では茶会が催された。
先立って、当主の吉良左兵衛義周や用人の清水一学らは、旧赤穂藩国家老の大石内蔵助良雄が江戸入りしたことを知り、吉良上野介義央に茶会の中止を再三申し入れていたが、「この年寄りの最後の楽しみじゃ」と、年明け早々に米沢の上杉家へ移ることが決まっていた義央の別れの茶会とあっては、強行に止めることはできなかったのである。
「しかし、これではご隠居様が屋敷におわすことが明らかであろう」。
吉良家の筆頭家老である斎藤宮内忠長や同じく家老の小林平八郎央通らも不安の色を隠せない。
当日は茶人の山田宗偏始め、多くの客人が屋敷を訪れることになっている。その中に紛れ込まれることを懸念した吉良家はいつにも増した強固な警備をしていた。
そして、万が一に備え、義央の妻・富子が吉良家に残していた中臈の藤波、高野。侍女の浅尾局、丹後局や小性など十数名は、義周の計らいで、白金の上杉家下屋敷に戻していたのである。ほかにも侍女や奥向きの女性には暇を出していた。
だが、茶会は事なきを得、誰もが安心し切って深い眠りに落ちた十五日未明(丑の刻七つ/午前四時)のことであった。
「何事じゃ」。
義周が寝所で不信な物音を聞いたその時、近習の山吉新八郎盛侍も、屋敷を取り巻くように並ぶ武家長屋の私室で飛び起きていた。
「殿。赤穂の浪士が討ち行ってございます」。
「赤穂浪士か。宵討ちとは卑怯な」。
義周は吐き捨てるように言うと、薙刀を手にそのまま表へ飛び出して行った。
この時、吉良家邸内にいた家臣は百二十名であったが、そのほとんどは武家長屋におり、屋敷内にはわずか二十数名の手勢にすぎなかった。
赤穂浪士はまず、武家長屋を包囲し、寝入っていたために出遅れた百名近くをその場に封じ込めていた。
赤穂浪士は、小坊主の牧野春斎を一太刀で切り捨て、玄関先と進んで来た。
表門を破られ、玄関先に飛び出した義周の近習の新貝弥七郎は、矢面に立ち奮闘するが多勢に無勢とあって空しく、堀部安兵衛の槍で突かれ討ち死にする。
剣客としても名高かい家老の小林平八郎央通も、刀を手にするが、南書院前にて討たれ、更に闇夜のこと、その身なりから義央と間違われ首を刎ねられる不運に見舞われた。
新八郎始め、中小姓の斎藤清左衛門らは義周と共に表へ出て果敢に戦うが、次第に情勢は、武装をした上、人数にも勝っていた赤穂浪士に傾いてくのだった。
義周は四方を敵に囲まれ、不破数右衛門に背から斬り付けられながらも薙刀を離さず、敵に向かっていくが、武林唯七に額を割られ、滴る血が目を塞いでいく中、ついに気を失いその場に倒れ込んでしまった。背の傷は六尺。額には二尺の痕が残るほどの壮絶なものだった。
また、長屋から飛び出た新八郎は槍を構えた敵が写ると、取って返し脇差を取り、三人を相手に死闘を繰り広げるが、近松勘六を斬って池に落とし、ほかの一人を縁側に切り伏せたところを後ろから槍で突かれ倒れ込んだこところ、鬢先より口脇まで斬られ気を失った。
一方、義央の寝所へは用人の鳥井利右衛門正次と取次の須藤与一右衛門が駆け付け、義央を逃がした後、台所にて浪士を食い止めようと清水一学らと戦うが討ち死にする。
わずか二名の共に守られ、台所横の炭小屋へ身を潜めていた義央は、脇差で抵抗しようとするも、武林隆重の刃にかかって果てた。享年六十三歳。
こうして、旧赤穂藩の浪士四十七名は、亡き主君・浅野内匠頭長矩の仇討ちを成し遂げると、寅の刻七つ半(午前五時)に主君の眠る高輪の泉岳寺へと吉良邸を後にしたのだった。
