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難攻不落の坂戸城

2014-12-07 | 気まま旅
坂戸山、634m、魚野川に面し、国道291号線が通り、軽い登山とカタクリ群生地がある。
山の裾野に、坂戸城跡と銭淵公園・直江兼続公伝世館で、上杉景勝・直江兼続のゆかりの地である。

上杉景勝の実父長尾政景公墓所に参拝。     城跡のある634mの坂戸山


「長尾政景時代」
中世越後の魚沼郡南部には上田荘があり、鎌倉時代頃には清和源氏流新田氏一族の勢力下にあった。
当時、荘の中心を扼する坂戸山に城郭が築かれていたと推定、本格的な造営は南北朝時代にはいって以降。
南北朝動乱において、北朝方に立った上杉氏は、越後国南部から南朝方に属した新田氏らを放逐し、上杉憲顕のときに越後の守護に任じられたが、
その家臣長尾高景の一族の者が、1352年-1355年に上田荘を領し、上田長尾氏を称している。
上田長尾氏は、守護代の長尾氏とならんで越後国に枢要な位置を占め、その居城である坂戸城は、越後府中(現在の上越市直江津地区)と関東平野を結ぶ陸上交通の抑えとして、また、魚野川を利用した河川交通の要所として、さらに魚沼の穀倉地帯を擁する経済上の要地として、重要な役割を担う。

守護代長尾為景は、1507年、越後の国人衆を糾合して守護上杉房能を排斥し、1510年には関東管領上杉顕定をも長森原の戦いにおいて敗死させて越後一国に覇を唱えた。
上田長尾氏は守護代長尾氏に対して一定の独立性を保持したものの、為景の死後、「長尾景虎(上杉謙信)」が越後国主となるにおよび、
1551年には上田長尾氏の長尾政景が上杉謙信に坂戸城を包囲され、謙信に誓詞を提出して、その軍門に降ったとされる。
なお、その後、政景は立身するものの、1564年、付近の野尻池にて琵琶嶋城主宇佐美定満(下平吉長とも)との舟遊び中に定満とともに謎の死を遂げている。
                           長尾政景公墓所


政景は、1526年、長尾房長の子として生まれ、長尾景虎(後の上杉謙信)の遠縁に当たる。
妻は長尾為景の娘(景虎の姉)の仙桃院。1537年頃に婚約が成立した。
1547年、府中長尾家家中で長尾晴景と景虎との間で抗争が起こると、政景は晴景側につく。
政景が晴景の妹・仙桃院を娶っていたことや、上田長尾氏と対立していた古志長尾氏が景虎側だったことなど。1548年12月、晴景は景虎に家督を譲って隠居。1550年、景虎が家督を継いだことに不満を持って謀反を起こすが、1551年、景虎の猛攻に遭って降伏、以後は、配下の上田衆を率いて景虎の重臣として活躍し、1556年に家督を捨てて出家しようとする景虎を説得して押し止め、復帰させる。
また、1560年、春日山城の留守居役に任じられるなど、様々な功を挙げたと云う。

曹洞宗の禅寺ー龍言寺跡。
今から1300年前に藤原房前公の母、先比尼僧の菩提の為創設され たと言われた。今では越後で、最高の名寺と言われ越後一の寺と言われている
「雲洞庵の土踏んだか」。


上杉景勝は、1582年に越中方面で織田信長の軍勢と交戦しており、その際、上野国厩橋城(群馬県前橋市)から越後に侵入した滝川一益の軍勢とも戦っているが坂戸城は持ちこたえている。
1598年、景勝は陸奥国の会津地方に転封となり、かわって越前国から堀秀治が越後に入部すると、坂戸城には、堀秀治の家臣「堀直寄」が入り、
上田3万石を領した。堀直寄は、坂戸城を山麓の居館部を中心に近世城郭へと改修している。
1610年、堀直寄が信濃国飯山に移されたのち、坂戸城は廃却された。

