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身投げした真間の手児奈 万葉集

2018-07-19 | 気まま旅

「万葉集」  
7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集。
天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を「4500首以上」も集めたもので、成立は、759年の天平宝字3年以後とみられる。
日本文学における第一級の史料、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料とも云う。歌を作った時期により4期に分け、

第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。
代表的な歌人としては額田王がよく知られている。
ほかに舒明天皇・天智天皇・有間皇子・鏡王女・藤原鎌足らの歌もある。

第2期は、遷都(710年)までで、代表は、柿本人麻呂・高市黒人・長意貴麻呂である。
他には天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子などである。

第3期は、733年(天平5)までで、個性的な歌が生み出された時期である。
代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人・風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした坂上郎女などである。

第4期は、759年(天平宝字3)までで、代表歌人は大伴家持・笠郎女・大伴坂上郎女・橘諸兄・中臣宅守・狭野弟上娘子・湯原王などである。

歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。
さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったと考えられると云う。

                         真間稲荷神社

京都の伏見稲荷大社を総本宮とする稲荷神社は、全国でもっとも多い神社で32000社あると
言われています。稲荷神は五穀豊穣(穀物が豊かに実る)を守護神としますが、今では産業
全般の神として工場の敷地内などにも祀られているようです。真間稲荷神社の祭神は豊受姫
命(トヨウケヒメノミコト)で、天照大神の食事の世話をしたと伝えられ、食物や穀物を司
る女神です。伊勢神宮外宮の豊受大神宮に、祀られていることでも知られています。神像は、
老農夫が鍬をかついでいる御姿です。

真間稲荷神社の例祭は4月8日の五穀豊穣祈願祭、10月8~9日の秋の実りに感謝するお祭り
があります。秋のお祭りには、大御輿・女御輿・子供御輿などが町内を盛大にねり歩きます。
皆さんもご一緒に威勢よく「ワッショイ、ワッショイ」しませんか?

       “真間”は崖のような斜面を表す言葉ですが、今から6000年前の縄文時代の海面は現在より8m前後高く、
        このあたりは海になっており北側の真間山とは崖で接していたことでしょう。

                       祭神ー豊受姫




「真間の手児奈」
手児奈・てこなは、万葉集に歌われた美女で、多くの男性に慕われつつも、だれに寄り添うこともなく、真間の入り江に身を投げたと伝えられる伝説のヒロイン。「葛飾(勝鹿)の真間」と詠まれたように、東国一帯に広く知られただけでなく、市川にあった下総国府を訪れた都びとにも慕われた存在。
手児奈は、日本最古の歌集である万葉集に詠まれ、市川の文化芸術のシンボルと云う。




手児奈は舒明天皇の時代の国造の娘で、近隣の国へ嫁いだが、勝鹿の国府と嫁ぎ先の国との間に争いが起こった為に逆恨みされ、苦難の末、再び真間へ戻った。しかし、嫁ぎ先より帰った運命を恥じて実家に戻れぬままとなり、我が子を育てつつ静かに暮らした。だが、男達は手児奈を巡り再び争いを起こし、これを厭って真間の入り江に入水したと伝えられている。古くから語られていた伝説が、この地に国府がおかれた後、都にも伝播し、万葉集の歌人たち(山部赤人・高橋虫麻呂)の想像力をかきたてたとされている。

737年に行基がその故事を聞き、手児奈の霊を慰めるために弘法寺を開いた。現在は手児奈霊神堂に祀られている。また、亀井院には手児奈が水汲みをしていたとされる井戸が現存している。


今から1300年ほど前、真間の井(亀井院)に水を汲みに行く一人の女性がいた。名前は手児奈。身なりはそまつだったが、とても美しいと評された。多くの男性から結婚を求められたが、「私の心はいくつでも分けることはできます。でも、私の体は一つしかありません。もし、私が誰かのお嫁さんになれば、ほかの人を不幸にしてしまいます。」となやみ、海に行く(当時は真間山の下は海だった)。そのころ、日没になろうとしていた。「そうだ、あの太陽のように。」と思って海に身投げしてしまった。これを悲しんだ人たちは、手児奈霊神堂を建てて祀った。

文化財

葛飾の 真間の井見れば 立ち平し 水汲ましけむ(ん) 手児奈し思ほゆ(おもうゆ)

{訳}葛飾の真間の井を見れば、水を汲む手児奈を思い出す

山部赤人「吾も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児奈が奥津城処」堂正面。

                      「手児奈霊堂」




                       真間の継橋


万葉の時代、この地域にはたくさんの州があり、その州から州へのかけ橋が「継橋」だったと考えられている。
継橋は後世多くの歌人の題材に。
                     弘法寺参道前にある。


「弘法寺」
奈良時代の737年、「行基菩薩」がこの地に立ち寄られた折に里の娘が身を投げた哀話を知り、その霊を弔うためにこの地に「求法寺」を建立。
平安時代の822年、「弘法大師空海」が布教のためにお出でになり、七堂伽藍を再建されて「弘法寺」と改称。
鎌倉時代、 関東天台の了性法印信尊と日蓮大聖人の弟子富木常忍公との間に「真間問答」がおこり、富木常忍公が法論において勝利をおさめ、これを機に日蓮宗の法華経道場として発展した。(人間道場の由来)
1323年(鎌倉時代)、地元の有力武将千葉胤貞公より寺領地の寄進を受ける。1591年(江戸時代) 徳川家康公より御朱印状を賜る。
1888年(明治時代) 大火災により全山灰燼に帰したと云う。
2010年、記念行事として新祖師堂建設されている。



亀井院、弘法寺には、1916年、「北原白秋」が住んだ。 「葛飾の真間の継橋夏近し二人わたれれりその継橋を」などの歌を残している。





                          仁王門






                         弘法寺の伏姫桜


「下総国・葛飾郡」
古代に、渡良瀬川の下流「太日川(おおいがわ又はふといがわ・太日河」の流域の両岸をカバーする地域が「葛飾郡」と定められた。
中世以前の常陸川と利根川の下流とに東西を挟まれ、南限は東京湾で、南北に細長かった。
渡良瀬川はその後の利根川東遷事業によって、江戸川(古くは、太日川(おおいがわ又はふといがわ・太日河))となったので、現在の江戸川(及びその後に成立した中川)のほぼ流域に当たる。
現在の行政区域では、北は渡良瀬川と利根川の合流地点である茨城県古河市、江戸川の西の流域である埼玉県幸手市・吉川市・三郷市、東京都葛飾区・墨田区・江東区・江戸川区、千葉県浦安市、江戸川の東の流域である千葉県野田市・流山市・柏市・松戸市・市川市・船橋市にまたがる広大な郡であった。
葛飾郡総社は、船橋市の「葛飾神社」。
明治11年、郡区町村編制法の制定により、同年に一部が東葛飾郡・西葛飾郡・南葛飾郡に、
翌12年に、残部が北葛飾郡・中葛飾郡となり消滅している。



                          葛飾早稲で知られている。


次回も、江戸川方面へ。

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