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大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

水波の如し~忠臣蔵余話~後書き

2012年12月01日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 まずは、「水波の如し」を読まれ、吉良左兵衛義周の配流先での諏訪(高島)藩での扱いに、まさかと思われた方も居たのではないだろうか。伝わる話では、月代や髭もあたれず、着替えも侭ならないため、垢染みた衣類で過ごさざるを得ないなど、悲痛な話が伝わっている。
 だが、それなりに身分のある者に対しては、配流先でも礼を尽くすのが当たり前であり、火鉢は駄目だが炬燵は用意されていたり、諏訪は田舎故、口に合う物がないだろうと、江戸から菓子を取り寄せたりといった記述は、諏訪(高島)藩に残されている。
 これは、御家再興がなった折りへの配慮とされ、江戸時代には一般的であった。ただし、左兵衛に関してはやはり厳しい面も否めず、自害を危惧して剃刀などの刃物から、庭の小石まで遠ざけられたとある。
 よって、月代、髭をあたれなかったのは分からなくもないが、着替えひとつにしても江戸表に書面を通したりといった手続きは如何なるものなのだろう。一重に、諏訪(高島)藩主の気質を非難する作家もいるが、それは定かではない。
 吉良家も享保17年(1732年)、上野介の実弟・東条義叔により復興している。ただし高家の格式は認められなかった。
 因に、諏訪(高島)藩には徳川家康の六男・松平忠輝も蟄居させられている。
 そして、日本中が涙して止まない、赤穂浅野家の悲劇。そして、それに伴う四十七士の討入りを知らない人はいないのではないだろうか。いや、いないどころか判官贔屓の日本人にとっては、白虎隊と双璧の大好きな歴史ロマンであろう。
 四十七士に肩入したくなるのも致し方ないが、原点に返って柔軟に考えてみよう。そもそも浅野内匠頭長矩は、何故に切腹に陥ったのか。
 そう、殿中での刃傷どころか抜刀は御法度の法を破った為である。そもそも、江戸城のみならず各大名家の屋敷内への大刀の持ち込み自体が禁じられているのだ。
 浅野内匠頭の刃傷のあった元禄14(1701)年3月14日より時代をさかのぼれば、二件の江戸城内刃傷事件が記録されている。
 ひとつは、寛永5(1628)年8月10日、旗本・豊島明重が遠江国横須賀藩初代藩主であり老中の井上正就を殺傷し、駆け寄った青木忠精に背後から組み止められたものの、それを振り払うかのようにして脇差を取り出し、忠精もろともその場で自らの腹を貫いて死亡。嫡子・吉継は切腹。御家断絶。
 二つ目は、貞享元(1684)年8月28日には、美濃青野藩主で若年寄の稲葉正休が上野安中藩主で大老の堀田正俊を殺傷し、正休はその場にて老中・大久保忠朝、阿部正武、戸田忠昌らに滅多斬りにされ死亡。稲葉家は改易処分となった。
 平成の素町人である自分でも知りうる史実を、大石内蔵助良雄ともあろう者が知らない筈もなく、吉良家襲撃に当たっては、単なる主君の仇討ちだけではなくほかに子細があっての事ではないだろうか。飽くまでも私的な考えであるが、仇討ちで名を挙げることにより、御家再興を願ったのではないかと思って止まないのだ。
 そうでなければ、大名家の家老ともあろう者が、夜襲などといった暴挙に出るだろうか。事を大きくして世に知ら示す。それが目的だったのではないか。
 いずれにしても、迷惑千万なのは吉良家である。唐突に夜襲をかけられ、多くの死傷者を出した挙げ句に改易。当主の吉良左兵衛義周に至っては、薙刀を手に果敢にも戦い、背と額に手傷を負いながらも、月目付のを老中・稲葉正通に子細を文に認め提出したにも関わらず、「親を見殺しにした」として、諏訪藩にお預けである。
 加えて、左兵衛の実の親である出羽米沢藩の第四代藩主・上杉綱憲と嫡男・吉憲(左兵衛の異母兄)は謹慎処分(吉憲は後に五代藩主)。もう頭を捻るざるを得ない結末である。
 幕末の会津藩の悲運も憤りを隠せないが、それにも増して無体な仕打ちに、全く関係のない平成のお気楽素町人も胸が詰まる思いだ。
 多勢で夜襲をかける。これは士道に反していないのだろうか。仇討ちとは名乗りを上げ、一対一が基本ではないのかといった疑問がふと脳裏を過る。
 因に、異論もあると思われるが、討入りに関わる説を少しばかり。
 まず、浅野内匠頭は、元禄14年よりさかのぼること7年前にも勅使饗応役を務めており、この時の指南役も吉良上野介であった。よって、畳の表替えや装束に関する嫌がらせなどは、後の創作と思われる。
 では、7年前は何事も起こらず、なぜこの度は…。これには些かの不幸も含まれ、指南役の吉良上野介は京に赴いており、その地で風を召して江戸へ戻るのが大幅に遅れたのだ。よって浅野内匠頭は、指南を仰がずに役目を進めるしかならなかった。
 一方の吉良上野介にしてみれば、7年前と物価も大分上がっているため、浅野家の費用700両では納得出来ずに1400両を主張。ほかにも、細部に違いが生じていたために、それを指摘したtころが、浅野側は、けちを付けられたと受け止めたのではないだろうか。
 また、武家屋敷において女中は、当主の妻女や娘付きしかおらず、所謂(いわゆる)時代劇のように表向きに矢羽根柄のお仕着せに立て矢結びの帯で顔を出すことはなく、吉良家も富子が上杉家下屋敷に移ると女中も上杉家から入った小姓も全て上杉家に引き揚げていた。時代劇では、討入り当夜に女中が逃げ回っているシーンを見掛けるが、当夜、吉良家に女性はいなかったのだ。
 武家屋敷では、多くの家臣は屋敷内の門に繋がる長屋で寝起きをしていた。吉良家も同様で、赤穂浪士はまずこの長屋の戸口を板で打ち付け、中から出て来られなくしたため、屋敷内に詰めていた家臣しか戦えなかったとあるが、山吉新八郎は、長屋に退いていたにも関わらず、差料を手にいち早く飛び出したといった記述もあり、その後の戦いぶりは本文でも記述のとうり。
 当日、赤穂浪士を迎え撃った吉良方は、上杉家から入った家臣がほとんどで、譜代の吉良家家臣は長屋に篭っていたという話も伝わっている。
 家老の左右田孫兵衛重次に於いては、同じく家老の斎藤宮内と共に、長屋の壁を切り破り、向かいの傘屋に逃げたという不名誉な噂が立ったが、吉良家が断絶となった後も左兵衛に従い、配流先の諏訪藩高遠城へ供し、左兵衛が死去した後は帰参せずに三河国吉良へ、吉良家の菩提を弔いながら余生を過ごしたとされる。この事からも、彼の忠誠心は疑い用もなく、生き残ったがための、中傷と思われる。
 次に吉良上野介について。時代劇では世紀の悪役、エロ爺として描かれることの多いが、実際には、彼は上杉十五万石から迎えた正室の富子を大切にし、二男四女を設けている。側室の記録は残されていない。
 また、22歳にして従四位上に昇進。24回に及ぶ上洛は高家の中でも群を抜いており、さらに部屋住みの身でありながら使者職を行っていた。これは高家としての技倆が卓越していたことを示すにほかならない。
 領地の吉良庄(愛知県西尾市吉良町)には、増水のたびに隣藩上流の広田川、須美川から流れ込む水により洪水が起こり水路もたびたび変わるという泥沼地帯があり、その度に田畑や住まいを流される領民のために私財を投じて築いた黄金堤も残されている。
 
