京都の旅に戻ります。
洛東地域は、神社仏閣が集中しており青蓮院・知恩院・円山公園・八坂神社などがある。京阪亰津線が囲むように通っている。
「青蓮院」は、三千院「梶井門跡」、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。
「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王(天皇の皇子や伏見宮家などの皇族の男子で出家後に親王宣下を受けた者)が門主(住職)を務め、宮門跡寺院として高い格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。
日本三不動の1つ「青不動」のある寺としても知られる。
門前の大クスノキは、親鸞聖人の手植えと伝わる。
室町時代には後に室町幕府第6代将軍足利義教となる義円が門主を務め、「第15代将軍足利義昭は興福寺一乗院の門主」
衰微期の本願寺が末寺として属し、後に本願寺の興隆に尽くした蓮如もここで得度を受けている。
江戸時代の1788年、内裏炎上の際、青蓮院は後桜町上皇の仮御所となった。「青蓮院旧仮御所」として国の史跡に指定されている。
近代に入り、1893年の火災で大部分の建物が失われ、1993年4月には過激派(中核派)の放火により好文亭が焼失した。
1995年に再建。
最近の発掘調査で、「亰大災」は、天明大火1788年、宝永大火1708年時のものとしていた。
最近の調査、下層の時期と推定されていた宝永大火で二条邸は被災しておらず、延宝三年、1675年の火災によって焼失したという事実が明らかとなった。
「延宝三年の大火」については、これまであまり注視されることがなかったが、この調査によって比較的大規模な火災であった。
1467年から10年の内乱「応仁の乱」8代将軍足利義政継嗣争い
本堂、宝形造の小堂。堂内の厨子には青蓮院の本尊である熾盛光如来の曼荼羅を安置。
熾盛光如来とは仏頂尊の一尊で、天台宗最大の秘法といわれる熾盛光法「国家鎮護、皇室の安泰などを祈る修法」の本尊であるが、この如来を寺院の本尊とするのは珍しい。「国宝の青不動画像の複製が」
小御所は、天皇の仮御所として使用された建物を1893年の焼失後に復興。庭園は、室町時代、相阿弥の作と伝え、その北方の「霧島の庭」
(霧島つつじを植える)は小堀遠州の作。
一文字手水鉢は、豊臣秀吉の奉納と伝えている。
1103年鳥羽天皇(74代)内部対立「保元の乱」
宸殿は、寺内で最も大きな建物。入母屋造、桟瓦葺きで、焼失後の復興。
「宸」は皇帝の意で、有縁の天皇の位牌を祀る堂である。
障壁画浜松図(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)が重要文化財に指定されている。
四脚門(御幸門)は、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもので、明治26年の火災をまぬがれている。
好文亭 、青蓮院を仮御所としていた後桜町上皇が学問所として使用した茶室。1993年に放火で焼失し、2年後に復元。
主室は四畳半台目の茶室で、他に四畳半3室、水屋、仏間がある。
植髪堂、親鸞の剃髪が奉られているという。1759年に建立、1880年現在地に移転。
長屋門、宸殿西方の四脚門と同様、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築。 将軍塚大日堂、青蓮院の飛び地境内となって、桓武天皇が平城京遷都にあたり、王城鎮護のため将軍の像を埋めた所。
光格天皇 1771年ー1840 幕府に悲願を拒絶
庭園は室町時代の相阿弥作と伝える築山泉水庭、江戸時代の小堀遠州作と伝える霧島の庭などがある。
境内西側には京都市天然記念物のクスノキの巨木がある。
青蓮院では、例年春と秋に期日を区切って夜間拝観を実施し、庭園のライトアップを行っている。
慈円 1155-1225 関白藤原忠通の子、天台座主「愚管抄」で道理を、歴史哲学
「百萬遍知恩寺」
浄土宗大本山の一つで、法然の弟子源智上人が住持した専修念仏道場。
第八世善阿空圓上人が疫病封じの百萬遍念仏を修し、後醍醐天皇から「百萬遍」の号を賜った。
