大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

一樹の陰一河の流れ~新撰組最後の局長 二十三

2011年07月06日 | 一樹の陰一河の流れ~新撰組最後の局長
 島のごろつきたちが大人しく読み書きを習っているという噂もあっと言う間に知れ渡り、怖いもの見たさの島民が連日、甚兵衛の屋敷に顔を出す。
 すると、荒くれ男たちが顔に墨をつけて真剣にかなくぎ文字に難儀している姿が面白いのか、子どもたちが上がり込んで近くで覗き込む様になっていった。
 「おい、何を見てんだい。向こうへ行け」。
 男たちが苛ついて怒鳴っても、相馬主殿が直ぐに嗜めるので子どもたちは平気であった。
 「どうだ、お前たちも習わぬか」。
 だが相馬が声を掛けると気恥ずかしいのか、黙って俯いてしまう。
 「やれやれ、子どもの気持ちを掴むのは難しいな」。
 このところ、食事を運ぶだけではなく、食べ終える迄給仕をするまつに相馬は打ち明けた。
 「島の子たちは見知らぬ相馬様に声を掛けられて恥ずかしいのです。それと…」。
 「それと、何だ」。
 するとまつは言い難そうに、
 「相馬様が怖いのだと思います」。
 新撰組の武勇はそうそう島には伝わってはいないが、それでも人斬り集団の局長だったことは皆知っていた。
 相馬は深い溜め息をつくと、悲しそうな表情になる。
 「でも、わたし共は相馬様のお人柄を良く解っております。すぐに皆にも解りますよ」。
 まつの笑顔が相馬を慰めてくれるのだった。
 相馬はこのまつに対して常々不思議に思っていることがあった。それは「島一番の器量良し」と言われ、父は大工の棟梁。言い寄ってくる男は後を絶たず、持ち込まれる縁談もあるようだった。だが、「どうにもまつが首を縦に降らない」と、甚兵衛が嘆いていた事もあった。好いた男が居る様にも見えない。
 「まつさんには夢がおありですか」。
 相馬の唐突な問い掛けにまつは首を傾げ、「突然何を言い出しますのやら」と言いながらも、
 「こんな小さな島に居ますと、夢や望みも限られているのです」。
 日の出と共に目を覚まし、日没と共に床に着く。ただそれだけなのだとまつは言う。それ以上のことは望んでも適わない。島で産まれて島で死ぬのだと。
 「産まれてこの年迄同じ毎日の繰り返しでした。ですからね、相馬様に読み書きや算術を教えていただけるのが嬉しいのです」。
 まつは本心からの笑顔を相馬に向ける。
 「その読み書きや算術を生かしたいとは思わないのですか」。
 まつは少し困った様な顔を相馬に向けると、
 「生かす術などありますでしょうか」。
 新島は温暖な気候から農作物には恵まれ、飢えることはない。皆、農業や漁業に従事し、生涯を終えるのが常だ。
 これには相馬も暫し困惑するも、
 「だが、時代は変わる。島だけに非ず、もっと大きな目を向けてはいかがであろう」。
 「わたしは島しか知りません。江戸が…今は東京ですね。どういう所かも知らないのです」。
 まつは、東京は賑やかなのでしょう。京は雅なのでしょうと、興味の眼差しを向けてくる。相馬も新撰組や戊辰戦争のことは決して口にしないが、自身が見聞きした江戸や京の様子を語るのだった。
 するとまつはうっとりとした表情で、未だ見ぬかの地に思いを馳せる。だが直ぐに、
 「しかし、わたしの様な田舎者は気後れしてしまいます。相馬様のお話を伺うだけで十分です」。
 はにかみながら言う姿がまたいじらしくも思える相馬だった。
 「なに、わたしも常陸国の産まれでしてな。北に八溝山が連なり、南には愛宕山。山に囲まれた大層な田舎町でありました」。
 「山に囲まれたお国ですか。さぞ壮観でしょう」。
 「はい。山には四季折々の表情がありました」。
 相馬は終身流罪の身である。それはまつも十分に承知していた。相馬は久し振りに故郷を思い出したのか、少しばかり目を赤くしている。
 「相馬様、気休めかも知れませんが、いずれお国に戻れる日もありましょう」。
 まつはそれが単なる慰めだとは知りながらも言わずにはいられないでいた。
 「そうですね。まつさんに大きな目を持つ様にと今話したばかりでした。わたしも緩やかな気持ちにならねば」。
 
 まつは、相馬が噂に聞いていた人斬り集団の新撰組の局長と同一人物とは思えずにいた。そして、相馬から聞く話はどれも興味深いものでもあり、また、その実直な人柄に次第に引かれて行く自分に気付くのだった。
 相馬の寺子屋には相変わらずまつと、以前相馬に夜襲を掛けた男たち三人だけであった。しかし、諦めなかった。
 村へ出て、重い荷に難儀している者があれば背負い、力仕事が必要な家があれば出向く。時には大工の棟梁である植村甚兵衛に従って材木を担ぐ事も厭わなかった。
 また、相馬は自らが彫った位牌一基を手に長栄寺へ向かうと、住職に位牌を開眼してもらっていた。位牌には「近藤勇昌宜 土方 歳三義豊 野村利三郎義時 新撰組隊士」の名が彫られている。
 それからは、朝晩の供養は怠らず、また長栄寺へ参詣し、住職の説法を聞く事を常としていた。住職の覚えも目出たき、また信心深い相馬に、敬遠していた村人も次第に心を開き、「鯖が捕れた」。「アカイカが大漁だ」と差し入れをしてくれると同時に、己らの子を相馬の寺子屋に通わせる様になる迄にそう時間はかからなかったのである。
 年が開け、明治四年(1871)の春には寺子屋は子どもたちの声で溢れる様になっていた。


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