大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

浜の七福神 125

2014年07月31日 | 浜の七福神
 観世音菩薩は、妙行寺本堂で長く崇拝されたが、微笑んだと言う記録はついぞ残されていない。
 「観世音菩薩が救う輩がいねえって事は、丸亀藩の御治世が良かったってこった」。

 「甚五郎。随分とゆるりとした旅であったな。余は待ち兼ねたぞ」。
 嫌味のひとつも言いたくなると、西光寺から早々に、甚五郎の身柄を丸亀城へと招き入れた高俊だった。
 そして城内には、甚五郎の到着を首を長くして待っていた、もうひとりの男の姿があった。
 「こりゃあ、林様じゃありやせんか」。
 「林様ではない。何をしておったのだ」。
 「近江山上藩の御家老様が、どうして丸亀にいなさるんで」。
 近江山上藩と耳にし、きりりと唇を固く結んだ円徹。俄に眉根の間に皺を刻む。
 「御老中・土井大炒頭利勝様から、我が殿に厳命が下されたのだ」。
 「対馬守様にですかい」。 
 近江山上藩二代藩主・安藤伊勢守重長は、同時に幕府寺社奉行の要職にあった。
 「日光東照宮の大造替が決まったのだ。それで、我が殿も奉行に命じられた」。
 「それがあっしと、どう関わり合いがあるんですかい」。
 江戸城改築に際し、西の丸地下道の秘密計画保持の為に幕府から命を狙われ、亡命中の筈の甚五郎である。
 「そなたの命を狙うものなど、とうにおらぬわ」。
 「へっ、そうなんで。道理で何処でも剣呑な目に合いやせんでした」。
 甚五郎が江戸を発ってひと廻りの後、一部幕閣が、江戸城の秘密保持の為に、甚五郎の命を絶とうと企んではいたが、それを知った将軍・家光が激怒。かの幕閣を厳命に処したと言う。
 「でしたらあっしは、大手を振ってお江戸に戻れるんですかい」。
 「戻れるのではない。至急戻って貰わねば困るのだ」。
 日光東照宮の大造替の総棟梁への厳命が下ったと、所左衛門が告げれば、甚五郎、へっと背を向け、勝手な事だと怒りを露にする。
 「だから申しておるではないか。家光公の与り知らぬ事だったのだ。その方に詫びておられる」。 
 既に、ほかの弟子たちも江戸に戻っていると、所左衛門は伝える。
 始終をにこやかに見ていた、高俊。
 「余は、甚五郎に高松に留まって欲しいと、願っておったが、将軍家のおぼしとあれば、致し方あるまい」。
 「ですがねえ」。
 ぐずる甚五郎に、平伏する所左衛門。







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浜の七福神 124

2014年07月30日 | 浜の七福神
 「佐江はんは、もうどうにも成り行きんで 」。
 庄屋であった父が人を信じたが為に、田畑、山林などかなりの財産を失い、庄屋の沽券も人手に渡ったらしい。悪い事は重なるもので、父が心労の余り他界すると、母も後を追うように逝けば、決まっていた縁組みも流れ、もはや身を売るしかなくなった娘の話に金棒引きの声高な話は、嫌が応にも甚五郎の耳にも入るのだった。
 「その前にのお、両の親の七回忌を済ませるげなです」。
 丁度、妙行寺の門から出てきた十七、十八の若い娘を見れば、よそよそしく姿を覗き込むものの、誰も声を掛けようとはしない。そればかりか、娘と道で擦れ違っても、顔を伏せる始末。それが佐江だと容易に分かる。
 「可哀想によ。娘さんの両の親には世話になったろうに」。
 世の無情さを嘆く甚五郎だった。
 「良し、決めたぜ」。
 「親方、何を決めたんですかい」。
 「あの娘さんの親御さんの為に、観世音菩薩を彫ろうじゃねえか」。
 言うなり脱兎の如く、妙行寺の門を潜る甚五郎。観世音菩薩となれば、己の母の像を彫りたい円徹もこれ幸いと後に続く。
 「親方、あっしはひと足先に、御城に伝えて来ますぜ」。
 深い溜め息を洩らした文次郎は、亀山城へと甚五郎到着の知らせに走るのだった。
 突然の甚五郎のおとないに、驚きを隠せない妙行寺の住持であったが、佐江の為に観世音菩薩を彫ると申し出れば、住持も甚五郎の心意気に感服する。増してや名工の誉れ高い左甚五郎である。
 「佐江様も、さぞやお喜びになりましょう」。
 哀れな娘の行く末を慮ってか、住持の目が赤くなっていた。
 甚五郎に許された時はわずか三日。三日の後に庄屋の法要は執り行われる運びとなっていた。
 「円徹。あっしはこの三日で、観世音菩薩を彫り上げる。彫るのは菩薩様でも、彫っている間はこちとら鬼神にならあ。おめえは、黙って横でおっかさんの像を彫ってな。いいな」。
 何時にない、甚五郎の生真面目な言葉であった。こくりと頷いた円徹。こちらも鬼神の弟子らしく、ぐっと奥歯を噛み締める。
 何と何と何と。三日の後の法要には、文次郎の知らせで、妙行寺へと甚五郎を迎えに出向いた、高松藩主の生駒壱岐守高俊までもが参列する運びとなった。
 本堂には、佐江、その妹と弟。甚五郎、文次郎、円徹。そして高俊とその臣下数十人が顔を揃えたのだ。
 甚五郎の彫り上げた観世音菩薩を前に、両の親の位牌を並べ、しめやかに法要は進んだのだが、佐江が焼香し手を併せた時であった。
 一同の目の前で、観世音菩薩がにこりと微笑んだのである。
 「これが、左甚五郎であるか」。
 摩訶不思議な光景を目の当たりにした高俊。これは菩薩の意向と、身売りの決まった佐江を引き取り、然るべき婿を迎え、庄屋の家を復興させる事を約定する。
 観世音菩薩が如何して微笑んだのかは謎であるが、佐江は安堵せいと声が聞こえたと後に語り、高俊には、領民を救ってこその藩主であると叱咤されたと言っていた。
 甚五郎にとって高俊の申し出は、思惑を超えたものであった。単に、佐江の苦しい胸の内を慮って彫った観世音菩薩が、思わぬ見返りを招いたと手放しに喜ぶのだった。
 「観世音菩薩も粋な事をしなさる。いや、粋なのは高俊け」。