                  銭淵公園内に長尾政景公誕生の地・碑が


「堀直寄」 1577-1639 (堀直政の子、直政は、信長に仕え従弟堀秀政に属し奮闘し、秀政の子秀治を補佐して国政を執り、秀治春日山城主5万石に)
越後国坂戸城主・村上城主、秀吉・家康に仕え、大阪の役の功で長岡8万石~村上10万石を拝領する。
床に就いた家康は、直寄を呼び「天下が乱れたら軍を卒いて打ち破れ」と遺言したと云う。

伝世館徒歩約15分山に「坂戸城・御館跡地」が、登ると「御居間屋敷跡地」現在発掘調査中なのかシートが


「御館の乱」
上杉景勝公が勝利を収めるのに重要な役割を果たしたのがこの坂戸城。
御館の乱勃発後、外交にて武田勝頼を中立派とした景勝公でしたが、敵対する上杉景虎は実家である後北条家に援軍を要請した為、
後北条勢が北上を開始、この後北条勢の越後侵攻を阻止したのが、関東から越後に入る玄関口に位置する坂戸城。
坂戸城が突破されれば、後北条勢の越後侵入を許す事になり、景勝公が敗北する可能性が高かった事を考えると、坂戸城がその後の米沢藩存続に果たした貢献度は非常に高いと思われる。
坂戸城攻防戦で活躍した城将深沢利重を始めとした、坂戸出身の上田衆は景勝公の重要な戦力として、その後も景勝公を支え続けます。
米沢藩成立後は、上田衆の一部は五十騎組と取り立てられ、馬廻組(謙信公の旗本出身)、与板組(直江兼続家臣)と共に三手組で呼ばれ、米沢藩の中級家臣として幕末まで存続。
幕末には五十騎組出身では宮島誠一郎が主に外交方面で活躍し、また戊辰戦争でも多くの小隊長が選出されるなど、坂戸城を守った勇士達の子孫は幕末でも米沢藩(上杉家)を支えたと云う。

            銭淵公園内・旧野田尻の渕に石が(政景公は、舟上で亡くなっている)


大規模な日本の城(山城)。
坂戸 山山頂(標高634m)に本丸、麓に平時の住居跡の遺構が見られ、魚野川をはさん で、三国街道を見下ろす交通上の要地に位置する。

内堀跡。熊野川から直接水源を引き入れていたと云う。内堀が城を守ったと云う。


長尾景虎(上杉謙信)が越後国主になると、城主の長尾政景は景虎と対立。
1551年、景虎勢は坂戸城を包囲。政景は景虎に誓詞を提出して臣下となった。政景の実子で謙信の養子となった上杉景勝が御館の乱を制して春日山城主になると、坂戸城には樋口与六兼続(のちの直江兼続)が入城.

石垣の石が                            城内の雑木林


「上田五十騎衆」は、坂戸城から
景勝は“御館の乱”で景虎を倒して上杉家の後継者の地位に就いたが,そこで景勝派の主力となったのが“上田衆”と呼ばれる家臣団で,兼続ももとは上田衆の一人であった。
上田衆のルーツは上田長尾氏の家臣団にある。それが長尾政景の死後 謙信の家臣となり,謙信の軍のなかでも最強として恐れられる存在になっていった。上田衆は当初 坂戸城下に住み,平時は使用人たちを働かせて農業経営を行った地主であり,同時に いざ戦争という時には武器を持って 最前線に立った。
御館の乱が起きると,景勝はそれまで景虎がいた春日山城を占拠したが,その入城の際に城門を守ったのが上田衆であった。そうした上田衆の中でも 特によく知られているのが,春日山入城の際に選ばれた五十人の精鋭たち「上田五十騎衆」である。
御館の乱で景勝が勝利すると,政権は上杉一門,国衆,謙信旗本と上田衆が支えるようになり,なかでも上田衆は政権の中枢をになう存在となった。景勝の腹心の直江兼続は 上田衆の樋口家の出身であり,大きな力を持つようになった。

坂戸城跡の石碑の側に建つ、上田五十騎発祥の地の石碑


            景勝公と兼続公は、この景色を、坂戸城跡から見た六日町駅方面


次回は、直江兼続伝世館・銭淵公園へ。

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