大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

のしゃばりお紺の読売余話85

2015年03月31日 | のしゃばりお紺の読売余話
 何が何やら解らないが、幸いしたのはここが長屋だということ。長屋の女たちは得てして読売に負けず劣らず噂話が好きなのだ。ちょっと水を差せば後は怒濤の如く話し出す。
 間もなく夕餉の支度に掛ろうかといった刻限である。ひと度門まで戻り、お紺は住民が井戸を使いに遣って来るのを待った。
 「ちょいとおかみさん。この長屋にお峰さんっていう人はいませんかねぇ」。
 出任せである。
 「お峰さんかい。そんな人はいないけど…お前さんは…」。
 太り肉の血色の良い三十半ばほどの女房が、お紺に胡乱な目を向ける。それもその筈、お峰なんて存在しないのだから。
 「あたしは、お峰ちゃんとは幼馴染みでしてね。あたしは未だ小さい時分にひっこしちゃったので、それっきりなんですが、この辺りに用があったものですから、確かこの長屋だったと思って、寄ってみたんですよ」。
 「そうかい、でもあんたが子どもの頃なら随分と前だろう」。
 「ええ、まあ」。
 (それほど前ではない)。
 だが如何にも面倒見が良さそうなその女房は、ほかの女房たちにも聞いてくれ、気が付けば四五人の人だかりとなっていた。
 「お峰さんかい。聞いたことないねえ」。
 「そうですか。確か、一番奥の、そうあの部屋だったと思うのですが」。
 先程金次が訪った部屋を指差す。
 「あすこは、随分前から空き家だったから、その前に住んでいたかも知れないねえ。だけど、あたしが来た時には、もう空き家だったよ」。
 一番古手の女房である。
 「ならどこかに引っ越したか…お嫁に行ったのかも知れませんね。おかみさんは何時、こちらに」。
 「そうさねえ、もう八年前になるかねえ」。
 「じゃあ、それからも空き家のまんまで」。
 「ああ、それが、この前夫婦もんが越して来たんだよ。八年いや、それ以上も空き家だったもんだから、わっちら皆で掃除してねえ」。
 (夫婦者)。
 「それはお峰ちゃん…の訳ないか」。
 些か無理があるが、女房たちの手はすっかり止まり、話に花を咲かせようと意気込んで見えた。お紺の思うつぼである。




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のしゃばりお紺の読売余話84

2015年03月31日 | のしゃばりお紺の読売余話
 金次の腹の底から響く様な声に圧倒されるが、読売を馬鹿にされたままでは引き下がれない。
 「よそ様はどうか分かりませんがね、うちの読売は嘘なんか書きやしませんよ」。
 話を盛って書くことはあるがと、独りごちた。
 お紺が真っ赤になって怒るので、金次は溜まらず口元を歪め、薄い笑いを浮かべる。それがまた、馬鹿にされたようで癇に障るお紺。
 「そいですかい。お前ぇさんの意気込みは伝わって参りやした。ですが、あの火事のこtであっしが知っていることはありやせん」。

 何ひとつねたを拾えなかったお紺は、帰り道舌打ちを鳴らしながら、掘り割りに小石を蹴り入れた。
 (喰えない男だったねえ。けど、笑いもんにされたって誰のことを言っているのさ)。
 金次に読売を馬鹿にされ、自身は小娘扱いされて口惜しいお紺は、踵を返すと、金次のyさを張ることに決めた。
 (あいつ、何かを絶対に隠している。そうでなくとも、華の火消しの裏の顔を暴いてやるさ)。
 こういった、個人を攻撃するかのような物見遊山を金次は非難していたのだが。
 待つこと一時。細い縞の着流し姿の金次が、手に風呂敷きを握り雪駄を鳴らしながら何処かへと向かう。それを物陰に隠れ隠れしながら追うお紺。すると、冬木町の裏長屋の門を潜るではないか。
 (何だい。こんな裏長屋に女でも囲っているっていうのかい。ちっ、時化た男だねえ)。
 金次の足は、一番奥まった高架に近い油障子の前で止まると、「いるかい」と、訪ないを入れた。
 中から、声がしたのだろう。お紺の場所からは聞き取れなかったが、直に金次は油障子を音を立てて中へと消えた。
 お紺は裏長屋から通りへと出る一本道の小路にある番太の見世先で、焼き芋を食べながら待つことにした。
 四半時の後、金次がその番太の見世の前を通り過ぎたが、手に持っていた風呂敷はなくなっていた。
 お紺が先程金次が入った裏店を、表から覗き込むのに難はなかった。何せ障子は破れ放題で、保護紙を当てようといった気配りもなかったからだ。
 薄暗い室内には、薄い夜具が置かれ、そこに横たわる女の髷を下ろした髪が見えた。
 (やっぱり女か。でも、あの人、病いじゃないかしらん)。
 女の枕元には竹皮の包みと、浴衣らしき物がきちんと畳まれて置いてある。先程の金次が手にしていた風呂敷と丁度同じくらいの大きさだ。




