「向日葵」のめーたん
「向日葵」はめーたんの初日(同時に僕にとっても初日)からとても印象に残り、直ぐに好きな曲になりました。
僕は、めーたんがユニット曲で「向日葵」を担当して良かったなあと思っています。単純に好きになった曲がめーたんの担当であったこと。それから、この曲では色々なめーたんを観ることが出来たと僕は思っているからです。
「向日葵」のめーたんには色々な表情があると思います。
表情と限定してしまうと少し違うようにも思いますが、何というか、観ていて、聴いていると異なる色々な印象を持ったり、色々な感情を持ったりしました。
それは部分的な事として、めーたんの髪型であったり、衣装であったり、それから、受け手である自分の精神状態とかも影響していたかもしれません。
観覧し始めた最初の頃からメロディーと歌詞が心に響き、沁み入るような、曲の雄大さから爽快な気持ちになりました。直ぐにとても好きな曲になりました。
ですから、単純に好きな曲とそれを担当するメンバーがめーたんであったという一致はとても嬉しいことでした。
それから、めーたんの美しさに圧倒されました。今思うと、最初の頃は、めーたんの女性的な美しさが僕には印象に残っています。
めーたんが持つ気高く凛とした佇まいが曲と調和していて、とても印象深く心に残りました。
それから、やがて僕はめーたんの笑顔の中にも特有の妖しさを感じるようになりました。めーたんの気持ちに余裕が出てきたのかもしれません。やはりこの曲でも、特有の妖しい艶っぽさが滲み出ていて、めーたんの魅力の独自性を改めて感じていました。
ふと、曲のメッセージ性を強く感じることもありました。
めーたんが歌い踊る姿が、何とも心に沁み入り心を揺らされました。
その時は、めーたんが歌のメッセージを観客に強く訴えかけているように感じ、美しさを感じるより先に、めーたんの一心なひた向きさを感じ、ストレートに歌詞が心に響いていきました。とても心を揺さ振られ、留まることなく感傷的な感情があふれ出てきました。
それから、昼公演と夜公演と続けて観覧した時に、その2回で違った印象を受ける時もありました。
昼公演では、めーたんの美しさに圧倒され、夜公演では、メッセージが心に響き、自分の精神状態とか観覧位置で印象が違っていたのかもしれませんが、昼夜で大きく感じた印象が違っていて、何とも不思議な感覚になったのが強く記憶に残っています。
公演期間の後半で、よく観かけた姿ですが、
めーたんの少し強めにカールした髪型とジャケットを脱いだTシャツ姿は、とても美しいと思いました。
露出した長く細い華奢な腕が振られると、それが催眠術のようにうっとりと、めーたんの美しさに魅せられました。
また、そして、髪型や表情からの濃艶な女性らしさと、衣装や仕草から来る男性っぽさが融合し調和され、統一され、強く濃く美しさが表されていたように思います。
僕はそのようなめーたんを観て、以前読んだことがある澁澤龍彦「夢の宇宙誌」に収められている「天使について」と「アンドロギュヌス」というエッセイ、その関連で読んだバルザックの小説「セラフィタ」を思い出しました。
「天使について」にはこのような一文があります。
「そもそも、天使は男性であるか女性であるか。――しかし今日では、この疑問に明確な答を提供し得るはずであろう。すなわち、天使は男性でもなければ、女性でもなく、第三の性、一箇のアンドロギュヌス(両性具有者)にほかならいのだ、と。」
「アンドロギュヌス」では、そのアンドロギュヌスとしての天使を描いた小説「セラフィタ」を評して、
「譬えようもない透明な美しさを示しているのは」「そこに昔ながらの人間学の基本テーマが、比類なき輝きとともに呈示されているからである。人間学の基本テーマとは、すなわち『完全な人間の原型』とみなされたアンドロギュヌスのことである。」(『』は引用者による)
女性的、男性的、或いは中性的、そのような区別を超越した所にある、それらを「統一」し、「完全な」なるものと象徴したアンドロギュヌスとしての美しさ。僕にはめーたんをそのように感じずにはいられません。
決して大袈裟ではなく、「向日葵」でのめーたんは完全なる美しさを表現し、そして、体現していました。
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「僕の太陽」公演全体の感想も、今、書いている途中です。
この公演については、めーたんは色々な魅力を見せてくれた公演であったと思っています。それでも、めーたんが美しかったとか、カッコよかったとかだけでは、終りそうにない色々な感想を持っています。
頭の中を整理して、出来るだけ上手く日本語として伝わるように書きたいと思っていて、本当は12月8日までに書いてブログに更新したいと思っていたのですが、多分無理そうです。書き上がったらブログに更新するので、よかったら読んで下さい。