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浜の七福神 123

2014年07月29日 | 浜の七福神
 「それにしても、客がいねえな女将。こんなに寂れていてやっていけるのかい」。
 歩いている人の姿も僅かであった。遍路でいえば、七十七番札所の道隆寺と、七十八番札所の郷昭寺の丁度間くらいの所である。
 「遍路の人もいねえってのは、どういうことだい」。
 ふうっと溜め息を洩らした女将が言うには、前の年から、皐月に入っても霜が下りる寒さで、麦が育たずに名物のうどん屋も成り行かなくなっている有様だと言う。
 「殿様は如何しなすってるんで」。
 「年貢を減らしてくれてはおるげなが、百姓まんでがんには、種は行き渡らんのやわ」。
 種を撒いたところで、また霜が下りれば実は実らないと、女将は眉間に皺を寄せる。
 「やきんよ、水だけで、粘られたらば商いにならんのやわ」。
 面目至極もない文次郎と円徹であった。
 さてさて小半時の後、目覚めた甚五郎。大きな伸びをすると、そのまま一路丸亀城に向う。
 おやっと、思ったのは円徹だ。いつもなら、こういった類いの話の後には、祠を建てたり猫を彫ったりと、何かしら手助けをするものだ。だが、素知らぬ顔ならば、やはり本当に寝入っていたのだろうか。
 それとも、今度は飢饉であった。こればかりは甚五郎の彫り物でも、どうしようもないだろうと思わなくもない。
 いよいよ旅も大詰め、高松藩の城下丸亀に入れば、青々とした空を背に、内堀から天守閣に向かう石垣が、どの角度からも見ても奇麗な弧を描いて反り返る。
 「円徹、あの石垣は扇の勾配って言ってな。東西がおよそ六町、南北八町にもなんだぜい」。
 「それは敵から身を守る為ですか」。
 「さあて、この太平の世の中で、それを言っちゃあお仕舞えだ。おい文次郎、どうしたんでい」。
 文次郎は、石垣の勾配を三日月のようだと足を留め見入っている。
 「どうでい。姫路とは全く違うが、どっちが見事だと思う」。
 「どちっちがなんて、比べられやしやせん」。
 「そうだろう。ならよ造り手の腕も、どっが上なんて比べられねえよな」。
 一気に城に入ろうかという城下町。ここでも飢饉の波紋による嫌な噂を耳にするのだった。





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浜の七福神 122

2014年07月28日 | 浜の七福神
 下津井祇園神社の向拝柱の獅子の前足は、今なお、薄汚れたひと枚の布を踏み締めているらしい。
 「しかしまあ、あんな潮垂れた布を後生でえじに抱え込んで、何を考えてやがるんだろうよ。あの犬っころは」。
 甚五郎に掛かれば、獅子も狛犬も十把ひと絡げの犬っころである。

 「あっしは、蝶を彫れと言ったんぜ。それを虻なんぞを彫りやがって」。
 神社に虻は似つかわしくないと、甚五郎が少しばかり小言で言えば、偽甚五郎の顔を見ていたら、無性に腹が立って、虻に刺されてしまえと思ったと、舌を出す円徹だった。
 どうにかこうにか、漸く、四国まで辿り着いた甚五郎一行だったが、讃岐は丸亀の港は歩き気力を萎えさせる油照だった
 「こうも暑いと適わねえ。歩き出すめえに茶店にでも寄ろうや」。
 盛夏の街道に、陽の光が容赦なく照り付ける。
 「こんな時によ、冷や酒の一杯でも飲ましてくれたらよ、土蔵付きの家をくれてやるんだがな。なあ、文次郎」。
 「親方、馬鹿を言ってねえで、さっさと歩いてくだせえ」。
 弟子に叱られ、暑い時に暑いと言って何が悪いと、面白くはないが、都合良く峠の辻に茶屋を見付け、床几にどっかと腰を下ろすのだった。
 「おおい、水をくれい」。
 「何言いよん。ここは茶屋やわ」。
 「酒といきてえところだが、真っ昼間っから酒なんぞ飲んじまったら、この若えのに何を言われるか、分かったもんじゃねえからな。水だ水をくんな」。
 「今、お茶を淹れますけん」。
 「馬鹿言ってるんじゃねえよ。この暑いのに茶なんぞ飲もうものなら、あっと言う間にお陀仏だ」。
 「ごじゃ人やのぉ。あんた、江戸の方な」。
 「ああ、そうでい」。
 細めた目で、甚五郎を睨む茶屋の女将に、黙って頭を下げる文次郎と円徹だった。
 そんな事はお構いなしに、一気に湯のみ三杯の水を飲み干した甚五郎。はあっと大きな溜め息を付き、生き返ったと大げさである。
 「一息付いたら、どうにも眠くていけねえ。ちょいと横にならせて貰うぜ」。
 「親方、何をしてるんですかい」。
 文次郎の声にも耳を貸さずに、直ぐに寝息を立て始めるのだった。
 「どうにも、手に負えねえな」。
 隣で、麦茶を啜る円徹も頷く。こうなっては、甚五郎が起きるまで待つしかないのだが、幾らほかに客がいないとあっても、三人が床几に横になるのは憚られると、文次郎と円徹は肩を寄せ合い、女将と話をしながら間を持たせるのだった。






