syuの日記・気まま旅

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豊臣秀次の近江八幡

2014-09-05 | 気まま旅

「豊臣秀次」 1568-95  殺生関白と恐れられた秀吉の甥
三好吉房と秀吉の実姉の子、秀吉の養子に。「賎ケ岳の戦い」軍功を挙げた。が、小牧・長久手の戦いで大敗し、秀吉の勘気を被る。
四国征伐の功績で「近江国43万石」尾張、伊勢国の5郡拝領している。関白に任じらるが、後継者問題で秀吉から切腹命ぜられた。
秀次の乱行は、良く知られている。
側室の連れ子を妾に、殺生禁断の比叡山で狩りをおこない、夜ごと道行く者を切り殺し、胎児見たさに妊婦の腹を裂いたり、、、、畜生ごとき振る舞いに、「殺生関白」と呼ばれていたと云う。後世の作り話と云う。
秀次切腹後、子供と妻、妾30人余りは、三条河原で惨殺されてと云う。

          八幡山城主「豊臣秀次」1585年築城(標高271.9m)


滋賀県近江八幡市は、琵琶湖東岸で、八幡宮の名による。琵琶湖沖島も含まれる。沖島湖底から縄文時代以来の遺跡・遺物が発見されている。
1585年、戦国時代は、「豊臣秀次」が、鶴翼山に八幡城築城。南麓の平地に城下町を建設した。
八幡城は、石垣の一部が残存するのみであるが、西ノ湖周辺など水郷景観と瑞龍寺(村雲御所)日牟礼八幡宮がある。
城廃城後も、天領として重要敷かれた地域で、近江商人の一大拠点ともなっている。

          国道8号線・新幹線(通過)・JR琵琶湖線近江八幡駅・近江商人の街並と続く
    

「近江」江州とも云う。淡水湖を意味し、都に近い琵琶湖で「近江」。
天智天皇は、大津宮に遷都し、越前・美濃・伊勢の国境に、愛発・不破・鈴鹿の三関が設置している。国府は、大津市瀬田にあったと云う。
最澄の「延暦寺」・「三井寺」・「石山寺」があり、鎌倉時代源頼朝で活躍した「佐々木氏・近江源氏」が守護を務めている。
室町時代には、「六角氏」が守護に、北部の犬山・坂田・浅井・伊香郡に「京極氏」と対抗していく。
全て、「織田信長」に敗れ、近江商人が活躍する。

八幡堀                         日牟禮八幡宮・山門
    

「八幡宮」
近江八幡駅南約2.5KM、八幡山南麓に鎮座。
誉田別尊・比売神・息長足姫尊の三尊を祀る。

近江商人と水郷で有名な(旧)近江八幡市と安土城で有名な蒲生郡安土町が合併して成立した社。
    

平安時代に「宇佐八幡宮」を勧請し、八幡山山頂に「上社」・山下に「下社」が草創されたと伝わる。(県無形民俗文化財の例大祭は、良く知られ左義長は、安土桃山時代が起源の火祭り)火祭りー3月中旬、町内の若者達が女装して山車をかついで練り歩く。

本堂前舞殿                                    献上樽酒
  

1585年~1590年 豊臣秀次が八幡城を築き、碁盤状の城下町を建設。中山道六十九次の武佐宿が置かれた。
平成17年, 市内水郷地域160haが景観法に基づく「景観計画区域」に全国初の指定。平成18年 「近江八幡の水郷」が日本で初めて重要文化的景観として選定された。平成22年  安土町と合併し、改めて近江八幡市が発足され、旧安土町地域に安土町地域自治区が設置。