1661年に御所の東側広小路から現在地に移転。
正称華頂山大谷寺知恩教院 後陽成天皇の皇子が入寺 以来宮内跡寺院に
法然は度々この地を訪れていた。法然が賀茂の河原屋に一時住んだのは、賀茂の神職から招かれたといわれる。法然入滅後、弟子の勢観房源智は賀茂の河原屋をついで、功徳院神宮堂とし、法然の御影を安置して、法然を開山第一世とした。念仏の道場とし、伽藍を整備し、如空のとき功徳院知恩寺と称した。
唐門
重要文化財は、 絹本着色蝦蟇鉄拐図、 絹本着色善導大師像、 絹本着色十体阿弥陀像、 絹本着色仏涅槃図、 絹本着色浄土曼荼羅図。
その他、御影堂所在の木造阿弥陀如来立像は、作風・技法等から快慶作と推定されるとの発表が2007年にあった。
応仁の乱で一時近江へ、1482年復興
皇円阿闍梨の住房比叡山功徳院の里坊で、平安時代前期に円仁が創建したものと伝えられる。
賀茂社との関わりが深く、神宮寺として、御所の北、今出川(京都市上京区、現在の相国寺付近)にあり、「賀茂の河原屋」といった。
円仁作とされる釈迦如来像を安置したことから今出川釈迦堂、などとも称された。
法然の弟子達が廊堂などを建立 1211年法然大谷禅房がはじまる
1331年(元弘元年)第8世善阿空円のとき、京都に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により七日念仏百万遍を行い疫病を治めたことから「百万遍」の号が下賜された。1382年(弘和2年:永徳2年)相国寺が建立される際に一条小川に移された(京都市上京区油小路通一条上るに元百万遍町の町名が残る)。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が寺領を寄進 大小の方丈
1592年(文禄元年)には豊臣秀吉の寺地替えにより土御門(寺町通り荒神口上る)に移された。江戸時代に入り、1662年(寛文2年)現在の北白川の地に移転した。
行事 として、 4月に 法然上人御忌大会が、3年に一度、二十五菩薩練供養が行われる。
本堂屋根下に「左甚五郎」の忘れ傘が
次回は、八坂神社方面へ。
洛東地域は、神社仏閣が集中しており青蓮院・知恩院・円山公園・八坂神社などがある。京阪亰津線が囲むように通っている。
「青蓮院」は、三千院「梶井門跡」、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。
「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王(天皇の皇子や伏見宮家などの皇族の男子で出家後に親王宣下を受けた者)が門主(住職)を務め、宮門跡寺院として高い格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。
日本三不動の1つ「青不動」のある寺としても知られる。
門前の大クスノキは、親鸞聖人の手植えと伝わる。
室町時代には後に室町幕府第6代将軍足利義教となる義円が門主を務め、「第15代将軍足利義昭は興福寺一乗院の門主」
衰微期の本願寺が末寺として属し、後に本願寺の興隆に尽くした蓮如もここで得度を受けている。
江戸時代の1788年、内裏炎上の際、青蓮院は後桜町上皇の仮御所となった。「青蓮院旧仮御所」として国の史跡に指定されている。
近代に入り、1893年の火災で大部分の建物が失われ、1993年4月には過激派(中核派)の放火により好文亭が焼失した。
1995年に再建。
最近の発掘調査で、「亰大災」は、天明大火1788年、宝永大火1708年時のものとしていた。
最近の調査、下層の時期と推定されていた宝永大火で二条邸は被災しておらず、延宝三年、1675年の火災によって焼失したという事実が明らかとなった。
「延宝三年の大火」については、これまであまり注視されることがなかったが、この調査によって比較的大規模な火災であった。
1467年から10年の内乱「応仁の乱」8代将軍足利義政継嗣争い
本堂、宝形造の小堂。堂内の厨子には青蓮院の本尊である熾盛光如来の曼荼羅を安置。
熾盛光如来とは仏頂尊の一尊で、天台宗最大の秘法といわれる熾盛光法「国家鎮護、皇室の安泰などを祈る修法」の本尊であるが、この如来を寺院の本尊とするのは珍しい。「国宝の青不動画像の複製が」
