syuの日記・気まま旅

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大津京 宿場 中山道終着

2014-09-07 | 気まま旅

近江路に入り、近江商人の町も見た。北は北海道から南は沖縄全国に散らばって商業大国を築いてきた。
江戸日本橋・京都室町・大阪船場と近江冨士を目印に商売に励んだのであろう。蒲生ー野洲ー守山(兵主大社)-終着の草津、吉田松陰旅日記で書いている。徳川家康も姥ケ餅と和中散(是斎)は買っていたと云う。瀬田川を渡れば「石山寺」大津ー京都一筋、
草津から瀬田川を渡れば「石山寺」、中山道128里34町は、ここまで。

「大津市」琵琶湖南西岸で、県庁所在地、大きな港で「大津市」。比叡山向こうは京都・丹波、八幡と海に向かうと大阪と鉄道も込み入っている。

  

いずれの時代も重要な位置にある。縄文の石山「螢谷貝塚」粟津湖底遺跡・弥生の石山崇福寺跡(銅鐸出土)、古墳1000基以上と推定されている。
中世以降も「大津」が中心で戦略的拠点。現在でも繊維産業は、人絹で首位、繊維業界の大工場が集中。

    

豊臣秀吉の「大津百操船の制」以降江戸時代には、幕府領になっている。1869年、大津ー海津の外輪船航海路から汽船会社の発足など、現在は、
東西日本を繋ぐ大動脈で、「瀬田川」に架かる橋、5本。

「真常寺」 山号, 長照山,市末広町, 日蓮宗、 開基, 大僧都 義成. 天台宗。1298年改宗。
    

大津は、古来から観光地として知られ、「万葉集」にも多く詠まれている。謡曲「蝉丸」・井原西鶴の「好色一代男」・松尾芭蕉「幻住庵記」など、
舞台でもある。「近江八景の6景」を占めている。

「井原西鶴」 1642-93 浮世草子作家、大阪商人、最初は俳諧師、41歳で「好色一代男」を発表し、「好色一代女」「日本永代蔵」「世間胸算用
俳諧では、西鶴一昼夜で23500句(四秒一句)人々を驚愕させている。52歳で病死。

浄土宗、丸昌寺
  

「京阪大津線」
大津線とは、京阪電気鉄道大津鉄道部が管轄する京津線と石山坂本線の2路線。

路線図
この大津線の名称は、京阪電気鉄道鉄道営業部が管轄する京阪線(京阪本線、鴨東線、宇治線、交野線、中之島線からなる路線群の総称)と区別する意味でも用いられ、大津市にある浜大津駅を中心に、同市内西部地域(琵琶湖、及び瀬田川西岸地域)と京都市中心部地域とを結ぶ軌道線(路面電車)として、明治末期から昭和初期にかけて形成された。

京阪電気鉄道の中でも、京津線・石山坂本線は軌道法の適用を受けてはいるが、小型の普通鉄道タイプの車両が走行している。
大都市の通勤電車イメージの京阪本線などとは異なった雰囲気を持って、運賃制度も京阪線は対キロ区間制、大津線は区間制を採用し、運賃も大津線のほうが高糸云う。

  

「大津市上京町付近」
天智天皇が近江大津宮に遷都して以来1300年以上の歴史を持つ古都、太平洋戦争時の戦災も少なかったことから、
延暦寺(世界遺産)、園城寺(三井寺)、日吉大社、石山寺などの古社寺をはじめ多くの国宝、重要文化財建築物や史跡、旧町屋が所在する。

市域は、琵琶湖の主要な港湾である大津港を擁し東海道の宿場でもあった大津を中心に、膳所藩の城下町だった膳所、比叡山の門前町や港湾として栄えた坂本、湖上交通の拠点だった堅田などからなる。
景。観100選及び関西自然に親しむ風景100選に選ばれている。

    

「大津宿本陣跡」
東海道五十三次中最大の宿場。本陣は、江戸時代に宿場におかれた大名などの宿泊施設。 大津宿には2軒の本陣があり、この地はその内の大塚嘉右衛門宅 本陣は3階の楼上からの琵琶湖の眺めが絶景だったといわれている、 建物は現存せず、明治天皇聖跡碑が建っていた。

    

「大津城戦い」
1600年ー西軍の局地的勝利、関ヶ原の戦いにおける西軍の劣勢、大津城攻防戦は西軍の勝利に終わったが、大局的には西軍の敗因にもつながった。
なぜなら、大津城が開城した9月15日は、関ヶ原の戦いのまさに当日だったからである。
西軍は、本来なら関ヶ原にあったはずの1万5000人の兵力を欠いたまま東軍と戦う、という不利な状況を自ら招いたのである。
特に、家康がその武勇を恐れていた「立花宗茂」が関ヶ原の本戦に参加できなかったことは、家康にとっては幸運であり、西軍にとっては不運であった。

もし宗茂が1万を超える大軍と共に本戦に参加できていたなら、東西両軍の勝敗は変わっていた、という可能性さえ指摘されている。結果として、西軍は大津城を陥落せしめたものの、同じ日のうちにその局地的勝利は意味を失った。
立花宗茂は大津城を開城させた後、軍勢を率いて草津まで進出したが、そこで西軍の壊滅を知って大坂城への退却を余儀なくされ、戦後に改易されてしまった。
一方、敗軍の将である京極高次に対して家康は、関ヶ原戦後に高次の弟・京極高知(関ヶ原で東軍の将として功を挙げた)を使者として高野山に派遣し、大名としての復帰を許しただけではなく、若狭一国・9万2000石を与えて功に報いた。
家康は、宗茂を大津城に引き付けたことを大いに賞賛したという。

大津城跡
  

「大津港」
古代 、 大津京の主要港として整備され、湖上運送の拠点。中世に入り、 794年 - 平安京遷都により都の外港として栄え、1586年 、 豊臣秀吉により
「大津城」が築かれ、大津港は水運の要衝として栄えた。
秀吉の意向を受けた大津藩の浅野長吉が、湖岸諸藩の船を大津に集めた。これが後に「大津百艘船」となり、大津港の荷役などに関する特権を代々の支配者から受けている。

「浅野長政(長吉)」 1548~1611
安井重継の子。通称は弥兵衛。初名は長吉。弾正少弼。豊臣政権五奉行のひとり。
叔父・浅野長勝の娘を娶り、その養子となる。
はじめ織田信長に仕えたが、羽柴秀吉の妻と長政の妻が腹違いの姉妹であるという相婿の縁により、その配下となる。こうした血縁に薄い秀吉に重用され、主に帷幕の将となって軍監役を務めた。

    

「滋賀県大津港」
琵琶湖湖上水運の拠点。
鉄道網の整備に伴い斜陽となった後は、遊覧船の発着拠点となっているほか、官公庁などが運航する各船の拠点にもなっている。
併設のマリーナや公園として整備された緑地など、多用途のレジャーに利用されている。
港湾施設などは琵琶湖汽船が、マリーナは関西メンテナンス滋賀が指定管理者している。

    

2本ある大型船、「ミシガン」と「ビアンカ」
    

大津港・市内の中心駅「浜大津駅」
京阪電気鉄道 京津線と石山坂本線
島式1面2線のホームを持つ地上駅である。橋上駅舎を有し、乗り換えが出来る駅。

      京阪石山本線・京阪亰津線・大津港・琵琶湖なぎさ公園の「浜大津駅」
    

次回は、三井寺へ。

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