 因に、江戸城内での刃傷事件は十九件起きているが、下記は七大刃傷事件と呼ばれるものである。
  寛永5 (1628)年8月10日 旗本・豊島明重が、遠江国横須賀藩藩主・老中・井上正就を殺傷し、自らも自害。豊島家は断絶
  貞享元 (1684)年8月28日 美濃青野藩主・若年寄・稲葉正休が、上野安中藩主・大老・堀田正俊をを傷殺し、その場で斬り殺される。稲葉家は改易
  元禄14 (1701)年3月14日 播州赤穂藩藩主・浅野長矩が、旗本・高家肝煎・吉良義央への刃傷に及び、即日切腹。浅野家は改易
  享保10 (1725)年7月28日 信濃松本藩藩主・水野忠恒が、長門長府藩世子・毛利師就(後に長門長府藩主)へ刃傷に及び、水野家は改易
  延享4 (1747)年8月15日 旗本・板倉勝該が、肥後国熊本藩主・細川宗孝を殺傷し、水野忠辰宅に召し預けられ切腹。浅野家は改易
  天明4 (1784)年3月24日 旗本・佐野政言が、若年寄・田沼意知(田沼意次の嫡男)へ斬り付け、意知は八日後に死亡。佐野政言は切腹の処分を受け自害。佐野家は改易
  文政6 (1823)年4月22日 旗本・松平外記による旗本・本多伊織ら五名を殺傷し自らも腹を斬り、更に咽喉を突き自害。相番の者は改易または小普請入り
 この裁定によれば、浅野内匠頭の切腹(評定所に上げずに即日切腹は幕府の落ち度であり、大名に庭先で腹を斬らせるなどもってのほかだが)、改易はそう間違ったものではなかったのだ。
 筆者は、この赤穂浪士による討入りと、後の戊辰戦争を、世紀の二大逆恨み(今風に言えば、逆切れ)事件と認識して止まない。
 戊辰戦争に関しては、鳥羽伏見の戦いまではなんとか許容範囲だが、江戸城明け渡しで政権交代は済んだ筈。それからどれだけ尊い命が無駄に散ったと思っているのだ。薩摩、長州さんよ。
 簡単に言えば、長州が勝手に御所に攻め入ったり、外国船に発砲したりして、これまた勝手に負けたにも関わらずに、会津憎しとは何事か。薩摩などは世紀の裏切り、腹黒ではないかといった私見である。
 だいたいにおいて坂本龍馬が、商人ではなく維新の志士というなら、薩長同盟ではなく、会津と長州の仲立をしたのではないか? 「幕府を説得しようぜよ」とか言いながら。

 以上、つれづれなるままの雑文であります。賛否あるとは思われますが(否の方が圧倒的多数でしょう)、飽くまでも個人的な私見として、読み流して頂ければ幸いです。こういった臍曲りもいるということで、筆を置きたいと思います。
                      臍曲りの私見

 次回作まで、しばしお待ちください。




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水波の如し~忠臣蔵余話~103 最終回 外伝 風光る 

2012年11月30日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 十日後の十四日。法華寺には先客の姿があった。左兵衛に従った吉良家家老の左右田孫兵衛重次と用人の山吉新八郎盛侍である。
 左兵衛の墓前で手を併せる両人は旅姿である。心太に気付くと、
 「心太。我らは江戸に戻るが、お前は本当に諏訪に残るのか」。
 そう念を押す。
 「ああ。おいらは生涯、左兵衛様のお側を離れねえって決めたんだ。お武家じゃねえが、こちとら江戸っ子だ。二言はないぜ」。
 「じゃが、その方の親御も寂しがるであろう」。
 すでに老齢である左右田は、心太の両親の心情を思いやる。心太も寸の間黙り、寂しそうな表情を作るが、
 「おとっつあんも、おっかさんも分かってくれると思います。それに生涯会えねえわけじゃねえ」。
 作り笑いは痛々しい。
 「左様か。そなたが決めたなら何も言わぬ。左兵衛様をお頼み申す」。
 左右田は心太に深く頭を足れた。この左右田自身もこの時すでに左兵衛の菩提を弔って生きる選択をしていたのだった。
 「新八郎さんはこれからどうなするんで」。
 「そうだな。まずは左兵衛様が懇願していた米沢に戻ろうと思うておる」。
 新八郎の胸には左兵衛の遺髪が忍ばせてあった。
 「ではこれで、お二人ともお達者で」。
 左石田、新八郎は、左兵衛の供養塔を自然石にて建立を法華寺に願い、代金三両を納め江戸に向けて旅立った。今生の別れであった。
 別れの季節は常に霙まじり。寒さが身に染みる中、悲しみも増す。
 「左兵衛様、今年の桜は如何ばかりでありましょうか」。
 浅い光の中、そよ風が吹き渡る。信濃の春もそこまで来ていた。

 「御所(足利将軍家)が絶ゆなば吉良が継ぐ」とまで謳われた名門・吉良家の正嫡はここに断絶。
 後に、吉良上野介義央の弟・東条義叔の子孫が江戸城西丸の御書院番に登用され、同じく吉良氏の血を引く蒔田義俊が高家に抜擢されると、両家共に吉良を名乗ることが許され、その家系は幕末まで続いている。
 左右田孫兵衛重次は、その後数多の仕官の口を断り、吉良家の領地であった三河吉良の吉良家菩提寺・華蔵寺に義周の墓を建立し同地にて静かに余生を過ごした後、享保八年に八十八歳にて、生涯を閉じる。
 山吉新八郎盛侍は米沢へ戻ると、春日山林泉寺に眠る赤穂浪士討ち入りの際討ち死にをした新貝弥七郎安村の墓前で、「左兵衛様御生涯」の報告を済ませ、再び上杉家に仕官。翌宝暦三年に、八十二歳にて死去。
 両名とも、元禄十五年十二月十五日未明の赤穂浪士の討ち入りの話は決して口にしなかったと言う。
 心太のその後は伝わっていない。だが、法華寺の左兵衛の墓前の花が枯れたのは、左兵衛死去から四十年の後だった。

 吉良左兵衛義周
 宝永三年(1706)一月二十一日 
 赤穂浪士の際、義父・吉良上野介義央を守れなかった罪により、諏訪高島藩お預けのまま三年後に死去。享年二十一歳。墓所は諏訪市中洲の法華寺。

 山吉新八郎盛侍 左兵衛用人
 諏訪高島藩に左兵衛に従うが、左兵衛の死後、米沢藩上杉家に帰参。翌宝暦三年(1753)七月二十八日死去。享年八十二歳。

 新貝弥七郎安村 左兵衛用人
 元禄十五年(1702)十二月十五日。赤穂浪士の討ち入りにより玄関にて討ち死に。享年二十五歳。
 
 清水一学義久 上野介用人
 元禄十五年(1702)十二月十五日。赤穂浪士の討ち入りにより台所口にて討ち死に。享年二十五歳。

 笠原長右衛門 吉良家右筆
 高田馬場の決闘にて、堀部安兵衛に父を刺殺されるが、縁合って吉良家に召し抱えられ、村上和之進から笠原長右衛門と名を改める。
 禄十五年(1702)十二月十五日。赤穂浪士の討ち入りにより書院次にて討ち死に。享年二十五歳。

 心太
 元禄十五年(1702)十二月十五日、赤穂浪士の討ち入りをいち早く桜田門の上杉家に知らせ、左兵衛の諏訪流しに伴うかのように、諏訪城下へ移住。その後の消息は不明。

 村山甚五右衛門 旧播州赤穂藩浅野家大納戸役
 米沢藩上杉家から左兵衛の小性として新八郎、弥七郎と共に吉良家に入るが訳合って出奔。その後、赤穂藩浅野家に召し抱えられ毛利小平太元義と名を改める。
 仇討ちの盟約に加わっていたが、討ち入り三日前の、十二月十一日脱盟する旨の書状を残して逐電。最後の脱盟者となる。その後の消息は不明。