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浜の七福神 121

2014年07月27日 | 浜の七福神
 あれやこれや、甚五郎を褒め讃える当人。良くまあ己で、ここまで口に出来るものだと、円徹に至っては大きく見開いた目が、今にも転げ落ちそうな程であった。
 「ところでおめえさん、名は何て言うんだい」。
 「へい。江戸は神田永富町のりろくと申しやす」。
 甚五郎の本名である利勝では仰々しいと、利に五の次の六を付けてみた。
 しこたまただ酒を喰らった、利六こと甚五郎のひとり舞台が始まるのは言うまでもない。
 「甚五郎親方。墨はあっしが引きやす」。
 そう言っているのは、真の甚五郎こと利六。
 「親方、下絵はこれで良いですかい」。
 「親方、叩き鑿如きはあっしが入れやす。親方は、仕上げをお願えしやす」。
 親方、親方とおだてながら、すいすいと己で事を運んでしまう甚五郎いや利六。
 左甚五郎の仕事っぷりを見物していた氏子や宿場の者たちも、これには些か様子がおかしいと頭を傾げるのだった。
 すると利六こと甚五郎は、やはり親方の指導が良いと仕事が捗るなどと、言い出す始末。
 偽甚五郎が向拝柱を見上げ、腕組みをして立ち尽くしているだけの中、甚五郎は文次郎に唐草を彫らせ、己は獅子と獏を彫り進む。そしてその傍らでは、これまた鑿を握った円徹。
 「隅っこに、小っちぇえ蝶でも彫っておきな」。
 と、甚五郎に言われ、大喜びであった。
 こうして一日が過ぎ、二日が過ぎる頃になると、見物の人が増えると同時に、偽甚五郎に疑わしい目を送る者も増えていくのだった。
 「でえじょうですぜ。最後の仕上げは甚五郎親方がしなさいやす。真の名人とは、そういったもんで」。
 こうしてたった三日で彫り上がった獅子と獏。感嘆の声が上がる中、宮司が利六こと甚五郎に歩み寄るのだった。
 「さすがですな。越前誠照寺の唐獅子に勝るとも劣りません」。
 深々と頭を下げる。
 おやっと片眉を上げた、利六こと甚五郎。すると宮司は、袖から小さな木彫りの狐を取り出した。
 それを手に取った甚五郎。
 「あの時の」。
 若かりし頃、路銀を使い果たし腹を空かせて旅をしていた折り、鄙びた庵でなけなしの粥を炊いて、振る舞って貰った礼にと甚五郎が彫った狐であった。
 「だけどあん時は」。
 「はい。京で神官の見習いでしたが、今はこうして、下津井祇園さんを任されております」。
 甚五郎に貰った狐が示す道を歩み、思わぬ出世が適ったと、顔を綻ばせるのだった。
 すっかり正体がばれてしまった偽甚五郎はと言えば、すごすごとその場から煙のように消えていたが、そもそも左甚五郎の名を騙った小悪党。
 下津井祇園神社に集まった人の多さに、さぞや賽銭箱にはたんまりと銭があるだろうと、その夜半にこっそりと賽銭箱に手を掛けた瞬時、何処からともなくぶーんと羽音が聞こえ、一匹の虫が頭の上を飛び回る。
 手で払おうが頭に被っていた手拭いを振り回そうが、いかにしても偽甚五郎から離れようとはせず、賽銭箱に手を掛ければ隙ありと見て頬にひと針。
 手で払えばまた頭上に飛び去るが、賽銭箱に手を伸ばせば、頭にちくり。到底銭を取り出す事も侭ならず、勢い退散しようと振り返った時に、目の前には見た事もない大きな犬が行く手を遮る。
 哀れ偽甚五郎は、巻き毛を振るわせて、真っ赤な眼を剥いた犬に大声で吠え立てられ、腰を抜かして敢えなくお縄となったのであった。
 顔は、虻に刺されたように赤く腫れ上がり、潮垂れた一重の前襟は、鋭利な刃物の引き裂かれていた。






