兄が大声で、鶴二に、「お前が松菊を殺ったのか」。と怒鳴りつけたところ、あの鶴二のどこにそんな力強さがあったのかという程の声で、「松菊はあたしが面倒を見てたのさ。それを兄さんが横取りしたんじゃないか」。と始まり、終いには、「あたしの銭が兄さんの遊び賃になるなんぞ許せねえ」。それはまるで鬼の形相だったと言う。
「銭でしたか」。
千吉はふうと深く息を吐き、肩をがっくりと落とした。
「惚れた女をほかの男に取られての嫉妬よりも、銭の方が勝るとはなんとも」。
加助も驚きの色を隠せないでいた。
だが、小一郎の口からは更なる驚きの言葉が飛び出す。
「それが、己の息子が獄門になるやも知れぬというに、あの母御は銭の心配をしておったのです」。
それは、鶴二と兄の調べを終えた小一郎が番所を出た時だった。目を吊り上げ、髪を振り乱し、着付も緩みまるで鬼畜のような鶴二の母親が、小一郎の袖を掴むと、「鶴二がいなくなったら、どうやって暮らしていきゃあいいんだい。旦那はあたしら親子三人を飢え死にさせる気かい」。と、まるで鶴二は家族のための礎のような言いざまだったと小一郎は、「親子の思慕よりも深い欲というものを初めて知りました」。と、物悲しそうに言う。
「色男より稼ぎ男とは言うが、稼ぎ息子であるか。鶴二も気の毒よのう」。
横から思わぬ声と同時に手が伸び、由造たちの徳利に手が伸る。
「兄上、我らの酒を呑んでいる御仁は、お知り合いですか」。
小一郎は初めて見る厚かましい顔に驚くが、由造たちは周知のことらしく驚きもしない変わりに、
「濱部様、今日は勘定は別。切合にも奢りもなしですぜ」。
由造がそう叫ぶと、濱部は実に情けない顔になる。
「元はと言えば濱部様が鶴二を柳橋に連れて行ったこちに始まるのだけど、まるで人ごとだ」。
「いや、千吉。柳橋でなくてもいずれ鶴二は同じようなことを仕出かしただろうさ。なあ、由造」。
加助はあっさりとしたものだ。
「そうだな。愛し方も愛され方もあの年になっても知らなんだからな」。
「鶴二は、俎上の魚だったってことさね」。
育ちに感じられなかった愛情を人一倍求めていたが、夢想の中で思い描いたように世の中は進まないことさえも知らなかった男の不運であった。
俎上の魚(そじょうのうお)完
相手の思うままになるよりしょうがない立場に立たされていることのたとえ。
次回は
相惚れ自惚れ方惚れ岡惚れ
人が人を好きになるには、いろいろな形があるということ。
川瀬石町裏長屋の母親くらいの年の年増に惚れられた千吉の受難のお話。
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「銭でしたか」。
千吉はふうと深く息を吐き、肩をがっくりと落とした。
「惚れた女をほかの男に取られての嫉妬よりも、銭の方が勝るとはなんとも」。
加助も驚きの色を隠せないでいた。
だが、小一郎の口からは更なる驚きの言葉が飛び出す。
「それが、己の息子が獄門になるやも知れぬというに、あの母御は銭の心配をしておったのです」。
それは、鶴二と兄の調べを終えた小一郎が番所を出た時だった。目を吊り上げ、髪を振り乱し、着付も緩みまるで鬼畜のような鶴二の母親が、小一郎の袖を掴むと、「鶴二がいなくなったら、どうやって暮らしていきゃあいいんだい。旦那はあたしら親子三人を飢え死にさせる気かい」。と、まるで鶴二は家族のための礎のような言いざまだったと小一郎は、「親子の思慕よりも深い欲というものを初めて知りました」。と、物悲しそうに言う。
「色男より稼ぎ男とは言うが、稼ぎ息子であるか。鶴二も気の毒よのう」。
横から思わぬ声と同時に手が伸び、由造たちの徳利に手が伸る。
「兄上、我らの酒を呑んでいる御仁は、お知り合いですか」。
小一郎は初めて見る厚かましい顔に驚くが、由造たちは周知のことらしく驚きもしない変わりに、
「濱部様、今日は勘定は別。切合にも奢りもなしですぜ」。
由造がそう叫ぶと、濱部は実に情けない顔になる。
「元はと言えば濱部様が鶴二を柳橋に連れて行ったこちに始まるのだけど、まるで人ごとだ」。
「いや、千吉。柳橋でなくてもいずれ鶴二は同じようなことを仕出かしただろうさ。なあ、由造」。
加助はあっさりとしたものだ。
「そうだな。愛し方も愛され方もあの年になっても知らなんだからな」。
「鶴二は、俎上の魚だったってことさね」。
育ちに感じられなかった愛情を人一倍求めていたが、夢想の中で思い描いたように世の中は進まないことさえも知らなかった男の不運であった。
俎上の魚(そじょうのうお)完
相手の思うままになるよりしょうがない立場に立たされていることのたとえ。
次回は
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人が人を好きになるには、いろいろな形があるということ。
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