 上野東叡山寛永寺輪王寺門主の公辨法親王
 「亡君の意思を継いで主が仇を討とうというのは比類なき忠義のことではあるが、この者どもを助命し晩年に堕落する者がでれば、恐らく義挙にまで傷が入ることにならぬとは言えぬ。だが今死を与えれば、忠義は後世まで語り継がれていくことになるでだろう。時には死を与えることも情けとなる」。
 赤穂浪士の切腹を主張。

 儒学者・荻生徂徠
 「四十六士の行為は、義ではあるが、私の論である。浅野内匠頭長矩が殿中も憚らず罪に処されたのを、吉良を仇とするのは誤りである。公儀の許しも得ず、幕府の旗本屋敷に乗り込み多数を殺害する騒動には死罪が当然、法をまぬがれるものではない」。
 赤穂浪士の切腹を主張。
 
 寺社奉行・脇坂淡路守安禎
 評定所にて
 「夜分秘かに襲撃するは夜盗と変わることなし」。
 赤穂浪士の磔獄門を主張。

 ※吉良左兵衛義周は、信濃諏訪藩にて左兵衛様と呼ばれていたことから、改易後も左兵衛に統一しました。

 長い間お付き合いくださいましてありがとうございます。悲運の貴公子ながらも判官びいきの日本人の琴線に触れることなく、闇に葬られた感の否めない吉良左兵衛義周。彼の短い人生はどのようなものだったのか。5歳にして産みの母と引き離され見知らぬ土地で暮らし、言い掛かり甚だしい無念の采配に砂を噛む思いではなかったのではないか、などと考えながら拙い文章を書かせていただきました。
 最期までお付き合いくださった皆様に、お礼申し上げます。
 明日は、江戸城刃傷事件。そして吉良家への処分等に関する私論を後書きとして、この物語の終焉とさせていただきます。




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水波の如し~忠臣蔵余話~102 外伝 風光る 

2012年11月29日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 「新八郎、その方にひとつだけ頼みがある」。
 「何なりと」。
 「万が一余がみまかろうものなら、その方余に代わり、米沢に参ってはくれまいか」。
 「若様、何を弱気な。そのようなことがあろう筈もございませぬ」。
 左兵衛は寝たり起きたりの暮らしに、己の命がそう長くないことを感じ取っていたのかも知れない。
 わずか五歳で実母と離されて後、再び会うことも適わないでいた。懐かしい故郷の思い出もすでに遠い彼方である。それでも郷愁は押さえ難く、左兵衛はせめて遺髪を、それが適わぬなら形見の品を持ち帰って欲しいと願うのである。
 それは義に厚い新八郎の、殉死を制した左兵衛最後の策でもあった。すでに主君に殉ずる死は法で禁じられてはいたが、新八郎なら然もありなんと危惧したのである。
 「なれば蟄居が解けましたら、共に参りましょう」。
 新八郎は、ともすれば溢れ落ちそうになる涙を堪え、力付けるが、「命である。余の御霊を米沢まで運ぶのじゃ」。

 宝永三年一月二十日。左兵衛はわずか二十歳にして死去した。死因は定かではない。
 諏訪高島藩用人の志賀利兵衛は城下の豆腐屋・心太の元に走っていた。
 「志賀様、何をそんなに慌ててなさる」。
 「心太、落ち着いて聞け。左兵衛様がみまかられた」。
 心太の脳裏には、左兵衛と出会ってからの十五年が走馬灯のように浮かんでいた。
 「終わっちまったのか」。
 その日、冷たい雪が肩に積もるのを心太は払おうともせず、諏訪高島城南ノ丸の方に向かって手を併せ続けるのだった。
 二月四日になってようやく左兵衛の遺骸は法華寺に埋葬された。
 「左兵衛様、三年もよう御辛抱しなさいました。お辛かったでしょう。悔しかったことでしょう。それなのに、お側にいられなくて申し訳ありませんでした。ようやくこうしてお目通りが適いました。お寂しくないようにこれからは毎日参りますからね。待っていてくださいよ」。
 左兵衛の墓に語りかける、心太はすでに涙も枯れ果てていた。
 (思えば、左兵衛様にとっては囚われ人でない、今の方がお幸せなのかも知れない)。 
 頭では理解している心太だが、心にぽっかりと開いた穴を埋めるには、まだまだ時を要する。


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水波の如し~忠臣蔵余話~101 外伝 風光る 

2012年11月28日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 つい数年前には、このような運命が待っていることなど思いもよらず、明るい未来を思い浮かべたものだった。
 「新八郎、三河の吉良庄まで旅をしたことを覚えておるか」。
 「もちろんにございます。左兵衛様の無茶には肝を潰しました故」。
 左兵衛様は笑いながら、
 「左様であった。あの年は色々あったが、今思い起こせば楽しい思い出であるな」。
 そこに左右田が、
 「左兵衛様が毎度、無茶をなさいます故、家中は大騒動にございました」。
 「それはすまぬことをした。されど、好き勝手をできた時を経た故、今はこうして穏やかにおられるのやも知れぬ。人の一生に無駄はないのじゃな」。
 新八郎は黙って頷くが内心では、「赤穂浪士の夜襲など無駄以外何ものでもなし」と、憎悪に耽る。
 だが、その赤穂浪士もすでに全員切腹して果てている。そしてその子にまで類は及び、元服後の男子は島流し。元服前の幼子は元服を待って島流しの沙汰が下されていた。
 誰もが不遇に陥るにも関わらず、何故に吉良上野介義央を討たねばならなかったのか。忠義は命よりも尊ばれる。そんな時代の不幸である。
 
 心太は思いも掛けず、左兵衛に会えたことに感涙していた。諏訪まで来た意味があったと。
 「左兵衛様の蟄居が解かれるまでの辛抱だ。そしたらまた昔のように毎日一緒にいられらあ」。
 心太は毎朝、豆腐を諏訪高島城に届け続けるのだった。
 だが左兵衛は諏訪に雪が舞う頃から寝付く日が多くなり、梅が咲き、桜が綻み、紫陽花が露に光り、向日葵が陽に向かい、紅葉が赤く染まっても優れない様子に陥っていた。
 垢染みた衣服の着用を余儀なくされ、月代を剃るのでさえ江戸表の返答を待つ。そんな日々であった。それでも諏訪高島藩用人の志賀利兵衛の機転で、左兵衛には暖を取る炬燵が用意されていた。火鉢は許されないが、ならば炬燵は用意したいと志賀が進言してのものである。
 左兵衛は左右田、新八郎にも共に炬燵を勧めるが、頑として受け入れない。
 「米沢の冬はこのようなものではございませぬ。一面深い雪に閉ざされ、それでも我らは苦にもせなんだ」。
 左兵衛は、
 「良いか、囚われの身は余ひとり。その方らは客人にも等しい。何を遠慮することがあろうか。その方らが炬燵を使わぬになら余も不要じゃ」。
 こうして三名はひとつの炬燵で暖を取るのだった。それを目の当たりにした志賀始め諏訪高島藩士たちは、驚きを隠せなかった。
 主君と臣下がひとつの炬燵にあたっているのだ。しかも楽しそうに談笑している。
 志賀の顔を見ると左兵衛は笑いながら、
 「一席空いておる故、志賀殿もあたられよ」。
 と炬燵を勧める。監視の身と囚われ人がひとつ炬燵にあたるなどできる筈もない。志賀はおずおずと尋ねるのだった。
 「吉良様のお屋敷では、このようにお過ごしであられましたのか」。
 左兵衛は寸の間考え込んだが、
 「吉良家はたかが四千五百石の旗本故、こちらのような大名家とは家格違うのじゃ。公の場であればいざ知らず、臣下が寒さに震えている折り、己だけぬくぬくとはできぬのが心情ではないか」。
 志賀は、「参りました」。そう言いたい思いでいっぱいだった。そして、左兵衛によって吉良家が再興されることをひたすら願って止まないのだった。



