syuの日記・気まま旅

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信玄の菩提寺 恵林寺・山本勘助の不動尊

2019-07-29 | 季節だより
馬は、遠隔地の交易を促進し、軍事的な遠征を可能にし、古代オリエント世界においては幾多の帝国を産む要因。紀元前4000年頃から人間は家畜としている。東アジアにおいては中国で殷朝後期に馬が伝来し、朝鮮半島においても衛氏朝鮮の時代に馬が飼育され、日本列島には、古墳時代の4世紀から5世紀にかけて馬が伝来し、大型古墳を造成した首長層に受け入れられたと考えられているが、山梨県(甲斐国)では4世紀後半代の馬歯が出土しており、山梨を含む中部高地には西日本に先行する古い段階で馬が渡来したと見られている。

「甲斐の黒駒」-記紀に見える黒駒伝承ー
甲斐黒駒に関する伝承は、「日本書紀」雄略記に記され、「書記」雄略天皇13年の479年、「9月条の歌物語」によれば、
雄略は不実を働いた木工・韋那部真根を処刑しようとするが思い直し、韋那部を赦免する際に刑場に駿馬を使わした。
このときの駿馬が「甲斐の黒駒」であるという云う。
雄略朝には、同様の逸話が数多く存在し、「書記」においても「雄略12年10月壬午条」に、「黒駒伝承と類似した話があることが指摘されており、
必ずしも雄略朝にあたる5世紀後半期の史実を反映しているとは考えられていないが、書記編纂時の歴史的事実が反映されている可能性が考えられている。
高橋富雄は、書記編纂時に甲斐国産の馬が都で早馬として使われていた可能性を指摘し、平川南は東山道と東海道の交差する古代甲斐国に早馬が配されていたと指摘している。
「続日本紀」731年、-甲斐国司・田辺史広足が朝廷に神馬を献上した瑞祥を伝えている。
このため田辺史は恩賞を受け甲斐では庸・調が免除され、全国的な大赦が行われたという。
田辺史氏は馬飼技術をもった渡来系氏族であると考えられており、天平勝宝2年の750年、御牧が設置される上毛野君に任じられている。
「書記」に拠れば天武天皇元年の672年、には、上方で大友皇子に対して大海人皇子(後の天武天皇)が挙兵した壬申の乱が発生する。
壬申の乱においては大海人皇子方の軍平として姓名不詳の「甲斐の勇者」の活躍が記されている。
「甲斐の勇者」は甲斐国の郡司階級の地方豪族の一族であるとも考えられているが、壬申の乱では騎馬で大友皇子方の武将・廬井鯨を射ったという。
この逸話から、古代の甲斐は馬産地であるだけでなく、馬を扱う騎馬兵も擁していたと考えられ、「武田軍の騎馬隊」と続いている。



「武田信虎」ー武田信玄の父ー
戦国時代ー1494・1498ー1574。改名ー信直 → 信虎・墓所ー大泉寺 。甲斐守護ー武田氏。父母 武田信縄、母、岩下氏、妻 正室・大井の方
子ー竹松、晴信(信玄)、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎、定恵院

「武田信玄」 1521-73 信虎の長男 甲斐国大名、父を追放し家督に、今川氏・北条三国同盟、上杉謙信と数度対決し、その後大軍を率いて上洛
陣中で病死した。

武田信玄の言葉「甲陽軍艦」

甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に うれいなし
おのおの馬は 飼いたるや
妻子につつが あらざるや
あらざるや
          祖霊まします この山河
          敵にふませて なるものか
          人は石垣 人は城
          情けは味方 仇は敵  仇は敵
                   疾如風ー徐如林ー 侵掠如火ー 不動如山
                                     つつじケ崎の 月さやか
                                     うたげを尽くせ 明日よりは
                                     おのおの京を めざしつつ
                                      雲と興(おこ)れや 武田武士  武田武士
          信玄は、甲斐国に一つも城を築かなかった。


城を築けば、兵は弱体化する。領土の拡張に専念、領土の土木に力を入れた。
信玄は,周辺諸国と戦いながら、領地の治水事業を積極的におこなった武将の一人。
代表的な治水事業に、甲府盆地を流れる「釜無川」と「御勅使川」の合流部の改修工事があげられる。
この工事は、一般に信玄堤と呼ばれ、「自然の力を利用して川をおさめよう」とする考えのもと、堤防、分水、霞堤、遊水機能などをもつ総合的な治水技術が用いられた。
堤防上に神社を設け、祭りを開催し人を集め、堤防を踏み固めさせるなどの工夫をおこなったとも言われている。
信玄堤以外にも、「笛吹川」の万力林の整備など他にも治水事業を残している。



