大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

ひょうたくれ~耳を傾けなされ落語家酒楽亭酔狂~118

2012年06月30日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 「がきの頃から、母親に甘やかされて育ってきたんだろう。何でもかんでも思い通りになると思ってやがる。母親の居ないところで、手前ぇの力で生きるって事を覚えなくっちゃならねえんだ」。
 まともな職にも就かず、穀潰しながら女房、子どもを得て、何ひとつ不自由のない暮らしが、芳太郎のような 偏執的な人格を作り出したのだ。
 「して坂巻様。近付けたおなごとは、どちらの娘さんなんで」。
 前に、何か思い付いた風な坂巻に、喜七が「まさか」と口を動かしたのが、平兵衛は気掛かりだった。
 「なに、ちいとばかり知りええの娘さ。まあ娘っててもな」。
 ぽりぽりとうなじを掻く坂巻。
 「坂巻様の小者でございますか」。
 「小者って言うか、そのな」。
 旦那と、喜七が話を引き取った。
 「坂巻の旦那の御同輩、八乙女平八郎様の御三男で友之進様と申されやす」。
 「友之進様と、では男子でございますか」。
 「これが滅法界、男前でやして、女に化けても天下一品でさあ」。
 「はっ…」。
 一向に腑に落ちない顔の平兵衛に、坂巻はこう告げた。
 「本物の女に負けず劣らずで、胆も座って腕が立つと考げぇたらよ、友之進の面が浮かんだのよ」。
 八乙女家は長男が家督を継ぎ、二男は与力の家に婿養子に入っている。後は十八歳の友之進の行く末だけだが、本人は至って飄々と暮らしており、かといって、その侭にしておくには惜しい逸材。
 組屋敷も両家は近く、暇なのか坂巻が非番で、ごろりと横になっている頃を見計らったかのように現れるのだ。それだけならまだしも、坂巻の持ち場の自身番で待ち伏せをしている時もある。
 「友之進様にしてみりゃあ、良い遊び相手なんでさ、坂巻の旦那は」。
 目を細める喜七から、その友之進が坂巻に可愛がられている様子が目に浮かぶ。だが、待てよ。十八なら元服をしている筈。しかも武家の子息。幾ら見栄えが良くても、おなごに化けるのは些か難があると言うものである。
 「それなら、心配ぇいりやせんぜ。友之進様は、月代を剃っちゃいられねえんで」。
 喜七の言葉に、耳を疑う平兵衛。思わず聞き返していた。
 「ああ。あいつは、月代を剃っちゃいねえのよ。何でも、元服の時に月代を剃った手前ぇを見て、男っぷりが下がったって泣いたそうでよ。それから、ずっと束髪にしてるのさ。とにかく変わった奴で、親も手を焼いてるのさ。なあ喜七」。
 「へい。ですから、変わりもん同士。坂巻の旦那と気が合いなさる」。
 「馬鹿言ってるんじゃねえ。俺は、友之進程ひょうたくれじゃねえぜ」。
 ふんと、鼻を鳴らす坂巻に、そういったところもそっくりだ。だから可愛がっているのじゃないかと喜七。友之進の話をする二人が、妙に羨ましくなった平兵衛だった。
 (お会いしたいものだ)。
 「そんでよ三船屋。その今回の助けの礼に、友之進が三船屋の座敷に上がりてえって言うのよ」。
 横鬢を掻きながら、申し訳なさそうに坂巻が切り出す。
 「はい。その友之進様のお陰で、音江も安心して暮らせます。手前共から、是非ともご招待させて頂きとうございます」。



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ひょうたくれ~耳を傾けなされ落語家酒楽亭酔狂~117

2012年06月29日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 「女将。折角だが、あいつは若い女が好みでよ」。
 「んっ、まあ」。
 とお里の口が動き、頬に朱が差す。平兵衛はぐふっと喉の奥で笑いを踏み留めていたが、お里に睨み付けられた。
 「おっ、済まねえ。あいつは存外に好みが難しくてよ。若くて柳腰の、涼やかな顔立ちのきれえな女しか狙わねえんだ」。
 若くて柳腰で、涼やかな顔立ちのきれえな女。大方がお里には当てはまらない。若い頃は愛嬌があったが、涼やかではないな。どちらかと言えば、きれえではなく可愛いといった感じだったと思いながら、にやにやしていると平兵衛はお里に尻を後ろ手で抓られた。
 「よし分かった」。
 坂巻はぽんと膝を打つ。そして喜七に目頭を合わせた。喜七の口が、「まさか」と動いた気がした。
 「分かったって、坂巻様」。
 「おう、三船屋、でえじょうぶだ。当てが付いた」。
 
 翌日、朝五つ過ぎに、喜七の手下を名乗る三吉と言う男が、三船屋の勝手口に顔を出した。未だ二十歳前後であろうか、若い背の高い男である。顔もすっとした顔立ちも中々のもので、縞の着物を着流しているので、下っ引きだと言われなければ、どこぞの店の若旦那風である。
 女中のお君やお由宇などは、寸の間ぽうっと見とれていたくらいだった。
 「旦那さん。今日からあっしが、昼の間、通わせてもらいやすんで、どうぞこき使ってやっておくんなせえ」。
 そうは言われても、喜七の手下である。はいそうですかとはいかないが、三吉曰く、三船屋の奉公人に化けるのだと言う。
 「お前さん。普段は何をしているんだい」。
 「へい。あっしは蕎麦屋の方で働いておりやす」。
 「なら、丁度良いや。板場を助けてくんねえかい」。
 年の瀬に入り、寄り合いやら何やら、大忙しなのである。平太郎の申し出に、三吉は、真っ白い歯を見せてにっと笑った。
 「だけど、お前さん、音江を守るお役目なんじゃないかい。だったら板場にいたら、音江に目が届かないだろう」。
 「旦那さん。それでしたらご心配なく。芳太郎にゃあ、手練が張り付いてますんで」。
 芳太郎が、性懲りもなく音江の五尺二寸後ろに現れても、その五尺二寸後ろか横には、隠密がいると言う。
 「なんで、あっしは、万が一なんでさあ」。
 「万が一かい」。
 「へい。ただ若女将が、外へ出る時にゃあご一緒させて頂きやすが」。