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水波の如し~忠臣蔵余話~100 外伝 風光る 

2012年11月27日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 時を同じくして、諏訪高島城南ノ丸では、
 「赤穂の者の逆恨みと憎んだこともある。されど、大名が我を忘れて刃傷に及ぶなどただごとではない。内匠頭様に刃傷を起こさせる、何かを義父上も仕出かしたのであろう」。
 左兵衛の冷静な判断に左右田、新八郎は痛み入るが、幕府の裁定を憎む気持ちは薄れてはいない。
 「それでも、左兵衛様に対するお裁きは納得でき兼ねます」。
 左右田、新八郎は如何にも悔しそうに唇を噛み締める。
 「元は水波であったのじゃ。だが、内匠頭様を始め、命を失うた者の何と多きこと。最初に裁定を掛け違えれば、大きな災いを招くことを御政道も学んだであろう。吉良家はその礎になったと思えば事なきこと」。
 「左兵衛様はそれでよろしいのですか。本来なれば上杉家のお血筋」。
 「運命は誰にも解せぬもの。上杉では兄が家名を継ぎ、余は捨て扶持の厄介者じゃ。吉良家の当主になれただけでも幸運であったのじゃ」。
 左兵衛はすでに全てを諦めていた。素直に己の運命を受け入れていたのである。お家再興など適う筈もなく、諏訪に囲まれのまま果てるのであろうことを。
 「それでも、志賀殿のように、我が身を親身に思うてくださる御方に巡り会えたのじゃ。良いではないか」。
 だが、新八郎の右のこめかみから左の口元にまで斜めに及ぶ刀傷を見ると、左兵衛の心は痛む。余りの痛々しさに新八郎には髭を貯えることが許されていたが、その傷跡が、あの赤穂浪士たちの夜襲の日を鮮明にさせるのだった。
 「新八郎、そなたにはすまぬ思いである」。
 そう言う、左兵衛の眉間の傷も消えぬほど深い。
 「終わったことにございます。元々、大したご面相ではありませなんだ故。それに武士の刀傷は名誉にございましょう」。
 新八郎が笑み浮かべると、左右田の表情が曇るのだった。
 「それがしは、傷を負っておりませなんだ故、赤穂の襲撃を知ると向かいの傘屋に逃げ込んだ、とんだ腰抜け家老と言われております」。
 これには左兵衛も顔を綻ばせる。
 「人の口とは無責任なものよ。余は、そなたが他家の仕官の話を全て断り、こうして付き添ってくれたことを何よりの忠義と思うておる。気に病むでない」。
 左右田も新八郎も元は米沢上杉藩士であった。左右田は富子の輿入れの際に吉良家に入った者。新八郎は左兵衛に従った小性からの家臣であった。
 赤穂浪士の夜襲の際、戦ったのは上杉家からの者がほとんどだったのである。元来の吉良家家臣は武家長屋に閉じ込められたまま、吉良上野介義央の首が上げられるのを甘んじていたのだ。
 そしてその時、新八郎と共に左兵衛に従って米沢から吉良家に入っていた新貝弥七郎安村は、玄関先で赤穂浪士を食い止めようと可換に戦い討ち死にしていた。用人であった清水一学も同様である。



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水波の如し~忠臣蔵余話~99 外伝 風光る 

2012年11月26日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
「志賀殿。お心遣い痛み入る」。  
 城に戻った左兵衛は、心から感謝した。
 「左兵衛様におかれましは、気鬱は晴れましてございましょうか」。
 「何よりの経であった」。
 左兵衛の頬には、幾分赤みが戻っているかのようにその表情は明るく見えた。
 それからも志賀利兵衛は時折、心太の店を訪ねては左兵衛の様子を伝え、左兵衛には心太の言葉を伝えていた。思うにそれは「法度破りの重罪やも知れぬ」。志賀は自覚していたが、それでも放っておくことはできなかったのである。そうこうするうちに志賀自身が、心太の心根に惚れ込んでいく。
 だが秘密事はとかく露見するものである。ある日、志賀は同じ御用向きの渡辺治右衛門宅に招かれていた。
 「利兵衛、その方は左兵衛様に肩入れし過ぎである。これまでは目を瞑って参ったが、これ以上のことがあれば殿が、我が藩が無事では済まぬぞ」。
 渡辺もまた何も言わないまでも、志賀が意図的に左兵衛と心太を会わせたことを知っていた。
 「治右衛門、その方が黙認してくれてどれだけ感謝したか知れぬ。それがしは左兵衛様がお気の毒でならぬのじゃ。少しでもこの諏訪にて安らかにお過ごしいただきたいのだ」。
 「利兵衛、それがしとて気持ちは同じだ。だが…」。
 渡辺にも重々分かっていることであった。
 「それがしは心太と申す者の忠義は、赤穂の者に勝るとも劣らぬと受け取った。町人でありながら見上げたものである」。
 「されど、左兵衛様のために、お家を危うい目に遭わせる訳にはいかぬではないか」。
 「治右衛門、このことで殿にお咎めがあるようなことがあれば、一身において腹を斬る」。
 志賀の覚悟の程を知った渡辺だったが、
 「何故そこまで左兵衛様に。その方の主君でもあるまい。咎人であるぞ」。
 「咎人とな。左兵衛様の何処に咎があるのであろう。主君の仇討ちなどと大義名分の元、夜襲を掛けた者たちに立ち向かい御身も深手を追いなさった上、その一部始終を御老中に報告する程の沈着さ。そして今は、その運命を恨むことなく受け入れておられる。あのように御立派な方はほかに知らぬ」。
 志賀は、言ってはならないことを口にしてしまったのである。すなわち主君である高島藩四代藩主・諏訪安藝守忠虎よりも、左兵衛に感化しているということであった。
 「利兵衛、お主、殿を愚弄する気か」。
 渡辺は眉を釣り上げる。
 「そのような思いはありませぬ。殿は我が主君。されど…」。
 諏訪高島藩は信濃の小さな藩である。その藩主である安藝守は家老に領地を一任し、江戸藩邸にその身を置き国元にはほとんど戻らなかったのである。これは財政難に悩み参勤交代の経費を浮かせる意味合いもあったのかも知れないが、領地に関心がなかったのも事実。
 それでも家老が、しっかりと藩主の留守を守っていれば問題はない。だが、国家老の千野兵庫、同じく諏訪図書との間で常に確執があった。双方が安藝守の留守を良いことに藩の実権を握ろうと画策していたのだった。
 もはや諏訪には安藝守を崇める者はいない。藩士たちは千野か諏訪かに別れ歪み合っていた。
 「お主の思いは良う分かる。されどこのことが諏訪様の配下に露見したなら千野様にも類が及ぶである」。
 「治右衛門安堵せい。このようなことはこれ切りだ。忠義の心太を一目、左兵衛様に目通りさせたかっただけだ」。