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のしゃばりお紺の読売余話83

2015年03月29日 | のしゃばりお紺の読売余話
 鼻の穴が広がるくらいの意気込むお紺だ。すると金次は腕組みをし、暫し目を瞑って思い出そうとしているのか、それともお紺の問いを忌々しく感じているのか解り兼ねる。
 「お紺さんとやら、はっきりとは覚えてやせんが、口元が動いたのは、早く来なせい。とでも申したんでござんしょう」。
 火事場では当たり前の言葉だと言う。
 「本当にそれだけでしょうか」。
 「疑り深けえお人だ。じゃあ、あっしが見殺しにしたとでもおっしゃりてえんで」。
 「そうは言っていませんがね、お信さんは例え助かったとしても、良くて遠島。火炙りだって有り得た訳でしょ」。
 「火消しを見くびっちゃいけやせんや。例え火炙りだと決まっていたって、火事場で逃げ遅れていたら助けるのがあっしらの役目ですよ」。
 金次は些か苛立ったのか、口調に棘が感じられた。だが、お紺があの時に見た金次の口元は、「早く来なせい」ではない。もっと長い言葉だったのだ。しかし、真実を聞き出すことは至難の業だろう。
 「ひとつ伺いてえんですが、お前ぇさんら読売は、人様の不幸を飯のねたにしていることをどう思いやすか」。
 「えっ…、あたしらは決してそんな…」。
 「そうですかい。今度のことだって、死んだ女郎のことを調べてどうなする」。
 その口調は、死人に鞭打つつもりかと言っているようだ。
 「あたしは、ただ、火事を繰り返さないように、火事の恐ろしさを伝えたいだけです」。
 少しばかり湿った声のお紺である。
 「だったら、女郎のことなぞ書かなくても、火事の恐ろしさだけを伝えれば良いだけじゃねえんですかい」。
 「それはそかも知れませんがね。どうして火事になったのか、その訳は書かなくちゃなりませんよ。そうしなきゃ巻き添えで死んじまった人や、その家族は救われないじゃありませんか」。
 自分でも意外なくらいに、大きな声で、金次に詰め寄るお紺だった。
 「そうですかい。真にそうお思いですかい」。
 「勿論です。読売は、あなたが思っているような、金棒引きの興味本位な物じゃありません」。
 「だったら、読売に書かれたがために、外を出歩けなくなった人がいたとしたらどうなさる」。
 「どういう意味でしょう」。
 「読売に面半可にあることないこと書かれ、笑いもんにさたお人をどう思いなさると聞いてやすんで」。




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のしゃばりお紺の読売余話82

2015年03月27日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「だから無理なんだってばよ」。
 「無理じゃない。朝さんがそうやって意地の悪いことばかり言うんなら、あたしひとりだっておえんさんを救ってみせる」。
 お紺はふんと鼻息荒く立ち上がると、朝太郎の膝を蹴飛ばし框から下りた。後ろから朝太郎の「痛ぇ」とか、「この、ひょうたくれ」とか、「ちょっと待ちねえ」とか聞こえていたが、そのまま油障子をわざと大きな音をたてて閉めたのだった。
 (とは言ったものの、一体どうやったら良いのやら)。
 お紺は宛もなく、歩くうちに、気が付けば大川渡り、深川佐賀町南三組の火消しの頭の元へと足を向けていた。
 「あっしが金次ですが、読売屋さんがどんなご用件で」。
 訪ないを入れたお紺の前に現れた金次は、間近で見れば見るほど滅法界男前で、女子なら誰でも恋いこがれる養子だろうと、お紺は漠然と思ったほどだ。
 「あ、あたしはお紺と申します」。
 訪ないの時に、「横網町の読売屋」だと伝えていた。
 「木挽屋の火事の様子を知りてえとおっしゃられましても、あっしらは火を消すのが仕事でして、それ以外のことは分かりやせんが」。
 (良い男は口も堅い)。
 これがそこいらの熊さんや八つっあんなら、何をもったいぶってと思うところだが、男前なら、何でも許せるから不思議である。
 「はい。その知っていることだけで結構です」。
 「と申されやすと」。
 「あの火事の晩、あたしは屋根の上から、若頭がお女郎さんを助けようと二階に梯子を掛けて上ったのを見ていたのです」。
 すると金治は懐手に、「ああ」と頷く。
 「あの時のお女郎さん、お信さんと言うそうですが、そのお信さんのことで、知っていることなら、何でも構いません、教えてくださいませんか」。
 「あっしは火消しですぜ。火事場で人を助けは致すやすが、いちいち素性までは分かりやせん」。
 言われなくても最もであることはお紺も良く分かっている。
 「でも、あたし、見ちまったんですよ」。
 「何をで」。
 「あの時、助けようとすれば出来た。だってお信さんに手を伸ばせば届く所に居たじゃありませんか。その時、あなたさんはお信さんと何かを話ましたよね。ええ、声は聞こえませんでしたけど、口元が動くのをはっきりと見たんですよ」。