小御所は、天皇の仮御所として使用された建物を1893年の焼失後に復興。庭園は、室町時代、相阿弥の作と伝え、その北方の「霧島の庭」
(霧島つつじを植える)は小堀遠州の作。
一文字手水鉢は、豊臣秀吉の奉納と伝えている。
1103年鳥羽天皇(74代)内部対立「保元の乱」
宸殿は、寺内で最も大きな建物。入母屋造、桟瓦葺きで、焼失後の復興。
「宸」は皇帝の意で、有縁の天皇の位牌を祀る堂である。
障壁画浜松図(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)が重要文化財に指定されている。
四脚門(御幸門)は、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもので、明治26年の火災をまぬがれている。
好文亭 、青蓮院を仮御所としていた後桜町上皇が学問所として使用した茶室。1993年に放火で焼失し、2年後に復元。
主室は四畳半台目の茶室で、他に四畳半3室、水屋、仏間がある。
植髪堂、親鸞の剃髪が奉られているという。1759年に建立、1880年現在地に移転。
長屋門、宸殿西方の四脚門と同様、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築。 将軍塚大日堂、青蓮院の飛び地境内となって、桓武天皇が平城京遷都にあたり、王城鎮護のため将軍の像を埋めた所。
光格天皇 1771年ー1840 幕府に悲願を拒絶
庭園は室町時代の相阿弥作と伝える築山泉水庭、江戸時代の小堀遠州作と伝える霧島の庭などがある。
境内西側には京都市天然記念物のクスノキの巨木がある。
青蓮院では、例年春と秋に期日を区切って夜間拝観を実施し、庭園のライトアップを行っている。
慈円 1155-1225 関白藤原忠通の子、天台座主「愚管抄」で道理を、歴史哲学
「百萬遍知恩寺」
浄土宗大本山の一つで、法然の弟子源智上人が住持した専修念仏道場。
第八世善阿空圓上人が疫病封じの百萬遍念仏を修し、後醍醐天皇から「百萬遍」の号を賜った。
1661年に御所の東側広小路から現在地に移転。
正称華頂山大谷寺知恩教院 後陽成天皇の皇子が入寺 以来宮内跡寺院に
法然は度々この地を訪れていた。法然が賀茂の河原屋に一時住んだのは、賀茂の神職から招かれたといわれる。法然入滅後、弟子の勢観房源智は賀茂の河原屋をついで、功徳院神宮堂とし、法然の御影を安置して、法然を開山第一世とした。念仏の道場とし、伽藍を整備し、如空のとき功徳院知恩寺と称した。
唐門
重要文化財は、 絹本着色蝦蟇鉄拐図、 絹本着色善導大師像、 絹本着色十体阿弥陀像、 絹本着色仏涅槃図、 絹本着色浄土曼荼羅図。
その他、御影堂所在の木造阿弥陀如来立像は、作風・技法等から快慶作と推定されるとの発表が2007年にあった。
応仁の乱で一時近江へ、1482年復興
皇円阿闍梨の住房比叡山功徳院の里坊で、平安時代前期に円仁が創建したものと伝えられる。
賀茂社との関わりが深く、神宮寺として、御所の北、今出川(京都市上京区、現在の相国寺付近)にあり、「賀茂の河原屋」といった。
円仁作とされる釈迦如来像を安置したことから今出川釈迦堂、などとも称された。
法然の弟子達が廊堂などを建立 1211年法然大谷禅房がはじまる
1331年(元弘元年)第8世善阿空円のとき、京都に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により七日念仏百万遍を行い疫病を治めたことから「百万遍」の号が下賜された。1382年(弘和2年:永徳2年)相国寺が建立される際に一条小川に移された(京都市上京区油小路通一条上るに元百万遍町の町名が残る)。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が寺領を寄進 大小の方丈
1592年(文禄元年)には豊臣秀吉の寺地替えにより土御門(寺町通り荒神口上る)に移された。江戸時代に入り、1662年(寛文2年)現在の北白川の地に移転した。
行事 として、 4月に 法然上人御忌大会が、3年に一度、二十五菩薩練供養が行われる。
本堂屋根下に「左甚五郎」の忘れ傘が
次回は、八坂神社方面へ。