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浜の七福神 120

2014年07月26日 | 浜の七福神
 「文次郎兄さん」。
 文次郎の気落ち振りに、肩に手を置く円徹。その方は、これ以上ないくらいに落ちているようだった。
 「親方は何を考えているのでしょう。あの偽物を懲らしめようとしているのですか」。
 「円徹よ、親方はあの偽甚五郎を、本物にするつもりさ」。
 「それって、どういう事ですか」。
 偽甚五郎の彫った獅子と獏が出来上がってから、彫り直す腹積もりだと、文次郎は途方に暮れる。
 しかも、どこからどう見ても、あの男は飛騨匠は愚か、大工としての腕もないだろうと付け加えるのだった。
 「彫りだこが、全くねえ。ありゃあ大工どころか職人の手じゃねえ」。
 見れば、文次郎の指先には、幾つかのたこがある。己の奇麗な、細い指と見比べる円徹だった。
 「親方。先に丸亀に行って、また帰りに彫れば良いじゃないですか」。
 円徹は、閃いたとばかりに甚五郎に進言をする。
 「分かっちゃいねえな。あの甚五郎さんが逃げ出してもみろ。あっしが尻尾を巻いたって、世間様に思われちまうんだぜ」。
 「なら、ずっと見張るつもりですかい」。
 詰め寄る文次郎に、またも置屋の主の顔を向けた甚五郎。あの男の室ではどうやら宴が開かれているらしいここはひとつ、酒を呑むついでに弟子入りに行こうと、至って暢気に出向くのだった。
 予想していたとおり、飛騨匠・左甚五郎を名乗る男は、下津井祇園神社氏子たちの歓待を受け、豪勢な宴の真っ最中であった。
 「ちょいと失礼しやす」。
 その輪を分け入り、上座で顔を赤らめた男の前に座った甚五郎。
 「左甚五郎親方が、向拝柱に獅子と獏を彫るとお聞きし、是非とも手伝わせて頂きてえと参りやした」。
 「手伝うとは、おめえさんも堂宮大工なのけ」。
 「へい。江戸で少しばかり」。
 「少しじゃ、てえして力にならねえだろうよ」。
 ふんと鼻を鳴らした文次郎が立ち上がろうとする、その膝を掌でぴしゃりと叩いた甚五郎。
 「そりゃあもう、甚五郎親方の足下にも及びやせんが、こうして同宿になったのも何かの縁。是非ともその素晴らしい力量を拝ませておくんなせい」。





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浜の七福神 119

2014年07月25日 | 浜の七福神
 どうやら旅籠の主は穏やかな人柄と見え、波風を立てずに支払いを済ませたいと、男に下駄を預けるのだが、この男がまたのらりくらりとはっきりとしない。
 「じれってえ奴だぜ」。
 物事をはっきりとさせるのが常の甚五郎にとっては、このやり取りが歯がゆくして仕方ない。男の頬を二つ三つ張りたい思いに、右の拳が固く握られていた。
 「親方、この旅籠は取り込み中でさ。ほかを当たりやしょう」。
 「文次郎、おめえはぼんくらけ」。
 「ぼんくら…。あっしがですかい」。
 「そうさ、こっからが面白れえんじゃねえか」。
 ああと、天を仰ぐ文次郎。またも金棒引きが始まったと、円徹に合図を送るのだった。
 「そう言やあ、おめえさんは、飛騨匠と言っとったんじゃね」。
 下津井祇園神社本殿の正面の向拝柱に、何か細工をして欲しいと、宮司が言っていた事を思い出した宿の主。宿代の代わりに、向拝柱に獅子と獏を彫ってはどうかと持ち掛けるのだった。
 飛騨匠と聞いて、眉をぴくりと動かした甚五郎。顔見知りではないが、数百人を抱える谷口権守家一門であれば、見知らぬ顔も珍しくはない。飛騨匠とは恐れ入った、面白い事になりそうだ。なあと振り返るが、二人の弟子はすっかり白けて生返事である。
 「決めた。ここに泊まるとすっか。なあ」。
 「へい」。
 甚五郎たちが土間口へ足を踏み入れると、一斉に目が注がれるが、一向に気にせずに、そればかりか、構いなく続けてくれなどと余計な事を口走る甚五郎。
 「おめえさん、飛騨匠なのかい。名は何て言うんだい」。
 「おや、旅のお方。飛騨匠を知ってるとは嬉じゃねえかい。あっしの名は、左の甚五郎ってえんだ。覚えておいておくんな」。
 男は、鼻息も荒く左甚五郎と名乗る。
 「親方」。
 男に掴み掛からんとする文次郎を制した甚五郎。
 「おめえさんが、あの有名な甚五郎親方かい。こりゃあ、旅のついでの良い土産が出来たもんだ」。
 甚五郎は、にやりと意地の悪い笑みで男を見据えると、草鞋を脱ぐのだった。
 「親方、良いんですかい」。
 偽甚五郎の、いい加減な彫りが世に出てしまうと、安じる文次郎に、甚五郎は一言。
 「偽もんじゃなければ、良いんだろう」。
 歯を見せてにっと笑った甚五郎の顔は、悪戯を仕掛ける子どものようでもあるが、実に意地が悪そうだと文次郎は思う。万林は、女衒の上前を撥ねた置屋の親父の顔だと言っている。
 万事休すであった。ああっと頭を抑えた文次郎。もはや、ここで数日を要すると円徹に呟くなり、へなりと座り込むのだった。