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のしゃばりお紺の読売余話81

2015年03月25日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「これがあたしが聞いた話全部だよ」。
 「それよりお前ぇ、火事の読売も売り歩かねえでそんなとこをほっつき歩ってたのかい」。
 お紺は梅華から聞いた話を朝太郎にしゃべった。父の庄吉なら、おえんと直次郎の道成らぬ話も絶対に読売に載せると言い兼ねないからだ。庄吉は読売が売れる為なら何でもするのだ。
 「だから、前に朝さんも言っただろう。読売で世間様を動かしておえんさんを救い出すのさ」。
 「ああ言ったなあ、けど、本人が今のまんまで構うなって言ってんなら話は別だ。そっとしといてやんな」。
 「馬鹿だねえ。言い訳ないじゃないか」。
 「けどよ、肝心要な話は書けねえんだろう。だったら漸く巡り会った兄妹がどうして死ななきゃなんねえのか、金棒引きが騒ぎ出すぜ」。
 そうなのだ。作太郎が死を選んだ訳をひねり出さなくてはならない。
 「だから朝さんに相談しているんじゃないか」。
 「おきゃあがれ。こちとら絵師だ。そこを考ぇるのがお前ぇの役目だろう」。
 お紺は上目遣いに朝太郎を睨み、頬をぷーっと膨らませる。するとすかさず「怒ると膨れるところなんざ河豚そっくりだ」と、意地の悪い言葉が浴びせられる。
 「おえんさんは不治の病だったんだよ。それで可哀想だってんで作太郎さんが一緒に…」。
 言うか言い終わらぬうちに。朝太郎が頭を横に振る。
 「直ぐにばれらあ。そしたら読売が嘘だったって言われるぜ」。
 (だって嘘なんだから仕方ない)。
 「おえんさんが作太郎さんを好いてしまった…」。
 「もうひとりの兄さんとの仲をしゃべる者んの呼び水にならあ」。
 (そう頭ごなしに言わなくても)。
 「じゃあ、作太郎さんの方が分けありだったってえのはどうだえ」。
 「死人に鞭打つこともあるめえ」。
 (だったら、あんたが良い案を考えとくれよ)。
 「分かった。火消しだよ。火消し。おえんさんは前に頭の娘と男を取り合ってたんだよ」。
 「じゃあ何けぇ。火消しの頭を敵に回すのけ。そりゃあ無理だ。江戸っ子は火消しが大ぇ好きときてる」。
 (八方塞がりじゃないか)。
 お紺は黙り込んだ。




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のしゃばりお紺の読売余話80

2015年03月23日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「それで、諦めたのですか」。
 梅華は頭を横に振る。
 「旦那に頼んで銭を拵えて行ったのさ。そうしたらおえんに断られちまったよ」。
 「えっ、に落とされたままで良いって…」。
 「ああ。借金のためでもなく、誰に縛られる訳でもなく生きるのは初めてだって。それに、作太郎兄さんは自分のために死んだんだ。だからその罪は生涯を掛けて償いたいってさ」。
 どれだけ悲惨な生き方をしてきたのだろうと、梅華は誰に問う訳でもなくつぶやいた。
 「でも、姐さんはそれで良いんですか」。
 「良いも悪いも、おえんが選んだんだ。わっちにはどうしようもないさ。それにしても天運ってえのは気まぐれなもんだねえ。死ぬはずのおえんが生き残って、作太郎兄さんが死んじまったんだから」。
 そしてこうも言った。
 「これでも読売に書くかえ」。
 「作太郎さんとおえんさんが、兄妹だったことは書かせてください」。
 「すると、どうして兄妹で死ぬことを選んだのか、いらぬ詮索をされるねえ」。
 「そこは巧くかわします」。
 「どうやってさ」。
 「こう見えても、読売お紺です。任せてください」。
 読売お紺ではなく、ただの出しゃばり、のしゃばりお紺だが、お紺は胸をどんと叩いた。張り切って叩き過ぎたので、咳き込んでしまったが。
 「直次郎さんのことは書いても構いませんか」。
 深川山本町の木挽屋の火事は、女を喰い物にする直次郎が原因だったとお紺は書きたい旨を告げる。
 「ああ、あんなろくでなしは好きにしとくれ。ただし、おえんのことは」。
 「勿論です」。
 直次郎は早くから家を飛び出していたので、おえんが生まれたことも知らない。そして、いまだにおえんが実の妹だという事実も知らない筈だと梅華は言う。
 「作太郎兄さんは生真面目過ぎたんだよ。おえんに直次郎兄さんのことなんか知らせなくても良かったものを」。
 梅華は如何にも口惜しいと、目を潤ませた。