 存外に、気働きの利く三吉が三船屋に馴染むまで、一日も掛らなかった。女中のお君やお由宇はともかく、橋田の仕舞いっ子たちも、三船屋の座敷の掛かる日が楽しみらしい。
 そして五日後に、坂巻と喜七が姿を現した。
 「三船屋、かたが着いたぜ」。
 坂巻の第一声である。
 「坂巻様、それはどういった事でしょう」。
 唐突な申し出に、平兵衛は些か戸惑い、喜七に目線を送る。
 「へい。終わりやした」。
 だから、それでは分からないのだ。だが、喜七は、平兵衛にお構いなしに、三吉に「ご苦労だった」と微笑み掛ける。
 そして坂巻は、内所ではなく平兵衛の座敷で、事の顛末を語るのだった。
 「あいつが好きそうな女を近付けたのよ」。
 こちらから誘い掛ければ、滅法女好きな芳太郎。赤子の手を捻るようだったと言う。
 「坂巻様、おなごを近付けてどうなすったんですか」。
 「おう、その女に勧められる侭酒を呑んでよ。人様の見ている前ぇで押し倒そうとしたのよ」。
 「ようは、はめたって事ですか」。
 「三船屋、言葉が悪ぃや。あいつ次第さ」。
 それからは、止めに入った男たちに怪我を負わせ、本所の自身番送りとなった。大抵なら、そこでお叱りの上、お解き放ちになるところを、喜七の手下たちが集めた付け廻しやら、覗きが決め手になって、その侭、三四の番屋送りになったのだった。
 「三年は、石川島で性根を叩き直して貰うからよ」。
 「寄せば送りですか」。
 それは厳しいお沙汰だと、平兵衛は目を見開いた。だが坂巻に代わり喜七が話を引き取る。
 「あいつあ、今は未だ気に入ったおなごを付け回すだけですがね。放っておいたら、何を仕出かすか分りやせん。ああいった輩が、幼い子を勾引したりするんでさあ。今のうちに改めさせた方があいつの為でもありやす。女房も承知の上ですんで」。
 手廻しの早さに、お上の御用を預かるとは、やはり凄い事だと平兵衛は驚きを隠せなかった。





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ひょうたくれ~耳を傾けなされ落語家酒楽亭酔狂~116

2012年06月28日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 「親分が、直ぐに手下を見廻りに寄越してくれるそうだ」。
 平兵衛がそう告げると、瞬時に三船屋に安堵の表情が戻った。だが、喜七から聞いた芳太郎の話を始めると、一応に顔を曇らせ、お里に至っては、胸がむかむかすると中座する程であった。
 「って事はよ。岡惚れした女に手出しが出来ねえ代わりに、後を付け回すってのけ」。
 平太郎は目をまん丸に見開き、そんな男が世の中にいるのかと呆れ返るばかりである。
 「何でも欲しい物は母親が与えてやってたんで、自分からは何も出来ないらしいのさ」。
 「っつたってよ、良い大人。いやもう爺さんじゃねえか」。
 「まあ、色んな人が居るってことさ」。
 ちいとも分からねえと、平太郎は首を傾げながらいそいそと板場へと戻って行った。
 「なら、音江ももう安心なんだね」。
 お里は眉間に皺を寄せながら、音江を気遣うが、用心に越した事はない。未だひとりでは出歩かなようにと念を押す平兵衛。
 
 喜七から子細を聞いた北町奉行所定町廻り同心・坂巻健吾が、喜七を伴い、ひょいと三船屋の顔を出した。この旦那も、三十半ばで同心としては中堅どころであるが、格式張ったところがなく、町家の言葉を使うので、大いに親しみが持てた。
 しかも、お内儀が与力の娘だとかで、その実家からの援助もあるのだろう。よって、用もないのに立ち寄っては、暗に袖の下を求める事はない。
 その坂巻が訪ったとあっては、やはり芳太郎の件だろう。
 「喜七から、ちいとばかり耳に入れたんだがよ」。
 こうきた。
 「あれからも、芳太郎は姿を現すのかい」。
 「はい。音江は表に出さないようにしていますが、それでも辻向かいの塀の角に立っていたりはしているようです。一度なぞ、平太郎が怒鳴り付けたら、恨みがましい目でじっと見られたと話していました」。
 「そうかい。実はな三船屋」。
 坂巻は、音江を囮に使いたいと切り出すのだった。
 「坂巻様。とんでもございません。音江は、すっかり怯えているのでございますよ」。
 「けどよ、芳太郎は付け回すだけなんで、お縄には出来ねえのよ。だがよ、この侭放っておいたら、いつか大事に至らねえとも言えねえ。ここいらで、お縄にして、寄せ場送りにでもして、性根を叩き直してえんだ」。
 「それは良く分かりますが、音江は家の嫁ですよ。あたしのとっちゃあ、可愛い娘だ。それを危うい目にあわせる訳には参りません」。
 「三船屋、了見しちゃあくんねえか。音江だって、元は辰巳だ。性根は座ってらあ。それによ、俺も喜七も音江から一寸も目を離さねえ。それは誓うぜ」。
 そう言われても平兵衛の一存では返答のしようがない。平太郎と音江を呼んだ。
 「そらあ、お断り致しやす。幾ら旦那と親分の頼みでも、音江を危うい目にはあわせられやせん」。
 そうさ。その通りと平兵衛はひとりごちた。
 だが、その安堵感を音江当人がぶち破る。
 「わっちでお役に立てるなら」。
 「音江、何を言いやがる」。
 「だってお前さん。わっちは、これっぽっちもお天道様に疾しいところはないんだよ。それなのに、こそこそ隠れるみたいにしていなくちゃならないなんて、嫌じゃないか」。
 「だからって、囮になるってえのは、あいつに何をされるか分からねえんだぜ。旦那お願げえだ、音江じゃなくて、そういったお役目をなさるおなごをお使いくだせえ」。
 平太郎は平伏した。それを見て喜七も、旦那と坂巻に声を掛けるが、どうしてどうして、何時になく坂巻の決意は固い。
 「平太郎。お前ぇの気持ちは分かるがよ。ここは俺を信じちゃくれねえか。この坂巻健吾、命に代えて音江に指一本触れさせやしねえ」。
 「なら言わせて貰いやすが、旦那が四六時中音江を見張っていられるんで」。
 鼻息も荒い平太郎が、実に逞しく見えた。
 「それでしたら、家の若けえもんを寄越しやす」。
 交代で張り込ませるので心配ないと念を押しながら、喜七がすかさず答える。一方、懐手で考え込む坂巻である。
 そんな坂巻の様子にお里が口添えをする。
 「あたしで良ければ、お役に立ちますよ」。
 坂巻が黙想していた目を、これでもかと見開き、お里をまじまじと見入る。
 「お母さん。お母さんにそんな事させられやしません。やはりわっちが」。
 たまらずに音江が割って入る。