「恵林寺」-塩沢駅北西に約3km・武田信玄の菩提寺-

臨済宗妙心寺派の寺。山号ー乾徳山。
夢窓国師 開山(1330年)
織田勢の焼き討ちの時「快川国師の偈」ー安禅必ずしも山水を須いず 心頭を減却すれば火も自ら涼し・は有名

                 四脚門ー重要文化財
    

鎌倉時代の1330年、甲斐国の守護職であった「二階堂貞藤(道蘊)」が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山。
二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。
恵林寺は、甲斐における臨済宗の中心となり、絶海中津や龍湫周沢らが住持となる。
応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。
1541年、武田晴信(信玄)が臨済宗妙心寺派の明叔慶浚・鳳栖玄梁を招いて再興し、1564年、武田氏により寺領が寄進され、1564年、美濃崇福寺から快川紹喜を招く。
1576年、快川を大導師に、嫡男の勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた。
                
    

「寺の門前市」
寺周辺は秩父往還・金山道が交差する交通・流通の要衝地で、金峰山へ向かう参詣客も多く、このため古くから市場が存在。
1563年、「恵林寺領御検地日記・恵林寺領米穀并諸納物日記」によれば、恵林寺の寺領には「三日市場」「九日市場」のふたつの市場が存在しており、定期市として開かれていたとある。
三日市場は、恵林寺が所在する塩山小屋敷南に塩山三日市場の町名として残されている。
「九日市場」については寺領内のいずれかに存在していたと見られているが、地名・伝承いずれも見られず正確な所在地は不明。
双方とも戦国時代に門前市として、恵林寺創建年代の鎌倉時代末期から室町時代初期には成立していたと考えられ、「三日市場」に関しては
明応8年(1499年)時の存在が確認されると云う。

  

「伽藍と庭園」
明治38年、の出火で焼失した後、再建。本堂・庫裡、桃山様式の四脚門(国の重要文化財)や夢窓作といわれる庭園(国指定の名勝)がある。
本堂・明王殿・庫裡・開山堂・柳沢廟・佛舎利宝塔(三重塔)・重要文化財(国指定)

石庭恵林寺四脚門・太刀 銘来国長・短刀 銘備州長船倫光 応安二年と県指定有形文化財等多数。

    

「二十四将」
一般的には次の武将をさす。五十音順、生没年・出自・死因
秋山信友(秋山虎繁) 1527年-1575年 秋山氏 刑死(岩村城の戦い)・穴山信君 1541年-1582年 穴山氏 戦死(本能寺の変)
甘利虎泰 1498年?-1548年 甘利氏 戦死(上田原の戦い)・板垣信方 1489年?-1548年 板垣氏 戦死(上田原の戦い)
一条信龍 1539年?-1582年 武田氏 戦死(甲州征伐)・小畠虎盛(小幡虎盛) 1491年-1561年 甲州小幡氏 病死
小幡昌盛 1534年-1582年 甲州小幡氏 病死・飯富虎昌 1504年?-1565年 飯富氏 自害(義信事件)
小山田信茂 1539年-1582年 小山田氏 刑死(甲州征伐)・高坂昌信(春日虎綱) 1527年-1578年 百姓・春日氏 病死
三枝守友(三枝昌貞) 1537年-1575年 木原領主 戦死(長篠の戦い)・真田幸隆(真田幸綱) 1513年-1574年 真田氏 病死
真田信綱 1537年-1575年 真田氏 戦死(長篠の戦い)・武田信繁 1525年-1561年 武田氏 戦死(川中島の戦い)
武田信廉 1532年?-1582年 武田氏 戦死(甲州征伐)・多田満頼 生年不詳-1563年 多田氏 病死・
土屋昌次(昌続) 1544年-1575年 金丸氏 戦死(長篠の戦い)・内藤昌豊 1522年-1575年 工藤氏 戦死(長篠の戦い)
馬場信春 1515年-1575年 教来石郷領主 戦死(長篠の戦い)・原虎胤 1497年-1564年 原氏 (千葉氏族) 病死
原昌胤 1531年-1575年 原氏 (土岐氏族) 戦死(長篠の戦い)・山県昌景 1529年-1575年 飯富氏 戦死(長篠の戦い)
山本勘助(菅助) 1493年?-1561年 未詳 戦死(川中島の戦い)・横田高松 1487年?-1550年 未詳 戦死(砥石崩れ)
(小山田信茂の代わりに、武田勝頼が入っているものもある)

                    山本勘助 1493?-1561


「山本勘助」 ~1561 軍師・家臣 名 晴行、甲陽軍艦には、天才的軍師。
川中島の戦いで、勘助は「啄木鳥戦法」進言ー啄木鳥は木をつついて虫を驚かし穴から出てくるところを補食するとよい。
一軍を迂回、敵陣の背後を突く・本隊は、敵が撤退しと時撃退する戦法・上杉謙信は事前に読んでいたと云う。謙信が、武田本陣が突撃したのは有名
勘助は、責任を取って敵陣に突っ込み討死しと云う。



