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syuの日記・気まま旅

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上野・寛永寺界隈

2011-03-28 | syu散歩
谷中霊園は、明治維新の後、政府は神仏分離政策を進め、神式による葬儀も増えた。
しかし、墓地の多くは寺院の所有であったため埋葬場所の確保が難しく、公共の墓地を整備する必要にせまられていた。
1874年に明治政府は、天王寺の寺域の一部を没収し、東京府管轄の公共墓地として谷中墓地を開設した。

その天王寺は、江戸時代「富くじ」で有名。有名人の墓が多く、岡倉天心、川上音次郎、高橋お伝、横山大観、鳩山一郎、朝倉文夫など。
このあたりの町名が、「桜木町」と云い、墓地内にも古木の桜並木が続く。


桜並木の谷中霊園入口   京成電鉄の廃駅「桜木町」寛永寺参拝に利用されていた。          
  


寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け大いに栄えた寺。創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。
徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る、芝の増上寺だった。

3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。
その後、4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。 、

6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた。
また、吉宗以降は幕府財政倹約のため、寛永寺の門の数が削減されている。

寛永寺                           本殿
  


江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。
現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内である。

最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたというから、その規模の大きさが想像できる。
たとえば、現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。

上野の山は、幕末の1868年、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇はこの時焼失し、壊滅的打撃を受けた。
 
「髭剃るや 上野の鐘の 霞む日に」(正岡子規)

地震で倒れた境内の灯籠               鐘楼
  


国際子ども図書館前にパンダの巡回バス




 旧帝国図書館は現国際こども図書館に。

1949年(昭和24年)から1998年(平成10年)まで国立国会図書館支部上野図書館として利用されていたが、 改修工事を行い、
2000年(平成12年)5月5日から国立国会図書館国際子ども図書館として開館している。

寛永寺前から見た博物館屋根            こども図書館の歴史ある建物       
     



黒田記念館 、日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13年に没する際、遺産の一部を美術の 奨励事業に役立てるよう遺言した。
これをうけて昭和3年に竣工した黒田記念館。 記念室にくわえてギャラリーを増床し、充実した内容で作品を鑑賞できる。


図書館隣の黒田記念館               かつてはここから動物園に、京成の廃駅「動物園前」  
  


次回は、上野公園へ。

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (matsubara)
2011-03-28 17:04:25
上野界隈はおなじみです。
京成の動物園駅は小さいながら重厚な造りですから保存しているのでしょうか。
寛永寺に寒牡丹を見に行ったことがあります。
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matsubaraさま (syu)
2011-03-28 20:32:45
上野辺りはよく知っているので何度も出かけてしまいます。
京成の駅は懐かしいですね。
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