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ひょうたくれ~耳を傾けなされ落語家酒楽亭酔狂~115

2012年06月27日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 ざっと話をまとめてみると、笹筒屋芳太郎は髪結いの亭主で、三人子に恵まれ、住まいは笹筒屋から譲り受け、言わば楽隠居の身であり、不自由のない暮らし振りである。
 だが待て。平兵衛はおかしな事に気が付いた。
 「親分、確か芳太郎の住まいは本所六軒堀町と聞いていますが、今の話だと向島の寮だと」。
 「ああ。向島の寮は、借家にしちまってやす」。
 「借家ですか」。
 「向島よりも本所の方が、女房の仕事にゃ都合が良いってこったらしいですがね」。
 表向きはそうであるが、実は向島でも覗きや、後を着けられたと訴えが絶えなかったらしい。さすがに住み辛くなったのだろうと喜七は鼻先を指でしゃくり上げた。
 「それと、親分、噺家がどうのっておっしゃってましたが、それはどういった事なんで」。
 「三船屋の旦那。芝楽亭(しばらくてい)ってな噺家を知ってやすか」。
 ほかに雅号を錺屋(かざりや)大五郎や桜川慈悲成と名乗り噺家のほかに戯作者としても知られていた。
 「はい。黄表紙の天筆阿房楽や、咄本の三才智恵も書かれた」。
 「芳太郎は十六ん時に、その芝楽亭に弟子入りしたとかで、芝楽亭酔狂を名乗ってた時期もあるんで」。
 「なら高座にも上がったんでしょうか」。
 喜七は大きく頭(かぶり)を横に振ると、当人がそう言っているだけで、弟子入りも恐らくひと月と持たなかったらしく、直ぐに破門になったのだと。
 「そんでも芝楽亭酔狂を名乗ってたもんで、門弟たちにこっぴどい目にあわされて」。
 「あわされて」。
 平兵衛は喜七の言葉尻を繰り返した。
 「名乗ったのが酒楽亭酔狂」。
 ほえっと頓狂な声を洩らした平兵衛。
 「なら噺家は続けているんで」。
 「なあに、小話のひとつも出来やしねえんですがね。雅号だけは持ってるって、まあ、道楽のひとつなんでやしょう。ただ、当人は戯作は続けているって話ですがね」。
 先に自身番にしょっぴいた折りに、生業を戯作者だと言ったのだそうだ。
 「まっ、今度何かしたら、ただじゃあ済まさねえって言ってありやす。どうにか致しやしょう」。
 漸く、芳太郎の話が一段落着いた時に、喜七が手ずから打った蕎麦を、手下の長吉が運んで運んで来た。
 「おい、長吉。何だってこんな半端もんを三船屋の旦那に勧めるんでい」。
 喜七は、顔を赤らめ罰が悪そうだったが、平兵衛は、喜んで頂きますよと、蕎麦をたぐったが、中々の喉越しだった。
 「こいつは、美味い」。
 「でしょっ。親分は、馬鹿みてえに力があるんで、蕎麦打ちにゃあ持ってこいなんでさぁ」。
 「長吉、馬鹿は余計だ」。
 喜七は照れ臭そうに小鼻をかきながら、ぽつりとひと言。
 「芳太郎ってえのは、肝っ玉の小せえ男よ」。




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ひょうたくれ~耳を傾けなされ落語家酒楽亭酔狂~114

2012年06月26日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 「すると、それまでは旦那だからと遠慮のあった女中たちが、芳太郎が気味が悪いと言い出したそうで。気が付けば膳を運ぶ廊下の柱の陰から見てるって、そらあ気味悪がって」。
 「黙ってですか」。
 「へい。ひとりの女中が、廁の吐き出し窓から覗き込む芳太郎を見ちまった。それで、先代の弟が、向島の寮に母親と芳太郎を隠居させたんですがね、それまでは見世の中での事だったんで、女中に銭を握らせたり、奉公先を探したりして口を噤ませていなすったが、向島に移ってからはもう糸の切れた凧でさぁ」。
 「親分、良く分からないんですが、その芳太郎ってえのは、病いですかい」。
 「ああ。女狂いってな病いでしょう」。
 「けど、髪結いの亭主だって聞いてますよ」。
 「あの女房は、笹筒屋の旦那だった時分に、母親が気に入って貰った女でさぁ。そん時にゃあ芳太郎は、柳橋の芸妓に入れ込んでいたって話で。そんなで夫婦仲もしっくりとはこねえ。亭主は外に出た切り、見世は母親が仕切り、若女将は名ばかりだ。女房は、髪結いを始めたそうです」。
 「親分、髪結いったって、床を持つにしても廻りにしても、それなりの技量も株もいるでしょうが」。
 「それがあの女房も大した面の皮で、元々手先が起用だったんでしょう。手前ぇの髪や家族の髪は結い上げてたそうです。それで廻り髪結いを始めたそうで」。
 芳太郎どころか、女房もおかしな事になりそうだと、平兵衛は居ずまいを正す。
 「ある日、向島の寮に盗人がへえって、芳太郎は大方女のとこにでも行ってたんでしょうが、母親と女房が縄で括られて、有り金そっくり攫われる事件があって、そこで女房の裏家業が表沙汰になっちまいやした」。
 その時、本来ならば江戸所払いになるところを、増次郎が金子を詰んでお構いなしにしたと言う。
 「それから女房は廻り髪結いの株を買ったそうです。そん時にゃあ、芳太郎との間に、三人の子があったって訳でさぁ」。
 「親分、あたしには芳太郎がどうして、おなごを付け狙うのか、今の話では良く分かりませんが」。
 「そうですなあ」。
 喜七は、鷹揚に笑みを浮かべ、すっかり冷め切った茶を一気に喉に流し込んだ。
 「母親に甘やかされて育ってもんで、何でも手にへえると思い込んじまったんでしょう。てめえが気に入ったもんは、何でも手にへえるって」。
 「将軍様やお大名ならいざ知らず」。
 「旦那、おっしゃる通りで。母親が、どこぞのお武家様のように育てちまったんでしょう。そんでも女房は、芳太郎の癖を知っても別れねえで養ってやす」。
 平兵衛は目頭が熱くなった。どんな事情で嫁いだかわ知らぬが、子まで生した仲であれば、女房は、笹筒屋からの銭で暮らす日々で、何とか活計を得ようと、闇の仕事に手を染めたのだろう。そんな思いは喜七も同じらしい。
 「前の八百屋娘の一件で、自身番引っ張った時によ、本心ではあいつが何か仕出かせばお縄に出来て、小伝馬町送りに出来るって思っていたんだが、女房を見てたら気の毒になりやした」。
 恐らく女房が泣いて縋ったのだろう。



