「円山公園」は、明治維新まで、八坂神社(当時は祇園感神院)や円山安養寺の境内の一部。
明治初年の廃仏毀釈によって土地が政府に没収され、に総面積約9万平方メートルの公園が設けられた。
1987年には京都市へ移管され京都市初の都市公園に。
枝垂桜は「一重白彼岸枝垂桜」という品種で、初代は、1947年に枯死、現在は2代目が。
1937年に開堂した円山公園音楽堂は、約3,000人を収容可能な屋外ホールとして利用され、料亭や茶店や、坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像なども雙林寺、西行庵、芭蕉庵、などの旧跡も多い。
過去には乗馬場もあったが現在は廃止。
花見のシーズンには、ライトアップ、深夜でも花見客の姿が見られるという。
「八坂神社」は、東山 祇園町に鎮座、祇園社、感神院とも言われている。
656年、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主の創建。
牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、名は新羅の牛頭山に由来するのだという。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、
「八坂造」の姓を賜ったのに始まるという。(社伝より)
重文は、(本殿)と(石鳥居) 参道 (楼門)
創建は、諸説あり、祭神は、古くから「牛頭天王に習合した素戔嗚尊」。
古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない、これは、神仏習合の色あいが濃く「延暦寺」の支配を受けていたことから、
神社ではなく寺とみなされていたためと見られ、後の二十二社の一社にはなっている。
神社としても見られていたことがわかる。平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受ける。
祇園祭は、869年に各地で疫病が流行した際に「神泉苑」で行われた御霊会を起源とするもので、970年頃から祭礼として行われる。
祇園社は、「興福寺」の配下であったが、10世紀末に戦争により「延暦寺」が末寺で、1070年には、祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を
「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認されている。
1384年に、足利義満は、祇園社を比叡山から独立させたが、それで祇園社が幕府配下となったわけではなく、以降、祇園祭は経済的に力をつけていた京の町衆により行われるようになり、現在に至っている。
1915年に官幣大社に昇格した。
全国3000社の本社、夏の祇園祭は平安時代から(京都三大祭の一つ)
「祇園の町」は、1624 - 1645年に祇園社(八坂神社)の門前で営業された水茶屋がこの花街の始まり、京都所司代板倉重宗によって茶立ち女を置くことが許可され、門前の茶屋町を「祇園町」と称するようになった。
寛文年間になると四条河原町に芝居小屋が建ち、四条通りと大和通りにも茶屋が開かれるようになり、弁財天町・二十一軒町・中之町・山端町
等に広がったが
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ、、、。
歴史を感じる祇園町
八坂神社のご祭神は「素戔嗚尊」。妻の「櫛稲田姫命」と子供の「八柱 御子神」。それで縁結びの神と云われている。
素戔嗚尊は、出雲で八つの頭を持つ大きな蛇である「八岐大蛇」を退治して、櫛稲田姫命と結婚したと言われ、二人が祀られているこの神社の本殿の下には、大きな池があって龍が棲むという伝説が残されている。
若いカップルが多かった。
八坂の塔は次回に
次回は、八坂の塔・建仁寺方面に。
明治初年の廃仏毀釈によって土地が政府に没収され、に総面積約9万平方メートルの公園が設けられた。
1987年には京都市へ移管され京都市初の都市公園に。
枝垂桜は「一重白彼岸枝垂桜」という品種で、初代は、1947年に枯死、現在は2代目が。
1937年に開堂した円山公園音楽堂は、約3,000人を収容可能な屋外ホールとして利用され、料亭や茶店や、坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像なども雙林寺、西行庵、芭蕉庵、などの旧跡も多い。
過去には乗馬場もあったが現在は廃止。
花見のシーズンには、ライトアップ、深夜でも花見客の姿が見られるという。
「八坂神社」は、東山 祇園町に鎮座、祇園社、感神院とも言われている。
656年、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主の創建。
牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、名は新羅の牛頭山に由来するのだという。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、
「八坂造」の姓を賜ったのに始まるという。(社伝より)
重文は、(本殿)と(石鳥居) 参道 (楼門)
創建は、諸説あり、祭神は、古くから「牛頭天王に習合した素戔嗚尊」。
古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない、これは、神仏習合の色あいが濃く「延暦寺」の支配を受けていたことから、
神社ではなく寺とみなされていたためと見られ、後の二十二社の一社にはなっている。
神社としても見られていたことがわかる。平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受ける。
祇園祭は、869年に各地で疫病が流行した際に「神泉苑」で行われた御霊会を起源とするもので、970年頃から祭礼として行われる。
祇園社は、「興福寺」の配下であったが、10世紀末に戦争により「延暦寺」が末寺で、1070年には、祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を
「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認されている。
1384年に、足利義満は、祇園社を比叡山から独立させたが、それで祇園社が幕府配下となったわけではなく、以降、祇園祭は経済的に力をつけていた京の町衆により行われるようになり、現在に至っている。
1915年に官幣大社に昇格した。
全国3000社の本社、夏の祇園祭は平安時代から(京都三大祭の一つ)
「祇園の町」は、1624 - 1645年に祇園社(八坂神社)の門前で営業された水茶屋がこの花街の始まり、京都所司代板倉重宗によって茶立ち女を置くことが許可され、門前の茶屋町を「祇園町」と称するようになった。
寛文年間になると四条河原町に芝居小屋が建ち、四条通りと大和通りにも茶屋が開かれるようになり、弁財天町・二十一軒町・中之町・山端町
等に広がったが
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ、、、。
歴史を感じる祇園町
八坂神社のご祭神は「素戔嗚尊」。妻の「櫛稲田姫命」と子供の「八柱 御子神」。それで縁結びの神と云われている。
素戔嗚尊は、出雲で八つの頭を持つ大きな蛇である「八岐大蛇」を退治して、櫛稲田姫命と結婚したと言われ、二人が祀られているこの神社の本殿の下には、大きな池があって龍が棲むという伝説が残されている。
若いカップルが多かった。
八坂の塔は次回に
次回は、八坂の塔・建仁寺方面に。