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のしゃばりお紺の読売余話79

2015年03月21日 | のしゃばりお紺の読売余話
 作太郎は直ぐさま、三國屋で奉公出来るように取り計ろうとするが、作太郎が実家と関わるのを嫌う舅の藤衛門によって会うことも適わず、僅かな銭を恵まれ追い払われてしまう。
 唯一の宛を失った若い娘が行き着くところは知れている。ご多分に漏れずおえんも、浅草広小路を宛もなく歩いていたところ、若い男に声を掛けられ割り仲となると、深川八幡の水茶屋八幡へと売られたのだった。
 どうして岡場所ではなく、水茶屋だったのかは不明だが、借金を背負っての奉公は同じである。僅かな食い扶持で朝から晩まで働いているうちに、それが当たり前となった頃、深川南三組の火消し・太助に出会い、夢を描くようになったのだった。
 だがその夢は余りにも儚く淡いものだった。太助は組頭の娘を選び、おえんはまたひとり取り残された。
 おえんが自暴自棄になっていた頃、漸く作太郎がおえんを探し当てたのだが、これが災いをもたらすこととなったのだ。
 おえんの身の上話を聞いていた作太郎の顔色がさっと変わり、嗚咽を洩らした。そして、人の道を外れたからには、死んでくれとおえんに懇願したと言う。おえんひとりを死なせるのは忍びないので一緒に逝こうと。

 「これが、わっちがおえんから聞いた話え」。
 梅華の長い長い話が終わった頃、お紺は鼻の奥がつんと痛くなり、目頭を押さえていた。そんなお紺の様子を見た梅華は、「もうお分かりだね」と言う。
 「あんたの思っているとおりさ。おえんを水茶屋に売り飛ばしたのは、直次郎兄さんだったのさ。互いに兄妹とは知らなかったとはいへ、畜生にも劣るこんなことを、あの真面目な作太郎兄さんが許せる筈もない」。
 梅華は、「馬鹿だよ」と、誰とはなしに毒ずくのだった。
 「だったらお奉行所に二人は兄妹なので相対死ではないと、訴え出ればおえんさんは救われるのじゃないですか」。
 「それが、おえんは、実の親に名も付けて貰えなかったくらいだ。人別に入っていたこともないのさ。わっちだって、当時の差配さんを証人に、奉行所へ掛け合ったさ。けど、証しがない以上信じちゃ貰えなかったのさ」。
 「そんな…」。
 「それに、作太郎兄さんとおえんが兄妹だと分かったら、どうして死んだのかをあんたら読売に探られるだろう。そんなことになったら、おえんと直次郎兄さんのことが明るみに出ちまうからね」。




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のしゃばりお紺の読売余話78

2015年03月19日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「わっちの生まれた家はそりゃあ貧しくてねえ。わっちら子どもは、金屑や紙屑を拾ったり、蜆を採ったりして小銭を稼いだもんさ。そして未だ年派もいかないうちに、口減らしのために奉公に出されたのさ。でもね、奉公なら未だ良い。作太郎兄さんが奉公に出て暫くして姉さんがどこかに売られていっちまってそのまんま。生きているのか死んでしまったのかも分かりゃしない。わっちは幸い、貰われた先が芸妓だったからねえ」。
 幸い芸妓として中井に貰われたと言う梅華の言葉の裏には、幸いでなければ女郎であろうといったいんが含まれていた。
 「それでも、わっちが仕舞いっ子だったから、兄弟は皆、奉公先に落ち着いて、おまんまには事欠かずに済むとほっとしていたんだよ。それが…わっちが中井に貰われて暫く経った頃、また赤子が生まれていたのさ。わっちも一度だけ見たけどね、紅葉のような手が可愛くってねえ」。
 梅華はしゅんと鼻を啜り上げる。
 「その子がおえんさんなのですね」。
 「生まれて間もなく、葛西の大百姓の家に養女に貰われたって聞いたねえ」。
 「なら、それっきり会ってはいないのですか」。
 「ああ。それっきり十五年は会わなかったかねえ」。
 寸の間梅華の目は遠くの宙を追っていたが、お紺に向き直り、居住まいを正すと帯をぽんと叩いて、すっと息を吸った。