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ひょうたくれ~耳を傾けなされ落語家酒楽亭酔狂~113

2012年06月25日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 翌朝早々に、平兵衛は岡っ引きの喜七の元を訪い、音江の一件を話した。喜七は十手を預かる傍ら、黒船橋の近くの蛤町で梅の湯を営んでいる。
 岡っ引きは奉行所の正式な雇い入れではなく、同心から年に一両か二両の小遣い賃程度しか貰っておらず、縄張りの店に顔を出しては袖の下を当てにしている者も中にはいるが、女房に見世をやらせているのが常である。
 喜七も同様。女房に湯屋の仕切りを任せ、手下もそこで働かせていた。そうこうするうちに、隣の仕舞屋が空き家になると、女房が喜七に断りもなしにそこを借りてから、蕎麦屋を始めたいと言い出し、事後承諾の形で蕎麦屋まで切り盛りする羽目となった。最も切り盛りをしているのは、女房のお初ではあるが。
 更に驚いた事に、お初は、既に蕎麦屋の株も職人の手配も済ませていた。喜七は渋々ではあるが、蕎麦屋を初めて見ると、湯屋の二階に出前もするとあって中々の繁盛なのである。
 喜七が最も良かったと感じたのは、手下たちを湯屋と蕎麦屋とで働かせれば、ちゃんとした給金を払える事だった。そんな訳で喜七は羽振りも良く、袖の下を強請らない親分としても、評判が高い。
 平兵衛が訪った時は、仕込みの刻限で客の姿はなく、喜七は蕎麦屋で蕎麦打ちを習っているところだった。
 「親分が、蕎麦打ちですか」。
 「こう見えても蕎麦屋のおやじでやす。それに、何時までも十手を預かってるって訳にもいかねえんで、こうして習っているところでさあ」。
 四十半ばの男盛りの喜七は、少しばかり恥ずかしそうな顔で、粉に塗れた手を注ぐと、飯場に平兵衛を促した。
 「三船屋の旦那がわざわざあっしを訪ねて来なさるとは、どんな用件なんでしょう」。
 ただ事ではないと察した喜七の顔が、蕎麦屋のおやじから岡っ引きのそれへと変わる。
 「実は、嫁の事ですが…」。
 平兵衛は、音江の一件を話した。すると、喜七の眉がぴくりと動く。
 「また、あいつか。懲りねえ奴でぇ」。
 喜七は、直ぐに手下に辺りを張らせると約束してくれたが、その後の話は、平兵衛にとって大層興味深いものになった。 
 男の名は、笹筒屋芳太郎。本所相生町の料理屋の総領息子だったと言う。
 「笹筒屋さんでしたら、顔を合わせた事がありますが、それはご立派なお方でしたよ」。
 「そりゃあ、弟の方でさぁ。先代が亡くなりなすった時にゃ、あいつは、噺家になるだとか絵空事を言って、見世を飛び出してやした」。
 笹筒屋の先代は、人格も優れ商いも太い物だったが、若くして他界し、その時に芳太郎は十七、弟の増次郎は十四だった。まさか十四の小倅が継ぐ訳にもいかず、母親が見世を切り盛りしていたが、どうにも立ちいかなくなった。
 「その母親ってえのが、気の強ええ女で、何から何まで仕切ろうとするんで、古参の奉公人が揃って暇を取ったらしいです。それで、先代の弟が後見人になって何とか暖簾を守り、増次郎をいっぱしの商売人に育て上げたって話で」。
 増次郎二十歳になった年、何処で何をしていたのか、芳太郎がひょっこり顔を出し、跡取りは己だ。笹筒屋は己の物だと悶着があったと、喜七は、地廻りの岡っ引きから聞き込んでいた。
 「母親ってえのが、これまたどうにも芳太郎に甘いらしく、跡取りは芳太郎だって引かねえで、一端は芳太郎が跡を継いだんですがね、あいつに見世を仕切る何ぞは出来やしねえ」。
 増次郎をおしやって、芳太郎が笹筒屋の主に収まったが、商いなど分かる筈もなく、笹筒屋は暖簾を降ろす寸前までいった時に、先代の弟が借金の肩代わりをして、笹筒屋を買い取ったのだ。
 「何でも増次郎は、一膳飯屋でも良いから、笹筒屋の暖簾を守るって言ったらしく、先代の弟はほぐさなすって、買い取った笹筒屋を、その侭増次郎に任せたって話でさぁ」。
 「なら、その芳太郎ってえのは、ほかに見世を持たされたんで」。
 「いいや。増次郎は出来た弟で、黙って兄貴を養っていらしいです」。




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ひょうたくれ~耳を傾けなされ落語家酒楽亭酔狂~112

2012年06月24日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 「それでわっちは胴震いがして、その侭走って、走って、裏口へ入った時に振り向いたら」。
 ごくりと、平太郎の喉が鳴る。
 「居たんだよ。五尺二寸程後ろに」。
 「何でい、そらあ。お前ぇ、知らねえ顔なのけ」。
 「知っているもんか。それに、初めてじゃないんだよ」。
 今度は、平兵衛とお里が顔を見合わせた。
 「見世の前を竹箒で掃いていた時も見掛けたし、お鈴ちゃんを美晴屋さんに送って行った時もさ。後を付けられたのは初めてだけど」。
 「お前ぇ、如何してもっと早く言わねえでい」。
 「平太郎、お止し。音江も半信半疑だったんだ。それが、今日明らかになったんだよ」。
 仮に音江の思い込みであったとしても、太り肉で、紅目に眼鏡。平兵衛には心当たりがあった。
 「恐らくそれは、本所六軒堀町の髪結いの亭主だ」。
 「おとっつあん、知ってるのけ」。
 「ああ。前に自身番の書役の甚右衛門さんに聞いた事があるよ」。
 甚右衛門は六十を超えたばかりの、平兵衛の碁敵である。時折、自身番を訪ない、碁を打つ傍ら四方山話をするのも平兵衛の楽しみのひとつだ。
 「八百屋のお町ちゃんを知っているだろう」。
 「ああ、山本町の八百八だろう。小町娘ってな評判だ」。
 この年十六の娘盛りで、涼やかな目付きの大層な別嬪である。
 「毎日朝から晩まで、見世の前に立って、矢立てを動かしては、お町ちゃんの絵姿を描いている男がいるって、八百八の旦那から訴えがあったそうなんだよ」。
 お町が店番をしていれば、辻向かいにその男の姿がある。そして、忙しなく筆を動かしている。お町が習い事に出掛ければ、男の姿は八百八から消えるが、お町の後を付け、そしてお町と共に八百八に戻る。それは、毎日暖簾を仕舞う刻限まで続いたそうである。
 「それで、喜七親分がその男の身元を調べたら、本所六軒堀町の髪結いの亭主だったそうだ」。
 「お前さん。それでその男はお縄になったのかい」。
 「いいや。特に何をした訳でもないんで、自身番で厳しいお叱りがあったらしい」。
 「何もする訳じゃないったって、気味が悪ぃじゃねえけ」。
 ひと言も発せずに、ただただ黙って後を着けられるのは、声を掛けられるよりも恐ろしいものである。平太郎がぶるっと身を震わせる。
 「そうなんだよ。まるっきり話し掛けるでもなし、ただ同じ歩幅でお町ちゃんを見ては絵筆を動かしてるってんで、お町ちゃんは店番はおろか、一歩も外へ出られなくなったらしいよ」。
 甚右衛門は、とにかく薄気味の悪い男だったと言っていた。頬の弛んだ顔には、零れ落ちそうなくらいの大きな目が、常に赤みを帯びており、お取り調べの間も、お叱りの間も終始無言で、口先を少し尖らせ、上目遣いにじっと相手を見ているのだと。
 「うへぇ。おっさんの上目遣いかい」。
 平太郎が身を震わせる。
 「しかし、何だってそいつは、本所からわざわざ深川まで出張って来るのさ」。
 お里の眉間に寄った皺は年のせいだけではない。
 「大凡、本所じゃあ、有名なんじゃないかい」。
 「かも知れないね。けど、わざわざご足労なこった」。
 くわばら、くわばらと、お里は唱えながら、音江は暫くはひとりで出歩かない方が良い。表を掃き清めるのも誰かに任せて、中の仕事をするように優しく声を掛ける。
 「湯屋は、あたしか平太郎と行けば良いさ」。
 「あい」。
 「なあに、そいつあ、見世ん中にゃへえっちゃ来れねえんだ。安心しな」。



