京都の旅は、終了しましたが、京都と云えば「伏見の酒」。
日本酒と云えば、灘、伏見が代表的であり、伏見には、松尾大社がある。
「松尾大社」は、西亰区嵐山宮町、(阪急嵐山線松尾駅)で、祭神は、大山くいの神と中津島姫命で701年に秦忌寸都理の創建という。
王城鎮護の神として朝廷の協力もあり多くの荘園が寄進され勢力をふるった。
氏子域は、京都の3割強と云う。中世から造酒の神として信仰を集め、社殿背後の霊泉「亀の井の水」は、酒が腐らず、旨い酒が出来ると云う
今でも、全国の醸造メーカーからの松尾大社の参拝が絶えない。
日本酒の歴史は、ハッキリしていないが、古代時代「口噛み酒」の資料が残っている。
周の成王の時代(紀元前1000年頃)に日本列島内の何処かの国に何らかの酒類が存在した可能性を示唆している。 3世紀に成立した『三国志』東夷伝倭人条の記述にも酒に関する記述が見られる。
同書は倭人のことを「人性嗜酒」と評し、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べている。
この酒が具体的に何を原料とし、またどのような方法で醸造したものなのかまでは、この記述からうかがい知ることはできない。
ちなみに、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが巫女の仕事であったことをうかがわせる一つの根拠となっている。
神社には、蔵元からの奉納献上樽酒がある、これは、神様に奉げる最も清らかな水を「玄酒」と言いい、時代が下るに連れて、酒も奉げるようになったとある。
京都府蔵元では、黄桜酒造、キンシ正宗、月桂冠、世界鷹酒造、宝酒造、福光屋等蔵元77家・銘柄162種(平成4~5年頃)
伏見の酒は、江戸時代に入ってからと淀川水運の要地としてますます発展し、それと同時に造り酒屋も増加していった。
明暦3年 1657年には伏見の酒造家は83軒を数え、製造 石数は1万5610石にも達し、この頃は、池田、伊丹の酒の全盛期でもあり、
1624年に始まったとされる灘の酒造りは誕生したばかり、
江戸時代中期以降、京の町の酒は、伊丹領主だった有力公家・近衛家が同家が庇護する伊丹の酒で独占されて、伏見酒の京の市中への進出が禁じられて しまうこともあったと云う。
関西で醸造され、江戸に運ばれた酒のことを「下り酒」といい、伏見の酒は、地の利の悪さが災いし、江戸への出荷もままならなかったところへ、江戸積廻船を利用した灘酒の急激な台頭を許してしまう。
そして、1833年には伏見の酒屋は27軒(7197石)にまで激減、明治元年の「鳥羽伏見の戦い」が起こり、町の大半が焼失し、酒造もほとんど被災するという、最も大きな打撃を受けた。
この時には、伏見の酒の生産量 は、1800石にまで減少する。
明治時代に入り、、明治10年の「西南の役」以後、 社会も経済も安定しはじめ、明治22年、東海道線が開通 し、それまで2~3週間もかかった東京への酒の搬送もたった1日で可能になった事が、京都・伏見の酒が息を吹き返すきっかけとなる。
もともと、酒自体が優秀であったため、東京への販路が拡大すると、以降、奇跡的な復興を遂げている。
日本酒と云えば、灘、伏見が代表的であり、伏見には、松尾大社がある。
「松尾大社」は、西亰区嵐山宮町、(阪急嵐山線松尾駅)で、祭神は、大山くいの神と中津島姫命で701年に秦忌寸都理の創建という。
王城鎮護の神として朝廷の協力もあり多くの荘園が寄進され勢力をふるった。
氏子域は、京都の3割強と云う。中世から造酒の神として信仰を集め、社殿背後の霊泉「亀の井の水」は、酒が腐らず、旨い酒が出来ると云う
今でも、全国の醸造メーカーからの松尾大社の参拝が絶えない。
日本酒の歴史は、ハッキリしていないが、古代時代「口噛み酒」の資料が残っている。
周の成王の時代(紀元前1000年頃)に日本列島内の何処かの国に何らかの酒類が存在した可能性を示唆している。 3世紀に成立した『三国志』東夷伝倭人条の記述にも酒に関する記述が見られる。
同書は倭人のことを「人性嗜酒」と評し、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べている。
この酒が具体的に何を原料とし、またどのような方法で醸造したものなのかまでは、この記述からうかがい知ることはできない。
ちなみに、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが巫女の仕事であったことをうかがわせる一つの根拠となっている。
神社には、蔵元からの奉納献上樽酒がある、これは、神様に奉げる最も清らかな水を「玄酒」と言いい、時代が下るに連れて、酒も奉げるようになったとある。
京都府蔵元では、黄桜酒造、キンシ正宗、月桂冠、世界鷹酒造、宝酒造、福光屋等蔵元77家・銘柄162種(平成4~5年頃)
伏見の酒は、江戸時代に入ってからと淀川水運の要地としてますます発展し、それと同時に造り酒屋も増加していった。
明暦3年 1657年には伏見の酒造家は83軒を数え、製造 石数は1万5610石にも達し、この頃は、池田、伊丹の酒の全盛期でもあり、
1624年に始まったとされる灘の酒造りは誕生したばかり、
江戸時代中期以降、京の町の酒は、伊丹領主だった有力公家・近衛家が同家が庇護する伊丹の酒で独占されて、伏見酒の京の市中への進出が禁じられて しまうこともあったと云う。
関西で醸造され、江戸に運ばれた酒のことを「下り酒」といい、伏見の酒は、地の利の悪さが災いし、江戸への出荷もままならなかったところへ、江戸積廻船を利用した灘酒の急激な台頭を許してしまう。
そして、1833年には伏見の酒屋は27軒(7197石)にまで激減、明治元年の「鳥羽伏見の戦い」が起こり、町の大半が焼失し、酒造もほとんど被災するという、最も大きな打撃を受けた。
この時には、伏見の酒の生産量 は、1800石にまで減少する。
明治時代に入り、、明治10年の「西南の役」以後、 社会も経済も安定しはじめ、明治22年、東海道線が開通 し、それまで2~3週間もかかった東京への酒の搬送もたった1日で可能になった事が、京都・伏見の酒が息を吹き返すきっかけとなる。
もともと、酒自体が優秀であったため、東京への販路が拡大すると、以降、奇跡的な復興を遂げている。