 生まれたのは女の子だった。生まれて名も付けられることもなく、赤貧の実の親の元にいては育つ命も育たないだろうと、差配の手配りで葛西の大百姓に養女に貰われていったのだが、両親は裏でその養家から大枚をせしめていたらしい。
 だが、養女となって三年の後、貰いっ子が呼び水となって実子が授かるといった話はよくあるもので、養父母に実の子が宿ったのだ。生まれたのは跡取り息子だった。そうなると、貰いっ子の女の子など邪魔者以外の何者でもない。養父母は直ぐさま差配に申し入れて養子縁組を解消しようとしたが、それを差配に否められ、仕方なく働き手として家に置くことにしたのだった。
 子どもながらに朝から晩まで田畑でこき使われ、暗くなってからは家の仕事をさせられていたおえんは、十六になるとまるで邪魔者を追い出す形で、分限者の妾にされるのを嫌って養家を飛び出した。
 だが身寄りも見知った者もいない江戸府中で、十六の小娘がまともに暮らせようもない。おえんは養父母から聞いていた実父母を頼ったが、父は酒毒で鬼籍に入り、母は既に出奔していた。その長屋で長兄・作太郎のことを耳にし、日本橋の小間物問屋の三國屋を訪ったのだった。





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のしゃばりお紺の読売余話77

2015年03月17日 | のしゃばりお紺の読売余話
 お紺は黙って頷いた。直接ではなくてもお信を追い詰めたのは間違いなく直次郎である。だが、お信との口約束は何ら意味を持たず、単に悲嘆した女郎の嫉妬としてことは処理されていた。
 「はい。姐さんには申し訳ありませんが、このままでは死んだお信さんというお人が気の毒です」。
 「そうかい。あんたは、作太郎兄さんとそのお信さんてお人の汚名をそそぎたいって言うんだね」。
 的を得たりとお紺は膝を詰める。
 「けどね、今更どうなるえ。死んだもんは生き返っちゃこないんだ」。
 「でも、死んでまでも金棒引き立ちに口さがない噂話をされたら可哀想じゃないですか」。
 梅華は、団扇で胸元に風を送りながら、外の掘り割りに目を送っていた。その横顔に掛る鬢のほつれが、妙に色っぽいと、お紺は不謹慎ながら思っていた。
 「お紺さんって言ったねえ。死んじまったらそれまでさ。死んだもんには何も分かりゃしないよ」。
 それでも真実が知りたいとは言えなかった。
 「じゃあ姐さんは、罪は死んだ者が背負って逝けばいいとお思いですか」。
 「あい」。
 「それが実の兄さんでもですか」。
 「あい。わっちは、作太郎兄さんが死んで悲しくない訳じゃない。まともに野辺送りも供養も出来ずに悔しいさ。けどね、生きているもんが第一なんだよ」。
 「だからってどうして、見ず知らずの、相方のおえんさんを救おうとなすったのですか」。
 お紺の一途さに負けたと言わんばかりに梅華は薄く笑い、まるで駄々っ子を宥めるように告げた。
 「ありゃあ相対死じゃないんだ。おえんは、わっちらの実の妹さ」。
 「……」。
 意外な事実に、言葉に詰まったお紺を異にも返さず、梅華は話を続ける。その話しっぷりは、まるでそこにお紺がいないかのように、ひとり言のようでもあった。





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のしゃばりお紺の読売余話76

2015年03月15日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「一年が、二年になって、三年、四年。後は済し崩しさ。だけどね、あたしはお信とは違う。目を瞑っていれば夢をみていられるだろう。だから待っているんだよ」。
 「それって…」。
 おすがは鼻をしゅんとさせる。
 「お信も馬鹿だよね」。
 「おすがさん。あんたも…」。
 お紺は、あの男に騙されたのかと言い掛けた言葉を飲み込んだ。
 「分かっちゃいるんだよ。だけどさ、所帯を持つ為に、出働きに行ったんだよ。だからさ、何時かは帰って来るだろう。ねえ、あんたもそう思うだろう」。
 