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浜の七福神 118

2014年07月24日 | 浜の七福神
 寛永十一年春に江戸を出て以来、実に三月。かまびすしい蝉時雨が、余計に汗を誘う中、ようやく備前下津井の港に辿り着いた甚五郎たちであった。
 下津井の港は、岡山藩の在番所が置かれ、西国大名の参勤交替や、金毘羅参りに四国へ渡る港として、また北前船の寄港地として発達し続ける港町であり、沸き立つような賑わいがこの町を覆っていた。
 「さあて、こっから讃岐の丸亀までは目と鼻の先ってもんだ」。
 目指す高松藩主・生駒壱岐守高俊の居城である丸亀城とは、ひと息のところまで迫っていた。
 「親方、急いで丸亀に渡りましょうや」。
 これ以上の道草はご免とばかりに、文次郎が急かせるが、どうにも賑わう港の宿場が気になって仕方のない、後ろ髪を引かれる思いの甚五郎に、神は微笑んだ。
 「潮待ちじゃ。今日は船は出せん」。
 これでは文次郎も致し方なく、浮かれ気分の甚五郎の後に続くのだった。
 「こいつあ、事じゃねえかい」。
 瀬戸の海に向かって建立されたばかりの、真新しい社殿が目に入る。
 「大層な社殿だが、ちいとばかり物足りねえな」。
 「親方、手を貸そうなんて、四方や考えちゃいませんよね」。
 ここで社殿になど手を掛けたら、一体何時になったら丸亀へ渡れるものや。
 「そりゃあ、考えちゃいねえけどよ。だけどよ、あの社殿を見てると、どうにも尻がむずっ痒くなっていけねえ」。
 「ささ、今日は船が出ねえんです。早く宿を取らねえと、また野宿になっちまいやす」。
 多くの旅人が足止めを食ったのだと、文次郎に尻を叩かれ、仕方なく旅籠を探すが、土間口で何やら諍いの声が漏れれば、見てみたいのが甚五郎である。
 「おめえさん、宿賃も持たんと泊まっとったのじゃろか」。
 色褪せた藍暖簾をの向こうには、潮垂れたひとりの男が、宿の主とその奉公人と思しき男衆にぐるりと囲まれ、逃げ場を失い上がり框にうな垂れている。
 まるで猫に嬲られている鼠のようだと、甚五郎は込み上げる笑いを堪え切れずにいた。
 「宿賃が払えんなら、働いてもらわなけりゃ困るが、おめえはなんが出来んのか」。






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浜の七福神 117

2014年07月23日 | 浜の七福神
 「おめえには、城はみんな同じに見えるかい。寺は同じけ」。
 「いえ、同じ物なんぞひとつもありゃしやせん」。
 「だったら、おめえもあっしと同じもんを造ろうとするんじゃねえってこった。どうでい、違えかい」。
 「親方」。
 「そうよ、おめえには、おめえにしか出来ねえ彫りがある。例いそれが危なっかしいもんならよ、危なげのねえ器に入れりゃ良いってこった」。
 彫りが不得手なら、建物の造りを学べ。細やかな線が彫れないなら、線を使わずにそれ相応に見せる技を磨き己の道を切り開いてこそ、名人になれるのだと甚五郎は騙る。
 「良いかい文次郎。一度きりしか言わねえから。良く覚えときやがれ。あっしは懸命に向かい合えば、出来ねえ事なんぞ世の中にはねえと思ってる。そんでもよ、どうにもこうにも向かねえ奴ってのもいるもんだ。そいつに深追いはさせねえ。駄目だと思えば三月で暇を出す」。
 「親方、あっしは…」。
 「細工は細かけりゃ良いってもんでもねえ。おめえの彫りには力があらあな」。
 喉を詰まらせ、声を殺して嗚咽する文次郎に甚五郎は小銭を握らせる。
 「分かったらおめえも、このお狐さんに願を掛けておきな」。
 甚五郎は、幸太の身と、まとまった布施を国楽寺に預け、旅発つのであった。
 「親方、狐は、幸太の父上の焼き物なのに、どうして鳴くのですか」。
 祠に何か細工をしたに違いないと、円徹は考える。
 「そうさな。どんなに偉え大名だってよ、将軍様だってそうさな、産まれた時は素っ裸さ。それなりの場に据えられれば、それなりに育つってこった」。
 「親方、またそんな事を口にして。円徹が驚いてやすぜ」。
 いつもの文次郎がそこにいた。

 こんこんと鳴く祠の噂は次第に広まり、近くは勿論、河内や摂津からも参拝の人が訪れるようになるのだった。そして、何時とはなしに、福運を授けてくれる奇特な稲荷として知れ渡り、甚五郎稲荷様と呼ばれるようになっていったそうである。
 だが、ある台風の夜、強風の煽りを受けて祠が壊れてしまうと、幾ら立派な堂に建て替えようとも、狐の鳴き声が聞こえる事はなかった。 
 ただ、ご利益の方は一向に衰えず、初午の時には京の都からも大勢の参詣人が続いていると伝え聞く。
 「じゃ何かい。あの犬みてえな狐に御利益があったってこった。ほれ、見掛じゃねえって言っただろう」。