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水波の如し~忠臣蔵余話~98 外伝 風光る 

2012年11月25日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 「暑気は避けて欲しい」。
 新八郎の言葉を受け宵の七つ時、左兵衛を乗せた駕篭は南ノ丸に入って一年振りに門を潜った。
 諏訪高島城から法華寺まではそう遠くはない。本堂ではすでに住職以下四名の僧侶が綱憲と梅嶺院の供養の支度を整えていた。
 「その者は誰である」。
 志賀と共に左兵衛の用向きを勤める渡辺治右衛門が、本堂への階段下で跪いてお辞儀をする僧でない男の存在に目を光らせた。
 「この者は寺の小者にございますれば、怪しい者ではございませぬ」。
 「されど、御坊様。このような者がおるとは聞き及んではおらぬ。下がらせていただきたい」。
 住職は笑いながら、
 「これは失礼いたしました。されど寺の者にございますれば、いつ如何なる折りに寺におっても不思議ではございません」。
 このやり取りの最中、志賀が新八郎の脇腹を少し突ついた。「何を」といった面持ちで志賀を睨んだ新八郎だったが、志賀の視線の先を追うと…。
 気付かれぬように志賀に会釈をした新八郎は、
 「左兵衛様。小石があります故、足下にお気を付けくださいませ」。
 新八郎の言葉に足下に目をやった左兵衛。
 「心太」。
 左兵衛が小さな小さな声で呟くと、跪く寺男は涙を溜めた顔を左兵衛に向けるのだった。
 だが、言葉を交わすことは許されない、元禄十六年二月十一日の別れよりので再会であった。
 「左兵衛様に茶を差し上げたい」。
 住職の言葉に、渡辺は渋い顔を見せるが、「御仏に仕える御坊様なれば問題なかろう。本日は江戸表からの許しも得ておる」。と志賀が渡辺を騙されるのだった。
 奥の間には住職と左兵衛が向かい合い。襖を隔てて、左右田、新八郎、志賀、渡辺が正座する。
 丁度左兵衛の前には、寺の中庭が開け放たれた障子から吹き抜ける風と共に清涼感を運んでいた。
 「左兵衛様、いかがでありましょう。お庭を愛でては」。
 住職に促され、目をやった中庭には心太の姿があった。
 「ゆるりとはお話はできませぬぞ」。
 住職はそう囁くと、誰にも姿が見えないようにと、視界を遮るように左兵衛の後ろに立つのだった。
 「心太、息災であったか」。
 「左兵衛様、直にお家も再興されましょう。今しばらくの御辛抱です」。
 心太の言葉は左兵衛には遠い昔話のようであった。左兵衛は、ただ頷きながら心太の手を固く握るのだった。




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水波の如し~忠臣蔵余話~97 外伝 風光る 

2012年11月24日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 「その方、万が一、大切に思うておる御人が罪人となって流されたなら如何致す」。
 志賀は、妻の香代に問うていた。
 「唐突な御質問にございますね。それはあなた様のことにございましょうか。ですがあなた様が罪人となるなど、香代には分かり兼ねます」。
 妻のありきたりの受け流しに苛立ち、
 「それ故、万が一と申しておる」。
 温厚な夫の、普段は見せない表情を悟った香代は、
 「まさか、あなた様」。
 「そうではない。万が一の話だ」。
 香代は寸の間黙り込んだが、
 「万が一、あなた様がどこかへ流されたなら、わたくしも共に参ります」。
 「しかし、蟄居中で会うことは適わぬのだぞ」。
 「それで、少しでもお側にいたいと願うのが人の心にございます」。
 「会えぬまま、どちらかが身罷ったなら如何致す」。
 香代は、やれやれといった表情で問答を繰り返していたが、
 「あなた様が先に身罷かられましたら、ようやく墓前にてお目通りが適います。わたくしが先でしたら、最期のその時まであなた様のことを思い続けられたことに感謝いたします」。
 香代は志賀の真意の程は解せぬが、それなりにただごとでないことは悟っていた。
 「あなた様が宜しいように。もしあなた様が咎を受けるようなことになり、当家がそれに殉ずることになりましても、恨みは致しませぬ。あなた様のお心の侭に」。
 そもそも、左兵衛が蟄居する南ノ丸へ部外者は、一切入れては成らぬとの厳しい決まりが広く言い渡されていた。ましてや内密の目通りなどもってのほかである。

 「左兵衛様におかれましては、気鬱の御様子にございます。それも実のお父上様であらせられる綱憲様、そして義母上の梅嶺院様と相次いで亡くされたことにお心を痛められている御様子。一度寺社にて御供養をされてはいかがかと存じます」。
 志賀は諏訪高島藩家老の千野兵庫に言上していた。
 宝永元年六月二日、実父の上杉綱憲が死去するとそれを追うかのように祖母で養母の梅嶺院が同年八月二日に鬼籍に属したのだった。
 左兵衛諏訪に流されてから、わずか一年四カ月後のことである。
 そして志賀はこの時を待っていた。いや、左兵衛に近しい人の死を望んだのではなく、左兵衛が南ノ丸から外に出る機会を待ち望んでいたのである。
 「まずは江戸表の御許しを得んことには」。
 千野は右筆の山中三郎右衛門を呼び付けると、急ぎ江戸表へ文を出すように命じるのだった。
 寺社での供養にまで許しを請うとは、志賀は千野の決断のなさにいささかの失望を隠し得なかったが、衣服や身だしなみのことまで逐一幕府へ問い合わせているくらいだ。仕方なしと時を待つのだった。
 時は七月に入っていた。夏には蚊に悩まされる。その上、この年は実父と養母を亡くしていたのである。気鬱から病いに陥った左兵衛には、心太の豆腐の喉越しが唯一生命を保っていると言っても過言ではないくらいに食も細い。
 志賀から法華寺へ供養に訪れることを提案された左兵衛の供である左右田、新八郎は共に、
 「左兵衛様のお体が優れませぬ上に、この暑さでは外出は御無理かと存じます」。
 志賀に一計があるなど予想だにもしない二人は、そう口を揃えるのだった。
 「お心の平安こそが、お体の息災にも繋がろうかと存じます」。
 それでも志賀はいつにない執拗さで読経を勧める。
 「なれば、御坊様にこちらに御足労は願えませぬでしょうか」。
 左右田、新八郎は諏訪高島藩の企ても疑っていた。
 「屋敷に籠ってばかりでは気鬱も晴れませぬ」。
 「志賀様、それほどお勧めになられるとは、何をお考えでありましょう」。
 新八郎が、今にも掴み掛からんばかりの姿勢を示したのを、左兵衛は褥から身を起こすと、
 「左右田、新八郎。志賀殿の折角の勧めじゃ。お受け致そう」。
 そう志賀に向かって、頭を足れるのだった。




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水波の如し~忠臣蔵余話~96 外伝 風光る 

2012年11月23日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 左兵衛様は新八郎と向かい、
 「心太が余を追って、このような山中まで来てくれたことは嬉しゅう思うが、心太の親御は如何な思いであろう。新八郎、一度城下に赴き心太と話をしてはもらえぬか」。
 数日の後、新八郎は心太の店を訪ねていた。
 「新八郎さん、お久しい。新八郎さん、会いいたかった」。
 抱きつく心太を新八郎は、両手で引き離すと、怒っているのか困っているのか分からぬ口調で、
 「何故、このような所まで参った」。
 「だっておいらは七つの時に、一生左兵衛様にお仕えするって誓ったんだ。新八郎さんだってそうだろう。おいらと同じ気持ちだろう」。
 新八郎は込み上げる涙を抑え切れない。それは心太も同じであった。
 「お前の気持ちは良く分かる。左兵衛様もお前の豆腐を喜んでおられた。だがな、同時に左兵衛様はお前のことを気に掛けておられるのだ」。
 「どうしてですかい」。
 「産まれ育った江戸を離れ、難儀はしていないか。お前の親御は寂しがっていないか。更にはお前を助成することも適わない今の御自身の境遇を嘆いておられる」。
 「左兵衛様は、おいらが諏訪にいたら迷惑なのかい」。
 まるでだだっ子のように、左兵衛の気持ちを汲み取らない心太に新八郎は業を煮やすが、「お会いできなくても、少しでも近くにいたい」。そう涙を流す心太の忠義は、武士にも勝ると受け入れたのである。
 「できぬことではあろうが、何とか左兵衛様にお目通りが適わぬか志賀様にお願いしてみよう。ただし、期待はするなよ」。
 新八郎は心太の肩に手を置いた。
 「そればかりは適いませぬな」。
 志賀は、新八郎の予想どおりの返答である。そして、江戸表に文を出しても無理かと思われると付け加える。
 「御無理は承知の上、志賀様の御采配にて何卒」。
 新八郎は深く頭を垂れた。これは、志賀に決まりを破れと懇願しているのである。万が一、ことが表沙汰になれば、志賀一人が腹を斬るだけでは済まないくらいに重いことである。
 志賀は気の良い男であったが、糞が付くくらいに生真面目でもある。到底そのような願いを聞き入れる度量はない。
 だが、赤穂浪士が忠義者と褒め讃えられている今、町人でありながらも一身を投げ打ってまで左兵衛に仕える心太の忠義は、赤穂浪士に勝るとも劣らないのではないだろうか。志賀は、そう自問自答していた。


