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行田市 忍城と古墳

2012-01-25 | 気まま旅
「伊奈利神社」(奴稲荷 熊谷弥三左衛門稲荷)、熊谷市仲町、村社、御祭神 倉稲魂命、合殿 徳川家康創建1205年・鎌倉。

日ごろ稲荷神を深く信仰していた熊谷次郎直実は、戦場で数々の危難に遭っても、必ず 熊谷弥三左衛門という武士によって助けられ、勝利を得た。
三左衛門に素性を尋ねたところ「吾は、汝が信ずるところの稲荷明神なり。危難を救わんがために熊谷弥三左衛門と現じける」と言い忽然と姿を消した。
直実は、帰陣の後、熊谷寺境内に祠を設け稲荷大神を祀り、居城の鎮守としたとある。

  


熊谷佐谷田真言宗智山派「永福寺」。ブロック塀から藤が出たり入ったりして見事な枝っぷり、今年も沢山花を咲かせるでしょう

  

豊臣方石田三成大軍勢でも落とせなかった城「忍城」水攻めにもたえた浮城としても知られる。
忍城は後北条氏の時代から最重要拠点のひとつとして見なされていた

忍城                 天守閣                  堀
    

本丸跡にある城址、1491年下総守成田親泰が築城。荒川と利根川の間低地帯の沼沢を自然の要害として、土塁と堀で区切られた大小20余りの曲輪があった。
上杉謙信、石田三成の水攻めにも落ちない難攻不落の城と云われたが、1590年の小田原城落城に先立ち開城、徳川氏歴代の親藩、
譜代の大名が配置され、
10万石の居城となった。最近になり、本丸三層櫓が復元、博物館、二の丸、堀に市役所、外堀沼地に水上公園として残った。

城門                  鐘楼                   土塁
    

徳川家康は忍城に四男の松平忠吉を10万石で入れ、しかし忠吉は11歳という幼年であったため、松平家忠(松平深溝氏)が1万石で入る。
家忠は三成の水攻めのために荒廃した忍城と城下町を修築し、代官の伊奈忠次の助けも受けて領内に検地を実施した。

吉次は兵農分離、家臣団編成、新田開発、利根川の治水工事で手腕を見せた。
1600年の関ヶ原の戦いで、忠吉は井伊直政と共に島津義弘軍と戦って負傷しながらも武功を挙げたため、尾張尾張藩52万石に加増移封された。
その後しばらく、忍藩は廃されて天領となり、代官の忠次や大河内久綱らが治めた

忍城の全景模型                         武士の衣裳で説明する 地元のボランティア 
  


「諏訪神社」は、成田氏が忍城を築いたさいに勧請したとされている。境内社として残る多度神社・一目連神社は、元来は忍城内に祀られていた。
武蔵国郡村誌の埼玉郡成田町によれば、これらは1826年に忍城主 松平氏(伊勢桑名から移る)が旧領である伊勢国多度山から勧請したもの。

忍城の前にある諏訪神社
    


「天祥寺」は、臨済宗妙心寺派寺院、海東山天祥寺という。奥平松平下総守家の藩祖松平忠明が(天祥院殿)が開基となり、寛永年間大和郡山に創建された。
奥平松平家は、9代目忠堯の代に、1823年に桑名藩より忍藩へ移封、当寺も当地へ移転。京都花園にある妙心寺塔頭天祥院は当寺の末寺。

古墳群の中にある天祥寺                   松平忠明の墓
  

東日本最大「埼玉古墳群」県名発祥地、1978年稲荷山古墳から115文字の鉄剣が出土、5~8世紀築造で武蔵国造家笠原直使主一族の墳墓と考えられている。
1938年丸墓山、稲荷山、二子山、愛宕山、瓦塚、鉄砲山、奥の山、中の山、将軍山、の9古墳国の史跡。前方後古墳が8基、丸墓山古墳1基円墳
地元では、世界遺産登録と頑張っていた。

    

古墳群周辺は、さきたま公園として整備されている。「史跡博物館」には、埴輪作りなどで子供達にも人気。
行田名物「足袋」木綿産地で中山道の宿場町と云えば足袋、日本一の生産。

古墳群が連なっている すごい規模
  

次回は羽生方面へ。 






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