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浜の七福神 116

2014年07月22日 | 浜の七福神
 「おおい、文次郎、円徹。そこいらの山から、木を切って来い」。
 鶏よりも早く雄叫びを上げた甚五郎だった。昨夜の諍いが夢であったのか、何時もと寸分違わぬ声である。
 「木を切るのですか」。
 「おお。時がねえんだ。急いでくんな」。
 「文次郎兄さん、親方がああおっしゃっています」。
 一向に腰を上げようとしない、文次郎の手を引く円徹だった。
 「おい、話は後だ。そこでつむじを曲げて暇はねえ。とっとと行きやがれ」。
 「円徹、行くぞ」。
 仏頂面のまま、渋々腰を上げた文次郎であった。
 「文次郎兄さん。木を切り出した事なんかあるのですか」。
 「馬鹿。そんな事してたら陽が暮れちまう」。
 昨日の国楽寺の住持に頼んで、大工の棟梁を紹介して貰うのさと、文次郎。
 左甚五郎が、狐の祠を造るとあれば、既に鉋を掛けた木材を惜しみなく分けてくれた棟梁に礼を言い、二人は再び幸太の家へと戻る。
 明け方から始まった祠造り、西の空が茜に染まる暮れ六つ頃に、漸く幸太の父の狐が収められた。
 甚五郎は、文次郎に手伝わせた賽銭箱に、小銭を投げ入る。
 「幸太、手を叩いて拝んでみな」。
 幸太が、小さな手をぱんぱんと叩いて目を瞑ると、祠の中から、こんこんと狐が二つ鳴く。
 「凄いや。幸太の父上の狐が鳴いている」。
 幸太と円徹。小さな眼四つが、団栗のようにまん丸になるのだった。
 「幸太、この祠を拝めば、おとっつあんが側にいるようで寂しくないね」。
 「へえ」。
 二人は、何度も何度も小さな手を叩くが、それに飽きる事もなく、狐も付き合って鳴いてくれていた。
 「おっちゃん、名は何て言うのやろか」。
 「そうだった。名乗ってなかったな。甚五郎だ。左甚五郎って言うんだ。覚えておいてくんな」。
 幸太に向けた笑顔を引っ込め、甚五郎は文次郎に向き合った。
 「この祠を見てどう思いやがる」。
 「立派だと思いやす」。
 「おめえに造れそうかい」。
 「狐を鳴かせる祠なんぞ、出来っこありゃしやせん」。
 「そうけえ。ならよ、狐の方はどうなんでい」。
 焼き物などお門違いだと、喉まで出掛かった言葉をぐっと飲み込み、唇を堅く噛みた文次郎だ。
 「おめえの面をみりゃあ、言いてえ事は分かるさ。おめえの思ったとおりだ。あっしにだって出来やしねえ」。
 だが、木彫りで狐を彫れと言われれば、容易い事だと甚五郎は言う。
 「親方の言いてえ事が、あっしにはさっぱり分かりゃしやせん」。
 ならば、狐を見てみろ。どうだ、狐だけでは犬だか何だか分からないだろう。だが、一度祠に収まってみれば、狐以外の何者でもない。それこそが職人の分。
 「どいつにだって得手と不得手があらあ。そいつをよ、補い合って初めて職人は生かされるのよ」。
 「…」。





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浜の七福神 115

2014年07月21日 | 浜の七福神
 「同じ修行をしていても、同じに腕は上がらねえってこってす」。
 「だから何だ」。
 「だから…」。
 「答えろ文次郎」。
 文次郎のみならず、円徹もぴしゃりと打たれたように、背筋を伸ばす。
 「だから、出来ねえって諦めるのけ」。
 「なら親方は、あっしに親方と同じ彫り物が出来ると思ってなさいやすか」。
 売られた喧嘩とばかりに、文次郎も思いのたけをぶつけるのだった。
 「思っちゃいねえよ。おめえにあっしの真似は出来ねえさ」。
 「親方、それが本音ですかい」。
 「本音だって。本音も何もあっしはあっし。おめえはおめえだ」。
 唇を噛み締め俯いた文次郎の手は、小刻みに震えていた。顔を上げた文次郎。大きく息を吸い込むと、世話になったと頭を下げ立ち上がるのだった。
 「文次郎兄さん。待ってください。親方、兄さんが」。
 「円徹、放っておけ」。
 「親方、早く引き止めてください」。
 「一晩外で頭を冷やせ」。
 追い討ちを掛けるように言い放つと、ぷいと背を向ける甚五郎。その背中をひと睨みすると、文次郎を追う円徹だった。
 「文次郎兄さん、待ってください。如何して幸太の父上の事で、兄さんと親方が仲違いしなくてはならないのですか」。
 「円徹、けえんな」。
 「戻るなら、兄さんも一緒です」。
 「円徹、あっしは幸太のおとっつあんとおんなじなのよ」。
 空には満天の星が輝いていた。その星を見上げた文次郎の横顔は、実に悲しそうに見えた。
 「あっしはな円徹。細かい彫りが不得手なのさ。どうしたって親方みてえに彫れねえ」。
 「だって親方は何十年も大工です。親方と比べるのが間違いです」。
 ふっと口元を緩めた文次郎。苦笑いしながら円徹に向かって腰を曲げると、その肩に手を置くのだった。
 「おめえの言う通りだがよ、万が一あっしが親方の年まで続けたところで、宮彫りは出来ねえ」。
 「分かりません」。
 「おめえにも、そのうちに分かるってもんよ」。
 「だって文次郎兄さんは親方ではありません。親方の彫りは親方のものなら、兄さんには兄さんの彫りがあります」。
 そのまままんじりともしない夜が明けた。