「山本勘助不動尊」
山本勘助不動尊のお堂は三日市場と小屋敷の人たち20数戸の家が4戸1組の輪番制で守り、祭りの当番を行っていると云う。
堂内には総高40cmの勘助を模した不動明王像と矜羯羅・勢多迦の2童子が安置されている。
明治23年、お堂を再建したときに恵林寺の円応老師揮筆による「勘助不動尊再建有志名簿」には、1573~1592年、勘助を慕う信心深い仏師が像を刻んで安置したと伝え、毎年1月28日と7月28日の2回の祭典を行ってきたが、今は1月のみ行われている。
盛時には幟を立て縁日も出て近郷近在からも多くの人がお参りをした。祭りには「山本不動尊」とある御札と、勘助不動尊のお姿を版木で刷った2枚の御札が配られる。

川中島の合戦で用いたと伝える「法螺貝」が伝わり、以前は、この法螺貝の音を合図に祭りは行われていたと云う。
  

「大井俣窪八幡神社」ー山梨市北にある神社である。通称窪八幡神社ー
窪地に移したため大井俣窪八幡神社、窪八幡神社とも、別当寺に普賢寺。
由緒に拠れば清和天皇の勅願により、貞観元年の859年、宇佐八幡宮が勧請されたのが始まりといわれ、当初は笛吹川の中島の大井俣の地に建立。
後に現在地に遷座した。
一帯は、中世に八幡郷が成立。戦国期には甲斐国守護武田氏の崇敬を集め、現在の本殿は、1410年、甲斐守護「武田信満」が再建した。
1516年、駿河国今川氏が甲斐西郡の国衆大井氏に加担し甲斐国内に侵攻し、この際の兵火により社殿の多くを消失し、現存する建造物の多くはこの後に再建されたものが多いと云う。
窪八幡神社本殿は、1519年、甲斐守護武田信虎により造営された。
1522年に、造営された山梨市大工の天神社本殿と一連のもので、両社は古代条里制を利用した東西中軸線によって結ばれ、建築様式にも共通性が見られると云う。



「武田 信満」  ?-1417、室町時代前期の守護大名。甲斐国・安芸国守護。甲斐武田氏の第13代当主。
第12代当主・武田信春の嫡男。息子に14代当主武田信重・武田信長(上総武田氏祖)、武田信景、今井信経。官位は安芸守。通称は武田二郎。
1413年、父の死により家督を継いで当主。
室町時代に甲斐国は関東8か国を支配する鎌倉府の管轄下に置かれていたが、1416年に鎌倉で鎌倉公方と前関東管領の上杉氏憲(禅秀)の対立から
禅秀による反乱が起こったとき(上杉禅秀の乱)、氏憲の縁者(小舅)に当たる信満は氏憲側に与した。
しかし翌年、将軍・足利義持の命を受けた上杉房方や今川氏を中心とする幕府軍が鎌倉に攻め入ると、信満は氏憲らと共に懸命に戦ったが敗れ、
氏憲は自害して乱は鎮圧された。
信満は本国に敗走したが、やがて上杉憲宗の追討を受け、山梨・都留郡木賊山(山梨県甲州市)で自害する。
又、木賊山は後に織田信長の追討を受けた第20代当主武田勝頼が自害して、武田氏滅亡の地となる天目山の旧名であり、実は両者は同じ山中で自害した事になる。墓所は甲州市の棲雲寺。
信満期の発給文書は皆無であるが、わずかに1400年、に「窪八幡神社(山梨市)」を再建したことや、1412年、に「大八幡山宮天神宮(北杜市)」
に鰐口を寄進した記録が残る。

主祭神ー誉田別尊・足仲彦尊・息長足姫尊、県社。創建ー貞観元年の859年。例祭ー10月15日。

    

「重要文化財」-(国指定)拝殿・鳥居・摂社若宮八幡神社本殿・若宮八幡神社拝殿 ・武内大神本殿・高良神社本殿・末社比三神本殿
神門、 石橋1基・神社正面の小川に架橋された石橋で、1535年、高遠石工による造立の銘を持つ。花崗岩製で反勾欄付。
戦国期の高遠石工の作例であるとする銘に関しては、江戸時代の元禄期以降に高遠石工により修復されたとする説もあるが、神門と同時期に造立されたと考えられている。
県指定文化財、鐘楼・如法経塔 ・紙本墨画淡彩窪八幡神社境内古絵図 等多数。

    

西の武田八幡、東の窪八幡
創建は平安時代にさかのぼる。八幡社は、源氏の守護神、・甲斐源氏武田氏の崇敬を受けた神社。
武田信満建立と伝わる本殿は武田信虎により改修。拝殿は信濃の村上義清を駆逐した信玄によって造営され、日本最古の木製の鳥居などが。

    

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