にほんブログ村
先立って、当主の吉良左兵衛義周や用人の清水一学らは、旧赤穂藩国家老の大石内蔵助良雄が江戸入りしたことを知り、吉良上野介義央に茶会の中止を再三申し入れていたが、「この年寄りの最後の楽しみじゃ」と、年明け早々に米沢の上杉家へ移ることが決まっていた義央の別れの茶会とあっては、強行に止めることはできなかったのである。
「しかし、これではご隠居様が屋敷におわすことが明らかであろう」。
吉良家の筆頭家老である斎藤宮内忠長や同じく家老の小林平八郎央通らも不安の色を隠せない。
当日は茶人の山田宗偏始め、多くの客人が屋敷を訪れることになっている。その中に紛れ込まれることを懸念した吉良家はいつにも増した強固な警備をしていた。
そして、万が一に備え、義央の妻・富子が吉良家に残していた中臈の藤波、高野。侍女の浅尾局、丹後局や小性など十数名は、義周の計らいで、白金の上杉家下屋敷に戻していたのである。ほかにも侍女や奥向きの女性には暇を出していた。
だが、茶会は事なきを得、誰もが安心し切って深い眠りに落ちた十五日未明(丑の刻七つ/午前四時)のことであった。
「何事じゃ」。
義周が寝所で不信な物音を聞いたその時、近習の山吉新八郎盛侍も、屋敷を取り巻くように並ぶ武家長屋の私室で飛び起きていた。
「殿。赤穂の浪士が討ち行ってございます」。
「赤穂浪士か。宵討ちとは卑怯な」。
義周は吐き捨てるように言うと、薙刀を手にそのまま表へ飛び出して行った。
この時、吉良家邸内にいた家臣は百二十名であったが、そのほとんどは武家長屋におり、屋敷内にはわずか二十数名の手勢にすぎなかった。
赤穂浪士はまず、武家長屋を包囲し、寝入っていたために出遅れた百名近くをその場に封じ込めていた。
赤穂浪士は、小坊主の牧野春斎を一太刀で切り捨て、玄関先と進んで来た。
表門を破られ、玄関先に飛び出した義周の近習の新貝弥七郎は、矢面に立ち奮闘するが多勢に無勢とあって空しく、堀部安兵衛の槍で突かれ討ち死にする。
剣客としても名高かい家老の小林平八郎央通も、刀を手にするが、南書院前にて討たれ、更に闇夜のこと、その身なりから義央と間違われ首を刎ねられる不運に見舞われた。
新八郎始め、中小姓の斎藤清左衛門らは義周と共に表へ出て果敢に戦うが、次第に情勢は、武装をした上、人数にも勝っていた赤穂浪士に傾いてくのだった。
義周は四方を敵に囲まれ、不破数右衛門に背から斬り付けられながらも薙刀を離さず、敵に向かっていくが、武林唯七に額を割られ、滴る血が目を塞いでいく中、ついに気を失いその場に倒れ込んでしまった。背の傷は六尺。額には二尺の痕が残るほどの壮絶なものだった。
また、長屋から飛び出た新八郎は槍を構えた敵が写ると、取って返し脇差を取り、三人を相手に死闘を繰り広げるが、近松勘六を斬って池に落とし、ほかの一人を縁側に切り伏せたところを後ろから槍で突かれ倒れ込んだこところ、鬢先より口脇まで斬られ気を失った。
一方、義央の寝所へは用人の鳥井利右衛門正次と取次の須藤与一右衛門が駆け付け、義央を逃がした後、台所にて浪士を食い止めようと清水一学らと戦うが討ち死にする。
わずか二名の共に守られ、台所横の炭小屋へ身を潜めていた義央は、脇差で抵抗しようとするも、武林隆重の刃にかかって果てた。享年六十三歳。
こうして、旧赤穂藩の浪士四十七名は、亡き主君・浅野内匠頭長矩の仇討ちを成し遂げると、寅の刻七つ半(午前五時)に主君の眠る高輪の泉岳寺へと吉良邸を後にしたのだった。
にほんブログ村