ロープウエー           参道                  地蔵堂   西の湖水郷が
    

「八幡城跡」
八幡山(標高283m)の南半分山上に築城された。
急峻な山城、八幡山は独立丘となっているが、築城当時は東西に内湖があり、南の平野部に城下町を配した構造は、安土城と類似した占地に築城。
城下町は安土城下町を移住させて形成された。かつての城下町の一部は日牟禮八幡宮境内地、八幡堀とともに近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区の名称で重要伝統的建造物群保存地区として選定。
八幡堀は琵琶湖の水を引いて作られた堀で戦闘の用をなすだけでなく運河の役割も果たしていた。
1970年代には埋め立てて公園などに、「近江八幡の会」「八幡堀を守る会」などの住民運動によって蘇り、時代劇の撮影に使われるなど名所の一つとなっている。

「本山村雲御所 瑞龍寺門跡」
近江八幡市の北西、八幡山山頂にある八幡城本丸跡に建つ日蓮宗の寺院。秀吉により自害させられた秀次の菩提寺として、秀次の母により京都の村雲。
    

「日牟礼八幡宮」
山頂に上社「日牟礼八幡宮」が。16世紀末城築城に伴い「上社」を「下社」に合祀している。

                         山頂に上社  日牟礼八幡宮
    

「西ノ湖」
近江八幡の水郷ー西の湖を中心とした水郷。(琵琶湖国定公園第2種特別地域に指定)
重要文化的景観選定制度適用の第一号として、2006年に国の選定を受け、公有水面・葦地・集落・農地・里山を含む約354.0ヘクタールが
「近江八幡の水郷」として選定地域となっている。

この地域、多くの内湖は明治時代以降に干拓され、現在残っている大きなものは「西の湖」だけになっている。
西の湖周辺には葦原特有の湿地生態系が残されているが、干拓や圃場整備による湿地生態系の衰退や景観の改変が危惧されている。
1585年(天正13年)豊臣秀次が八幡山城を築城し、城下町を建設したことを起源として形成された。豊臣秀次は安土城下などから商人・職人を呼び寄せるとともに、西の湖を経て琵琶湖に至る八幡堀を開削した。

水郷地帯が広がるのどかな風景の中に、雄大にそびえる八幡山。標高271mの山頂まではロープウェ-で約4分。頂上には、この山に城を築いた豊臣秀吉の甥である秀次公を祀る村雲御所瑞龍寺があります。山頂からは、基盤の目状の近江八幡市街地や琵琶湖、西の湖などが
  

秀吉の全国統一により年貢米などの流通が列島横断的となり、朝鮮出兵に伴う諸大名による兵員・物資の肥前名護屋回漕で本州日本海沿岸から北九州へ向かう航路が開かれた。
近江商人が送った荷所船  蝦夷地交易のための松前藩による場所請負制に近江商人が進出、関西への輸送船(荷所船)往来開始(北陸の船乗りを使用、敦賀-琵琶湖-大津経由)・東廻り航路・西廻り航路
河村瑞賢による幕府天領米の江戸回漕のための東廻り航路、西廻り航路の整備・菱垣廻船・樽廻船、大消費地江戸へ物資(下りもの)を定期的に運ぶ菱垣廻船、樽廻船がはじまり大阪・江戸航路が発達(運賃積み船)。

琵琶湖ルートが西廻りルートに代替 延喜式以来の敦賀-琵琶湖-大津経由の「短距離水陸積み替えルート」に対し、西廻りの下関-瀬戸内海-京阪神「遠距離海運ルート」・北海道漁業と西日本農業の連携・西日本の米や綿・藍・菜種などの商品作物の生産拡大にともなうニシン魚肥の需要増に対応して18世紀にかけて北海道との交易が拡大 東廻り航路・西廻り航路、および大阪・江戸航路という全国沿岸海運ネットワークが形成された。
近世に入ってからもしばらく江戸は生産地というより消費地としての性格が強かったため、東回り航路や大阪・江戸航路は帰り荷の少ない物流ルートだった。これに対して、西廻り航路は、距離は長いが、西日本の各地や北海道・東北・北陸を相互にむすぶ帰り荷の多い物流ルートであり、航路・港湾・船舶の発達によりますます日本経済の大動脈となっていった。