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水波の如し~忠臣蔵余話~95 外伝 風光る 

2012年11月22日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 二月十一日、諏訪高島藩に護送される、未だ傷の癒えない左兵衛に付き従うことを許されたのは、元吉良家家老の左右田孫兵衛重次、近習の山吉新八郎盛侍の二人のみ。寂しい旅立ちであった。
 そして上野介の死後出家した養母の梅嶺院(富子)の心遣いの夜具など、わずかな荷が許された。
 心太は左兵衛を見送った後、直ぐに本所の店を畳むと単身諏訪に旅立つのだった。
 「七つの時に左兵衛様に出会った時から、一生、左兵衛様にお仕えするって約束したんだ」。
 心太が江戸に思い残すことは何もなかったのである。
 
 諏訪での生活は、八百屋の棒手振りから始まり、百姓仕事も手伝う。そしてわずかながらの元手でようやく豆腐屋を開いたのは一年の後であった。
 「この豆腐を、左兵衛様に差し上げてくださいませ」。
 心太は性懲りもなく何度も高島城に持ち込むが、ほとんど足蹴にされるように門番に追い返される。
 それでも心太は諦めなかった。左兵衛と己を繋ぐのはもはや豆腐だけだ。そう信じていた。
 毎日毎日、豆腐を持参する心太は次第に高島藩内でも知らぬ者はいないほどになっていた。
 ある日高島藩士の志賀利兵衛の途城に出会した心太は、徐に豆腐を差し出し、
 「お願いにございます。左兵衛様にこの豆腐を是非、御献上くださいませ」。
 志賀は、
 「左兵衛様は、豆腐が好物なのか」。
 「ただの豆腐ではございません。心太の豆腐と申していただければ、左兵衛様は御喜びになられます。いや、言わずとも食していただければ、必ず心太の豆腐とお分かりになられます」。
 心太の必死の形相に志賀は、心太と左兵衛の関係を問い質すのだった。
 「左様か、左兵衛様が米沢から江戸にいらした時からの旧知の仲と申すか。だが、左兵衛様はお旗本。それも高家の跡目。その方のような町屋の者と親しいとはとうてい信じ難い」。
 「そうかも知れません。ですがね。吉良の御隠居様も奥方様も、左兵衛様も誰もおいらに身分違いなんてことはおっしゃったことはありやしません」。
 心太は、吉良家が呉服橋御門内から本所松坂町にお家替えになると自身も本所に移り住んだことを告げた。
 「ですから、左兵衛様が諏訪に来なすったなら、おいらも江戸を離れることくらい何でもねえ」。
 
 「この豆腐は諏訪の物であろうか」。
 奴を一口食した左兵衛様は、言うに言われぬ懐かしさを噛み締めていた。
 「心太と名乗る者が、どうしても左兵衛様に献上したいと申し出ておりまして、やかましいくらいに我らを訪ねて参っておりました」。
 志賀の答えを聞くや否や、左兵衛様は顔色を変えるのだった。
 「心太が諏訪におるのか」。
 「その者が申しておりました。左兵衛様に生涯お仕え致すと」。
 左兵衛様は、幽閉で鬱々としていた心が晴れる思いだった。
 「志賀殿、相済まぬがこの豆腐を毎日膳に乗せてはもらえぬであろうか」。
 「左兵衛様の御望みなれば、我が一存にて御計らいさせて頂きまする」。
 志賀にとっても、己の進退を懸けた決断であった。




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水波の如し~忠臣蔵余話~94 外伝 風光る 

2012年11月21日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 心太は、赤穂浪士の夜襲から片時も離れず左兵衛の側にいたが、町屋では赤穂浪士の忠義が江戸っ子の心をしっかりと掴み、吉良家は類を見ない敵役とされていったのである。
 それは少しでも吉良家擁護しようものなら、江戸八百八町に住んでいられなくなるくらいの勢いであった。現に、赤穂浪士の切腹を主張した儒学者の荻生徂徠でさえもが、町屋では非難の対象となっていたほどである。
 それでも、心太にとっては日一日と回復する左兵衛、新八郎を見るのは喜ばしいことであった。
 「新八郎さんは顔に傷が残っちまうな」。
 「ああ、元々大したご面相でもなし。どうということはない」。
 「ですが、強面が更に増して、嫁が来てくれるか心配でさあ」。
 こんな軽口を叩き合うことは、赤穂浪士の夜襲以前は日常であったが、今となっては珍しくさえある。 
 「心太。そなた一番仲の良かった弥七郎が討ち死にし、悲しかろう」。
 「そんでも弥七郎は立派に戦いなすった。御主君である左兵衛様をお守りしたんだ。悔いはねえと思います。思いますが、おいらは赤穂の奴らが憎い。憎くて仕方がねえ」。
 目を潤ませる心太に、新八郎は沈痛な表情で、
 「赤穂の者も御家再興もならず、致し方なかったのであろう。それが武門の常だ。恨むでない」。
 「新八郎さん。お言葉ですが、御隠居様に刃を向けたのは浅野内匠頭様。しかも御法度の殿中での刃傷で御腹を召されただけ。それなのに御隠居様を敵だなどとおかしな話だ」。
 「心太。しかし、それが武門に課せられた使命なのだ。御隠居様を討たなんだら、赤穂の者たちも面子が立たぬ」。
 面子。そんなことのためにどれだけの人が命を失ったのだろう。心太には武家社会とは理解できるものではなかった。それでも当主となった左兵衛は健在である。内匠頭と上野介の遺恨も終わり、吉良家は左兵衛が存続ささせるものと疑わなかったのである。
 だが、それが甘い考えだと思い知らされたのは、元禄十六年二月四日のことであった。
 まだ、傷の癒えない左兵衛は評定所へ呼び出され、吉良家改易。身柄は諏訪高島藩に御預けを言い渡され、そのまま屋敷に戻ることなく諏訪高島藩邸に身柄を拘束された。
 このような片手落ちの裁定にも、左兵衛は落ち着いた態度で、大小を差し出すと深く礼をしたのだった。
 しかもその罪状は、「吉良左兵衛義周。義父を見殺しにしたこと真に仕形不届也。よって領地召し上げの上、高島藩・諏訪安藝守忠虎へお預けを申し渡す」。とんでもないとって付けた理由である。
 そもそも評定所の決議は、
 「吉良家の家臣で戦わなかった者は侍とは認められぬ故、全員斬罪。吉良の実子である上杉綱憲は父の危機に何もしなかったため領地召し上げ。吉良義周に至っては義父を助けられなかったことにより切腹。浅野家遺臣は真の忠義の者たちであるので、お預かりにしておいて赦免するべき」。
 といったものであった。大方の幕閣が赤穂浪士に肩入れする中、荻生徂徠が気炎を吐いた。
 「四十六士の行為は、義ではあるが、私の論である。浅野内匠頭長矩が殿中も憚らず罪に処されたのを、吉良を仇とするのは誤りである。公儀の許しも得ず、幕府の旗本屋敷に乗り込み多数を殺害する騒動には死罪が当然、法をまぬがれるものではない」。
 吉良家には罪はないことを主張。
 寺社奉行の脇坂淡路守安禎も、「夜盗に同じ」と、浪士の磔獄門を求めた。
 時の将軍綱吉は、何とか浪士を助命しようと、上野東叡山寛永寺輪王寺門主の公辨法親王を訪ね、「天皇からの特赦」を願い出るも、公辨法親王は、忠義を美談で終わらせるためには、「死を与えることも情けとなる」として、天皇への上告を拒否している。
 彼らの脳裏に左兵衛がどう浮かんでいたかは不明ではあるが、私情で大事の断を下すような人でないことは確かである。
 心太にとっては、夜襲を掛けた赤穂浪士が切腹になったことだけも心外であった。仇討ちなどと銘打ってみたところで、多勢で夜襲を掛けるなど武士として如何なるものか。罪人らしい沙汰が下って呵るべし。彼らの切腹を知った時には、腑が千切れる思いだった。