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ひょうたくれ~耳を傾けなされ落語家酒楽亭酔狂~111

2012年06月23日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 見世が始まる前にと、夕七つ前に湯屋から戻った音江の顔が青ざめていた。歯の根が合わずにがくがくと音がする。それは湯冷めのせいではないだろう。
 三船屋に戻ったと言うより、駆け込んだといった具合であった。
 「どうしたんだえ、音江」。
 尋常でない様子に、お里が肩に手を掛けると、その侭お里の胸に顔を埋め泣き崩れるのだった。
 「何があったんだえ。言っておくれな」。
 「お母さん。わっちは、こんな恐ろしい目にあったの初めてです」。
 何はともあれ、熱い茶を飲んでひと息つかせると、お里は板場の平太郎と、暢気に庭先で盆栽を剪定していた平兵衛の声を掛けた。
 「何でい。おいら手が離せねえんだぜ」。
 「恋女房が、一大事なんだ。少しばかり顔をお出し」。
 一大事と聞いては黙っておれず、煮方の喜一に後を任せてのそりと内所に顔を出した平太郎も、長火鉢の横で、生まれたての雛のようにぶるぶると震える音江の姿に、呆気に取られるのだった。
 「おい。何があった」。
 「お前さん」。
 音江は、平太郎の胸に傾れ込んだ。
 
 冬木町の桃の湯を出た時からだった。妙な視線を感じ振り返ると、顔を反らすが、かなり太り肉で黒くて丸い眼鏡を掛けた五十代の男の姿があった。
 細縞の着物に、対の羽織り姿は、そこそこの身代であると思わせるが、てらてらとぬめった肌に嫌悪を抱いたものだ。
 そして音江が歩き出すと、雪駄の音がじゃりじゃりと付いて来る。また振り返れば、五尺二寸程後ろに、件の男の姿があった。
 そこまでなら、気味は悪いが単なる偶然。思い過ごしやも知れぬと己を奮い立たせながら、音江は男を先に歩かせようと、歩みを遅らせてみた。追い抜かれる時は、並ぶのは怖いが、未だ昼日中、往来もあれば店も見世も門戸を開け放している。いざとなれば大声を出すなり、掛け込めば良いだけだ。
 だが、音江の歩みが遅くなれば、男の姿も同じように五尺二寸程後ろにあった。背筋が凍り付くような思いで、音江は小間物屋に駆け込み、美人水を買った。さすがにもう居ないだろうと、小間物屋の藍暖簾をかき分けると、一軒先のけんどん屋の角に隠れるようにしてその男の腹のでっぱりが見えたのだ。紛れもなく、同じ細縞であった。
 こうなれば、付けられているのは明らかである。音江は、小走りに小路を急いだ。すると、雪駄の音もちゃりちゃりと早くなる。
 音江はぴたりと立ち止まると、振り向き様にこう言った。
 「わっちに何か用かえ」。
 すると男は、黙った侭、ただただ白目が紅くなった目を向けるのだった。
 「何かお言いな。それとも、わっちがお前さんの前を歩いているだけかえ。なら、先に行っておくれな」。
 母親に叱られた童(わらし)のように、男は俯き先に行こうとはしない。



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ひょうたくれ~耳を傾けなされ芸妓大吉~110

2012年06月22日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 「お母さん。大吉姐さん、あの仕舞屋で小間物屋を開いたそうですよ」。
 金次が気色ばんでいた。
 「小間物屋かえ。漸く芸妓は諦めたみたいだねえ」。
 「良いなあ」。
 「何が良いのさ」。
 「だって、仕舞屋を買ってくれて、おまけに小間物屋をやりたいと言えば、ぽんと金を出してくれる旦那がいてさ」。
 「あい。だったらお前もそんな旦那を見付けるこった。それで何をそんなに慌てているのさ」。
 金次は、思わず「そうそう」と口走り、慌てて口元を押さえた。
 「その小間物屋なんだけど、日本橋の和泉屋の出店なんですって」。
 ならば、和泉屋の主が旦那なのだろう。
 「それで、わっちが丁度前を通り掛った時に、和泉屋の番頭さんが見えていてね。それで…」。
 人垣が出来ていたので、覗き込んだら、和泉屋の名を騙るとはどいうった了見だと、大層な剣幕だったのだ。金次もとんだ金棒弾きである。
 「なら、その小間物屋は和泉屋さんとは何の繋がりもないのかえ」。
 「そしたら、大吉姐さんたらね『そうそう。日本橋の和泉屋の出店なんで』って言ったものだから、その番頭さん目を白黒させちゃって。何を言っても、話にならずに、わっちは番頭さんが、泡を吹いて倒れちまうんじゃかいかって思ったよ」。
 「それで話は付いたのかえ」。
 金次は大袈裟に頭を横に振る。
 「ついには、見廻り中だった坂巻の旦那が割って入ったんだけど、それでも大吉姐さんと話が通じずに、頭を捻ってた」。
 坂巻健吾の厳つい顔が目に浮かび、思わず笑みがこぼれるお筆だった。
 「それで、和泉屋さんが出店でないと言ってるんだから、もう和泉屋の名を騙るのは止せと言ったらね、『そうそう。だから和泉屋さんとは古い付き合いで。同じ物を置いているんで』だって」。
 「なら、同じ品があるから、出店だって言うのかい」。
 「そうみたいですよ。坂巻の旦那が、次にまた騒ぎになったら自身番に引っ張るぞって言ってたので、和泉屋の番頭さんも引き揚げたけど」。
 番頭に従っていた小僧が、首を傾げながら何度も振り返っていた様子が可愛らしかったと、金次は愉快そうに笑った。
 「それにね、集まってた近所の人に聞いたら、欲しい物を出してくれないってぼやいてました。耳かきひとつ買うのに、小半時も掛るって。それに、美顔水て言っても、そうそうって返事しながら白粉を出したり、紅を持ち出したりするそうで、品を手にするまで刻が掛り過ぎるって」。
 「あはは。分かるような気がするね」。
 お筆も大きな口を開ける。
 「でもね、お母さん。笑ってばかりいられないのが、大吉姐さん。今度から小唄も教えるんだそうです」。
 「小唄って…」。
 「あちしは、出来るんで」と、お筆と金次の声が重なる。そして互いに見詰め合うとぷっと吹き出すのだった。
 「しかし思い込みが激しいって言うか、へこたれないと言うか、長生きするよ」。



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ひょうたくれ~耳を傾けなされ芸妓大吉~109

2012年06月21日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 「大吉、済まないねえ。飯が少ししか残っちゃいないんで、握り飯じゃなくて、茶漬けで言いかえ」。
 「そうそう。握り飯にしてくださいな」。
 「はっ」。
 松吉の目が大きく見開く。
 「だから、握る程飯が残っちゃいないって言ってるんだよ」。
 「そうそう。だから握り…」。
 「お黙り」。
 大吉の言葉を遮ったのお筆の顳かみには、うっすらと筋が浮き上がっていた。
 「大吉、お前はどうしてそうも人の話を聞けないのさ」。
 「あちしは、あちしは、聞いてますよ」。
 「ひとっつも聞いちゃいないじゃないか。何を言っても『そうそう』って逆の事ばかりだ」。
 「そうそう。だからあちしは、握り飯って」。
 「良いかえ。もう一度言うよ。握り飯はないんだよ。だから茶漬けで良いかえと松吉は聞いてるんだ」。
 「そうそう」。
 「分かったんだね」。
 「そうそう。握り飯ひとつで」。
 「止めっつくんねい。お前ぇの話を聞いてると、尻がむずっ痒くなっていけねえ」。
 ついに平太郎の堪忍袋が切れた。
 「そうそう」。
 