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浜の七福神 115

2014年07月20日 | 浜の七福神
 その夜、棚に並んだ、幾つかの粗末な焼き物を見た甚五郎。 
 「幸太、あの犬を見せてくれねえか」。
 「犬やない。狐や」。
 「狐かい。こりゃあ済まねえ。幸太、良く出来てるじゃねえかい」。
 ふと、口を尖らせる幸太。
 「おとんが造ったんや」。
 重ね重ねの失言に、額をぴしゃりと掌で叩いた甚五郎だった。だが、その犬ではなく狐。どう見ても下手くそではあるが、人の気を惹く稚気がある。
 「おめえのおとっつあんは、備前焼の職人だったのけ」。
 「せやけど、おとんは、茶碗や湯飲みしか作れへん事で腐ってたんや」。
 「どういうこってい」。
 幸太の父は、狐を見れば一目瞭然。急須や花器など、細やかな細工が不得手であった。だが、無骨ながらも味わいのある作風は、普段使いに彩りを添えていたのだが、当人にとっては面白くなかったのだろう。
 「あっしには、幸太のおとっつあんの気持ちが分かりやす」。
 文次郎が不用意に洩らした一言が、大きな波紋を引き起こすのだった。
 「文次郎、分かるってえのはどういったこってい」。
 「へい。てめえに腕がねえって気が付いたら、辛えもんでさ」。
 「腕がねえって…何処のどいつがそれを決めるんでい」。
 煙管を吸い付けながら、ぎろりと向けた甚五郎の目の光を、文次郎は見過ごしていた。
 「そりゃあ、てめえで分かるってもんでさ」。
 何時もの軽口の調子で文次郎は続ける。
 「そうかい、ならてめえは、どうなんでい」。
 静かに煙を吐いた甚五郎は、それを目で追う。
 「親方、人には持って産まれたものがありやす」。
 「持って産まれたものかい」。
 「へえ。幾ら励んでも天分がなけりゃ仕方ねえ」。
 「文次郎、何が言いてえ」。
 物言いこそ静ではあるが、凛とした声の張りには、尋常ならざる怒りが込められていた。 
 文次郎は寸の間しまったといった表情になるも、ここで引いても甚五郎は許してくれないろう事も明らかである。仕方なしに居ずまいを直すと、文次郎は真顔で答えるのだった。






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浜の七福神 114

2014年07月19日 | 浜の七福神
 茶屋の床几に腰を下ろすと、甚五郎は煙管を吸い付けた。
 すると、その目の前を、手に一握りのしきびの枝を握った、漸く十になるかならないかくらいの男の子が、目の前を通り過ぎる。よくよく見れば、泣き腫らした目は真っ赤。余りにの痛々しさに、声を掛けたのは円徹だった。
 「墓参りかい」。
 「おとんが、死んでしもうたのや」。
 雁首を煙草盆に打ち付け、灰を落とした甚五郎。
 「坊、野辺送りは済んだのけ」。
 頼りなげに首を横に振る男の子に、更に聞けば、寺にも知らせていないと言う。これはおかしいと、床几に代金を残し、道々する事にした。
 「坊、安心しな。この兄さんは坊さんだからよ」。
 円徹の顔を見上げる男の子。名を尋ねれば、幸太と名乗る。わずかひとつしか年は違わぬが、幼くして親を亡くした痛みを知っている円徹。そっと、幸太と手を繋ぐのだった。
 「親方、もう僧籍にはありません」。
 男の子の真っ直ぐな瞳に、困惑する円徹であるが、経のひとつも唱えてやれと、甚五郎は何喰わぬ顔である。
 「こりゃまた」。
 幸太の宿は、住まいと言うのも烏滸がましい、ただ藁がぶら下がったような小屋であった。
 戸口代わりの筵を手でたくし上げ、中を覗けば、土間には焼き物を焼いていたとおぼしき、釉薬を入れる甕などが転がり、ひと目で見渡せる奥の板の間に、夜具も掛けずに煎餅布団一枚に、仏が横たわっていた。
 「幸太、おっかさんはどうしたんだい」。
 「おらへん」。
 「じゃあ、兄さんは…兄弟は」。
 幸太は、頭を横に振る。
 「親戚はいねえのかい」。
 「知らせたけど、誰も来てはくれへん」。
 「だったらよ、近くにも人はいるだろう」。
 「おるよ。せやけど…」。
 幸太は、唇を固く噛み締め、大粒の涙を流すのだった。聞けば、父は暮らしが貧しいにも関わらず、酒好きで、飲めばくだを巻いては喧嘩を繰り返す。働かないものだから借金は嵩む一方で、次第に誰からも、相手にされなくなっていったと言う。
 既に文次郎は、水から上がったかのように、顔全体が涙で濡れていた。
 「可哀想にな。こんな小せえ子に、誰も手を貸してくれねえなんて」。 
 甚五郎とて、熱くなった目頭を押さえるのが、精一杯であった。
 「よし、おじちゃんたちと、おとっつあんの弔いをしような」。
 幸太を、ぎゅっと抱き締めた甚五郎。円徹に経を上げさせている間に、文次郎に書き付けを持たせ、近くの寺へと走らせる。
 そして、甚五郎からの書き付けを読み、慌てて駆け付けた国楽寺の住持により、無事、幸太の父の野辺送りを済ませたのだった。








