syuの日記・気まま旅

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上越新幹線と大清水トンネル

2014-12-23 | 気まま旅

上信越高原国立公園
平成26年 環境省は、新潟南西部・長野北部の妙高・戸隠地域を分離して、国立公園として指定。

面積ー総面積は188,046 haと云う。新潟南西部・長野北部、妙高山・黒姫山・飯縄山・戸隠山・焼山と妙高高原周辺・赤倉周辺および野尻湖とその周辺。
三国山脈南西部、谷川岳・本白根山・白砂山・岩菅山・四阿山・浅間山・烏帽子岳・苗場山と清水峠西部・三国峠・鳥居峠・碓氷峠西部・軽井沢周辺・草津周辺と志賀高原一帯と広範囲。
新潟県は、妙高市・糸魚川市・津南町・「十日町市・南魚沼市・湯沢町」。

越後中里ー土樽駅方面に、(湯沢から2・3つ目の駅)へ。

「両山神社」湯沢土樽に鎮座。神社本庁伊勢神宮
神社庁とは、全国8万神社を包括する神社本庁の地方機関で、各都道府県に置かれている。
神社本庁は、「伝統を重んじ、祭祀の振興と道義の昂揚を図り、以て大御代の弥栄を祈念し、併せて四海万邦の平安に寄与する」との理念の下に運営。
神社本庁は伊勢の神宮を本宗と仰ぎ、奉賛の誠を捧げ、
新潟県神社庁は、宗教法人。神社本庁が包括する4700社の神社によって組織されており、神宮大麻の頒布をはじめとする伊勢の神宮への奉賛活動、
神職の養成・任免事務、神職・総代をはじめ神社関係者の研修や大会の実施、功労者の顕彰、神社神道の広報など、活動。

両山神社・手水舎                  鳥居                    拝殿
    

「上杉謙信」 1530-78 越後国大名、長尾為景の末っ子、春日城で生まれる。武田信玄数度決戦、関東平定目論み、北条氏と抗争、関東遠征時急死。
上杉謙信手植えの松跡・三代目 (立て看板より抜粋)湯沢町指定文化財
戦国の武将「上杉謙信公」が植えられた松という、 天文年間の頃、ここを通る道は、越後より関東方面への軍事及び通商道路として利用され
三国峠を越える三国街道、清水峠を越える清水越えと共に栄えた所。
松は、道しるべの一つとして植えられたもので樹齢400年。松は昔2本の夫婦松であったと云う。
伊勢湾台風の折、1本がたおれ、 足元にあるこの碑は大正9年に郷土の漢字学者岡部東雲師が
「武装して山道を謙信公が通った草木を伏すいきおいであった。これを永く記念するものは古くて威厳のある2本の松である。」と読みたてられた。

「小坂の庚申塚」
庚申塔・庚申塚は、中国より伝来した道教に由来 する「庚申信仰に基づいて建てられた石塔」。
    

庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期頃からで,近世を通して多数の庚申塔が建てられたと云う。
青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていない時期を経て、徐々に青面金剛像が主尊の主流に、その後、江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみ彫り付ける形式が増加 した。

高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転。現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れと。
田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申」と彫られた石塔を。

                        手植えの松跡に数ある庚申塔の塚
  

「荒戸城(荒砥城)」跡。
構造ー山城 ・築城主ー上杉景勝 ・築城年ー1578年(天正6年)・城主ー深沢氏、登坂氏、富里氏、栗林氏
廃城年ー1598年(景勝の会津移封による)。
遺構ー本丸跡・二の丸跡・三の丸跡 (曲輪・土塁・虎口・馬出し・堀切・堅堀・横堀)・上杉軍道

神立温泉、国道17号線の芝原トンネル付近

六日町坂戸城の出城「荒戸城」跡          後北条軍が


歴史ー1578年(天正6年)「御館の乱」の際に、北条氏の侵入を阻止するために上杉景勝が深沢利重・登坂与衛門尉らに命じて築城。
その年 8月、北条勢、荒戸城を攻略し落城している。
1579年、景勝荒戸城を奪還する。1581年、景勝は、樋口与三右衛門兼重・冨里三郎左衛門らを城将に命じ、1598年 - 景勝、会津移封により廃城。

荒戸城入口               熊出没注意の立て看板あり
  

神立字袖山~大字三俣字下峠,標高-789m。
樋口主水助(直江兼続の叔父、湯沢が知行地で居城跡が主水公園、主水山大岳寺に、荒戸城で戦死した樋口主水助ゆかりの寺院と云う。