その昔、信長もこの地を好み、船遊び楽しんだと云う。今は、八幡堀「水郷巡り」の観光舟が。
  

「正福寺」 山号ー哀愍山 ・浄土宗・開基ー1576ねん玉念上人(安土問答で有名)、1586年に 近江八幡に移転
本堂ー県指定文化財、1645年 滋賀県下では最も古い浄土宗本堂 ・本尊ー阿弥陀如来坐像 。

「魚屋町」
豊臣秀次が定めた楽市楽座や諸役免除などの政策により、その後も商業都市として発展を続けた。
近江の地から全国に進出した商人たちは「近江商人」と呼ばれ、中でもこの近江八幡からは数多くの豪商が生まれた。
現在も往時の名残をとどめる古い商家が多く残り、この辺りは、魚関係の商人町なのか?

新町通り・魚町通り・為心町通り・仲屋町通り・永原町通りなど、近江商人の街並みが八幡山に向かっている
    

「京街道」
伏見宿の中心は、「京橋付近」本陣があったという。
橋の下の川は「豪川」というが、宇治川に注ぎ淀川に通じている。淀川の水運は、ら京都、大阪を結び、琵琶湖経由で遠く東海道・北陸ともつながる
「交通の大動脈」と云える。   

中山道も愛知川宿・右京みち左いせみちで伊勢代参街道の分岐点、四つの宿場で、最終「滋賀県大津市札の辻・大津宿場」である。

 琵琶湖大橋・京都・大津ー米原・彦根・長浜・中山道。 義経元服の池鏡口は、国道8号線
    

「近江八幡の町」
湖東平野の一角をしめる市内には、雪野山、瓶割山、八幡山(鶴翼山)、岡山、長命寺山、津田山(奥島山)などの小高い山が平野に浮かぶように点在し、琵琶湖上には、最大の島である「沖島」有人島がある。
市の北東部には、西の湖が水郷地帯を展開しており、「安土八幡の水郷」として琵琶湖八景の一つに数えられている。

八幡山城271m左が白鳥川が、八幡山を囲むように八幡堀、右手に琵琶湖八景八幡水郷「西の湖」がある。琵琶湖に通じている。
    

「近江八幡市立八幡小学校」
1886年創立の歴史ある学校。1917年にこの場所に建てられた擬洋風建築の校舎。
    

「朝鮮人街道」
近江国に存在した近世の脇街道である彦根道、京道および八幡道の異名である。
中山道(上街道)との比較で下街道・浜街道、あるいは朝鮮人道、唐人街道などとも呼んだ。
東海道・中山道などの道と異なり、以前からあった農道などから比較的交通量が多い道を継ぎ足してできた道、距離は約41.2kmで同区間の中山道38.7kmより長い。
県野洲市行畑で中山道から分岐し、琵琶湖沿いを八幡・安土・彦根を経由して、彦根市鳥居本で再び中山道に合流した。

旧来の中山道が安土城下を経由しないため、織田信長が岐阜城から安土城を経由して京都に向かう道として整備し、安土城築城後の 1577年に
城下に宛てた13ケ条の定書において「安土発展のため中山道ではなく、この街道を通ることが原則」とされ、安土落城後に同地を支配した
豊臣秀次は、八幡建設後町衆に対して同様の定めを公布している。

八幡山山頂に、本丸・二の丸・西の丸・北の丸・出丸が配置され、一大要害と云う。現在は、石垣が、本丸跡に瑞龍寺が立っている。
    

村雲御所 瑞龍寺門跡が、秀次の生母(秀吉の姉)が菩提寺(日蓮・京都)。昭和36年建物移築されている。
  

「酒の話」
男酒・仕込み水に硬水で醗酵を強め短期醪から醸出させる。やや酸の多い辛口ー新酒は荒々しく男性的でしっかりし、夏を超すと丸みが「秋晴れ」と云う
女酒・仕込み水は軟水で緩やかに醗酵させ長期醪で生成、甘口、酒質もキレイで飲みやすい、夏を越すと「秋落ち」と云って、酒の力が落ちる。

次回は、中山道の終着、大津市へ。

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