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浜の七福神 113

2014年07月18日 | 浜の七福神
 畑や家畜が荒らされる被害が多発し、百姓からの訴えで、ひとりの備前岡山藩士が突き止めたところ、一頭の虎が光明寺へと入って行くのを見極めたと言う。
 だが、幾ら調べても光明寺が虎を匿う様子もなく、また光明寺としても、根も葉もない話に困惑するばかり。唯一心当たりがあると言えば、欄間の虎しかなかった。
 その事を話すと、鼻で笑った藩士だったが、それからも毎夜、光明寺から虎は出て行き、明け方には戻る事から、今度は寺を出る虎の後を追い、ついには足を斬り付けたのだと話す。
 「今朝方見ましたところ、この有様でございます」。
 「そうさな。悪さをしちまってたならしょうがねえが、まずは手当をしてやらねえとな」。
 甚五郎は欄間を外すと、虎の血糊を拭い、斬り付けられた足を接ぐ。そして次に、今接いだばかりの虎の首に鎖を掘り出したのである。
 「文次郎兄さん。折角傷を塞いだのに、これじゃあもっと酷い事になりそうです」。
 大きな猫が可哀想だと、円徹。
 「刀傷は痛えが、親方が封じ込めるのは彫りだ。痛みはねえのさ」。
 違いが分からぬ円徹である。小さな頭は左右に揺れる。
 「鎖で繋ぐと、猫は動けなくなってしまうの」。
 「そうさ、これで悪さはできねえ」。
 「鼠も捕れなくなります」。
 大真面目な円徹に、吹き出す文次郎。
 「円徹、虎を見た事ねえのかい。って誰も見た事なんかねえんだがな」。
 虎とは、唐の国や天竺に住む、人の肉まで食らう恐ろしい生き物だと文次郎が話す。
 「そんな怖い生き物を、お寺に彫るのは如何してですか」。
 「虎は、千里行って千里戻るって言ってな、勢いがあるって事なのさ。その勢いや強さに肖ろおってな事でやすよね、親方」。
 「虎は、天に輝く星だったってえな言い伝えもあるしな。まあ、何にしても目出てえって事なのさ」。
 「はあ」。
 円徹が唯一分かったのは、龍は想像上の生き物であるが、虎は生きているという事だった。
 「さて、これで虎も悪さは出来ねえな」。
 鎖で繋ぎ終えて、甚五郎は洩らす。
 「親方、どうしてこうも、人を困らせるのでしょう」。
 名人左甚五郎の作が、あちこちで畑や家畜を荒していていいものかと円徹。
 「そうよな。正かあっしも彫っている時は、そんな事は考えもしなかったが、まあ、この世の中、神の使いには住み辛えって事じゃねえかい」。
 分かったような分からぬような、まるでとんちだと円徹は考え倦ねる。文次郎が、この世の中が住み辛いのは真ではあるが、甚五郎のような奇天烈な変人には、住み辛い時代はないだろうと言い出し、大笑い。
 「おう、馬鹿な事を言っていねえで、あっしは虎を始末したもんで、ちいとばかり疲れちまったい」。



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浜の七福神 112

2014年07月17日 | 浜の七福神
 「円徹、なんでまた川になんかへえったんだ」。
 何時にない文次郎の厳し口調に、身を固くする円徹。
 「親方も文次郎兄さんも、ちっとも話を聞いてくれないし、大江屋さんは、すっかり養子にならないかと話を進めていて…」。 
 「おい、円徹。言い訳はしちゃならねえ。川に近付いたかを聞いてるんだ」。
 男は言い訳をするな。それも甚五郎の教えである。
 「猫がいました。見た事もない大きな猫で、人くらいの大きさでした」。
 両の手を、左右に開いて大きさを現したいのだが、それでも足りない程に大きかったと円徹。
 「それで、猫を見たくて川にへえったのかい」。
 済まなそうに頷く円徹の頭を、そっと撫でる甚五郎。
 「良いか、その時の思いだけで、判断を誤っちゃなんねえぞ」。
 「はい」。
 円徹は、文次郎の袖を引く。
 「文次郎兄さん、可哀想だったんだ。追って来た侍に斬られてしまって」。
 えっと眉根を寄せる文次郎。囁くような声であったが、聞きかじった甚五郎が、これまた眉間に皺を刻むのだった。
 「円徹、それでその虎、いや猫は無事だったのけ」。
 「斬り付けられましたが、西の方へ逃げて行きました」。
 文次郎の陰に隠れる円徹。お前を怒っているのではないと甚五郎が告げる。だが、その険しい顔付きは、何かを思い巡らせている事だけは確かである。
 「円徹。猫を助けようとしたのか」。
 こくりと頷く円徹。それを何故黙っていたのだと甚五郎が言えば、善行は人に洩らすものではないと、母に教えられていたと言う。
 これまでの話や言葉遣いから、円徹の出生をかなりの名家と、甚五郎も文次郎も確信する。
 「親方、やはり備前片上ですかい」。
 「ああ、ここいらで虎と言えば、光明寺しか心当たりがねえ」。
 急ぐぜと相変わらず、眉間に皺を寄せたままの甚五郎に、何かいけない事を言ったのかと、心がざわ付く円徹だったが、とうてい話し掛けられる雰囲気ではなかった。
 「御坊、おおい、住持いるかい」。
 大きな声で住持を呼ぶ甚五郎であったが、住持の姿を待ち切れずに、十一面観世音菩薩を祀る本堂正面の欄間に目を光らせるのだった。
 「やっぱりこいつかい」。
 見れば左の前足に、血がこびり付いたような黒い痕が残る。
 「どなたかと思いましたら、甚五郎親方ではありませぬか」。
 「住持様よ、こいつが斬られたってんで、しんぺえになって来てみたんだがよ」。
 住持は咳払いをひとつすると、欄間の虎の経緯を話し出すのだった。





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