大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 俎上の魚十一

2011年07月22日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 兄が大声で、鶴二に、「お前が松菊を殺ったのか」。と怒鳴りつけたところ、あの鶴二のどこにそんな力強さがあったのかという程の声で、「松菊はあたしが面倒を見てたのさ。それを兄さんが横取りしたんじゃないか」。と始まり、終いには、「あたしの銭が兄さんの遊び賃になるなんぞ許せねえ」。それはまるで鬼の形相だったと言う。
 「銭でしたか」。
 千吉はふうと深く息を吐き、肩をがっくりと落とした。
 「惚れた女をほかの男に取られての嫉妬よりも、銭の方が勝るとはなんとも」。
 加助も驚きの色を隠せないでいた。
 だが、小一郎の口からは更なる驚きの言葉が飛び出す。
 「それが、己の息子が獄門になるやも知れぬというに、あの母御は銭の心配をしておったのです」。
 それは、鶴二と兄の調べを終えた小一郎が番所を出た時だった。目を吊り上げ、髪を振り乱し、着付も緩みまるで鬼畜のような鶴二の母親が、小一郎の袖を掴むと、「鶴二がいなくなったら、どうやって暮らしていきゃあいいんだい。旦那はあたしら親子三人を飢え死にさせる気かい」。と、まるで鶴二は家族のための礎のような言いざまだったと小一郎は、「親子の思慕よりも深い欲というものを初めて知りました」。と、物悲しそうに言う。
 「色男より稼ぎ男とは言うが、稼ぎ息子であるか。鶴二も気の毒よのう」。
 横から思わぬ声と同時に手が伸び、由造たちの徳利に手が伸る。
 「兄上、我らの酒を呑んでいる御仁は、お知り合いですか」。
 小一郎は初めて見る厚かましい顔に驚くが、由造たちは周知のことらしく驚きもしない変わりに、
 「濱部様、今日は勘定は別。切合にも奢りもなしですぜ」。
 由造がそう叫ぶと、濱部は実に情けない顔になる。
 「元はと言えば濱部様が鶴二を柳橋に連れて行ったこちに始まるのだけど、まるで人ごとだ」。
 「いや、千吉。柳橋でなくてもいずれ鶴二は同じようなことを仕出かしただろうさ。なあ、由造」。
 加助はあっさりとしたものだ。
 「そうだな。愛し方も愛され方もあの年になっても知らなんだからな」。
 「鶴二は、俎上の魚だったってことさね」。
 育ちに感じられなかった愛情を人一倍求めていたが、夢想の中で思い描いたように世の中は進まないことさえも知らなかった男の不運であった。


俎上の魚(そじょうのうお)完
 相手の思うままになるよりしょうがない立場に立たされていることのたとえ。

次回は
相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ
 人が人を好きになるには、いろいろな形があるということ。
 川瀬石町裏長屋の母親くらいの年の年増に惚れられた千吉の受難のお話。  


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雑学の勧め 桜田門外の変その後

2011年07月22日 | 雑学の勧め
 桜田門外の変で主君・井伊直弼を打ち取られた彦根藩士はその後どうなったのか。
 水戸過激派浪士の襲撃で、生き残った者の内、軽傷者、無傷の者は、「殿を守り切れなんだ」ということで全員切腹。重傷者のみが井伊直弼の領地であった下野の国は佐野に送られ、蟄居となりました。
 襲撃した側もされた側もほとんどが命を失う結果となったのです。
 しかし、常に思いますが、武士道とはどうしてこうも散らさなくてもいい命を散らすものなのでしょうか。胸が痛くなります。
 新撰組だって、戦で命を失った隊士よりも暗殺や切腹の方が多かった様で。現に戦場で死んだ幹部は井上源三郎と土方歳三のみ(原田左之助は彰義隊に入ってからなのでカウントしていません)。
 武士道っていったい…。



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縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎~ 俎上の魚十 

2011年07月22日 | 縁と浮き世の通り雨~お気楽ひってん弥太郎
 「おい由造。お前さん近頃捕り物に関わってるって噂だぜ。一体なにをしてるんだい」。
 声の主は幼馴染みの千吉。所は毎度お馴染みの川瀬石町の煮売酒屋・豊金である。
 「お見限りだと思ってたら、柳橋に顔を出してるそうじゃないか」。
 こちらも幼馴染みの加助である。
 「やれやれ、お前さんらも相変わらずの地獄耳だこと」。
 由造は面倒臭そうにこれまでの一部始終を話すはめになった。
 「そういやこの前、深川に商いで行って来たんだがね、ちょいとばかり鶴二の家の噂を聞いたのさ」。
 千吉が聞いたのは、鶴二の家はそうとうに風変わりで、鶴二以外はほとんど見掛けないのだが、借金に借金を重ねて、店賃も踏み倒しているにも関わらず、医師を名乗る兄だけが景気が良いらしい。
 絵双紙の師匠って方の兄は、家から一歩も外に出ないで売れる宛のない絵をひたすら描いている変わり者で有名だが、医師を志している方の兄は、鶴二とは似ても似つかず、がたいも大きく、顔つきもすゞやか。女子の紐になって暮らすこともできようが、なにせ気性が荒い。
 家からは母親の金切り声や、茶碗の割れる音などが良く聞こえるらしく、近くの人も近づかない有様。
 「鶴二の家は深川か。医師、見栄えが良い…繋がったぜ」。
 由造はすくっと立ち上がると、そのまま闇に消えた。向かった先は八丁堀の義弟・境川小一郎の御用屋敷。

 「それで下手人は鶴二の兄だったんですか」。
 この日豊金には、千吉、由造、加助の面々に加えて珍しい顔があった。由造の義弟で同心の小一郎である。千吉の問いに小一郎は、少し難しい表情をし、
 「それが鶴二でござった」。
 「えっ。あの鶴二かい」。
 由造の頓狂な声が響く。
 「はい。兄上の仰せに従い、鶴二の兄を番所に呼んで問い質したところ、松菊との関係は認めましたが、大事な金蔓を殺すもんかと開き直りまして。どうにも埒が開かないので鶴二を会わせましたところ…」。


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