syuの日記・気まま旅

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神田明神 神幸祭(江戸の絵巻物)

2013-05-18 | syu散歩

11日の神幸祭は、8時半ごろから神社をスタートした。神田明神は今「神田神社」と改名。
神田神社と湯島聖堂の真ん中の明神坂行列はゆっくり神田川に沿って下る。と昌平橋に出る、その、淡路通り右折する。
総武・中央線ガード下、次の大きな交差点が靖国通りである。
淡路町、小川町(本郷通り)運動具店街、駿河台下の須田町、白山通りの神保町(古本屋街)、九段坂方面から丸の内、付いて歩いた。

14日能・狂言・素謠  15日例大祭の行事が神社で
    

江戸時代の「神田祭」は、山車主流、巨大な張りぼての曳き物と仮装や昔話の再現した華やかな練り物であったと云う。
神社では、「花咲か爺さん」を190年ぶりに復活させ、練り歩いたというが見るこたが出来なかった。

11日小雨の中神幸祭が           大鳥居を潜って


神田淡路町は、江戸時代武家屋敷で、地名は淡路坂から、今は商業都市でビル街に。

昔は船渡御で


神田小川町は、商業地域でビルや商店が多く立ち並んでいる。
町域内の靖国通り沿いを中心にスポーツ用品店が多く並んでいることでも知られる。神保町に隣接していることもあり出版・書籍関連の企業も見られる。
最近、カレーの街としても若者に知られ、神田界隈、特にこの小川町周辺には100店舗を超すカレー店が犇き合い、それぞれ個性的なカレー店が出店していると云う。

小川町あたり


東日本大震災市街地に悲しみを乗り越えてほしいと願いが、、、。

靖国通りに


本郷通り交差手あたり 


神保町方面に


神田神保町は、小学館・集英社・岩波書店など出版社から、古書店が多い。
古書店街としては、世界最大級という。専門性のある著名な店舗であっても、小規模な書店・古書店である。
古書店の多くは靖国通り沿いに在り、それら多くは通りの南側に即ち北向きに建っている。これは日光が当たって本が傷むのを防ぐため。

仮装は地元学生さんと聞く


馬は、被害地相馬からと聞く
    

東京芸大や地元大学生が積極的に参加協力していると聞く。

御茶ノ水坂下付近(学生街)
    

神田須田町は、かつては市、都電の一大ターミナルであった。
万世橋駅(1912年-1943年)との乗換え地点として繁華な場所、第二次世界大戦直後には在日アメリカ軍流出の真空管を始めとする電気部品を販売する露天商が軒を連ねていた。
現在の秋葉原のルーツである。現存のラジオガーデンもこの時代の名残である。

万世橋は、1676年に架けられた筋違橋。徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の昌平橋と万世橋との中間にあったと云う。
南に筋違見附があった、橋が見附の付属物であったようだ。
1872年に筋違見附が取り壊され、翌1873年にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成させ、
東京府知事大久保忠寛が萬世橋と命名したが、次第にまんせいばしという音読みの方が一般化した。眼鏡橋とも呼ばれたようだ。
上流の昌平橋が1873年に洪水に流され、1896年に復旧される迄は、現在の万世橋の位置に仮木橋が架けられ、それが昌平橋と呼ばれた。
即ちこの期間は、万世橋の下流に昌平橋があった。
1903年、一時昌平橋と呼ばれた仮木橋の場所(現在の位置)に新万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は、
1906年に撤去された。
新万世橋は1923年)の関東大震災で被災し、直ちに修復された。
大震災後の帝都復興事業に指定され、東京地下鉄道の渡河工事に伴う水路変更の必要もあって、一旦東側下流の木製仮橋に移転した後、1930年に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成の現在のアーチ橋に架け替えられた。
万世橋から都電の中継地であったように記憶している。
 
明治時代の万世橋付近
  

現在(肉の万世が)              鉄道博物館は移転していた
    


秋葉原電気街のあたりは、江戸時代は下級武士の居住地域。「火事とケンカは江戸の華」と言われたように、当時は火事が多く、この秋葉原かいわいも江戸時代を通じて火災に悩まされていた地域。
1869年の相生町の大火を機会に、当時の明治政府下の東京府は9000坪(約3万・)の火除地を当地に設置し、翌1870年に、遠州(現在の静岡県)から火除けの秋葉大権現を勧請し、鎮火神社とした。
当初は鎮火原と呼ばれたが、鎮火神社が秋葉神社(現在は台東区松が谷に移転)と改められると、「秋葉原」と呼ばれるようになる。

1890年に上野から鉄道が延長されて、新しく当地に駅が開設されることになり、駅名は「秋葉原」と名付けられ、その名前が一般化し、全国的には「あきはばら」という読み方が定着していく。

秋葉原電気街は、太平洋戦争後、駿河台/小川町界隈の闇市が、徐々にラジオ部品を専門に扱うようになり、1951年の露店整理令によって、
ガード下に収容されたことが始まりといわれている。
戦前から、このエリアで家電卸売り/小売を営んでいた会社があったとも云う。
小学校5年生時倒産した親のコンデンサーをリックいれ、兄の後に付いて売りに行ったことを思い出す。

明日の神田祭は、歩行者天国に中央通りに約100基の神輿が勢揃い
    


次回は、80年ぶりの大神輿須田町二丁目町会のお披露目のある神田祭を。