 「大吉、悪いけど、お前は家には馴染めないようだ。もう家には置いちゃおけないよ」。
 ひと廻りの後、ついにお筆は引導を渡した。
 「そうそう」。
 「そうかい。分かってくれたんだね」。
 「そうそう」。
 「なら話は早い。もう今夜から来なくていいからね」。
 「そうそう。今夜は本所の松清さんでしたね。ならあちしは、直接お座敷に向かえば良いんですね」。
 ぐぐっとお筆の喉が鳴った。
 「お前、聞いてたかい。わっちは、もう来なくて良いって言ったんだえ」。
 「そうそう。だから直接…」。
 「お前を家には置いちゃおけないよとも言ったよね。聞いていたかい」。
 「そうそう。だからあちしは、帰ります」。
 すっと大きく息を飲み込んだお筆。両の拳はぶるぶると小刻みに震えている。
 「良いかえ。よおく聞いておくれ。わっちは暇を出すって言ったのさ。お前はもう橋田の芸妓じゃない。お払い箱だ。分かったかえ」。
 少し言い過ぎたと思わなくもないが、これくらい言わないとお頭(つむり)までは届かないだろう。
 「けど、あちしは芸妓が好きなんで」。
 「そうかえ。ならほかの置屋に行ったらどうだえ」。
 「そうそう」。
 「分かってくれたね」。
 「そうそう。あちしは、ここが良いんで」。
 「お前がそうでも、家は迷惑なんだ。どんだけ迷惑を掛けたか分かっているかえ。お前の知ったかぶりにはもううんざりなんだよ。」。
 すると急に大吉の顔に陰りが浮かび、言葉が少し変わった。
 「あちしの責なんで、全てあちしの責なんで。だからこれから取り戻します」。
 「取り戻すったって、お前はもう年増だ。これから芸事を磨いたとしてもどうにもなりゃしないよ。それにお前が幾ら芸妓が好きでも、向き不向きってもんがあるんだよ」。
 「そうそう。あちしは向いているんで」。
 「向いちゃいないよ。客が『浅草参り』をやってくれと言やあ、『そうそう』って言いながら『梅は咲いたか』を唄ったそうじゃないかえ。大凡『浅草参り』を知らなかったんだろうさ。わっちは、お前のそういうところが嫌なんだよ」。
 「そうそう。『梅は咲いたか』です」。
 「それに、普段でもそうだ。この前だって青菜の胡麻汚しを拵えてくれろと言えば、『そうそう』って、湯がいた青菜に醤油を掛けて持ってきてたねえ。人の話を聞くって事が出来ないんだと思ってたんだが、そうじゃない。お前は、知らない事を知らないと言えずに、『そうそう』って知ったかぶりをしているだけなのさ」。
 少しばかり大吉には難しいかと思ったが、一気に言葉が口を突いてしまったのだから仕方ない。
 「そうやって、『そうそう』って知ったかぶりして、芸事もきちんと習わなかったんだろう」。
 この時ばかりは、「そうそう」はなかったが、代わりに「あちしは、出来るんで」と言った。
 「あい分かったよ。けど、橋田からお前をお座敷に上げる事はもう出来ないんだ。ほかに行くなりなんなりと好きにしておくれ」。
 やはり言い過ぎだと、少しばかり気の毒になるが、ここまで言わせるまで了見しない大吉にも問題があると考え直したお筆。
 それでも、大吉の薄い肩が震えれば気の毒である。過分な心付けを渡し、お願いですからと去って貰った。



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ひょうたくれ~耳を傾けなされ芸妓大吉~108

2012年06月20日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 「おや、女将さん。良い所で」。
 こまつの藍暖簾をひょいと手繰って、平太郎が顔を出した。
 「これは若旦那。随分とお見限りだったけど。今夜は随分と早いねえ」。
 「おう、今晩は座敷がひとつしか入ぇってなかったんだがよ。まあ、早く引けたんで、店仕舞いさ」。
 平太郎は、酒を頼むと、お筆の前に腰を下ろした。なら、今夜は酒でも飲むかと、お筆はお仲を帰す。
 「あの三日月がよ。客に後から後から酒を呑まして、酔い潰しちまったのよ」。
 「何だって」。
 お筆と松吉の声が重なった。
 「芸が駄目なら、しっかりと客の相手をするんだえ。盃が空になったら酌をして、手持ち無沙汰のようなら煙管に火を付けて進める。皿が空いたら脇に除ける」。
 事細かに言い聞かせたお筆だった。
 「それだ。だから脇座ったきり、後から後から酌をしてたって訳だ」。
 馬鹿っ正直にも程があると、お筆は目を閉じ深く溜め息を洩らす。
 「それで」。
 「おう、酔い潰れちまった客の介抱も出来ねえで、ほけっと座った侭でよ」。
 「そいつは済まなかったねえ。ほかの妓たちはどうしてたんだい」。
 「ああ。ほかの客に頭下げたり、酔った客に水を飲ませたりしてたぜ」。
 その間も大吉は、兎のような目で、じっと座っていたと言う。
 「そして駕篭を呼ぶ段取りが出来るとよ、『そうそう』だと」。
 呆れて物が言えないが、もう三船屋の座敷には寄越さないでくれろと平太郎。お筆の方も、心得た物で、最初から二人の芸妓で良い所、大吉を含め三人出していたのだ。
 「まあ、勧められる侭に呑んじまった客も悪いがな」。
 「いや、姉さん。潮時ってもんだ。明日にでも辞めて貰いなよ」。
 松吉も湯飲み片手に、酒に加わる。
 「そうだねえ。言い聞かせるにも言葉も通じないしねえ」。
 三人が思案顔で、角付き合わせていると、「今晩わ」と、暖簾の向こうで褄取りの裾が見える。
 「あれ、お母さん、若旦那も一緒ですか。ならあちしも」。
 「あちしもじゃないよ。お前、今晩のお座敷は大変だったそうじゃないかえ」。
 「そうそう。悪酔いしたお客さんがいてねえ。でも、駕篭で帰りましたよ」。
 悪酔いさせたのはお前だ。
 「幾ら酒が好きでも、場を考えて貰いたいもんさね」。
 全く気付いていない。
 「女将さん。あちしも冷やで」。
 松吉が重い腰を上げると、つまみはなにがあるかと大吉。
 「そうさねえ。今日は鰯の煮付けと、凍り豆腐がお勧めだよ」。
 「そうそう。ならあちしは、握り飯にしようかねえ。腹が減っちまって。空きっ腹で呑んだら、あの客とご同様になっちまう」。
 酒の入った湯飲みを持ち上げた侭、平太郎とお筆の口がぽかんと開き、板場の方から、がらがらと松吉が何かを取り落とす音が聞こえてきた。
 「そうそう。若旦那、若旦那の女将さんは、元芸妓なんですってね。どうりで」。
 「どうりで何でい」。
 「三味が上手いなと思ってさ」。
 「そうけい、そらあありがとよ。ところで大吉、お前ぇの腕前はどうなんでい」。
 「あちしは、弾けるんで」。
 「弾けるのは当たり前ぇだ。どんくらいかって聞いてるんだ」。
 「そうそう。弾けるんで」。