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水波の如し~忠臣蔵余話~93 外伝 風光る 

2012年11月20日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 だが、旧赤穂藩の浪士たちは一向に仇を討つ気配を見せず、浅野内匠頭長矩の一周忌が過ぎても何ごとも起こらないと世論は、「主君の仇も討てない腰抜け侍」とすっかり仇討ちなどないものと思い込み、それに促されるように緊迫していた吉良家の警備も次第に平常へと戻されていった。
 元禄十五年も残すところひと月となっていた。雪が降ったり止んだりの寒さの中、棒天振りに出た心太は、早朝にも関わらず、いや早朝だからこそ人目に付かないことを計算していたのであろう。吉良家の周りを歩幅で寸を計っているかのような甚五右衛門の姿を目の当たりにする。
 思わず肩に担いでいた天秤棒を投げ出し、甚五右衛門の前に立ちふさがった心太である。
 「やっぱり、お前ぇは」。
 それだけ言うと、甚五右衛門の襟ぐりを左手で掴み、右手の拳は甚五右衛門の頬を打っていた。
 その力の強さによろめき、降り積もった雪に足を取られた甚五右衛門はその場に倒れる。
 「甚五右衛門さん。自分のしていることが分かっているのかい。浅野様は殿中で刃傷事件を起こしたから切腹させられた。吉良の御隠居様が斬った訳じゃねえ。それにお前は、左兵衛様に弓を引こうっていうのか」。
 力なく立ち上がった甚五右衛門は、肩に積もる雪を払おうともせずに、
 「知ってしまわれたなら、お前を生かしておく訳には参らぬ」。
 そう刀の鍔に手を充てがうのだった。幾ら威勢が良くても、刃を向けられたら心太には成す術はない。恐怖で顔が引き吊るがそれでも、
 「斬れ。おいらを斬って気が済むなら斬れよ。おいら、左兵衛様をお守りするためなら命なんか惜しかねえ」。
 大見得を切った心太は、雪の上に胡座をかいて座り込み甚五右衛門を睨み付ける。その視線の先の甚五右衛門の目は、みるみる涙で溢れていくのだった。
 「重々承知しておる。だがそれがしは、一度主君に背いておる。左兵衛様を裏切っておるのだ。二度も御主君を裏切ることはできぬ。再び御主君を裏切るなかれと言うのが、左兵衛様のお言い付けなのだ」。
 そう言うと、崩れ落ちるかのように雪の上に膝を付く。心太は小刻みに震える甚五右衛門の肩に手を置き、
 「御武家さんなら、もうひとつだけ取るべき道があるんじゃないかい」。
 皮肉な運の巡り合わせである。
 村山甚五右衛門こと、毛利小平太元義は、討ち入り三日前の、十二月十一日脱盟する旨の書状を残して逐電。浪士最後の脱盟者となる。
 小平太の名は、討ち入り口上書の中にも残り、当日の裏門隊への配置も決まっていた。そんな急な蓄電だった。
 元禄十五年十二月十五日未明、桜田御門の上杉家上屋敷裏門前で、ひと人の男が切腹して果てた姿で発見される。その遺骸は何処に埋葬されたのかも不明ではあるが、上杉家から目付への届け出も、番所に運ばれた様子もない。
 内々に密葬されたのやも知れず、または外聞を憚られ内密に処理されたのであろう。上杉家の記録には一切残されていない。
 また、この日を境に毛利小平太元義の消息が途切れた事も事実。村山甚五右衛門についても同様である。





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水波の如し~忠臣蔵余話~92 外伝 風光る 

2012年11月19日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 昨十四日夜八ツ半過、上野介並に拙者罷在候処へ、浅野内匠頭家来と名乗り、大勢火事装束の体に相見え、押込申候。表長屋の方は二個所に梯子を掛、裏門は打破、大勢乱入致、其上弓箭槍長刀など持参、所々より切込申候、家来共防候得共、彼者共兵具に身を固め参候哉、此方家来死人、手負多有之、乱入候者へは手を負せ候ばかりにて討留不申候、拙者方へ切込申候に付、当番之家来傍に臥居候者共之を防ぎ、拙者も長刀にて防申候処、二箇所手を負、眼に血入気遠く罷成り、暫く有て正気付、上野介俄無心許存、居間へ罷越見申侯へば最早討れ申候、其後狼籍之者共引取、居不申候
       十二月十五日      吉良左兵衛

 昨十四日、八つ半(午前三時)過ぎ、父・上野介及びわたくしの元へ、浅野内匠頭家来と名乗る火事装束のような衣服をまとった者が多勢押し込んで参りました。
 彼らは、表長屋の方は二カ所に梯子をかけ、裏門は打ち破り乱入して参りました。
 そして、持参の弓矢や槍、長刀などで四方より斬り込んで参ったのです。
 当家の家来たちが防戦いたしましたが、彼らは兵具に身を固め武装しており、当家側の死傷者が続出いたし、乱入してきた者に、負傷させ申したが討ち取るには至りませんでした。
 わたくしも斬り込まれ、当番の者がこれを防ぎ、わたくしも薙刀で防戦致しましたが、二カ所に負傷し、目に血が入り気を失いました。
 暫くの後、目を覚ますと父のことが気がかりで居間に行ってみたところ、すでに父は討たれており、狼藉を働いた赤穂浪士は引き揚げた後でございました。
       十二月十五日      吉良左兵衛



 この文を糟谷平馬を使者に、月番老中の稲葉正通に差し出した後、左兵衛は幕府の官医である蘭学医の栗崎道有の治療を受け入れた。

 少しばかり時を戻し、元禄三年四月二日。当時鍛冶橋にあった吉良邸に、米沢より到着した左兵衛には三人の小性が伴っていた。
 旧赤穂藩士の夜襲の際、深手を負いながらも戦い抜いた山吉新八郎盛侍。そして討ち死にをした新貝弥七郎安村。もうひと人は、村山甚五右衛門。
 この男、訳合って吉良家を出奔する。だが、運命の悪戯なのか、播州赤穂藩浅野家に召し抱えられていたところを再会するのだった。それが刃傷事件の前年のことであった。
 毛利小平太元義と名を改めていた甚五右衛門は、浅野家の改易後、仇討ちの盟約に加わり木原武右衛門と変名し、本所林町五丁目の堀部安兵衛武庸の借家に入り、吉良邸の様子を伺っていた。
 そこは堅川を挟み、吉良邸とはわずか六町しか離れておらず、目と鼻差の先である。 
 変装していようが町人姿であろうが、吉良邸前の相生町二丁目で豆腐屋を生業とする心太には、一目で甚五右衛門だと分かった。
 「おい、甚五右衛門さんよぉ。まさか仇討ちなんか考えてる訳じゃねえよな」。
 ある日心太は、何喰わぬ顔で店先を通り過ぎる甚五右衛門を追い掛けた。
 「これは心太。何を言い出すのだ」。
 「だっておかしいじゃねえか。浅野様がお取り潰しになった途端に、吉良様のお屋敷の辺りをうろちょろするなんてよ」。
 心太は吉良邸の方に背を向けて、仁王立ちになって甚五右衛門を詰問する。
 甚五右衛門は、心太のあまりに形相に寸の間顔を引きつらせているかに見えたが、直に大笑いをし、
 「何を戯けた。もう武士は辞めたのだ。御家がお取り潰しになれば流浪人になる。この御時世、仕官も侭ならないよってな。某、武門は懲り懲りだ」。
 心太は、握った拳が震えるのが自分でも分かるくらいに血の流れが早くなっていた。
 「何を勝手なことを言ってるんだい。そもそも左兵衛様を裏切って出て行ったのはお前ぇの方だろ。上杉の侍ってのは義に厚いんじゃなかったのかい」。
 甚五右衛門は、ふと寂しげな顔をするが、
 「そうであったな。自業自得だ。それ故戻れる故郷ものうなった。これからはこの江戸でひっそりと生きて行くつもりだ」。
 心太の脇を通り抜けて行った。
 そして心太の背に向かって、「近くの長屋の住まわっているだけだ。ここは通り道、今度はその方の豆腐を求めよう」。と声を掛けるのだった。