 全ては梅華が握っている。お紺は、深川から柳橋の子ども屋・中井の勝手口から訪いを入れた。今度はまどろっこしいことはしていられない。正直に用件を証して梅華へ直接面会を申し入れたのだ。
 利休鼠の小紋にくじら帯を粋に締めた梅華と対峙したお紺。梅華の二人の兄について、知っていることを全て話して貰い旨を伝えた。すると。
 「それを読売にしてどうするつもりかえ」。
 「面白半可に書くつもりはありません。真実を知りたいだけです」。
 「それを知ったところで、今更どうなろうなさろうってのさ。金棒引きがよろこぶだけじゃござんせんか」。
 長兄は相対死。次兄は女衒もどきで、火事の原因を拵えた。仮にも身内の恥を世間に知らすことにどうして手を貸せようか。こうして会ったのは、あれこれ身の回りを詮索されるのが迷惑だからだと梅華は言う。
 それは至極当たり前ではあるが、面白半可に話が膨らんで一人歩きをしているのなら、真のことを世間に知らせた方が良いとお紺は返した。
 「それで誰が得をするのかえ」。
 「誰も得はしません。ですが同じことを繰り返さないためにも、真実を知らせなくてはならないのが読売の使命だと思っています…いえ、そんな奇麗事じゃありません。あたしが一番の金棒引きなんですよ。けどね、金棒引きでも嘘は大嫌いなんです」。
 正直だと梅華は薄く口元をほころばせた。
 「それに…」。
 「それになんえ」。
 「はい。先の相対死の際に、姐さんは生き残った女の方を送りから救おうとなすっていたと聞いています。姐さんの兄さんを死に至らしめた相方をどうしてなのかもあたしには分かりません。それに、今度の火事では多くの死人が出ています。なのに…」。
 「なのに、直次郎兄さんにはお咎めがないってこってすか」。





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のしゃばりお紺の読売余話75

2015年03月13日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「これは…」。
 「そう、今朝の読売さ。今の話は全てこれに書かれてるよ」。
 (だったら何だって最初にそう言わないんだ。それよりもさっき渡した銭を返せ)。
 お紺は怒りに拳が震えた。そんな様子さえ面白そうにおすがは細い目を吊り上げてほくそ笑んでいる。
 「ちょっと待って。これじゃあ、合惚れの二人に悋気したお信さんひとりが悪者じゃないか」。
 人三化七のお信が、桜花を追いすがり、その桜花をかばいながら肩を抱いて逃げる男の挿絵が描かれ、まるでお信の狂言のように文が書かれていた。
 「おすがさんの話とは真逆じゃないですか」。
 「そうかい。あたしは字が読めないからねえ」。
 挿絵を見て、大凡の見当をつけていたらしい。
 「だからさ、あんたの読売にゃあ本当のことを書いて欲しいのさ」。
 事実を書いたとしても今更である。これだけ美談に書かれていたら、如何に事実だろうと勝ち目はないだろう。
 「どうしてあの女衒以下の男が、ここまで持ち上げられているか分かるかい」。
 (分かる筈もない)。
 「男の妹ってえのが、読売に大枚叩いて書かせたからさ。そうそう、あんた知っているかい。ちょいと前にお店もんと茶汲み娘が相対死したことをさ。その死んじまったお店もんってえのが、桜花の間夫の兄さんさ」。
 お紺の脳裏に、ひとりの芸者の姿が過る。
 「確か、柳橋の…」。
 「おや、知っているじゃないか。中井の芸者で梅華ってんだけど、一度に兄さん二人が大変なことになっちまったんだ。生き残った方は助けたかったんじゃないかい」。
 (そうと分かればこうしちゃいられない。梅華に会わなくては)。
 「おすがさん。最後にひとつだけ教えてくださいな。胡蝶のお女郎さんは皆、証文を返されて自由の身になったって聞いてますけど、どうして…」。
 「どうしてまた女郎をやってるかってえんだろう。あたしもさ、真底好いた男がいたのさ。所帯を持つ約束をしてね。だけど、所帯を持つ為に店を出したいって言うんだ。その為に銭が必要だろう。だから一年だけ、一年だけ辛抱して欲しいって言ってね」。
 お紺は目を白黒させていた。