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ひょうたくれ~耳を傾けなされ芸妓大吉~107

2012年06月19日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
  刻(とき)を同じくし、門前仲町の置屋・橋田は、長い夜を迎えていた。
 「さあ大吉。話して貰おうかね。お前、日本橋で十年お座敷に出てたんだよね」。
 「そうそう。あちしは、十五からお座敷に出てます」。
 「それで、芸事もひと通りはさらってるんだったよね」。
 「そうそう。あちしは、分かってるんで」。
 「だったら今、ちょいと三味を弾いてみてくれないか」。
 「そうそう。だから出来るんで」。
 その侭、黙りこくる大吉。
 「どうしたえ。三味をさらっておくれな」。
 「そうそう」。
 金次が、三味とばちを大吉の膝の前に置く。
 「そうそう。今度のお座敷は大丈夫なんで」。
 次の座敷はないんだよと、金次は口の中で呟いた。
 「それとお前、その『そうそう』と『あちしは』は、口癖なんだろうけど、言葉遣いもどうにかしておくれ」。
 「そうそう」。
 「そうそうじゃなくて、あい、承知致しましたって言えないのかえ」。
 「そうそう。だからそうなんで」。
 全く持って言葉が通じない。さすがにお筆も焦れていた。
 「お前、どうして深川に流れて来たのさ」。
 「そうそう。だから来たんで」。
 「来たんでじゃなくて、如何して来たかを聞いてるんだよ」。
 「そうそう」。
 「もう良い。今夜は遅くなったから、家にお泊まりな。それで明日、お前の芸をさらおうじゃないか」。
 大吉は、そうそうと言いながら己の仕舞屋へと帰って行った。日本橋の何処ぞの商家の主が大吉の旦那らしい。それで、深川に仕舞屋を与えられたのだが、日がな旦那を待つだけでは面白くないと、橋田にやって来たのだった。
  「お母さん」。
 金次が不安な眼差しでお筆を見る。
 「そうだねえ。あの妓はちいとお頭(つむり)の箍が外れているようだね」。
 しかし、十年もの間、よくも芸妓が務まったものだ。

 「お母さん。飯が足りません」。
 翌日の夕刻である。
 「飯が足りないって、どうしているだけ焚かないんだい」。
 「焚きました」。
 女中のお仲が空になった米びつを見せる。
 「大吉姐さんが食べてしまって」。
 「大吉がかえ」。
 この日は朝から、芸事をさらうと申し付けておいたにも関わらず、大吉が姿を現したのは、座敷の一時前であった。その刻限にあれこれ言うのも憚られ、放っておいたのだ。
 「わっちとお前の分が足りないんだね。なら、今晩は松吉のとこでも行くかえ」。
 一膳飯屋こまつの女将松吉は、元はお筆の妹芸妓だった。
 「ああ、そうそうだろう。知ってるよ。座敷が引けた後、飯を喰いに来るからさ」。
 松吉が大袈裟に、そうそう。と大吉を呼ぶのが可笑しかった。
 「良く飯を喰うんで聞いたらさ、『家では飯は炊かないから』って、『家で焚かなかったら何処で焚くって言うんだえ』と聞き返してやったら、『そうそう』だって」。
 全く持って理解出来ないが、口癖だと思えば何でもないと松吉は、愉快そうだ。飯を炊かないじゃなくて、炊けないなのだろう。だから橋田の廚で飯をかき込んでいたのだとお筆は得心した。
 「まあ、ちいと飯を喰いに来るくくらいなら、そんでも良いけど、お座敷であれをやられちゃ適わないよ」。
 喋りも可笑しいが、気配りがなく、何より芸事が出来ないのだと、お筆は眉を潜めこぼした。すると、松吉が、枕芸妓じゃないかと眉間に皺を寄せる。
 「枕だったら、早いとこ追い出した方が良いえ。旦那だって居るんだろ。芸妓を辞めても暮らしにゃ困らないさ」。
 「あい。けど未だ枕だと決まった訳じゃなし」。
 「姉さん、相変わらず人が良いねえ。悪いがあの器量で芸事も駄目なら、後は売るものはひとつじゃないか」。
 





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ひょうたくれ~耳を傾けなされ芸妓大吉~106

2012年06月18日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 既に音江の尻に敷かれた平太郎が、あっさりと湯屋へ向かうと、音江は大吉の様子を平兵衛とお里に話聞かせる。
 「お客様が廁に立ち上がっても、気が付かない。酌はどうしたものか、てんで見当違い。酒が足りなくなった様子の旦那が目配せしても気付かない。わっちは、あんな気配りの出来ない芸妓を初めて見ました。それに、いっち困ったのが、話が出来ないんですよ」。
 「話が出来ないって、言葉が分からないのかえ」。
 大吉が内所へ挨拶に訪った時、お里は不在だったので知らないのだ。
 「いいえ、確かに江戸の言葉なんですが、話が絡まないと言うか、何でも『そうそう』って頷いちゃいるんですがね、話してる事は真逆だし、金次がお酌をしたり、煙管に煙草を詰めたりしていると、『あちしが、あちしが』って横取りはするんですが、だからって、煙草盆をお客様に差し出すまでは気が回らな。あれじゃあ、芸妓と言うより、何処ぞのおひい様ですよ」。
 うんうんと頷く平兵衛を、訝しそうなお里の眼が捕らえる。
 「そうなんだよ。あの妓は、『そうそう』と『あちしが、あちしが』が口癖なんだがね、話が通じないのは本当なのさ」。
 その上に芸もないとあれば、芸妓としてはどんなものだろうか。だが、あの年でほかの仕事は厳しかろう。と言うより先に、よくもこれまで芸妓で喰えたものだ。
 そんな思いは音江も同じである。
 「旦那さん、女将さん。少し気に掛かるので、明日橋田に顔を出しても良いでしょうか」。
 「そうだねえ。それは構わないが、その旦那さん、女将さんは止めておくれな。お前はもうあたしたちの娘なんだよ」。
 お里も頷く。
 「あい。つい癖で」。
 音江はぺろりと舌を出した。その愛嬌のある顔を見ながら、平兵衛は良い嫁が来てくれたと真底嬉しく思う。
 平太郎とはもちろん、姑のお里とも上手くやってくれている。見世の仕切りはお里がやっているが、細々とした気働きで、女中に手を貸す事も厭わない。言うまでもなく、きれえな若い娘が家にいるのは華やぐと言うものだ。これで孫が授かれば言う事なしである。
 「お前さん、焼いてるだろう」。
 「しょってやふがらあ」。
 寝屋で、二人きりになった若夫婦である。
 「安心おし。もう芸妓の真似はしないよ。だけど、お前さん。わっちがほかの男に酌をするだけで悋気起こすだろう。料理屋の息子とは思えないねえ」。
 悪戯っぽく、音江が微笑みながら、行灯の灯を吹き消した。そして枕を並べると平太郎は音江の方に身体を傾け手を握る。 
 「お前ぇ、そんだけおいらに思われて幸せだろう」。
 「あい。こうして一緒になれるなんて、未だ夢を見ている気分だよ」。
 へんっと平太郎はおためごかすが、顔が朱に染まるのが、暗闇で音江に見えない事に安堵していた。
 「料理屋の女将は辛かねえかい」。
 「なあに、わっちは生まれてこのかた、こんな安堵の日々は初めてさ。お前さんと一緒になれて真に良かったと思ってるよ」。
 「真けぇ」。
 「だけど…」。
 「おい、何でい」。
 「お前さんに、わっちの拵えた飯を喰って貰いたい」。
 三船屋の三食は、追い回しが拵える賄いである。
 「お前ぇ、飯を拵えられるのけ」。
 武家の娘から芸妓。とても家事が出来るとは思えない。
 「そりゃあ、板前のお前さんの足下にも及ばないけどね。おつけぐらいは拵えたいのさ」。
 「だったらよ、明日から賄いの汁はお前ぇが拵えるかい」。
 「嬉し」。