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水波の如し~忠臣蔵余話~91 外伝 風光る 

2012年11月18日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 心太が上杉家への報告を終え、両国橋に差し掛かったその時、東から上野介の首を挙げた赤穂浪士が引き揚げる姿を目の当たりにしたのである。周囲を取り巻く町屋の者たちは誰もが赤穂浪士の本懐に感動しているようで、あちこちから賞賛の大向こうの声が沸き上がるほどの勇士であったが、心太は燃え盛る怒りを止めることができずにいた。
 「一体、吉良様が何をしたというんだ」。
 だが、そんな心太の悲痛な涙も周囲の賞賛の喧噪にかき消される。

 開け放たれた表門からのぞむ吉良家は、目を覆いたくなるような惨状だった。裏門に至っては無惨にも打ち破られ、血や肉片が飛び散り、そこここに骸が横たわる中、心太はひたすら左兵衛を探したのである。
 この前日の十四日は、上野介が米沢に経つ別れの茶会が催され、それに飽きた左兵衛がひょいと心太の店に顔を見せたばかりであった。
 まず玄関先で目にしたのが左兵衛の近習・新貝弥七郎安村の変わり果てた姿であった。
 「弥七郎、弥七郎」。
 心太は弥七郎の身を抱き起こし名を呼び続けるが、すでにこと切れて長い。
 「弥七郎。こんなに傷だらけになっちまって色男が台無しだ」。
 心太は涙ながらに弥七郎の顔の血を拭うと、屋敷を奥へと進んで行った。
 すると賄い所近くで、こちらも顔を赤鬼のように血で染めた山吉新八郎盛侍が息も絶え絶えに、それでも左兵衛の名を呼んでいる。
 「新八郎さん。おいらだ分かるかい」。
 新八郎は、顔面に負った傷から滴る血の為に目が見えない有様。よく見れば、体中切られたのであろう、着物は水を浴びたかのようにぐっしょりと血で濡れている。
 「新八郎さん。左兵衛様はおいらが探しますから、動かないでください」。
 心太は今さっき弥七郎の顔を拭ったばかりの血の付いた手拭いで新八郎の額を覆った。少しでも血が流れるのを防ぎたかったのだ。
 更に奥に進むと、座敷の一室に左兵衛が横たわっていた。「左兵衛様」。左兵衛の生存を知り、思わず駆け寄る心太だが、ようやく見付けた左兵衛も額から波打つように流れ出る血に目を開けてはいられぬ次第である。だが左兵衛は、気丈にも刀を杖に起き上がろうとしていた。
 戦いの様子は、当主の左兵衛さえもが血まみれで、側には糟谷平馬ただひと人しかいないことから心太にも読み取れる。
 「左兵衛様、左兵衛様。おいらです、心太です」。
 心太は湧き出る涙を留めることができないでいた。左兵衛は心太に一言、
 「義父上は御無事か」。
 心太は無言で首を横に振るが、血が流れ込みもはや目を開けているのも困難であろう左兵衛に伝わったか否かは不明である。
 だが沈黙で察したのであろう、左兵衛は、
 「文を認める故、何か書く物を…矢立てはないか」。
 「若様、何をおっしゃってるんで。まずは傷の手当をしませんと」。
 心太はそう言うが、
 「赤穂の者による夜襲の旨、御老中の稲葉様にお届けをするのが先じゃ」。
 左兵衛は手当もせぬまま、顔の血を拭い、書を認めるが、その後ろ姿は着物が斬り裂かれ、そこからも血が滲んでいる。
 「左兵衛様」。
 心太は武門の厳しさを改めて思い知るのだった。




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水波の如し~忠臣蔵余話~90 外伝 風光る 

2012年11月17日 | 水波の如し~忠臣蔵余話~
 享保三年一月二十日。信濃国諏訪法華寺。凍てつくような早朝のことである。去る御方の墓前で、肩を濡らす霙をもろともせず黙祷を捧げる男がいた。
 「今日は御命日にございますな」。
 「これは、志賀様。今年は十三回忌にございます」。
 「月日の流れは正に光陰矢の如し。そなたもこうして墓を守って久しいのう」。
 先人に声を掛けたのは、諏訪高島藩士の志賀利兵衛である。
 「なあに、これからも左兵衛様の御側を、離れるつもりはありません」。

 鬼籍に属したのは吉良左兵衛義周。わずか二十年の生涯だった(享年二十一歳)。
 こうして命日はもちろんのこと、墓前に日参するのは心太。元は江戸は日本橋近くの豆腐屋の倅であった。

 それは元禄十五年十二月十五日未明に遡る。
 その前年の三月十四日、江戸城内松の廊下において、高家肝煎・吉良上野介義央に刃傷に及んだ、播州赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩は、即日切腹の上、改易と沙汰が下されたのだ。
 このことで、吉良上野介義央に遺恨を抱いた旧浅野家家臣による、仇討ちと称する夜襲が掛けられたのが十二月十五日未明であった。
 その赤穂浪士の夜襲を、本所の吉良邸からいち早く、桜田門近くの上杉家上屋敷まで知らせたのはほかの誰でもない、ここに佇む心太であった。

 吉良家では、跡継ぎの絶えた米沢藩上杉家に嫡男を養子に出した後、二男が夭逝。上杉家四代藩主となっていた我が子・綱憲の二男を吉良家の跡目として迎えていた。それが吉良左兵衛義周である。
 左兵衛と心太は、吉良邸が呉服橋御門内にあった頃から、身分を超えた付き合いを続けていた。
 その仲は、吉良家が呉服橋御門内から本所に屋敷替えになると、親元である日本橋近くの店から単身離れ、本所の吉良邸の側に新たに豆腐屋を開いたほどである。
 もちろん、当初は店を構える余裕などはない。棒手振りからであったが、吉良家始め近くには回向院がある。馴染みを作ることで、吉良邸のある本所松坂町の通りを隔てた向かいの相生町二丁目に小さいながら店を構えることができたのである。無論、上野介の妻である、富子の助成もあった。
 旧赤穂藩士による討ち入りが囁かれ出すと、心太は富子から、「万が一の場合は上杉家に知らせるように」。と言い付かっていたのである。

 それが万が一であることを祈っていた心太であったが、元禄十五年十二月十五日未明。赤穂浪士は吉良家の表門と裏門から屋敷内に侵入したのだった。
 漆黒の闇の中、静寂を打ち破る物音は思いのほか大きく、瞬時にしてことの次第を悟った心太であった。
 騒ぎの元の吉良屋敷は気になるが、心太は富子の言い付けに従い、桜田御門の上杉上屋敷まで知らせると直ぐさま本所に戻ったのだが、すでに全てが終わっていた。
 

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