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のしゃばりお紺の読売余話74

2015年03月11日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「木挽屋さんに…どうしてそんな目と花の先に」。
 「それさ。その男はね、木挽屋の桜花の間夫(まぶ)なのさ。そもそも、桜花を身請けする銭欲しさにほかの女を騙してるってな寸法さ」。
 「それもお信さんに伝えたので」。
 おすがはこくんと頷く。お紺の頭の中では糸がぐるぐると巻き付いていった。
 木挽屋と目と花の先の胡蝶にお信を売ったのは、ほかに引き取り手のないご面相だったからだとも言う。胡蝶は、年増や不器量でも親身に世話をしてくれるので知られていたのだ。
 「桜花以外には情の欠片もない男だからね。手前ぇで売り飛ばした女のことなんか三日も経てば忘れちまうのさ」。
 それで桜花の部屋で付け火をした訳が分かった。だが、お信が殺めたかったのは己を騙した男だったのか、それとも恋敵の桜花だったのだろうか。
 「でも、どうして付け火なんかしたんでしょうねえ」。
 「ああ、簪を髷から引き抜いて『殺してやる』って叫んでたから、揉み合っている内に行灯を倒したんだろうさ。お信だってまさか、手前ぇが死んじまうとは思ってもみなかったろうよ」。
 「殺してやるって、どっちをでしょう」。
 「さあて。桜花の方じゃないかい」。
 憎むべきは男ではないか。どうして桜花をと、お紺が言い掛けた時、それまで憎々しい物言いだったおすがが、ふと寂しげな眼差しを伏せた。
 「お紺さんって言ったかねえ。お前さん。好いた男はいるかい」。
 「えっ、あたし…あたしは」。
 予期せぬ問い掛けにお紺はどぎまぎとして、声が尻上がりに上ずった。するとおすがは、含み笑いを浮かべた。
 「女ってえのはねえ。真底好いた男は、どんな奴でも憎めないものなのさ。だからその憎しみの先が、ほかの女に向かうものなのさ」。
 「それで桜花さんを」。
 桜花にしてみれば良い迷惑である。
 「大方、桜花さえ居なくなれば、男の心変わりが止むとでも思ったんじゃないかね。どこまで馬鹿な女なんだい。お信ってえのはさ」。
 「ひとつ分からないことがあるんですがね。お信さんはどうして火消しの助けを断ったんだろう」。
 「さあて、まんいつ助かったとしても火炙りのお仕置きが待ってるんだ。火の中で死んじまっても同じだとでも思ったんだろうよ」。
 おすがは投げやりにそう言うと、煙管をつかう。
 「全く、良い迷惑さね」。
 それはそうだろう。
 「あんた、存外に良い奴だからひとつ教えてあげるよ」。
 そう言うと、懐からきちんと折り畳んだ一枚の紙切れを取り出し、お紺に差し出した。それを手に取ったお紺は、腰を抜かしそうになった。





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のしゃばりお紺の読売余話73

2015年03月09日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「あたしは読売をやっている者で紺と言います。あの火事の原因を調べていましてね」。
 「それで火事を面反可に書こうってのかい」。
 「それは姐さんの話次第ですよ」。
 「お紺さんだっけねえ。面白い事を言うねえ。あたしの話次第だってぇ。そんじゃあ、まるであたしの話が面白くないみたいじゃないか」。
 女郎同士が客を取り合っての角突き合わせなら、面白くも何ともない。
 「もしも、もしもさ、あたしの話に得心がいったら、もうちょっと弾んでくれるかい」。
 袖の下を要求している。
 「いいですとも。ただし、その話が売れそうかそうでないかは、あたしが判断させて貰いますよ」。
 「ああ。じゃあ、どこから話そうかねえ」。
 「付け火をした女のことからお願いしますよ」。
 「付け火をしたのは、お信ってな名さ。惚れた男に騙されて女郎に叩き売られた馬鹿な女だよ」。
 「騙されたですって」。
 「ああ、女を込ましておいて、所帯を持つ銭がないって女郎に叩き売る、女衒より質の悪い男でねえ」。
 「じゃあ、その事実に気付いて」。
 おすがは、意地悪そうに細い目をうっすらと細める。
 「何時迄経っても気が付かないから、あたしが教えてやったんだよ」。
 「どうしてまたそんなことを」。
 「だって哀れじゃないか。毎日毎日、来る筈のない男を待って客を取るなんてね。あたしは親切で教えてやったのさ。それなのに」。
 親切心ではあるまい。意地悪な心がそうさせたのだろう。それは、お信を気に入らなかったからか。
 「どうしてそれをご存じなんです」。
 「あの男は手前ぇの女にしておいてから、叩き売るので知れているのさ」。
 「ほかにも、お信さんのような女の人が居るのですね」。
 おすがは面倒臭そうにああっと頷く。早く先を話したくて仕方ない様子である。お紺は黙って、おすがに話を渡した。
 「丁度その男が木挽屋に姿を現したんで、お信に教えてやったのさ。そうしたらお信の奴、血相を変えて飛び出して行ったよ」。