城の見取り図                    山から越後中里方面が
  

JR上越線は、越後湯沢駅―岩原駅ー越後中里駅ー土樽駅。関越自動車道も鉄道に沿っている。
土樽蕗は、魚野川上流、(新潟と群馬の県境近く谷川岳付近を源頭に魚沼地方を流れ、長岡市内で信濃川(千曲川)に合流する流程の長い大渓流)。
フライフィッシングでは本流フィールドの中流域が知られ、渓流らしい渓相になってくる。
上流部といってもこのあたりはまだ里川の雰囲気、河原が広く開けた瀬が中心。

            向かいに見えるのが上越線の高架


土樽の「毛渡沢陸橋」
湯沢町と清水トンネルの間にある、レンガ造りの鉄道橋。
昭和6年に完成した当時の面影を残している稀少な橋で、全国「美しい鉄橋ベスト3」にも選定。

現在は、上越線上りルートとして利用されており、西側にある下りルートの鉄橋の橋脚はコンクリート製。



土樽ー毛渡沢陸橋


上り・下りの陸橋下


「谷川岳のトンネル」
JR東日本の上越線(清水トンネル)・上越新幹線(大清水トンネル)・東日本高速道路 関越自動車道(関越トンネル)



                  谷川岳の湧水


            関越自動車道群馬県より関越トンネル付近


我が国の鉄道は、山地が多く、勾配とトンネルの戦いであったと云う。特に、群馬水上ー新潟南魚沼「清水トンネル」は、朝日が岳1945m7つ小屋山
1675mは、清水峠は近道として使われていたが勾配が急で、古来の「三國峠」を利用。
1883年の明治18年新道が完成し再び活気、鉄道開通が1893年で、現在の国道291号線である。地は茂倉岳・高さ1448m。
日本経済成長と伴い鉄道輸送力向上の要求が強まっていく。
東京を結ぶ鉄道は、長野・直江津の信越線ルート、それが開通したのが、1904年に迂回路、特に碓氷峠越えは、アプト式ラックレール
「上下する区間」隘路打開の為、上越線・清水トンネル工事が始まった。1931年の昭和6年我が国最長鉄道トンネル・1964年複線化の為
「清水トンネル・長さ13500m」が開業し、「土合駅は下りはトンネルの中であったと云う。階段約500段下ると云う。

上越新幹線は、1982年(大清水トンネル長さ22,228m複線型で、高さ539m。
青函トンネル完成1988年までは、世界最長であった。
1985年の関越自動車道は、長さ10926m・巾7mが開業。(日本最長)

日本最長の大清水トンネル難工事


トンネルは、JR上越線土合(どあい)駅と土樽(つちたる)駅の間にある全長9,702mの山岳トンネル。
名峰そして魔の山としても知られる谷川岳を盟主とする谷川連峰の真下を貫いている。
1922年(大正11年)から工事が始まり、工期約9年、
1931年(昭和6年)に完成、上越線水上~越後湯沢間が開業した。
上越線がここに全通し、日本一、世界でも第9位の長さを誇った。
トンネルの名は、徒歩時代に上越国境越えに利用された近くの「清水峠」から。

トンネル開通祝、関係者の感激はヒトシオであったであろう


スキー場
湯沢高原ゲレンデ・布場ゲレンデ・布場ファミリーゲレンデの3つのエリアから構成
布場ゲレンデは、南魚沼郡最古のスキー場。1919年、布場で南魚沼郡の学校教員等を集めて講習会が開かれたのがきっかけで、スキー場として整備が始まる。年々、利用者は増加し、1927年には山小屋風のスキー小屋が、1929年にはスキー客相手の出店も見られるようになったと云う。
1931年には、上越線の開業に伴い関東方面からのスキー客が増加。
食堂や土産物屋、旅館等の施設が充実されていく。

当時、どこのスキー場も、若者で大混雑した。


犬っこまつりは、約400年もの長い間続いたといわれる湯沢地方の民俗行事。
白昼堂々と人家を襲う「白討(はくとう)」という大盗賊がいましたが、湯沢の殿様がこれら一味を退治し、再びこのような悪党が現れないようにと、
米の粉で小さな犬っこや鶴亀を作らせ、旧小正月の晩に、これを家の入口や窓々にお供えして祈念させたのが、この犬っこまつりの始まりと。

                        雪国の子供達


              「はくたか」は、北越急行ほくほく線で直江津方面へ


          上越在来線で上野ー湯沢は4時間、上越新幹線で早いので77分


上越新幹線とトンネル
群馬県から新潟県にかけての区間(高崎 - 長岡間)は三国山脈を通過するため、大部分がトンネル。
世界有数の豪雪地帯である新潟県内を中心にスプリンクラーによる融雪設備を備えているほか、新潟県内の駅では線路・プラットホーム全体が屋根で覆われているなど、雪害対策が入念に施されていると云う。
平野部(関東平野、越後平野)では、大部分が高架上を走る。

次々トンネルが開通していく


今回で新潟南魚沼は、終了。群馬前橋・高崎に。

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