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ひょうたくれ~耳を傾けなされ芸妓大吉~105

2012年06月17日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 「音江、ご苦労だったね」。
 三船屋の内所には、平兵衛にお里、そして仕舞いっ子が気を利かせたのだろうお筆の姿もあった。
 客を送った音江の後ろには、金次と大吉が。六畳の内所が一杯になってしまった。
 「音江、済まなかったねえ」。
 お筆も、これこの通りと頭を下げる。
 「お母さん、止めてくださいな。わっちで役に立てて良うござんした」。
 ほうと溜め息を洩らしたお筆の目頭は、金次と大吉を捕らえ、きりりと厳しく光る。
 「で、何があったんだえ」。
 本来なら、橋田に戻ってからの説教になるが、三船屋の若女将を駆り出したとあっては、三船屋主の前で申し開きをしろと穏やかな口調ながら、そいう事である。
 金次は、つんと唇を尖らせ、大吉を横目で睨むが、当の大吉は、きょとんとした兎のような目で、事態を飲み込めていないといった風である。
 「金次、どうしたって言うんだい。早くおしっ」。
 「あい。大吉姐さんが、三味を弾かせりゃ調子っ外れで、踊りも足がもたついて」。
 「あちしは、あちしは。出来るんで」。
 「出来なかったから、乙丸姐さんに助けて貰ったんじゃないか」。
 「あちしは、出来るんで。知ってるんで。ただ、日本橋とは勝手が違って、少し…」。
 お筆が二人の言い争いを纏めた。
 「なら、大吉に芸がなかったって言うんだね金次。お前は、深川で初めてのお座敷に、戸惑っただけなんだね大吉」。
 「あい」。
 「そうそう、あちしは、そうそう」。
 「旦那さん、女将さん。申し訳ございませんでした。芸妓の失態はわっちの責にござんす。これこの通り」。
 お筆は頭を下げると、後は戻ってからだと二人を引き立てるように戻って行った。
 漸く板場の始末を終えた、平太郎が内所に加わり、先刻の話である。平太郎は、己の女房となった音江が、ほかの男に酌をしたり愛想を振りまくのが嫌なのだ。貼付けたように、不機嫌ですと顔が言っている。
 「良いじゃないか、今日は岩崎屋さんのお座敷だ。知らない訳でもなし」。
 「けどよおとっつあん。そうは言っても、音江はおいらの女房だぜ。また頼りにされてもよう」。
 音江が人差し指を鼻の頭に当てながらくすりと笑った。
 「あい。これからは、可愛い妹分にどんなに泣き付かれても、助けたりしやしませんよ」。
 「そうは言っちゃいねえが…」。
 「なら良いのかえ」。
 「そりゃあ良くねえ」。
 「あい。承知。なら早いとこ湯屋に行かないと仕舞っちまうよ」。
 「お、おう」。
 料理屋の女将であれば、酌もすれば愛想も振りまく。存外に平太郎は了見の狭い男だったのかと平兵衛はひとりごちた。



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ひょうたくれ~耳を傾けなされ芸妓大吉~104

2012年06月16日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 橋田の芸妓金次が血相を変えて、三船屋の板場の脇の控えの間にやって来た。座敷に出ている芸妓を待つ仕舞いっ子やひとり立ちしている芸妓に付き従った女中などが、そこで刻(とき)を潰しているのだ。
 控えの間は、板場とは仕切りがない為、若い娘たちにとって、やはり若い板前や追い回しとの会話も楽しいらしく、笑い声が上がっていた。そこに金次が乱暴に入って来たものだから、仕舞いっ子たちは瞬時に顔色を失った。
 「ちょいと、直ぐに橋田に戻って、お母さんに来て貰っておくれな」。
 「お母さんですか」。
 「ああ、三味も持って来て貰うんだよ」。
 お母さんはお筆である。三味と共に三船屋に連れて来いと言われた仕舞いっ子は、事態を飲み込めずに目を白黒させていた。
 「良いから、早くお行きな」。
 「どうしたい金次」。
 平太郎が声を掛けると、金次は涙目で、大吉が三味も踊りも唄も何も出来ずに、座臥白けてしまったと訴える。
 「んじゃ、橋田の女将さんに座敷に出て貰おうってか」。
 「だって、わっちひとりじゃどうにも出来ないよ」。
 「お前ぇ、それでも辰巳の姐さんけ。お前ぇの芸で座を持たせたらどうなんでい」。
 「だって、そうしたら、誰が酌をするんだえ」。
 「酌って…。そのくれえはあの三日月だって出来るだろうよ」。
 とうとう金次の目から、涙が溢れ出した。
 「お前さん。言い過ぎだえ」。
 丁度膳を戻しに来た音江である。
 「乙丸姐さん」。
 思わず音江にしがみ付く金次。
 「これ金次、泣いたら化粧が剥げちまうだろう。お前も辰巳なら、しっかりおし」。
 「だって、わっち、こんなお座敷は初めてさ」。
 泣いていたって始まらない。金次がここにいる間は、客の相手は大吉だけだ。 
 「お前さん。橋田までお母さんを呼び行ってたら、小半時じゃ済まないよ」。
 音江は、平太郎に目頭を合わせた。
 「分かったよ。お前ぇが助けてやんな。ただし、いっぺん切りだぜ」。
 「あい。おかたじけ」。
 拗ねたような顔付きの平太郎に、音江はにっこりと微笑むと、金次の涙を手巾で拭い、「金次、行くよ。しっかりとおし」と、胸を叩いた。
 「三船屋の若女将にございます」。
 三つ指を着く音江の知った顔であった。
 「おや」。
 後ろの金次の赤い目に、全てを察したその客は、余計な事は言わず、連れに、今夜は三船屋の若女将が自慢の三味を披露してくれるようだと告げる。
 「ほう、三船屋さんの若女将は、三味が得意なんで」。
 「なあに、そこいらの芸妓にゃ引けを取りませんよ」。
 見れば、亭主の平太郎が言っていた三日月は、ちょこまかと動いているように見えなくもないが、右の物を左に、左の物を右に寄せ代えているだけで、客の盃の中がどうなっているのかなど、到底気配りは出来ていない。
 それでも話し掛ける客の相手はしているようだが、「そうそう」。「あちしが、あちしが」。ばかりが音江の耳に張り付き渦を巻いて頭(つむり)の中でうごめいた。



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