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のしゃばりお紺の読売余話72

2015年03月07日 | のしゃばりお紺の読売余話
 火付けは重罪であり、その罪は火炙りの刑に処せられるが、女郎が仕出かした場合は、その境遇を慮り遠島で済まされることもあった。かといって、世間を騒がせた罪は罪。雇い主にも管理責任の咎は及んだのである。
 「すると、見世にいた女の方たちは、宿替えですか」。
 「いや、そうじゃねえ」。
 「胡蝶の旦那ってえのが出来たお方で、何処の見世でも引き受けねえ年増やご面相の悪い女たちを雇ってたってえんだ。そこの女たちの行き場所なんか、せいぜい、あひるか宿場女郎くれえなもんさな」。
 したり顔の男が割って入った。どうやら女郎たちは、最下級の見世へと宿替えになったらしい。佃島の岡場所はあひると呼ばれていた。あひるであれば、そう遠くもない。
 「でな、どうせ沽券はお取り上げとなったんだってんで、旦那は女たちをみいんな自由の身にしてから江戸を離れなすったのよ」。
 自由の身となったとはいえ、身元引き受け人も居ない女郎上がりが全うな職にありつける筈もなく、もはや国元へも帰れない者は、やはり女郎となるしかない。夜鷹や地獄、ほかの見世へと移っていったと言う。
 「確か、あひる河岸に、火事の様子を語るってなこって、物珍しさに客が付いている女郎が居るってな話だ」。
 素人の女がひとりでは、憚られるが、朝太郎を迎えに行く間も惜しい。お紺は、あひる河岸へと橋を渡った。正確には橋を渡りながら、ここから女たちは売られて行ったのだと思うと、鼻の奥がつんと熱くなった。
 先達ての火事の模様を見て来た様に語る女は、直ぐに見付かった。それで客引きをしている女をほかの女郎たちが面白く思っていなかったからである。
 蓮っ葉な物言いで、女の名はおすがだと直ぐに教えてくれた。最も袖に銭を滑られてのことだが。
 「これは珍しいねえ。女の客かい」。
 「いえ、あたしは火事の様子を知りたいだけで」。
 ふうん。と顎をしゃくるおすがは、着物の着崩し方から髪の結い方から、何を取っても胡散臭さの漂う様な女だった。酒焼けの声も、そう思わせるには十分なものがある。
 「どうして火事の様子を知りたいのさ」。
 こういった女には、嘘の素性を語るよりも読売だとはっきり伝えた方が効果があることをお紺は知っていた。ただし、事情通を嘯き、大分上乗せして事実を話すので注意も必要である。






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のしゃばりお紺の読売余話71

2015年03月04日 | のしゃばりお紺の読売余話
 読売が売れたのには、火事でお信に恨みを抱く人々が、人三化七とまで書かれたお信を嘲笑することによって少しばかり鬱憤を晴らしているのだ。そんな庄吉の言い分も分からなくはないが、お紺は、やはり同じ女としての同情を否めない。
 「ねえ、朝さん。朝さんはどう思うかえ」。
 心に迷いを秘めたお紺は、朝太郎を訪っていた。
 「どうって、お紺ちゃんは、本当の訳を知りてえんだろう」。
 お紺は、こくんと頷く。
 「だがよ、世間にゃあ、知らなくても良い真実ってえのもあるんだぜ」。
 「なによ、朝さんもおとっつあんの見方なのかい」。
 「そうじゃねえよ。そうじゃねえけどよ。仮に真実が分かったとして、それがもっとお信を辱めるようなことだったらどうする」。
 「人三化七以上に女子を辱めることなんかあるものか」。
 お紺の声は大きくなる。その声に、朝太郎は耳を人差し指で塞ぐ動作をしながら眉を潜めるのだった。
 「あるさ。ほかの人には決して知られたくねえことがよ」。
 「あたしにはないよ」。
 「そらあ、お紺ちゃんにはねえわな」。
 子ども扱いされたのが妙に癇に障ったお紺。けらけらと笑う朝太郎のやさを飛び出した。女として、器量を妬んだだけで、あれほどの大罪を仕出かすとは信じ難かったのと、死して直、世間に嘲笑されるお信が惨めに思えたのである。
 お紺の足は、火事場の深川山本町へと向かった。そこでは、土手組が始末を付けている真っ最中だ。
 「お尋ねしますがね。胡蝶ってえ見世はどうなりました」。
 「誰だね、お前ぇさん」。
 「ええ、ちょいと胡蝶の女将さんの知り合いのもんでして」。
 男はお紺の問い掛けに面倒だとばかりにぞんざいな物言いで答える。
 「この火事の科人を出したってえんで、家財没収さね。最も焼け尽くされて家財なんぞ、何も残らなかったけどね」。
 「では、ご主人と女将さんも罪を問われて…」。
 牢に繋がれているのか。
 「女郎の仕出かしたこった。お上にもお慈悲はあらあな。江戸所払いで済んだってな話だぜ」。





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